『ライ麦畑でつかまえて』の続きを書かなければ、と思うのだが、その前にコクトーの「美女と野獣」についてもう一度見直さなければいけないような気がしてならない。映画「美女と野獣」の主人公は誰なのか?
「美女と野獣」というタイトルなのだから、「美女」と「野獣」の両方が主人公であって何の疑問の余地もない、というのが常識的な答えだろう。だがコクトーはこの映画を美女と野獣との「二人の愛の物語」にはしなかった。アヴナンという男を登場させて、ベルを挟んだ「三角関係の愛の物語」にしたのである。王子の姿に戻った野獣がベルに「(アヴナンを)愛していたのか?」と訊ね、ベルが「ウィ」と答え、「では野獣は(愛していたのか)?」と聞かれると、これにもベルが「ウィ」と答えるシーンがある。そして王子がベルのことを「変わった娘だ」というくだりになるのは前回書いた通りである。
今回気がついたのは、この前に王子が「人を野獣に変えるのも愛」「醜い男を美しく変えるのも愛」と言っていることである。この「愛」という抽象的な言葉は具体的には美女の「ベル」ということだろう。「ベル」こそが自分に想いをよせるアヴナンを野獣に変え、その「愛に満ちた眼差し」で野獣として死んだ王子を蘇らせたのだから。言い換えればベルはアヴナンと野獣(王子)の二人を操ったのではないか。主人公は「美女と野獣」の二人ではなく、「美女」ベルその人なのではないか。映画の中で何度も繰り返される「ベェ~ル」という言葉が、言葉そのものとしてというより独特の響きをもった音声としていつまでも耳に残る。
美女ベルが二人の男を操った、は言いすぎだとしても二人の男が美女ベルを仲介させて、一方は死に、一方は蘇ったというプロットを「対エスキモー戦争の前夜」と重ね合わせてみると、どんなものが見えてくるだろう?いうまでもなくこちらの主人公はジニー・マノックスである。このほうが分かりやすい、というよりむしろ誰も疑念はいだかないだろう。フランクリンが野獣でエリックがアヴナン、という図式をあてはめることもたぶん間違っていない、と思われる。問題はその次である。「対エスキモー戦争」でアヴナンのエリックは死んで、野獣のフランクリンは蘇って王子となり、ベルのジニーとともに「私(王子)の支配する国」に旅立ったのだろうか?むくむくと湧き上がる雲に乗って。
映画「美女と野獣」については、この他にもいくつか書かなければならないことがあって、「対エスキモー戦争の前夜」という作品を考えるにあたって大事なことなのだが、長くなるのでそれはまたの機会にしたい。今回はそのテーマを二つだけあげておきたい。ひとつは、サリンジャーが作中エリックに「あの映画だけは開演に間に合うように行かなくっちゃ。そうしないと魅力が台無しになっちまうもん」と言わせていること。観客は幕が上がる前から画面に注目することを要求されているのだ。最初からワンカットも見逃さないでほしい、といっているのが何故か、ということである。
もうひとつは野獣のバラに対するこだわりである。何故こだわるか、ではなく、こだわっているという事実そのものについて考えてみたいと思っている。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年3月21日木曜日
2013年3月6日水曜日
『ライ麦畑でつかまえて』___サリー・ヘイズとは何か
ジェーン・ギャラハーとならぶこの小説の重要人物であるサリー・ヘイズについて、なかなか書けませんでした。書くことがないわけではなかったのですが、相変わらずの身辺雑事に追われていた、というのは言い訳で、サリー・ヘイズに関しては、スペンサー先生やジェーン・ギャラハーに比べてもう一つ魅力的な謎が見出せなかったからかもしれません。謎がないわけではないのですが、何故かどうしても書きたいと突っ込んでいく動機づけが自分自身のなかで作り出せなかった。
ひとつには、サリー・ヘイズがあまりにも見事に、具体的に描写されていて、彼女とのからみの部分はごく普通の通俗小説として読めてしまうからかもしれません。もしかしたら、というよりたぶんそれがサリンジャーの巧妙に隠されたねらいだったのでしょう。
ペンシーを脱け出したホールデンはいかがわしいホテルでサニーという若い娼婦を買うことになるのだが、うまく事が果たせない。それどころか、たった五ドルを惜しんだために、エレベーターボーイで客引きのモーリスという男に痛めつけられてしまう。一夜を散々な目にあって過ごしたホールデンは、サリー・ヘイズという少女に電話してデイトの約束をする。彼女から二週間前に手紙をもらっていたという。サリーのことは「あまり好きじゃないんだけど、何年も前からのつき合い」で「舞台や戯曲や文学やなんかのことをすごくいっぱい知ってた」ので頭のいい娘だと思っていたが、どうもそうではないらしい。
