これも賢治の代表的な作品である。私は「セロひきのゴーシュ」に二回出会った。最初は遥かな(?)昔、まだ若い母親だったとき、自分の子供に読み聞かせるために絵本を購入した。茂田井武という賢治と同じように夭折した画家の挿絵がついていた。二回目は、それからかなりの月日が経って、子供の勉強をみる仕事をしていたとき、NHK学園という通信制高校の現代文のテキストに採用されていた。教えていた子、といっても十代の後半だから若者といったほうが正確かもしれない。彼の容姿や雰囲気が茂田井画伯の描いたゴーシュに似ているのが、興味深かった。たぶん、偶然ではないと思うのだが。
有名な作品なので、あらすじを紹介するまでもないと思う。ゴーシュという孤独な若者が、コンクールのために一人で深夜まで猛練習をする。そこに、猫とかっこうと狸と野ねずみが訪れる。それぞれの動物との交流を経て、ゴーシュはセロの演奏に上達し、コンクールの本番では、アンコール演奏の指名を受けるまでになる。この作品のテーマとして、芸術による自己昇華あるいは大自然の意志との感応(瀬田貞二氏)を見るのはもちろん正しいし、まずそれを考えなければいけないのだろう。だが、どうしても、私にはそれだけで割り切れない複雑なものが残るのである。「ゴーシュさんは一生懸命練習しました。動物たちもやってきました。それでみんなにほめられる演奏ができました。よかったです」では済まない何かがあって、それがこの作品をいつまでも心に残るものにしているのだ。
この作品を読んで、まず驚くのは、最初に訪れた猫に対するゴーシュの残虐さである。ゴーシュの畑でもいできたトマトを持って、半ば道化を装いながら陣中見舞いにやってきた猫をいたぶって、その舌でマッチをするという行為は尋常ではない。次にぎょっとするのは、一緒にドレミファを練習したかっこうを外に出すためにガラスをけり破って窓を壊す場面である。「のどから血が出るまでは叫ぶ」と言って叫び続け、出口を求めてはガラスにぶつかり血まみれになるかっこうも常軌を逸しているが、それを外に出すために自らも危険を冒すゴーシュがなにより常軌を逸している。
ところで、本題とはあまり関係がないかもしれないのだが、この作品を読んでいつも思うことがある。「町はずれの川ばたにある水車小屋」に「たった一人ですんでいて、午前は小屋のまわりのちいさな畑でトマトの枝を切ったり、甘藍の虫をひろったりして」いるゴーシュとはいったい何だろう。「トマト」や「甘藍」は当時(1920年代後半~30年代前半)一般的に栽培されていたのだろうか。現代でいえば、朽ちかけた廃屋にすんで高級メロンなどを作っているようなものではないか。童話の世界にリアリティを求めることが無理なのかもしれないが、何だか不思議な感じである。もう一ついえば、賢治の童話の登場人物の名前について、賢治の作品には片仮名表記=外国風の名前と、漢字もしくは平仮名表記=日本風の名前との2種類の名前が存在する。そして、それぞれの作品世界には明らかな違いがあると思われる。オツペル、ジョバンニ、グスコープドリの登場する作品世界と、又三郎、小十郎、虔十の登場する作品世界は、同一次元のものではない。前者は現実とは別次元の、もっといえばある種の理想に到達し得る世界として描かれているのではないか。
それでは「セロ引き」の「ゴーシュ」が登場するこの作品世界は理想郷たり得るのだろうか?たしかにゴーシュは演奏を成功させ、楽長に賞賛され認められた。愛らしい狸の子と一緒に演奏して平和に夜を明かすこともできた。そして、野ねずみの子の病気をなおすという奇跡のようなことも起こった。ゴーシュを取り巻く世界は変わったのである。だが、ゴーシュの孤独は変わらなかったのではないか。ゴーシュにほんとうのドレミファを教えたかっこうは永遠に行ってしまったのである。「ああ、かっこう。あの時はすまなかったなあ。おれはおこったんじゃなかったんだ。」という最後のゴーシュの独白は「おいゴーシュ君。君には困るんだなあ。表情ということがまるで、できていない。怒るも喜ぶも感情ということがさっぱり出ないんだ」という楽長の指摘と対をなして、この作品中最も印象的である。怒ったのではなかったのだ。あまりにも孤独で、それゆえ不器用だから、「感情というものが出な」かったのだ。「感情というもの」が「ない」わけでは決してないのに。
「サリンジャーに戻ります」といいながら、また宮沢賢治について書いてしまいました。賢治の作品に関しては、もう一つ「風の又三郎」についても書きたいと思っています。その前に「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」について書かなければなりませんが。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年7月20日金曜日
2012年6月19日火曜日
「なめとこ山の熊」____死との融和_破綻した予定調和の世界
宮沢賢治の作品の中で、もっとも心惹かれる小説である。何故そんなに心惹かれるのだろう。熊と人間が「なりわい=生業」のために切り結ぶ生と死が鮮烈に描かれているのだが、それだけではない。むしろ、主人公小十郎と熊の交流の場面で、熊は擬人化され過ぎているし、荒物屋の主人と小十郎の関係は誇張され過ぎているのではないか、という感も否めない。それでもなお、この作品にこめられたある種のメッセージ性が感動をよぶのである。私だけかもしれないが。
