2013年11月13日水曜日

大江健三郎『同時代ゲーム』亀井銘助と三浦命助___亀井銘助とは何か

 『同時代ゲーム』「第三の手紙 「牛鬼」および「暗がりの神」」では、亀井銘助と原重治という固有名詞をもつ人物二人が登場する。語り手の「僕」は、亀井銘助の子孫であり「村=国家=小宇宙」の最後の新生児だという小劇団の演出家との対話を通して、「村=国家=小宇宙」の「自由時代の終わり」、すなわち「村=国家=小宇宙」が外部世界に組み込まれていく過程を、ほぼ歴史的事実を検証するというかたちで語る。ここでは、「メイスケサン」と呼ばれ、「暗がりの神」と祀られることになった亀井銘助について考えてみたい。

 亀井銘助は、幕末に二つの一揆に関わり、その結果として「村=国家=小宇宙」を外部世界に開かれたものとしたことによって、つねに両義的な存在として語られる。そのモデルはおそらく南部藩に起こった「三閉伊一揆」と呼ばれる一連の一揆の指導者の一人であった三浦命助だと思われる。少し寄り道になるが、三浦命助の事跡をたどってみたい。亀井銘助という「メイスケサン」像を造型するために、大江健三郎は三浦命助という実在の人物から何を借りて、何を捨てたか。

 米作の最北限である南部藩は幕末に相次ぐ冷害に見舞われる中、放埓な藩政の結果による重税が課せられたため、しばしば一揆が起こった。最も有名なのが弘化四年(1847年)と嘉永六年(1853年)の一揆で、三浦命助は主に嘉永六年の一揆の頭人として一揆を指導した。

 三浦命助は文政三年(1820年)生まれ。元治元年二月十日(1864年3月17日)没。陸奥国上閉伊郡栗林村百姓で十歳頃遠野村で四書五経を習う。十七歳で秋田藩院内銀山に出稼ぎに行く。十九歳で帰村、結婚して、穀物、海産物の荷駄商いをする。三五歳ころまでに三男二女の親となる。

 嘉永六年栗林村集会に参加、北方の野田通から押し出した百姓一揆の頭人のひとりとなる。同じく一揆の頭人であった田野畑村多助らに協力して一揆を成功させ、十一月帰村、村の老名役となる。一揆成就の謝礼に仙台藩塩竈神社に代参、額を奉納し、帰途一揆に力添えをしてくれた盛岡藩重臣の遠野弥六郎に謝辞を述べる。

 帰村後、謀略を仕掛けられ、藩に拘留されたが、脱走して脱藩、仙台藩で修験道の当山派東寿院で修行、本山の免許を取るため京都に行く。京都で五摂家二条家の家来格となる。安政五年(1857年)帯刀し家来を連れ、盛岡領内に入ろうとしたところを捕らえられ獄につながれる。

 牢内から妻子へ処世の心得を書き連ねた帳面を四冊つくり送る。これは『獄中記』と称されるが、多様な商品作物や加工品をつくること、貨幣取得を心がけること、自分が死んだら江戸に出て豆腐屋を営むように、など生活のための実務的具体的な指示を妻子に与えたものである。ちなみに『同時代ゲーム』の中で劇中の亀井銘助が叫ぶ「人間ハ三千年に一度サクウドン花ナリ!」という言葉は『獄中記』では「人間ト田畑ヲくらぶれバ、人間ハ三千年ニ一度さくうとん花なり。田畑ハ石川らノ如し」と書かれている。

 命助は獄中で七年過ごし、維新前三年に牢死している。『同時代ゲーム』の亀井銘助は、実在した三浦命助の事跡をほぼそのままたどったように描かれているが、その人物設定は根本的に異なっている。三浦命助は苗字を許されているが、基本的に身分は百姓であり、また妻子をもっていた。一方、亀井銘助は少なくとも最初の一揆の時は十代の少年であり、妻子をもったとは書かれてていない。身分は武士である。亀井銘助が第一の一揆においても重要な役割を果たしたとされるのに対し、三浦命助は第一の一揆に参加したという記録はないようである。第二の一揆でも主導的な役割は担ったようであるが、参加した者が一万八千人に及んだという一揆の統制はグループでなされたようで、三浦命助個人の力で一揆が成功したというわけではない。また、作中亀井銘助は死して後、その戦略、思想において明治以後のいわゆる「血税一揆」と呼ばれる徴兵反対の一揆にまで影響を及ぼしたとされる。三浦命助はそのような反体制の思想はない。自分が死んだら松前で「公儀の百姓」になれとの遺言を『獄中記』にのこしている。