約束の時刻より十分遅れてサリーはやってきた。黒のオーバーに黒のベレーという黒づくめの服装で現れたサリーを見て、ホールデンは一瞬彼女との結婚を考えてしまう。彼女はとびきりの美人なのである。そして、そのことを彼女自身よく知っている。美人で家はお金持ちで知識だけは詰め込んでくれる学校に行っている女の子が通俗的でなかったら天と地がひっくり返ってしまう。だから、最初はタクシーのなかで「盛大な抱擁」を交わした二人だったけれど、ほんとうに心が通い合うはずもなかった。ホールデン自身それを望んでいたわけでもなかったと思われるのだが。
「どちらかといえば、つまんないみたい」な芝居を見ていた二人だったが、幕間にサリーが以前パーティで会ったという男を見つけて、彼と会話を始めたあたりから雰囲気は次第に険悪になる。インテリぶってエリート意識丸出しの男の風体も話し方もホールデンは気に入らない。まぁ、どんな男だろうがデイトに割り込んできた男を気に入るはずはないが。いやホールデンが気に入らないのは、次から次へ共通の知人と土地の名前をくりだして男との会話に夢中のサリーのほうだったかもしれない。
「二ブロックほども僕たちについて歩いて」きた男だったが、最後は二人と別れた。ホールデンはサリーをそのまま家に送るつもりだったが、彼女の提案でラジオ・シテイにアイス・スケートをしに行くことにする。サリーは、ラジオ・シテイで貸してくれるスケート用の短いスカートをはいた姿を見せびらかしたかったのだ。それはたしかに魅力的なスタイルだったが、悲劇的だったのは、二人ともスケートが際立って下手で、他のお客のさらしものになってしまったことである。滑るのはやめてバーで休むことにした二人だったが、ここでの会話が二人の間に横たわる溝を決定的にしてしまう。
「何もかもたくさんだっていう気持ち」「こっちでなんか手を打たないと、何もかもつまんなくなってしまいそうだだっていう、そんな不安」を訴えるホールデンにたいして、サリーは通り一遍の受け答えしかしない。自らをとりまく現実のすべてを嫌悪するホールデンは、サリーに一緒にニュー・ヨークから脱出しようと誘う。いますぐ、とび出して「小川が流れてたりなんかするところに住」んで、冬は自分で薪割りをするような生活をしようと語るホールデンだが、サリーは一顧だにしない。ごく常識的に、そういう生活は大学を出てからすればいい、と言うのだ。ついにホールデンは「正直いって僕は、君と会ってるとケツがむずむずするんだ」というセリフをはいて、彼女を泣かせてしまう。さらに悪いことに、泣きだした彼女に必死で謝っていたホールデンだったが、突然大声で笑いだしてしまったのである。もう、こうなっては万事休す、だ。デートは最悪の結果に終わったのである。
そもそもサリーはホールデンが嫌悪するような生活を嫌がるどころか大好きな人間のように見える。ホールデンも彼女がそういう人間であることをよく知っていた。それなのに、どうしてデイトに誘ったのだろう。というより、そんな彼女と何年間もつき合ってきたのはどんな事情があるのだろうか。ホールデンはサリーの父親と知りあいのようだから、家族ぐるみのつき合いだろうか。サリーがホールデンにクリスマス・イヴにツリーの飾りつけに来てくれるかどうかを突然聞き出すくだりがある。二週間前に彼女が書いた手紙というのも、そのことに関するものだったのかもしれない。それにたいしてホールデンも手紙を書いて行くと返事をしたと言っている。いったんサリーと別れた後、酔っ払ったホールデンは深夜彼女の家に電話して、しつこいほどイヴに飾りつけに行くと繰り返す。クリスマス・イヴにツリーの飾りつけをするため他所の家を訪問することにどんな意味があるのだろうか。
喧嘩別れになったけれど、ホールデンはまたサリーに会うのだろう。何年もそうやってつき合ってきたのだろうから。なんだか十代の少年少女の他愛ない恋愛ごっこというよりも大人の男女のくされ縁といった趣があるのも不思議なことである。
出来事の上っ面をなぞっただけの不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
ひとつには、サリー・ヘイズがあまりにも見事に、具体的に描写されていて、彼女とのからみの部分はごく普通の通俗小説として読めてしまうからかもしれません。もしかしたら、というよりたぶんそれがサリンジャーの巧妙に隠されたねらいだったのでしょう。