「なめとこ山の熊のことならおもしろい」という書き出しでこの小説は始まる。「おもしろい」というのだから、語り手がいるのだが、語り手は徹底して物語の外側で語り、作品世界の中に登場することはない。「オツペルと象」の語り手と同じである。もうひとつ「オツペルと象」と共通していることがあって、語りの文体が常体なのである。賢治の童話は多くが敬体の文章で書かれている。童話集『風の又三郎』の解説を書いている谷川徹三氏の言うように「天成の教育者であった」賢治は、つねに語られる相手=子どもを意識して作品を作っていたので、子どもが受け入れやすいように「ですます」体を多く使ったのだと思われる。しかしこの作品はそうではない。語り手が語る相手は、必ずしも子どもを第一に意識しているのではないのだ。そして「オツペルと象」の語り手が最後には、「おや、君、川へはいっちゃいけないったら」と韜晦してしまうのに対して、「なめとこ山の熊」は、小十郎の死骸をとりまく熊の様子を「ほんとうにそれらの大きな黒いものは、参の星(オリオン)が天のまん中に来ても、もっと西に傾いても、じっと化石したようにうごかなかった」と描写して、最後まで語りの姿勢を変えることなく語りきるのである。
物語は「なめとこ山の熊」を「片っぱしから捕った」熊捕りの名人の小十郎と熊たちとの交流を語る。交流というより、殺すか殺されるかの勝負、といった方がほんとうは正確なのだろう。殺した熊に因果を含める小十郎の姿が描かれるが、「米などは少しもできず、味噌もなかったから、九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもっていく米はごくわずかずつでも要った」から、生きていくために殺さなければならなかったのだ。殺さなければ、すなわち自分が、否七人家内が全員飢え死にするのである。
小十郎と熊との関係は、時の推移とともに微妙に変化していく。「小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした」という文章の後、小十郎は月あかりの中で「後光がさすように思え」た母子の熊の姿を見つける。この場面で描かれる母子の情景はまるで一幅の絵画のように美しく、その会話」は詩のようである。小十郎はこの二匹の熊を射つことができないばかりか、「なぜかもう胸がいっぱいになって、もういっぺん向こうの谷の白い雪のような花と、余念なく月光をあびて見ている母子の熊をちらっと見て、それから音をたてないように、こっそりこっそり戻りはじめた。」だが、小十郎がこの母子を見つけたのは、彼が「柄にもなく登り口をまちがってしまった」ため、去年つくった小屋にたどり着くまでに、犬も自分もへとへとにつかれてしまったので、水のある場所に下りて行こうとしたからである。剛毅な小十郎にかすかな衰えの兆候が見えはじめたのだ。
この後小十郎と荒物屋の主人との商談の様子が語られる。小十郎は命を切り結んで手に入れた熊の胆をさんざんに買い叩かれて、わずかな金と馳走で懐柔されてしまう。荒物屋の主人の老獪さと小十郎の卑屈さとが方言をまじえてリアルに描かれる。ここで語り手は「けれどもこんないやなずるいやつらは、世界がどんどん進歩するとひとりで消えてなくなって行く」と断定せずにはいられない。命しか売るものがない労働者とそれを買い叩く商人=資本家の一方的な力関係を前にして、なすすべもない語り手はせめてことばで弾劾するしかない。
そうやって小十郎が命の代償として手に入れたものは何か、という問いをつきつけたのは、木によじ登ろうとしていた大きな熊だった。「お前は何がほしくておれを殺すんだ」と問われた小十郎は「お前に今ごろそんなことを言われると、もうおれなんどは何か栗かしだの実でも食っていて、それで死ぬなら死んでもいいような気がする」 と答える。「九十になるとしよりと七人家内にもっていく」わずかな米のために殺生を重ねる生活世界から死の地平にかなりな角度で傾斜した姿勢である。残した仕事もあるので二年だけ待ってくれ、という熊のことばに小十郎は立ちすくんでしまう。そして、約束通りちょうど二年目の朝、熊は小十郎の家のまえで血を吐いて死んだのだった。その姿を「小十郎は思わず拝むようにした」
小十郎が最期を迎える朝の情景は、この作品の中でもっとも印象深い場面だ。少し原文を引用したい。
一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るとき、今まで言ったことのないことを言った。
「婆さま、おれも年とったでばな、けさまず生まれで始めで、水へはいるの嫌(や)んたよな気するじゃ。」
すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母は、その見えないような目をあげてちょっと小十郎を見て、何か笑うか泣くかするような顔つきをした。
今生の別れを告げる母子の情景は、月光の中で美しく描かれた熊の母子の情景よりもっと美しくて、はるかにせつない思いを伝えてくる。
「じいさん、はやくお出や」と孫たちに笑われて山に入った小十郎はあっけなく熊に殺された。かつて、小十郎は、何のために自分を殺すのか、と問われた熊と会話し、熊を射たなかったが、最後はことばを交わす間もなく自分が殺されたのだ。しかもいまわの際に小十郎は「おお、小十郎、お前を殺すつもりはなかった。」という熊の声を聞くのである。この最後の場面は謎である。熊はほんとうに小十郎を殺す気がなかったのか。だとしたら何故「棒のような両手をびっこにあげて、まっすぐに走って来た」のだろう。そして小十郎が鉄砲を射ったのに、何故「少しも倒れないであらしのように黒くゆらいでやってきた」のか?熊は何者なのか?
