自転車とスパナの謎は解けないままだが、「名のある河の主」の登場について、ひとつ気になることがあるので、本筋にあまり関係ないかもしれないが、少し書いてみたい。
「名のある河の主」登場から退場の場面は、能「翁」と「三番叟」を下敷きにしているものと思われる。突拍子もないことをいうようだが、この作品の作者は、たんに日本の神話に詳しいだけでなく、民俗学(折口学?)にも相当の造詣を持つ人ではないか。
センとリンが「オクサレサマ」を迎えた「大湯」のしつらえは、壁面に松の古木を描いた能舞台そのものである。松は神の降りてくる木と考えられていて、松の下で芸能を行うと、神が松を下って来て舞う。これがすなわち翁である、と折口信夫はいう。その松を「はやして」(分離して)持ち運び、舞踏の場(かならずしも舞台と限らない)に据え、舞う。いまでも、舞台正面に松の絵を描くだけでなく、その脇に本物の松の枝を据えている能舞台もある。
この「大湯」という能舞台に上がるのが、「オクサレサマ」の様相をした「名のある河の主」である。「オクサレサマ」あるいは「名のある河の主」は、降りしきる雨の中、太鼓橋を渡って油屋に向かう。悠揚迫らぬあゆみである。能「翁」の最初の詞章は、シテが直面で舞い、謡う
どうどうたらりたらりら たらりららりららりどう
ちりやたらりたらりら たらりららりららりどう
とあって、まったく意味不明だが、何となく、オクサレサマの様子をイメージできるのではないか。オクサレ神を大湯の間に案内して歩く千尋の後ろ姿も極端なガニ股で、普通の歩き方ではない。
「翁」「三番叟」は、いまは演じられなくなった「父尉」と合わせて「式三番」と呼ばれる。白い尉面を付けて舞う「翁」、黒い尉面をつけてふむ(舞う、とはいわないそうである)「三番叟」の順に演じられる。ストーリーはなく、シテの「所千代までおはしませ」から始まる言祝ぎの詞章が展開される。白い尉面をつけて舞う翁は、松から降りてきた神と考えられていて、装束も神々しく、舞うさまも厳粛、荘重である。それに対して黒い尉面をつけてふむ三番叟は、滑稽味を帯びて、動的だ。「日本藝能史序説」の中で、折口は、以前、「翁」の本芸にたいして、三番叟は「もどく」芸で、象徴的な白式尉の舞に平俗な説明を加えるものであると考えていたが、後になって考えてみると、この順序は逆かもしれない、といっている。
少し寄り道になるが、折口の説明に耳を傾けてみたいと思う。折口は「でもんとかすぴりっととか言ふ、純粋な神でない所の、野山に満ちているあにみずむの當體、即、精靈の祝福に来る事が、まづ考へられるのである。」という。ただし、精霊たちは、最初から人間を祝福しに来るものではない。人間に居場所を奪われた精霊たちは、常に悪意を持って反抗しようとしている。だから、機会あるごとに、人間は精霊を押さえつけて、服従を誓わせ、逆に自分たちを祝福しに来させるようにした。こういう低い神々が、時を経て出世してくる。アニミズムの対象であったものが、神社に祀られてくる、と折口はいう。すなわち、発生の順としては、精霊の表徴化された黒尉の三番叟が先である、と。
要約の仕方がたどたどしくて、我ながら浅学を恥じるばかりだが、敢えて、折口に語らせたのは、黒尉の翁のふむ演技に注目したいからである。三番叟では、最初は直面で、次に黒尉の面をつけて、次第に高潮して演じられるのだが、この時、鈴を渡されて踊るのだ。扇をかざし、鈴を振ってダイナミックに踊るそのさまは、抗う精霊たちを何としても屈服させようとする所作である。同時に精霊たちの抗うさまにも見える。鈴は、抗う精霊たちを引き寄せ、また、屈服させる両義的な機能をもつ道具なのではないか。そして、「セン」と呼ばれる千尋を「手下(ハクの表現である)」にした「リン」の正体は「鈴」ではないだろうか。
もうひとつ黒尉の翁の演技で特徴的なのが、文字通り「ふむ_踏む」所作である。地中の精霊を踏みつける動作が様式化されて繰り返される。この動作が作品中映像化された場面がある。小さな鼠に姿を変えられた「坊」がやっている。傷ついたハクがニガヨモギの団子を飲み込んで、銭婆から奪った契約印を吐き出したときに、契約印と一緒にハクの口から黒い、タールのようなものが出てくる。生き物のようにピョンピョン跳ねるその物体を千尋が踏みつぶすと、それが土間に流れ落ちて、不思議なかたちの黒い跡(これの正体がこの作品の謎を解く重要な鍵である)ができる。それを「坊」がたくさんの煤(ススワタリというそうだ)に囲まれた中で、踏みつけるのだ。歌舞伎の「見得」のようにも見えるが、黒尉の「ふむ_踏む」所作なのだろう。
最後にもう一度大湯という能舞台に戻って考えてみたい。この舞台の登場人物はいうまでもなく、千尋と「名のある河の主」である。酸鼻をきわめる「オクサレサマ」を迎えた千尋が、描かれた松の木の根本をたたくと、はめ込まれていた戸が倒れて、薬湯の札を掛ける紐が垂れてくる。千尋がそれに札を引掛けると札が窯爺に届く。そうして、千尋が湯舟の上に垂れ下がった紐を引っ張ると、神の降臨ならぬ大量の薬湯が上から落ちてくる。千尋は濁流にのまれてしまうが、濁流の中から腕のようなものが伸びて、千尋をすくい上げる。その後、「油屋一同心をそろえて、イヤー、オ~レ」と銭婆に鼓舞され、皆で「オクサレサマ」の体に刺さっていた「トゲのような」自転車のハンドルを引き抜くと、様々な堆積物が押し出されてくる。
さらに千尋ひとり釣竿の糸のようなものを手繰り寄せている。千尋がそれを精一杯引くと、今度は下から清流が湧いて出て、千尋は再び呑み込まれてしまう。清流が流れ去ると、ハァーという声が洩れて、画面は真っ白な背景に木彫りの翁の面が浮き上がり、翁の面は「善哉」と一言いって、龍の姿になって去る。千尋の手にニガヨモギの団子が残されている。さて、この翁は白尉なのか黒尉なのか。いずれにしろ、能舞台から「翁」は去った。そして、千尋も「セン、そこをお退き!」と銭婆に言われて、舞台を下りる。「セン」はもしかして、翁の露払いをする「千歳」の役を演じたのだろうか。
舌足らずなのにくだくだした、達意とほど遠い文章で、さぞ、読みにくかったと思います。この「大湯の場」については、また別の角度から考察しなければならないと考えています。もう少し、時間がかかると思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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