ペンシーを脱け出したホールデンはいかがわしいホテルでサニーという若い娼婦を買うことになるのだが、うまく事が果たせない。それどころか、たった五ドルを惜しんだために、エレベーターボーイで客引きのモーリスという男に痛めつけられてしまう。一夜を散々な目にあって過ごしたホールデンは、サリー・ヘイズという少女に電話してデイトの約束をする。彼女から二週間前に手紙をもらっていたという。サリーのことは「あまり好きじゃないんだけど、何年も前からのつき合い」で「舞台や戯曲や文学やなんかのことをすごくいっぱい知ってた」ので頭のいい娘だと思っていたが、どうもそうではないらしい。
約束の時刻より十分遅れてサリーはやってきた。黒のオーバーに黒のベレーという黒づくめの服装で現れたサリーを見て、ホールデンは一瞬彼女との結婚を考えてしまう。彼女はとびきりの美人なのである。そして、そのことを彼女自身よく知っている。美人で家はお金持ちで知識だけは詰め込んでくれる学校に行っている女の子が通俗的でなかったら天と地がひっくり返ってしまう。だから、最初はタクシーのなかで「盛大な抱擁」を交わした二人だったけれど、ほんとうに心が通い合うはずもなかった。ホールデン自身それを望んでいたわけでもなかったと思われるのだが。
「どちらかといえば、つまんないみたい」な芝居を見ていた二人だったが、幕間にサリーが以前パーティで会ったという男を見つけて、彼と会話を始めたあたりから雰囲気は次第に険悪になる。インテリぶってエリート意識丸出しの男の風体も話し方もホールデンは気に入らない。まぁ、どんな男だろうがデイトに割り込んできた男を気に入るはずはないが。いやホールデンが気に入らないのは、次から次へ共通の知人と土地の名前をくりだして男との会話に夢中のサリーのほうだったかもしれない。
「二ブロックほども僕たちについて歩いて」きた男だったが、最後は二人と別れた。ホールデンはサリーをそのまま家に送るつもりだったが、彼女の提案でラジオ・シテイにアイス・スケートをしに行くことにする。サリーは、ラジオ・シテイで貸してくれるスケート用の短いスカートをはいた姿を見せびらかしたかったのだ。それはたしかに魅力的なスタイルだったが、悲劇的だったのは、二人ともスケートが際立って下手で、他のお客のさらしものになってしまったことである。滑るのはやめてバーで休むことにした二人だったが、ここでの会話が二人の間に横たわる溝を決定的にしてしまう。
「何もかもたくさんだっていう気持ち」「こっちでなんか手を打たないと、何もかもつまんなくなってしまいそうだだっていう、そんな不安」を訴えるホールデンにたいして、サリーは通り一遍の受け答えしかしない。自らをとりまく現実のすべてを嫌悪するホールデンは、サリーに一緒にニュー・ヨークから脱出しようと誘う。いますぐ、とび出して「小川が流れてたりなんかするところに住」んで、冬は自分で薪割りをするような生活をしようと語るホールデンだが、サリーは一顧だにしない。ごく常識的に、そういう生活は大学を出てからすればいい、と言うのだ。ついにホールデンは「正直いって僕は、君と会ってるとケツがむずむずするんだ」というセリフをはいて、彼女を泣かせてしまう。さらに悪いことに、泣きだした彼女に必死で謝っていたホールデンだったが、突然大声で笑いだしてしまったのである。もう、こうなっては万事休す、だ。デートは最悪の結果に終わったのである。
そもそもサリーはホールデンが嫌悪するような生活を嫌がるどころか大好きな人間のように見える。ホールデンも彼女がそういう人間であることをよく知っていた。それなのに、どうしてデイトに誘ったのだろう。というより、そんな彼女と何年間もつき合ってきたのはどんな事情があるのだろうか。ホールデンはサリーの父親と知りあいのようだから、家族ぐるみのつき合いだろうか。サリーがホールデンにクリスマス・イヴにツリーの飾りつけに来てくれるかどうかを突然聞き出すくだりがある。二週間前に彼女が書いた手紙というのも、そのことに関するものだったのかもしれない。それにたいしてホールデンも手紙を書いて行くと返事をしたと言っている。いったんサリーと別れた後、酔っ払ったホールデンは深夜彼女の家に電話して、しつこいほどイヴに飾りつけに行くと繰り返す。クリスマス・イヴにツリーの飾りつけをするため他所の家を訪問することにどんな意味があるのだろうか。
喧嘩別れになったけれど、ホールデンはまたサリーに会うのだろう。何年もそうやってつき合ってきたのだろうから。なんだか十代の少年少女の他愛ない恋愛ごっこというよりも大人の男女のくされ縁といった趣があるのも不思議なことである。
出来事の上っ面をなぞっただけの不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年2月6日水曜日
「ちびくろサンボ」を考える___サリンジャーとちびくろサンボ