小十郎に死をもたらした熊が何者なのかについて一つの仮定があり、この作品といくつかの共通する部分をもつ「オツペルと象」とこの作品とを比較するためにも検討したい命題なのだが、それはまた別の機会にしたい。とりあえずのまとめとして、最初に私が述べた「この作品にこめられたある種のメッセージ性」の具体的な内容について、書いておきたいと思う。それを端的にいえば、「死の荘厳さ」、であろうか。小十郎と約束を交わしてその通りに死んでいった熊も、そうでない熊も、そして小十郎自身の死も、死は同じように荘厳な事実である。そしてそれ以外の何ものでもない。「畑はなし、木はお上のものにきまったし、里に出てもだれも相手にしねえ」小十郎の家族を残したまま、死はただ死として彼に訪れたのだ。死が生の完成であり、終着であるという予定調和の世界は最初から破綻している。語り手は、「まるで生きているときのようにさえざえして何か笑っているようにさえ見えた」顔の小十郎の死骸が「栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の平らに」置かれ、そのまわりを「黒い大きなものがたくさん輪になって集まって」「回回教徒の祈るときのように、じっと雪にひれふしたままいつまでも動かなかった」と語って、時を停止させるのである。
ほんとうはサリンジャーの原文講読を進めなければいけないのですが、どうしてもこの作品が気になっていたので、寄り道してしまいました。また明日からサリンジャーに戻ろうと思っています。今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
「なめとこ山の熊のことならおもしろい」という書き出しでこの小説は始まる。「おもしろい」というのだから、語り手がいるのだが、語り手は徹底して物語の外側で語り、作品世界の中に登場することはない。「オツペルと象」の語り手と同じである。もうひとつ「オツペルと象」と共通していることがあって、語りの文体が常体なのである。賢治の童話は多くが敬体の文章で書かれている。童話集『風の又三郎』の解説を書いている谷川徹三氏の言うように「天成の教育者であった」賢治は、つねに語られる相手=子どもを意識して作品を作っていたので、子どもが受け入れやすいように「ですます」体を多く使ったのだと思われる。しかしこの作品はそうではない。語り手が語る相手は、必ずしも子どもを第一に意識しているのではないのだ。そして「オツペルと象」の語り手が最後には、「おや、君、川へはいっちゃいけないったら」と韜晦してしまうのに対して、「なめとこ山の熊」は、小十郎の死骸をとりまく熊の様子を「ほんとうにそれらの大きな黒いものは、参の星(オリオン)が天のまん中に来ても、もっと西に傾いても、じっと化石したようにうごかなかった」と描写して、最後まで語りの姿勢を変えることなく語りきるのである。
物語は「なめとこ山の熊」を「片っぱしから捕った」熊捕りの名人の小十郎と熊たちとの交流を語る。交流というより、殺すか殺されるかの勝負、といった方がほんとうは正確なのだろう。殺した熊に因果を含める小十郎の姿が描かれるが、「米などは少しもできず、味噌もなかったから、九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもっていく米はごくわずかずつでも要った」から、生きていくために殺さなければならなかったのだ。殺さなければ、すなわち自分が、否七人家内が全員飢え死にするのである。
小十郎と熊との関係は、時の推移とともに微妙に変化していく。「小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした」という文章の後、小十郎は月あかりの中で「後光がさすように思え」た母子の熊の姿を見つける。この場面で描かれる母子の情景はまるで一幅の絵画のように美しく、その会話」は詩のようである。小十郎はこの二匹の熊を射つことができないばかりか、「なぜかもう胸がいっぱいになって、もういっぺん向こうの谷の白い雪のような花と、余念なく月光をあびて見ている母子の熊をちらっと見て、それから音をたてないように、こっそりこっそり戻りはじめた。」だが、小十郎がこの母子を見つけたのは、彼が「柄にもなく登り口をまちがってしまった」ため、去年つくった小屋にたどり着くまでに、犬も自分もへとへとにつかれてしまったので、水のある場所に下りて行こうとしたからである。剛毅な小十郎にかすかな衰えの兆候が見えはじめたのだ。
この後小十郎と荒物屋の主人との商談の様子が語られる。小十郎は命を切り結んで手に入れた熊の胆をさんざんに買い叩かれて、わずかな金と馳走で懐柔されてしまう。荒物屋の主人の老獪さと小十郎の卑屈さとが方言をまじえてリアルに描かれる。ここで語り手は「けれどもこんないやなずるいやつらは、世界がどんどん進歩するとひとりで消えてなくなって行く」と断定せずにはいられない。命しか売るものがない労働者とそれを買い叩く商人=資本家の一方的な力関係を前にして、なすすべもない語り手はせめてことばで弾劾するしかない。
そうやって小十郎が命の代償として手に入れたものは何か、という問いをつきつけたのは、木によじ登ろうとしていた大きな熊だった。「お前は何がほしくておれを殺すんだ」と問われた小十郎は「お前に今ごろそんなことを言われると、もうおれなんどは何か栗かしだの実でも食っていて、それで死ぬなら死んでもいいような気がする」 と答える。「九十になるとしよりと七人家内にもっていく」わずかな米のために殺生を重ねる生活世界から死の地平にかなりな角度で傾斜した姿勢である。残した仕事もあるので二年だけ待ってくれ、という熊のことばに小十郎は立ちすくんでしまう。そして、約束通りちょうど二年目の朝、熊は小十郎の家のまえで血を吐いて死んだのだった。その姿を「小十郎は思わず拝むようにした」
