『ナイン・ストーリーズ』の5番目、連作の真ん中に位置する短編である。九つの連作中もっとも短く、よくまとまった感動的な作品のように見える。いわれない中傷に傷ついた少年と彼を癒す若い母親の物語、として心地よい読後感をもたらす。ここに巧妙な謎が仕掛けられている、と考えることは無理ではないか、と思ってしまう。
この小説の焦点は、作品の最期に明かされる少年ライオネルの家出の理由であろう。ライオネルは泣きながら「サンドラがね___スネルさんにね___パパのことを___でかくて、だらしないユダ公だって___そう言ったの」とその理由を明かす。そして、母親ブーブー・タンネンバウムに「坊や、ユダ公ってなんのことだか知ってるの?」と聞かれたライオネルは「ユダコってのはね、空に上げるタコの一種だよ」と答える。「糸を手にもってさ」。この部分は素晴らしい!サリンジャーも素晴らしいが野崎さんの訳も素晴らしい!原文はこうなっている。
"It's one of those things that go up in the air" "With string you hold"
ライオネルはkikeとkiteを取り違えて答えたのだ。
この結末に至るまでのストーリーの展開は無理がなく、ライオネルとブーブーの母子についても自然に感情移入がされるような描写になっている。ライオネルの最初の家出は彼が二歳半のときだった。ネオミという女の子が魔法瓶に蚯蚓を飼っていると聞いたことがその原因らしい。それからは定期的に家出を繰り返した。公園でどこかの子供に「臭い」と言われて家出し、見つかったのは夜中の十一時十五分過ぎで、凍死しかけたこともあった。もっとも家出といっても、自宅からそんなに遠くには行かなかったし、自宅のあるアパートの入り口で「お父さんにさよならを言うんだって頑張ってた」こともあった。一連の経緯はブーブーとメードのサンドラ、家事を手伝っているらしいミセス・スネルの三人の会話で語られる。晩秋の湖畔の別荘地の平穏な日常の出来事のようである。ドラマチックなことはなにも起こらなかった。
珠玉の掌編ともいえるこの小説の中で、しいて違和感がある部分を探すとすれば、冒頭から繰り返されるサンドラの「あたしゃくよくよしないよ」という言葉であろう。たかが四歳の男の子に立ち聞きをされたからといって、何故そんなに気にするのか。それから、現在四歳の男の子が二歳半のときから「定期的に」家出を繰り返すということも、常識では考えられないことではないか。その他にもいくつか少しだけ疑問をいだかせるような場面があるのだが、なかでも、「ブーブーは『ケンタッキー・ベーブ』を歯笛に吹きながら歩いて行った」という表現がよくわからない。なぜ「歯笛」なのか?「口笛」ではなくて。原文はこうなっている。
She walked along whistling "Kentucky Babe" through her teeth.
「ケンタッキー・ベーブ」とはどんな歌なのだろう。
連作の折り返し点に位置するこの小説は、それなりの役割をもつのだろう。平和な日常のほほえましい母と子の交流が描かれ、しかし、この後すぐ「エズミに捧ぐ」では、戦時下の不思議な邂逅とその痛ましい後日談が記されるのである。
まだ発表できる段階になっていない文章ですが、あまり長く書かないでいると、書くことができなくなってしまうのではないかという不安に襲われます。途中経過そのものの文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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