前作「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」から一年十か月経って「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」が発表された。本作は、「僕」の「友人にして師匠(パトロン)というのがあっている」音楽家のTさん(これはあきらかに武満徹のことである)が作曲した「雨の木(レイン・ツリー)」の演奏を聴いて、「僕」が涙を流すところから始まる。「雨の木(レイン・ツリー)」の話を書きながら、その中では一言も触れなかった人物__高安カッチャンが常用したことばであり、、彼の存在そのものがそうであったような「悲嘆_griefとルビをふられた気分」から逃れられなかったのである。
だが、高安カッチャンと彼の妻ペニー(正確にはペネロープ・シャオリン・タカヤス__この名前もまた様々な連想をよぶのだが)、そして「僕」の奇妙な「三角関係」がかたちづくるエピソードを語る前に、「僕」がその演奏を聴いて涙を流した「雨の木(レイン・ツリー」という曲及び「雨の木(レイン・ツリー)」そのものについて考えてみたい。
「雨の木(レイン・ツリー)」という曲は実際にユーチューブで聞くことができる。三本のトライアングルから始まり、1台のヴィブラフォンと2台のマリンバからなる演奏は、繊細にして霊妙、というほかない。この曲の楽譜のはじめに「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」中のアガーテのことばが引用されているので、直接にはその部分からインスピレーションを受けたのだと思われる。「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」では英文だが、ここでは「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」の日本語原文を書き出してみる。
「雨の木(レイン・ツリー)」というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴を滴らせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。
アガーテのことばは、実在する「雨の木」について説明しているようで、「僕」もそのようにうけとっているが、一方で狂人の幻想のようでもある。「雨の木(レイン・ツリー)」そのものも、前作では、ほんとうにパーティ会場となった精神病者の施設にあったかどうかも曖昧なまま小説は終わっていた。だが、本作では、アガーテのことばを媒介にして、「暗喩(メタファー)」としての「雨の木(レイン・ツリー)」は作曲家のTと「僕」に「宇宙モデル」として共有されている。「暗喩(メタファー)」としての「雨の木(レイン・ツリー)」___私にはいまひとつ、わかった、といえないものがあるのだが、作者はこのように説明している。
そして僕がこの小説で表現したかったものは、その「雨の木(レイン・ツリー)」の確かな幻であって、それはほかならぬこの僕にとっての、この宇宙の暗喩(メタファー)だと感じたのである。自分がそのなかにかこみこまれて存在しているあり方、そのありかた自体によって把握している、この宇宙。それがいまモデルとして、「雨の木(レイン・ツリー)」のかたちをとり、宙空にかかっているのだと。
「確かな幻」という日本語にもどうしても異和感を覚えてしまうのだが、「この宇宙の暗喩(メタファー)」という「雨の木(レイン・ツリー」がこの後、「三角関係」に結びつけられる次第に絶句してしまう。作曲家自身が演奏の前に「僕は三角関係に興味を持っているんですよ」といったのは、演奏者が女ひとりと男二人であることの解説につながるものだったと思うが、「僕」は演奏を聴きながら、「雨の木(レイン・ツリー)」の暗喩(メタファー)が三人の男女によって具体化されてもいると感じた、とある。三段論法的にいえば、宇宙_雨の木(レイン・ツリー)_三角関係、となる。? 「雨の木(レイン・ツリー)」という曲が「トライアングル」から始まるのも作曲のための必然だけではなかったのかもしれない。
三角関係の一人であり、主役である高安カッチャンは「僕」の大学の同級生だった。ただの誇大妄想狂か天才か、もしかしたらその両方だったかもしれない。ハワイ大学のセミナーに参加した「僕」の前に現れた時、すでに彼は人生の敗残者のたたずまいだった。アルコールと薬物中毒で衰弱し、「外目にも見てとれる重たげな外套のような悲嘆をまといこんでいるのであった。」と書かれている。