一昔前、たぶんバブルの八十年代後半だったと思うが、「ちびくろサンボ」が差別かどうかで議論が沸騰したことがあった。「ちびくろサンボ」だけでなく、他の作品も、というより言葉そのものが差別かどうかで議論の対象になり、いくつかの言葉が「言葉狩り」の対象になった。単刀直入にそのものを示すやまとことばはおおっぴらに使うことが躊躇われるようになって、それは今でも続いている。「めくら」は「視覚障害」、「つんぼ」は「聴覚障害」と言い換えられるようになった。いや、「障害『者』」と言う言葉さえも直接当事者に向かって発するには勇気を要する。だが、言葉はそもそも「モノ」や「コト」を他と区別する機能をもつものだ。そのものズバリのやまとことばが差別語であるとして、漢語を使ったまわりくどい表現ならよしとする風潮はおかしい。
「差別語」を使わなければ差別がなくなるわけではない。八十年代後半から今にいたるまで差別は一層深刻になり、「格差」あるいは「格差社会」と言う言葉が発明された。「格差」は抽象的表現で、内実は「貧富の差」「弱肉強食の徹底」である。
さて「ちびくろサンボ」に戻ろう。差別か否かだけが議論の対象となったこの作品は謎に満ちている。サリンジャーの小説がどれも謎にみちているように。サリンジャーは『ナイン・ストーリーズ』の巻頭「バナナ魚には理想的な日」の中にこの作品を登場させる。主人公シーモアがシビル・カーペンターという少女と浜辺で会話している。シーモアは少女にどこから来たのか訊ねる。最初は知らない、と言った少女がシーモアの誘導に「コネティカット州ホヮーリーウッド」と答えた後、突然「あんた、『ちびくろサンボ』読んだ?」とシーモアに聞く。その後の会話がちょっと不思議なのである。自分も昨夜読み終えたばかりだ、と答えるシーモアは木の周りをぐるぐる回る虎のことを「あんなにたくさんの虎、見たことない」と言う。それにたいしてシビルは「たった六匹よ」とかえす。
よく知られているように、原作に登場する虎は四匹である。なぜシビルは「たった六匹よ」と言ったのだろう。それに対してシーモアは「きみは六匹をたったって言うの」と返して、頭数を訂正するわけでもない。この後シビルは「六本」のバナナをくわえているバナナ魚を見つけた、と書かれているので、「六」という数字は何か意味があるのだろう。だが、わざわざ登場する虎の頭数を変えてまで「ちびくろサンボ」を登場させたのは何故か。
「ちびくろサンボ」は19世紀末に軍医の夫とともにインドで生活したバナーマン夫人が自分の娘たちのために書いた童話であるとされている。チベットの民話が元になっているとも言われるが詳ししい由来は知らない。私自身も岩波版の「ちびくろサンボ」を自分の子どものために買って読み聞かせた覚えがある。お母さんのマンボに赤い上着と青いズボンを作ってもらい、お父さんのジャンボに紫の靴と緑色の傘を市場で買ってもらったサンボは竹やぶの中に出かけて、順々に現れた四匹の虎に命と引き換えにみんな取られてしまう。四匹の虎はそれぞれ自分の獲物を自慢し、自分が一番強いと言って、けんかを始める。相手の尻尾を嚙もうとしてぐるぐる回り始めた虎は、そのうち溶けて「ギー」というバターになってしまう。裸で木の上から見ていたサンボはそのギーを家に持ち帰ってお母さんにホットケーキを作ってもらって、お母さんのマンボが27枚、お父さんのジャンボが55枚、サンボは169枚食べました、というお話である。
童話なのでつじつまが合わないことがあるのは当然だが、それでも不思議なことがいくつもあるお話だと思う。まず、上から下まで新調の衣服を身に着けてご機嫌なサンボはどうして虎が出てくるような危険な竹やぶに入っていったのか。竹やぶで緑色の傘をさすのはなんの必要があってのことか。赤、青、紫、緑、(+虎の黄色、茶色)と色が特定されているのはなにか意味があるのだろうか。それから、最初に虎に出会って赤い上着を取られた、という怖ろしい体験をしたのに、どうしてすぐ家に逃げ帰らなかったのか。一方虎の方も、サンボが身につけていた品物は虎にとってはそれこそ無用の長物なのに、何故そんなものをサンボの命と引き換えに受け取ったのだろう。およそ実用的な価値がない物なのに、それを所有していることで一番の権威を持つことが出来ると考えているようだ。挙句の果ては権力争い?をして自らの体を溶かしてしまうとは。
結末も不思議である。虎のギーで作ったホットケーキをそれぞれが食べた枚数が「27枚」「55枚」「169枚」と具体的に数字を挙げて語られている。荒唐無稽なお話だからあまり意味はないのかもしれないが、なんとなく印象的な数字である。