小十郎が最期を迎える朝の情景は、この作品の中でもっとも印象深い場面だ。少し原文を引用したい。
一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るとき、今まで言ったことのないことを言った。
「婆さま、おれも年とったでばな、けさまず生まれで始めで、水へはいるの嫌(や)んたよな気するじゃ。」
すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母は、その見えないような目をあげてちょっと小十郎を見て、何か笑うか泣くかするような顔つきをした。
今生の別れを告げる母子の情景は、月光の中で美しく描かれた熊の母子の情景よりもっと美しくて、はるかにせつない思いを伝えてくる。
「じいさん、はやくお出や」と孫たちに笑われて山に入った小十郎はあっけなく熊に殺された。かつて、小十郎は、何のために自分を殺すのか、と問われた熊と会話し、熊を射たなかったが、最後はことばを交わす間もなく自分が殺されたのだ。しかもいまわの際に小十郎は「おお、小十郎、お前を殺すつもりはなかった。」という熊の声を聞くのである。この最後の場面は謎である。熊はほんとうに小十郎を殺す気がなかったのか。だとしたら何故「棒のような両手をびっこにあげて、まっすぐに走って来た」のだろう。そして小十郎が鉄砲を射ったのに、何故「少しも倒れないであらしのように黒くゆらいでやってきた」のか?熊は何者なのか?
小十郎に死をもたらした熊が何者なのかについて一つの仮定があり、この作品といくつかの共通する部分をもつ「オツペルと象」とこの作品とを比較するためにも検討したい命題なのだが、それはまた別の機会にしたい。とりあえずのまとめとして、最初に私が述べた「この作品にこめられたある種のメッセージ性」の具体的な内容について、書いておきたいと思う。それを端的にいえば、「死の荘厳さ」、であろうか。小十郎と約束を交わしてその通りに死んでいった熊も、そうでない熊も、そして小十郎自身の死も、死は同じように荘厳な事実である。そしてそれ以外の何ものでもない。「畑はなし、木はお上のものにきまったし、里に出てもだれも相手にしねえ」小十郎の家族を残したまま、死はただ死として彼に訪れたのだ。死が生の完成であり、終着であるという予定調和の世界は最初から破綻している。語り手は、「まるで生きているときのようにさえざえして何か笑っているようにさえ見えた」顔の小十郎の死骸が「栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の平らに」置かれ、そのまわりを「黒い大きなものがたくさん輪になって集まって」「回回教徒の祈るときのように、じっと雪にひれふしたままいつまでも動かなかった」と語って、時を停止させるのである。
ほんとうはサリンジャーの原文講読を進めなければいけないのですが、どうしてもこの作品が気になっていたので、寄り道してしまいました。また明日からサリンジャーに戻ろうと思っています。今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
2012年6月10日日曜日
「愛らしき口もと目は緑」___緊密な恋愛心理サスペンス
比較的短編で、よくできた心理小説のように思われる。深夜、密着した男と女の間に、突然電話のベルが割り込んでくる。一瞬ためらった後、男は受話器を取る。スタンドの灯りに照らされた男の様子は「もうほとんど白髪に近い」髪を「きれいに手入れを施したばかり」で「要するに『著名人らしい』髪型であった」と描写される。「リー? 寝てたのかい?」と電話の最初に相手の男が言うことから、時は深夜であることがわかる。
電話をかけてきた男は「アーサー」と呼ばれる。彼は妻のジョーニーが帰るのに気づかなかったと白髪まじりの男__「リー」と呼ばれる__に聞いてきたのだ。アーサーと妻のジョーニー、そして白髪まじりの男は一緒にパーティに参加していたらしい。白髪まじりの男は傍らの女に目をやることもなく、アーサーの妻にはまったく気づかなかった、と答える。ここからアーサーと白髪まじりの男の電話器を介した長い会話が始まる。
会話の前半は、居所が不明な妻への不信を訴えるアーサーと、それをなだめて、なんとか彼を落ち着かせようとする白髪まじりの男のやりとりが続く。男はアーサーにジョーニーは「エレンボーゲン夫婦」と一緒に出かけたのではないか、と言う。 そう信じこませたいようだ。だがアーサーは信じられない。(当然のことであるが)。ジョーニーがいかに気の多い女であるかを訴え続けるアーサーに、彼の話を突然さえぎって、白髪まじりの男は、今日の裁判の結果を尋ねる。彼らは二人とも弁護士であるらしい。
裁判の詳しい内容は不明だが、「三つのホテル」に関する訴訟で、どうやらアーサーは敗訴になったらしい。会話の、というより小説の途中で突然挿入されるこの裁判とはいったい何だろうか。「ヴィットリオの気狂い野郎」と呼ばれる裁判長と「南京虫のしみだらけのシーツ」を証拠に提出した「ルームメードの低脳野郎」のおかげで敗訴になってしまった、とアーサーが嘆く裁判とは?
