大江健三郎の文学を語るとき、「森の思想」あるいは「神話の森」という言葉を目にすることが多い。作者の生まれ育った故郷が作品世界の中に登場する「森」とかさなってイメージされるので、谷間を流れる川のすぐ隣に豊かな森林があるように誰もが想像するのではないだろうか。だが、地図をひらけばわかるように、日本の国土は折口信夫のいう「海やまのあひだ」のきわめて狭量な地域なのである。四国だけでなく、「森」という言葉から連想されるような、なだらかな平原に木々が群生する空間は北海道をのぞいて、ほとんど存在しない。「谷間の村」を囲む「森」は実際は「やま」と表現されるのがふさわしいのではないだろうか。「やまの思想」「神話のやま」ではいけなかったのだろうか。
『万延元年のフットボール』の森の風景は、まず、「獣のごときもの」と書かれる子供が排泄している光景とともに記述される。林道の両側に暗く茂った常緑樹がせまる中、若い農婦と子供と彼の黄色い排泄物の堆積が克明に描写される。やがてバスに乗り込んできた子供の剃りあげた頭を見た僕の妻は、自分たちが施設にあずけた赤ん坊の頭の瘤を連想して平静さを失ってしまう。僕と妻は逃れるようにバスを降りるのだが、森は人間に親和的な表情を見せることはない。僕は「めざましい朱色のヤモリの腹みたいな地肌」をあらわした赭土にさえ脅かされるように思うのだ。
露悪的なほど生々しく描写される「森」の様子は、どう考えても「森」ではなく「やま」のように思われる。だが「高台」「窪地」「谷間」という地形を示す言葉は頻繁にでてくるが、「やま」という言葉をこの作品に見出すことはできなかった。「谷間の村」を囲む自然は実際には「やま_山」もしくは「山林」と呼ぶべきなのだろうが、作者はかたくななまでに「森」と呼ぶのである。さらに、戦争中に徴兵を忌避して逃亡した男を「森」の隠遁者ギーと名づけ、ある種のアンチ・ヒーローとして登場させる。「山の隠遁者」と呼ばないのは、「山の隠遁者」では中世から連綿と連なる「世捨て人」の系譜に数えられてしまうからだろうか。世捨て人には変わりないのだろうが。
「森の隠遁者ギー」は、この後書かれる短編「核時代の森の隠遁者」の中で、荒野に呼ばわる預言者ヨハネのごとく「核時代を生き延びようとする者は/ 森の力に同化すべく ありとある市/ ありとある村を逃れて 森に隠遁せよ!」と叫んで壮絶な死を遂げる。続いて、「森の隠遁者」と入れ替わって「山の人」という言葉が「狩猟で暮らしたわれらの先祖」という短編の中に出てくる。それは非常に重要な言葉として括弧でくくられている。この短編には「みじめな獣」を追って放浪の生活をしているという一家が登場し、「山の人」と呼ばれる。犯罪の匂いが付きまとう彼らは、語り手の暮らすプチ・ブル的な住宅街に入り込んで、波紋をまき起こす。語り手の僕は何故かその「山の人」に脅えるのである。「山の人」と「森の隠遁者」とは対極の位置にあるようだ。
さて、バスを降りた僕と妻はジープを駆使して迎えに来た鷹四と出会う。「やぁ、菜採っちゃん」「ありがとう鷹」と挨拶を交わした三人は「森と谷間の中間にある」生家に向かうが、ジープに乗り込む前に僕は妻を誘って「谷間の人間が森全体でいっとう旨い水だという湧き水」を飲む。水は二十年前の子供の頃と同じ水として湧き出ているが、僕は子供のときの自分との同一性も連続性も喪って、水に峻拒されていると感じてしまう。かつて祖先たちを「チョウソカベ」から守り、谷間に定着の場を設けることを可能にした森は、いま「猜疑心とともに僕を看視している」のだ。森は意思をもつのか?
『万延元年のフットボール』の主人公は鷹四と蜜三郎と、そして「森」だろう。「森_もり_mori」という言葉の意味する者は何か。民俗学にもエコロジーにも還元できない、きわめて抽象的でありながら、同時にきわめて具体的な内容をもつ何かが「森」という言葉に託されているように思われる。
まだまだ読み込みが足りないので、備忘録にもならないのですが、今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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