と、ここまであらすじをたどってきても、サリンジャーが何故「ちびくろサンボ」を「バナナ魚には理想的な日」に登場させたのかよくわからない。童話を深読みしてもよくないのかもしれないが、謎解きのためのヒントはいくつか見つけたよう気がする。古今東西民話の中に登場する動物は現地住民のメタファーであるということ。虎とは何か?サンボ一家は何人か?ジャンボ、マンボ、サンボ、という名前は少なくとも白人ではないだろう。でも虎ではないのだから現地住民でもないだろう。近代的な衣類を身につけ、ホットケーキを食べる習慣があるので、生活様式は文明人だろう。また、・・・とこれ以上書くと子どもの夢を壊す、と叱られそうである。
さて、「きみは六匹をたったって言うの?」とシーモアに聞かれたシビルはそれには答えず「あんた、蠟(原文はwax〉は好き?」とシーモアにたずね、この後二人はバナナ魚を探しに海に入って行く。謎に満ちた展開はまだまだ続くのだが、シビルとシーモアは「ちびくろサンボ」を仲介させて何事かを了解し合ったように思われる。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
「差別語」を使わなければ差別がなくなるわけではない。八十年代後半から今にいたるまで差別は一層深刻になり、「格差」あるいは「格差社会」と言う言葉が発明された。「格差」は抽象的表現で、内実は「貧富の差」「弱肉強食の徹底」である。
さて「ちびくろサンボ」に戻ろう。差別か否かだけが議論の対象となったこの作品は謎に満ちている。サリンジャーの小説がどれも謎にみちているように。サリンジャーは『ナイン・ストーリーズ』の巻頭「バナナ魚には理想的な日」の中にこの作品を登場させる。主人公シーモアがシビル・カーペンターという少女と浜辺で会話している。シーモアは少女にどこから来たのか訊ねる。最初は知らない、と言った少女がシーモアの誘導に「コネティカット州ホヮーリーウッド」と答えた後、突然「あんた、『ちびくろサンボ』読んだ?」とシーモアに聞く。その後の会話がちょっと不思議なのである。自分も昨夜読み終えたばかりだ、と答えるシーモアは木の周りをぐるぐる回る虎のことを「あんなにたくさんの虎、見たことない」と言う。それにたいしてシビルは「たった六匹よ」とかえす。
よく知られているように、原作に登場する虎は四匹である。なぜシビルは「たった六匹よ」と言ったのだろう。それに対してシーモアは「きみは六匹をたったって言うの」と返して、頭数を訂正するわけでもない。この後シビルは「六本」のバナナをくわえているバナナ魚を見つけた、と書かれているので、「六」という数字は何か意味があるのだろう。だが、わざわざ登場する虎の頭数を変えてまで「ちびくろサンボ」を登場させたのは何故か。
「ちびくろサンボ」は19世紀末に軍医の夫とともにインドで生活したバナーマン夫人が自分の娘たちのために書いた童話であるとされている。チベットの民話が元になっているとも言われるが詳ししい由来は知らない。私自身も岩波版の「ちびくろサンボ」を自分の子どものために買って読み聞かせた覚えがある。お母さんのマンボに赤い上着と青いズボンを作ってもらい、お父さんのジャンボに紫の靴と緑色の傘を市場で買ってもらったサンボは竹やぶの中に出かけて、順々に現れた四匹の虎に命と引き換えにみんな取られてしまう。四匹の虎はそれぞれ自分の獲物を自慢し、自分が一番強いと言って、けんかを始める。相手の尻尾を嚙もうとしてぐるぐる回り始めた虎は、そのうち溶けて「ギー」というバターになってしまう。裸で木の上から見ていたサンボはそのギーを家に持ち帰ってお母さんにホットケーキを作ってもらって、お母さんのマンボが27枚、お父さんのジャンボが55枚、サンボは169枚食べました、というお話である。
童話なのでつじつまが合わないことがあるのは当然だが、それでも不思議なことがいくつもあるお話だと思う。まず、上から下まで新調の衣服を身に着けてご機嫌なサンボはどうして虎が出てくるような危険な竹やぶに入っていったのか。竹やぶで緑色の傘をさすのはなんの必要があってのことか。赤、青、紫、緑、(+虎の黄色、茶色)と色が特定されているのはなにか意味があるのだろうか。それから、最初に虎に出会って赤い上着を取られた、という怖ろしい体験をしたのに、どうしてすぐ家に逃げ帰らなかったのか。一方虎の方も、サンボが身につけていた品物は虎にとってはそれこそ無用の長物なのに、何故そんなものをサンボの命と引き換えに受け取ったのだろう。およそ実用的な価値がない物なのに、それを所有していることで一番の権威を持つことが出来ると考えているようだ。挙句の果ては権力争い?をして自らの体を溶かしてしまうとは。
結末も不思議である。虎のギーで作ったホットケーキをそれぞれが食べた枚数が「27枚」「55枚」「169枚」と具体的に数字を挙げて語られている。荒唐無稽なお話だからあまり意味はないのかもしれないが、なんとなく印象的な数字である。