敗訴になったことで「三つのホテル」のジュニアの怒りを怖れるアーサーは、軍隊に戻るかもしれないと言い出す。ジョーニーとの関係についても、去年の夏に別れてしまえばよかった、と言い出すかと思えば、かわいそうだから別れなかったとも言い、「愛してもいるし愛してなくもある」と「揺れ動く」。そしてアーサーは以前ジョーニーに捧げた詩を白髪まじりの男に聞かせるのだ。「肌白く薔薇色の頬。愛らしき口もと目は緑」原文はこうなっている。
Rose my color is and white, Pretty mouth and green my eyes.
この詩を白髪まじりの男に聞かせた後、アーサーの言葉は微妙に変化していく。ジョーニーが彼にスーツを自腹で買ってくれた思い出を語って、彼女の人柄のよさを言い始める。それだけでなく、いまから白髪まじりの男の家に行っていいかと聞くのだ。
虚をつかれた白髪まじりの男は、何とか彼を言いくるめて、そのまま自宅で妻を待つようにと説得して電話を切る。女とともに危機を切り抜けた喜びを分かち合ったのもつかの間、再び電話が鳴る。妻のジョーニーが帰ってきた、とアーサーが報告してきたのだ。エレンボーゲンさん夫婦と一緒にいたらしい、と言う。ニューヨークを離れてコネチカットに小さな家を買って、ジョーニーとやり直したい、とアーサーは言う。裁判の結果についても、ジュニアに会って何とか努力したい、と話し続けるアーサーをさえぎって白髪まじりの男は電話を切る。茫然自失の男は火のついた煙草を指の間からとり落としてしまうのだ。はたして彼は何故そんなに動揺したのだろうか?
以前私はこの小説を「信仰、希望、愛」とサブタイトルをつけて紹介した。それは、間違いではなかったかもしれないが、やはりもう一段の読み込みが必要なのだと思われる。白髪まじりの男とアーサー、この二人のどちらがボールを持っているのか?そして、作中「いわばアイルランドの若い警官と言った感じで男を見守っている」と形容される女は何者なのか?題名となっている「愛らしき口もと目は緑」とは何を意味するのか?
書くことにも読むことにも集中できない日が続いています。一にかかって私自身の努力不足ですが、何とか先に進みたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
電話をかけてきた男は「アーサー」と呼ばれる。彼は妻のジョーニーが帰るのに気づかなかったと白髪まじりの男__「リー」と呼ばれる__に聞いてきたのだ。アーサーと妻のジョーニー、そして白髪まじりの男は一緒にパーティに参加していたらしい。白髪まじりの男は傍らの女に目をやることもなく、アーサーの妻にはまったく気づかなかった、と答える。ここからアーサーと白髪まじりの男の電話器を介した長い会話が始まる。
会話の前半は、居所が不明な妻への不信を訴えるアーサーと、それをなだめて、なんとか彼を落ち着かせようとする白髪まじりの男のやりとりが続く。男はアーサーにジョーニーは「エレンボーゲン夫婦」と一緒に出かけたのではないか、と言う。 そう信じこませたいようだ。だがアーサーは信じられない。(当然のことであるが)。ジョーニーがいかに気の多い女であるかを訴え続けるアーサーに、彼の話を突然さえぎって、白髪まじりの男は、今日の裁判の結果を尋ねる。彼らは二人とも弁護士であるらしい。
裁判の詳しい内容は不明だが、「三つのホテル」に関する訴訟で、どうやらアーサーは敗訴になったらしい。会話の、というより小説の途中で突然挿入されるこの裁判とはいったい何だろうか。「ヴィットリオの気狂い野郎」と呼ばれる裁判長と「南京虫のしみだらけのシーツ」を証拠に提出した「ルームメードの低脳野郎」のおかげで敗訴になってしまった、とアーサーが嘆く裁判とは?
敗訴になったことで「三つのホテル」のジュニアの怒りを怖れるアーサーは、軍隊に戻るかもしれないと言い出す。ジョーニーとの関係についても、去年の夏に別れてしまえばよかった、と言い出すかと思えば、かわいそうだから別れなかったとも言い、「愛してもいるし愛してなくもある」と「揺れ動く」。そしてアーサーは以前ジョーニーに捧げた詩を白髪まじりの男に聞かせるのだ。「肌白く薔薇色の頬。愛らしき口もと目は緑」原文はこうなっている。
Rose my color is and white, Pretty mouth and green my eyes.