 だが、銘助と命助で決定的に異なるのは「一揆」というものに向かうその向かい方だろう。三浦命助は、第二の一揆後、脱走、脱藩して修験者となり、上京して二条家に接近するなど、大胆な行動をとるが(じつは三浦家は元来修験道とかかわりがあったのではないかと思われるのだが)、あくまで実直な生活者であり、家、家族の存続を第一義にしていた。そして、一万八千の群集が「小○」と書かれた旗(困る、の意)をかかげて行進するなどの祝祭的要素はあったにしても、一揆は生活、生存をおびやかす藩の悪政への抗議、要求を通すための手段であった。三閉伊一揆は徹頭徹尾「百姓一揆」なのである。

 それにたいして亀井命助が関わり、主導的な役割を果たしたとされる二つの一揆に関して「百姓」という言葉が使われることはない。『同時代ゲーム』では、そもそも一揆は、生活のために「村=国家=小宇宙」の人々が参加したようには書かれていない。第一の一揆は川下から押し寄せた一揆集団とそれを追跡してきた藩の武装集団との間に入り、その交渉、仲介の役割を亀井命助を中心とする「村=国家=小宇宙」の老人たちが果たす、というものだった。第二の一揆は第一の一揆の後新設された「軒別税」(人頭税)に対抗して起こされたと書かれ、そのこと自体は史実に即していると思われる。だが、作中「村=国家=小宇宙」と呼ばれる谷間の共同体は、その豊かな富の蓄積を狙われ、他の村の百軒分が一軒に課せられた、とある。現実の三閉伊の人々が軒別税が課せられることにより、生存が直接おびやかされた状況とは大きく異なるのだ。いったい『同時代ゲーム』で「一揆」と書かれる状況は何を指すのか。そして年若くして天才的な軍略家であり、天真爛漫なトリックスターとして描かれる「亀井銘助」とは何か。

 「亀井銘助」、かめいめいすけ、カメイメイスケ、と表音表記される人名に漢字を当てはめて考えてみよう。作中大江が谷間の村「アハヂ」にさまざまな漢字を当てはめたように。亀井、加盟、家名、仮名、下命、花明・・・・いまは変換キーを押すだけで際限もなく出てきそうだが、この辺でやめておこう。銘助、命助、明助、名助、盟助、迷助、鳴助とこちらも同じくまだまだ続きそうだ。だが、作者が「第一の手紙 メキシコから時のはじまりにむかって」で「「アハヂ」という音は、もともとこの音と意味を正当に結んでいた漢字の抹殺に費やされた、その情熱の量に見あう規模で反対方向にむかう、まぎれもない熱望の対象なのだ」と書いているのにならえば、「音と意味を正当に結ぶ」漢字とは「甕井冥助」なのではないか。語り手の「僕」は、「村=国家=小宇宙」と表記される谷間の村は、もともと外部世界から「甕村」と呼ばれていたことを知らされ、そこが死者のおもむく冥府とみなされていた可能性に気づく。そこで「メイスケサン」は「暗がりの神」となって祀られたのだ。

 若くして一揆のすべてを計画し、指揮した亀井銘助が「暗がりの神」として祀られるのはなぜか。ヒーローであり、犠牲者でもあった銘助は「闇の力を代表する」とされている。実在の三浦命助がその死後も素朴に人々の尊崇を集めているのと対照的である。たんに谷間の村が「甕村」と呼ばれ、常民からは禁忌の場所だったという理由だけではなく、私は、そこに、作者の大江が明文化していない事柄が隠されているのではないかと思う。亀井銘助を殺したのは「村=国家=小宇宙」の人々だったのだ。直接手を下さなくても、彼らは亀井銘助を見殺しにしたのだ。歓呼してエルサレムにイエスを迎えた群衆がイエスを十字架につけよと叫んだように。民衆はひとりの人間を英雄にまつりあげ、そして殺す。その後に神として祀るのだ。

 この章の中に「メイスケサンは天皇家の、すなわち太陽神の末裔とは逆の、闇の力を代表するからこそ・・・・」と記述があって、太陽神というキーワードと「第一の手紙 メキシコから時のはじまりにむかって」のメキシコについて再考しなければならないのだが、長くなるのでまた回をあらためたいと思う。メキシコこそは、太陽神崇拝と死の両義性に満ちた場所であるが。

 
 大変不出来な文章です。最後まで読んでくださってありがとうございます。

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