と、ここまであらすじをたどってきても、サリンジャーが何故「ちびくろサンボ」を「バナナ魚には理想的な日」に登場させたのかよくわからない。童話を深読みしてもよくないのかもしれないが、謎解きのためのヒントはいくつか見つけたよう気がする。古今東西民話の中に登場する動物は現地住民のメタファーであるということ。虎とは何か?サンボ一家は何人か?ジャンボ、マンボ、サンボ、という名前は少なくとも白人ではないだろう。でも虎ではないのだから現地住民でもないだろう。近代的な衣類を身につけ、ホットケーキを食べる習慣があるので、生活様式は文明人だろう。また、・・・とこれ以上書くと子どもの夢を壊す、と叱られそうである。
さて、「きみは六匹をたったって言うの?」とシーモアに聞かれたシビルはそれには答えず「あんた、蠟(原文はwax〉は好き?」とシーモアにたずね、この後二人はバナナ魚を探しに海に入って行く。謎に満ちた展開はまだまだ続くのだが、シビルとシーモアは「ちびくろサンボ」を仲介させて何事かを了解し合ったように思われる。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
2013年1月31日木曜日
対エスキモー戦争の前夜」と「美女と野獣」____サリンジャーとコクトー
「対エスキモー戦争の前夜」の中で「あれこそまさに醇乎たる天才だね」と作中人物に賞讃される映画「美女と野獣」について、もう一度考えてみたい。サリンジャーは「美女と野獣」のどこに「醇乎たる天才」を見いだしたのか。美しいモノクロの画面の中でくり広げられる物語は荒唐無稽なお伽話のようでありながら、細部の心理描写にリアルなものがあり、ストーリーの展開が緊密で無駄がない。だが、サリンジャーは、たんにそのような映画的完成度にたいして「醇乎たる天才」と言ったのだろうか。
映画「美女と野獣」はジャン・コクト-が1946年に製作した作品であるが、ボーモン夫人による同名の小説と異なっているのは、原作にはないアブナンという人物を登場させている点である。アブナンは主人公の美女ベルの兄の友人であり、ベルに想いを寄せている。彼はぐうたらで生活力もないが、ベルの身を案じる気持ちに偽りはなく、そのために野獣を殺してその財宝を奪おうとする。欲に目がくらんだベルの姉たちがベルから盗んだ「ディアナ館」という宝物殿の鍵を渡され、野獣の館に向かったアブナンは、ディアナ館を見つけるが、「罠があるかもしれない」と言って屋根を壊して侵入しようとして、ディアナの彫像に射殺されてしまう。
一方野獣はベルに去られて寂しさのあまり瀕死の状態で庭園の中で横たわっている。そして、駆けつけたベルの必死の呼びかけにもこたえることは出来ず、ほんとうに死んでしまう。だが、たぶんここが原作と決定的に異なっている部分だと思うのだが、野獣はアブナンが死ぬのと同時に生き返り、しかも美しい王子の姿ですっくと立ち上がるのである。そしてアブナンの死骸は野獣のむくろとなっていくのだ。つまり、アブナンの死が野獣を再生させたのだ。
美しい王子の姿でよみがえった野獣にベルは「あなたは誰かに似ている」と言う。「その男を愛していたのか」と聞く王子にベルは「はい」と答え、「では野獣は(愛していたのか)」と聞かれるとこれにも「はい」とこたえる。?ベルは誰を愛していたのか?父親思いで働き者の純情な乙女が恋愛巧者の熟女に変身してしまったのか?なんとも不思議な場面で、王子となった野獣も「変わった娘だ」と言うのである。「(私がアブナンと)似ていては嫌か」とたずねる王子にベルは「嫌よ」とはぐらかしながら「うそです」と答える。なんとも堂々としたお手並みである。
最後は定石通り二人で王子の国へと旅立つ。むくむくと湧き上がる雲の上を飛んでいって、めでたしめでたし、となってそれなりのカタルシスも味わえる結末である。ときにあまりにもリアルな心理描写に微かな違和感を覚えることはあっても、よくできたお伽話として受け止めてさしつかえないように思うのだが、はたしてそれでよいのだろうか。
コクトーはこの映画の構想を第二次大戦中の1944年1月からもっていて、いったん挫折を余儀なくされながら、翌1945年8月に製作を開始する。当時コクトーは極度に健康状態が悪く、満身創痍で製作に打ち込んだ。また特筆すべきは、新進のドキュメンタリー作家として台頭してきたルネ・クレマンを、彼が対独レジスタンスの映画「鉄路の闘い」の撮影中であるにもかかわらず、「美女と野獣」の技術担当として引き抜いてしまったことである。「鉄路の闘い」は、最後にナチスの軍用列車が線路を爆破されて脱線するクライマックスシーンを残すのみであったという。執念ともいうべきコクトーの思いをこめたこの映画は、いったい何を伝えるのか。そしてサリンジャーは何を受け止めてこの映画を「醇乎たる天才」と賞讃したのだろうか。