この詩を白髪まじりの男に聞かせた後、アーサーの言葉は微妙に変化していく。ジョーニーが彼にスーツを自腹で買ってくれた思い出を語って、彼女の人柄のよさを言い始める。それだけでなく、いまから白髪まじりの男の家に行っていいかと聞くのだ。
虚をつかれた白髪まじりの男は、何とか彼を言いくるめて、そのまま自宅で妻を待つようにと説得して電話を切る。女とともに危機を切り抜けた喜びを分かち合ったのもつかの間、再び電話が鳴る。妻のジョーニーが帰ってきた、とアーサーが報告してきたのだ。エレンボーゲンさん夫婦と一緒にいたらしい、と言う。ニューヨークを離れてコネチカットに小さな家を買って、ジョーニーとやり直したい、とアーサーは言う。裁判の結果についても、ジュニアに会って何とか努力したい、と話し続けるアーサーをさえぎって白髪まじりの男は電話を切る。茫然自失の男は火のついた煙草を指の間からとり落としてしまうのだ。はたして彼は何故そんなに動揺したのだろうか?
以前私はこの小説を「信仰、希望、愛」とサブタイトルをつけて紹介した。それは、間違いではなかったかもしれないが、やはりもう一段の読み込みが必要なのだと思われる。白髪まじりの男とアーサー、この二人のどちらがボールを持っているのか?そして、作中「いわばアイルランドの若い警官と言った感じで男を見守っている」と形容される女は何者なのか?題名となっている「愛らしき口もと目は緑」とは何を意味するのか?
書くことにも読むことにも集中できない日が続いています。一にかかって私自身の努力不足ですが、何とか先に進みたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年5月30日水曜日
「エズミに捧ぐ」___いくつかの確認事項として
「エズミに捧ぐ」について、いま新しく書き加えることはほとんどないのだが、ごく当たり前ののことをいくつか確認しておきたい。
その1 この作品を書いたのは作家サリンジャーである。
その2 書かれたのは『ナイン・ストーリーズ』が発表された1953年以前である。
その3 小説は「私」が一人称で語る形式で始められる。
その4 「私」がエアメールで受け取った結婚式は4月28日にイギリスで行われる。年号は明示されていない。1944年のノルマンディー上陸作戦の直前にエズミと出会い、その出来事が「6年前」と書かれていることから、1950年と推測されるが、疑問の余地がないわけではない。
その5 エズミと「私」の出会い(正確にはエズミの弟チャールズ、家庭教師のミス・メグリーも含める)は1944年4月の土曜日、場所はイギリスのデヴォン州である。人称の変わる後半、X曹長が開封したエズミからの手紙には、「1944年4月30日午後3時45分から4時15分の間」と書かれている。
その6 小説の後半は3人称で語られる。
その7 時はヨーロッパ戦勝記念日(1945年5月8日)から数週間後の夜10時30分ごろである。」
その8 場所はバヴァリアのガウフルトである。
その9 登場人物は「私」と推測されるX曹長、戦友のZ伍長(なぜか彼はクレイとも呼ばれる)、犬のアルヴィンである。
その10 X曹長は「すべての機能を無傷のままに戦争をくぐり抜けてきた青年ではなかった。」
その11 何ヵ所か転送の跡があるエズミの手紙と、同梱されていたエズミの父の時計を前に、X曹長は突然「快い眠気を覚えた。」 ____ここまで3人称で書かれている。
その12 最後に突然人称は変化する。実はこの人称の変化に巧妙な仕掛けが施されているように思われるのだが、それがどのようなものなのか、極めて難解である。とりあえず日本語訳と原文を対照されたい。
「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」
You take a really sleepy man, Esme', and he always stands a chance of again becoming a man with all his fac---with all his f-a-c-u-l-t-i-e-s intact.