高安カッチャンをめぐる三角関係は二つ語られているのだが、そのどちらも「宇宙モデル」とは程遠いように思われる。ひとつは、高安カッチャンと「僕」の共通の友人であり、白血病で死んだ斎木と高安カッチャンと電鉄会社系大資本の一族の娘の話である。高安カッチャンを愛している大資本の娘を金主にして、斎木とカッチャンで大資本の「文化的前衛」として英・仏二国語の国際誌を出そうというものだった。彼はそれに「大河小説」を書いて掲載する予定でもあった。だが、高安カッチャンのいうところによれば、斎木が娘に熱中し、娘がそれをうるさがったため、計画は破綻した。次善の作として、彼と斎木と二人で娘を共有して事業を継続しようとした高安カッチャンの提案は受け入れられなかった。
もうひとつの三角関係とは、「僕」と高安カッチャンと彼の妻ペニーの関係である。彼は泥酔してハワイの「僕」の宿舎を訪れる。妻のペニーを高級コールガールと偽って、三百ドルで「僕」に売る、という。「僕」にその気がないのを見てとった彼は、暗闇の中とはいえ、「僕」の目の前でペニーと性交しようとする。実際にしたのかもしれないが。そして、契約だから三百ドル払え、と難癖をつける。難癖をつけること自体が目的だったのかもしれない。「僕」はペニーに三百ドル渡し、高安カッチャンは、ペニーからかすめた三百ドルを最後に「僕」に返してきたのだが、それは「僕」に密輸の片棒をかつがせるというもので、「僕」を罠に嵌めたのであった。
ハワイから帰国後ペニーから手紙がくる。ペニーは少女時代香港の空手映画の主演女優で、いまはハワイ大学の聴講生でマルカム・ラウリーの研究をしているという。アルコール症で自己破壊してしまったマルカム・ラウリーと妻のマージョリーとの関係を、自分と高安カッチャンの関係になぞらえるペニーは、日本語の文体に不安がある高安カッチャンと「僕」が合作して小説を書いてほしいと頼んできたのだった。ペニーの語る高安カッチャンの大河小説の構想とは、白血病で死んだ斎木がその妻にのみ語っていたものとまったく同じものだった。__現代世界の運命打開に責任のある秀れた男女たちが、宇宙のへりでの鷲の羽ばたきに感応して、地球上で行動をおこす、という・・・・・・
「僕」が「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」を発表した後、ペニーから再び手紙がくる。高安カッチャンがアルコールと薬品を重ねたあげく、事故で死んだのだ。自分が彼の死に関して潔白であることを述べた上で、彼女は高安カッチャンのことばをつたえる。あの小説(「頭のいい雨の木(レインツリー)」)のアイデアは自分のものであり、「雨の木(レイン・ツリー)」の暗喩は自分のことを指すのだ、と。
だが、ペニーは、小説中の巨大な樹木が単なる暗喩だとは思わない。実際にある「雨の木(レイン・ツリー)」の下で、その水滴の音を聞きながら、高安のことを考えていたいので、どの施設がモデルなのか教えてくれ、という。これからは、自分とプロフェッサー(と呼ばれる「僕」)だけが高安を記憶しつづけるだろう、とも書いて、「高安の小説」の鷲の羽ばたきの構想を「僕」が使うことを「許可」するのである。
高安カッチャンをそれほどまでに信じるペニーとは何だろう。「この現代世界には私らのような女がいるのだ」というが、「私らのような女」とはどんな女なのか。狂気は高安カッチャンではなくてペニーなのか。語り手の「僕」は狂気でないのか。
さて、この「奇妙に捩れたかたちの、いわばひずんだ球体に描いた三角形」の三角関係がいったい、どのようにして、「宇宙モデル」になるのか。「自分がそのなかにかこみこまれて存在しているありかた、そのありかた自体によって把握している、この宇宙」という「僕」の定義にしたがえば、ここに描かれている地球上の様々な、決して高尚とはいえない人間関係はそのまま「宇宙モデル」ということになろうか、とも思うのだけれど。
思えば八十年代は「宇宙ブーム」の時代だった。すでに七十年代後半にアニメの分野で松本零士が「宇宙戦艦ヤマト」「キャプテン ハーロック」「銀河鉄道999」の連載を始め、TVドラマ化されていた。「機動戦士ガンダム」が始まったのも七九年だった。この「宇宙ブーム」についていうべきことはあるのだが、長くなるのでそれはまたの機会にしたい。ただこれらの作品が、「銀河鉄道999」を除いて、ほとんどがいわゆる「戦争もの」だったことは記憶しておきたい。
八十年代とは何だったのか。
相変わらず未整理な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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