このブログを書くにあたって、松田和之氏の「ルネ・クレマンとジャン・コクトー。__映画『美女と野獣』小考__」(福井大学教育地域科学部紀要Ⅰより)を参考にさせていただきました。松田先生に厚く御礼申し上げます。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
映画「美女と野獣」はジャン・コクト-が1946年に製作した作品であるが、ボーモン夫人による同名の小説と異なっているのは、原作にはないアブナンという人物を登場させている点である。アブナンは主人公の美女ベルの兄の友人であり、ベルに想いを寄せている。彼はぐうたらで生活力もないが、ベルの身を案じる気持ちに偽りはなく、そのために野獣を殺してその財宝を奪おうとする。欲に目がくらんだベルの姉たちがベルから盗んだ「ディアナ館」という宝物殿の鍵を渡され、野獣の館に向かったアブナンは、ディアナ館を見つけるが、「罠があるかもしれない」と言って屋根を壊して侵入しようとして、ディアナの彫像に射殺されてしまう。
一方野獣はベルに去られて寂しさのあまり瀕死の状態で庭園の中で横たわっている。そして、駆けつけたベルの必死の呼びかけにもこたえることは出来ず、ほんとうに死んでしまう。だが、たぶんここが原作と決定的に異なっている部分だと思うのだが、野獣はアブナンが死ぬのと同時に生き返り、しかも美しい王子の姿ですっくと立ち上がるのである。そしてアブナンの死骸は野獣のむくろとなっていくのだ。つまり、アブナンの死が野獣を再生させたのだ。
美しい王子の姿でよみがえった野獣にベルは「あなたは誰かに似ている」と言う。「その男を愛していたのか」と聞く王子にベルは「はい」と答え、「では野獣は(愛していたのか)」と聞かれるとこれにも「はい」とこたえる。?ベルは誰を愛していたのか?父親思いで働き者の純情な乙女が恋愛巧者の熟女に変身してしまったのか?なんとも不思議な場面で、王子となった野獣も「変わった娘だ」と言うのである。「(私がアブナンと)似ていては嫌か」とたずねる王子にベルは「嫌よ」とはぐらかしながら「うそです」と答える。なんとも堂々としたお手並みである。
最後は定石通り二人で王子の国へと旅立つ。むくむくと湧き上がる雲の上を飛んでいって、めでたしめでたし、となってそれなりのカタルシスも味わえる結末である。ときにあまりにもリアルな心理描写に微かな違和感を覚えることはあっても、よくできたお伽話として受け止めてさしつかえないように思うのだが、はたしてそれでよいのだろうか。
コクトーはこの映画の構想を第二次大戦中の1944年1月からもっていて、いったん挫折を余儀なくされながら、翌1945年8月に製作を開始する。当時コクトーは極度に健康状態が悪く、満身創痍で製作に打ち込んだ。また特筆すべきは、新進のドキュメンタリー作家として台頭してきたルネ・クレマンを、彼が対独レジスタンスの映画「鉄路の闘い」の撮影中であるにもかかわらず、「美女と野獣」の技術担当として引き抜いてしまったことである。「鉄路の闘い」は、最後にナチスの軍用列車が線路を爆破されて脱線するクライマックスシーンを残すのみであったという。執念ともいうべきコクトーの思いをこめたこの映画は、いったい何を伝えるのか。そしてサリンジャーは何を受け止めてこの映画を「醇乎たる天才」と賞讃したのだろうか。
このブログを書くにあたって、松田和之氏の「ルネ・クレマンとジャン・コクトー。__映画『美女と野獣』小考__」(福井大学教育地域科学部紀要Ⅰより)を参考にさせていただきました。松田先生に厚く御礼申し上げます。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年1月14日月曜日
サリンジャーと雪
身辺雑事はだいぶかたづいたのですが、原文講読も書くことも遅々としてはかどりません。能力の限界を感じています。と泣き言を言っても何もならないし、たまたま今日は雪が降っているので、本筋とあまり関係がないかもしれないのですが、「サリンジャーと雪」について少しだけ書いてみたいと思います。
『ライ麦畑でつかまえて』は「十二月かなんかでさ、魔女の乳首みたいにつめたかった」土曜日の午後から始まる。何日かは特定されないが、クリスマス休暇間近の三日間の出来事である。土曜の夜、寮のディナーを済ませて食堂を出ると雪が降っている。ホールデンは寮に残っていた学生たちと一緒に雪投げをしたりしてはしゃぐ。毎日雪に降り込められる地方の人以外には、雪は古今東西時空を越えて心を浮きたたせるものらしい。ところでちょっと不思議なのはその後のホールデンの行動である。