以前書いたように「笑い男」が「用心深い入れこ構造」の小説であるとするならば、「エズミに捧ぐ」は用心深い「額縁小説」であるといえるのではないか。サリンジャーという実作家が「エズミに捧ぐ」という題名で(額に入った)小説を書く。その額の中におさまった小説の中で「私」という登場人物が「愛と汚辱の小説」を書くとエズミに約束する。小説の後半は3人称で書かれているので、前半「私」がエズミに約束した「愛と汚辱の小説」である、と推測される。つまりサリンジャーが書いた「エズミに捧ぐ」という小説の中に、もうひとつ「愛と汚辱の小説」が入っている、と誰もが無意識のうちに前提して読んでしまう。
問題は、最後の一文だ。小説の登場人物だったX曹長が突然話者になったかのような語り口になる。陶然と眠りにひきこまれていくX曹長が、エズミに語りかけてお終いになるのだ。「愛と汚辱の小説」の登場人物だった彼が、額縁から抜け出て「エズミに捧ぐ」という小説の「私」として発語する。この人称の転換を、なんとか認めるとしても、時間の問題は残る。1950年のできごととして始まった物語が1945年の過去に遡り、そのときを現在として語り終えるというのは無理が過ぎるのではないか。
この問題を杓子定規に論理で解決しようとすれば、解決方法はただ一つ、後半部分の小説のX曹長は「私」ではない、と考えるしかない。だから、最後の一文でエズミに語りかけているのはX曹長ではない、という結論になる。野崎孝さんの日本語訳の文章と原文もまた、微妙なズレがあるように思われる。
遅々として進まない原文講読に少なからず焦っています。秋まで雑事に追われそうですが、なんとか時間をつくって書いていこうと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
その1 この作品を書いたのは作家サリンジャーである。
その2 書かれたのは『ナイン・ストーリーズ』が発表された1953年以前である。
その3 小説は「私」が一人称で語る形式で始められる。
その4 「私」がエアメールで受け取った結婚式は4月28日にイギリスで行われる。年号は明示されていない。1944年のノルマンディー上陸作戦の直前にエズミと出会い、その出来事が「6年前」と書かれていることから、1950年と推測されるが、疑問の余地がないわけではない。
その5 エズミと「私」の出会い(正確にはエズミの弟チャールズ、家庭教師のミス・メグリーも含める)は1944年4月の土曜日、場所はイギリスのデヴォン州である。人称の変わる後半、X曹長が開封したエズミからの手紙には、「1944年4月30日午後3時45分から4時15分の間」と書かれている。
その6 小説の後半は3人称で語られる。
その7 時はヨーロッパ戦勝記念日(1945年5月8日)から数週間後の夜10時30分ごろである。」
その8 場所はバヴァリアのガウフルトである。
その9 登場人物は「私」と推測されるX曹長、戦友のZ伍長(なぜか彼はクレイとも呼ばれる)、犬のアルヴィンである。
その10 X曹長は「すべての機能を無傷のままに戦争をくぐり抜けてきた青年ではなかった。」
その11 何ヵ所か転送の跡があるエズミの手紙と、同梱されていたエズミの父の時計を前に、X曹長は突然「快い眠気を覚えた。」 ____ここまで3人称で書かれている。
その12 最後に突然人称は変化する。実はこの人称の変化に巧妙な仕掛けが施されているように思われるのだが、それがどのようなものなのか、極めて難解である。とりあえず日本語訳と原文を対照されたい。
「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」
You take a really sleepy man, Esme', and he always stands a chance of again becoming a man with all his fac---with all his f-a-c-u-l-t-i-e-s intact.
以前書いたように「笑い男」が「用心深い入れこ構造」の小説であるとするならば、「エズミに捧ぐ」は用心深い「額縁小説」であるといえるのではないか。サリンジャーという実作家が「エズミに捧ぐ」という題名で(額に入った)小説を書く。その額の中におさまった小説の中で「私」という登場人物が「愛と汚辱の小説」を書くとエズミに約束する。小説の後半は3人称で書かれているので、前半「私」がエズミに約束した「愛と汚辱の小説」である、と推測される。つまりサリンジャーが書いた「エズミに捧ぐ」という小説の中に、もうひとつ「愛と汚辱の小説」が入っている、と誰もが無意識のうちに前提して読んでしまう。
問題は、最後の一文だ。小説の登場人物だったX曹長が突然話者になったかのような語り口になる。陶然と眠りにひきこまれていくX曹長が、エズミに語りかけてお終いになるのだ。「愛と汚辱の小説」の登場人物だった彼が、額縁から抜け出て「エズミに捧ぐ」という小説の「私」として発語する。この人称の転換を、なんとか認めるとしても、時間の問題は残る。1950年のできごととして始まった物語が1945年の過去に遡り、そのときを現在として語り終えるというのは無理が過ぎるのではないか。
この問題を杓子定規に論理で解決しようとすれば、解決方法はただ一つ、後半部分の小説のX曹長は「私」ではない、と考えるしかない。だから、最後の一文でエズミに語りかけているのはX曹長ではない、という結論になる。野崎孝さんの日本語訳の文章と原文もまた、微妙なズレがあるように思われる。
遅々として進まない原文講読に少なからず焦っています。秋まで雑事に追われそうですが、なんとか時間をつくって書いていこうと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年5月10日木曜日
「小舟のほとりで」____ほほえましい家庭小説
『ナイン・ストーリーズ』の5番目、連作の真ん中に位置する短編である。九つの連作中もっとも短く、よくまとまった感動的な作品のように見える。いわれない中傷に傷ついた少年と彼を癒す若い母親の物語、として心地よい読後感をもたらす。ここに巧妙な謎が仕掛けられている、と考えることは無理ではないか、と思ってしまう。
この小説の焦点は、作品の最期に明かされる少年ライオネルの家出の理由であろう。ライオネルは泣きながら「サンドラがね___スネルさんにね___パパのことを___でかくて、だらしないユダ公だって___そう言ったの」とその理由を明かす。そして、母親ブーブー・タンネンバウムに「坊や、ユダ公ってなんのことだか知ってるの?」と聞かれたライオネルは「ユダコってのはね、空に上げるタコの一種だよ」と答える。「糸を手にもってさ」。この部分は素晴らしい!サリンジャーも素晴らしいが野崎さんの訳も素晴らしい!原文はこうなっている。
"It's one of those things that go up in the air" "With string you hold"
ライオネルはkikeとkiteを取り違えて答えたのだ。
この結末に至るまでのストーリーの展開は無理がなく、ライオネルとブーブーの母子についても自然に感情移入がされるような描写になっている。ライオネルの最初の家出は彼が二歳半のときだった。ネオミという女の子が魔法瓶に蚯蚓を飼っていると聞いたことがその原因らしい。それからは定期的に家出を繰り返した。公園でどこかの子供に「臭い」と言われて家出し、見つかったのは夜中の十一時十五分過ぎで、凍死しかけたこともあった。もっとも家出といっても、自宅からそんなに遠くには行かなかったし、自宅のあるアパートの入り口で「お父さんにさよならを言うんだって頑張ってた」こともあった。一連の経緯はブーブーとメードのサンドラ、家事を手伝っているらしいミセス・スネルの三人の会話で語られる。晩秋の湖畔の別荘地の平穏な日常の出来事のようである。ドラマチックなことはなにも起こらなかった。
珠玉の掌編ともいえるこの小説の中で、しいて違和感がある部分を探すとすれば、冒頭から繰り返されるサンドラの「あたしゃくよくよしないよ」という言葉であろう。たかが四歳の男の子に立ち聞きをされたからといって、何故そんなに気にするのか。それから、現在四歳の男の子が二歳半のときから「定期的に」家出を繰り返すということも、常識では考えられないことではないか。その他にもいくつか少しだけ疑問をいだかせるような場面があるのだが、なかでも、「ブーブーは『ケンタッキー・ベーブ』を歯笛に吹きながら歩いて行った」という表現がよくわからない。なぜ「歯笛」なのか?「口笛」ではなくて。原文はこうなっている。
She walked along whistling "Kentucky Babe" through her teeth.
「ケンタッキー・ベーブ」とはどんな歌なのだろう。
連作の折り返し点に位置するこの小説は、それなりの役割をもつのだろう。平和な日常のほほえましい母と子の交流が描かれ、しかし、この後すぐ「エズミに捧ぐ」では、戦時下の不思議な邂逅とその痛ましい後日談が記されるのである。
まだ発表できる段階になっていない文章ですが、あまり長く書かないでいると、書くことができなくなってしまうのではないかという不安に襲われます。途中経過そのものの文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
この小説の焦点は、作品の最期に明かされる少年ライオネルの家出の理由であろう。ライオネルは泣きながら「サンドラがね___スネルさんにね___パパのことを___でかくて、だらしないユダ公だって___そう言ったの」とその理由を明かす。そして、母親ブーブー・タンネンバウムに「坊や、ユダ公ってなんのことだか知ってるの?」と聞かれたライオネルは「ユダコってのはね、空に上げるタコの一種だよ」と答える。「糸を手にもってさ」。この部分は素晴らしい!サリンジャーも素晴らしいが野崎さんの訳も素晴らしい!原文はこうなっている。
"It's one of those things that go up in the air" "With string you hold"
ライオネルはkikeとkiteを取り違えて答えたのだ。
この結末に至るまでのストーリーの展開は無理がなく、ライオネルとブーブーの母子についても自然に感情移入がされるような描写になっている。ライオネルの最初の家出は彼が二歳半のときだった。ネオミという女の子が魔法瓶に蚯蚓を飼っていると聞いたことがその原因らしい。それからは定期的に家出を繰り返した。公園でどこかの子供に「臭い」と言われて家出し、見つかったのは夜中の十一時十五分過ぎで、凍死しかけたこともあった。もっとも家出といっても、自宅からそんなに遠くには行かなかったし、自宅のあるアパートの入り口で「お父さんにさよならを言うんだって頑張ってた」こともあった。一連の経緯はブーブーとメードのサンドラ、家事を手伝っているらしいミセス・スネルの三人の会話で語られる。晩秋の湖畔の別荘地の平穏な日常の出来事のようである。ドラマチックなことはなにも起こらなかった。
珠玉の掌編ともいえるこの小説の中で、しいて違和感がある部分を探すとすれば、冒頭から繰り返されるサンドラの「あたしゃくよくよしないよ」という言葉であろう。たかが四歳の男の子に立ち聞きをされたからといって、何故そんなに気にするのか。それから、現在四歳の男の子が二歳半のときから「定期的に」家出を繰り返すということも、常識では考えられないことではないか。その他にもいくつか少しだけ疑問をいだかせるような場面があるのだが、なかでも、「ブーブーは『ケンタッキー・ベーブ』を歯笛に吹きながら歩いて行った」という表現がよくわからない。なぜ「歯笛」なのか?「口笛」ではなくて。原文はこうなっている。
She walked along whistling "Kentucky Babe" through her teeth.
「ケンタッキー・ベーブ」とはどんな歌なのだろう。
連作の折り返し点に位置するこの小説は、それなりの役割をもつのだろう。平和な日常のほほえましい母と子の交流が描かれ、しかし、この後すぐ「エズミに捧ぐ」では、戦時下の不思議な邂逅とその痛ましい後日談が記されるのである。
まだ発表できる段階になっていない文章ですが、あまり長く書かないでいると、書くことができなくなってしまうのではないかという不安に襲われます。途中経過そのものの文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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