ホールデンは窓をあけて素手で雪球を握り、外の物にぶつけようとする。まず道路の向こう側に止まっていた車に、それから消火栓に。だが、そのどちらもあまりに「白くてきれい」なので、何にもぶつけずそのまま握っていて、ルームメイト二人と外出してバスの中でも持っている。さすがに運転手にドアをあけて捨てさせられたのだが。「雪球」を長時間(といっても数十分だろうけれど)握っていても溶けないことがあるのだろうか。
『ライ麦畑でつかまえて』に雪が降るのはこの場面だけである。太陽は姿を見せないが、雪はもう降らない。冷たく陰鬱なニューヨークの空の下、ホールデンはさまざまな体験を重ねていく。そして最後に妹のフィービーを回転木馬にのせるところでこの物語は終わるのだが、ここでは、雨が降ってくるのだ。冬のさなかなのに真夏のような土砂降りの雨が降りだすのである。
サリンジャーの作品ではこのほかに『ナイイン・ストーリーズ』中の「コネティカットのひょこひょこおじさん」にも雪が登場し、しかも重要な役割を果たす。大学時代の友人エロイーズを訪れたメアリ・ジェーンは雪に降り込められてエロイーズの家で足止めをくってしまう。そしてメアリ・ジェーンの車が移動できないことを口実にエロイーズは夫のルーを迎えに行くことを断る。だが、メイドのグレースの亭主は雪の中に追い出すのである。エロイーズの娘ラモーナが雪道で履くオーヴァーシューズを脱がすのに一騒動あったりもする。この小説で雪は重要な小道具、と言うより作品自体を成り立たせるためのひとつの劇場空間といった趣がある。エロイーズとメアリ・ジェーンの共通の知人、癌で死んだ先生の名が「ホワイティング先生」というのも偶然だろうか。
書いているうちに雪は雨に変わってしまったようです。終の棲家に、と昨年11月に越してきたこの地は、連日氷点下7~8度の寒さです。関東地方の内陸部としては異常ともいえる寒さで、今年が特別でありますように、と願っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
『ライ麦畑でつかまえて』は「十二月かなんかでさ、魔女の乳首みたいにつめたかった」土曜日の午後から始まる。何日かは特定されないが、クリスマス休暇間近の三日間の出来事である。土曜の夜、寮のディナーを済ませて食堂を出ると雪が降っている。ホールデンは寮に残っていた学生たちと一緒に雪投げをしたりしてはしゃぐ。毎日雪に降り込められる地方の人以外には、雪は古今東西時空を越えて心を浮きたたせるものらしい。ところでちょっと不思議なのはその後のホールデンの行動である。
ホールデンは窓をあけて素手で雪球を握り、外の物にぶつけようとする。まず道路の向こう側に止まっていた車に、それから消火栓に。だが、そのどちらもあまりに「白くてきれい」なので、何にもぶつけずそのまま握っていて、ルームメイト二人と外出してバスの中でも持っている。さすがに運転手にドアをあけて捨てさせられたのだが。「雪球」を長時間(といっても数十分だろうけれど)握っていても溶けないことがあるのだろうか。
『ライ麦畑でつかまえて』に雪が降るのはこの場面だけである。太陽は姿を見せないが、雪はもう降らない。冷たく陰鬱なニューヨークの空の下、ホールデンはさまざまな体験を重ねていく。そして最後に妹のフィービーを回転木馬にのせるところでこの物語は終わるのだが、ここでは、雨が降ってくるのだ。冬のさなかなのに真夏のような土砂降りの雨が降りだすのである。
サリンジャーの作品ではこのほかに『ナイイン・ストーリーズ』中の「コネティカットのひょこひょこおじさん」にも雪が登場し、しかも重要な役割を果たす。大学時代の友人エロイーズを訪れたメアリ・ジェーンは雪に降り込められてエロイーズの家で足止めをくってしまう。そしてメアリ・ジェーンの車が移動できないことを口実にエロイーズは夫のルーを迎えに行くことを断る。だが、メイドのグレースの亭主は雪の中に追い出すのである。エロイーズの娘ラモーナが雪道で履くオーヴァーシューズを脱がすのに一騒動あったりもする。この小説で雪は重要な小道具、と言うより作品自体を成り立たせるためのひとつの劇場空間といった趣がある。エロイーズとメアリ・ジェーンの共通の知人、癌で死んだ先生の名が「ホワイティング先生」というのも偶然だろうか。
書いているうちに雪は雨に変わってしまったようです。終の棲家に、と昨年11月に越してきたこの地は、連日氷点下7~8度の寒さです。関東地方の内陸部としては異常ともいえる寒さで、今年が特別でありますように、と願っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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