2024年7月22日月曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__橄欖の森のあやしい音いろ

  燈台看守が配った苹果はジョバンニとカムパネルラのポケットにしまわれ、汽車は青い橄欖の森にさしかかる。

 「川下の向ふ岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る赤い円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標がたって、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじって何とも云へずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れてくるのでした。」

 橄欖の森は、白鳥の停車場から南十字星まで、銀河鉄道の旅のほぼ真ん中に当たる部分に位置する。『銀河鉄道の夜』はどの部分をとっても難解だが、とくに橄欖の森の場面はいつまでも解決のつかない謎にみちている。「橄欖の森」が何の寓意であるかは、私にとっては明らかで、橄欖=オリーブであることから、「オリーブ山」とほぼ同定している。旧訳の聖書ではオリーブ山を橄欖山と訳している。

 もっとも、「オリーブ」を「橄欖」と訳したのは中国語聖書の誤訳であるといわれているので、これもじつは橄欖の森をオリーブ山と同定することにゆらぎがまったくないわけはないのだが。

 問題は、「青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る赤い円い実がいっぱい」と書かれる「まっ赤に光る赤い円い実」が何を意味するのか、「その林のまん中」の高い高い三角標」はたぶん十字架のことだろうが、それでほんとうにいいのか、そしてまた、「オーケストラベルやジロフォンにまじって」流れてくる「何とも云へずきれいな音いろ」とは何か、皆目見当がつかないのだ。

 橄欖もオリーブもその実が「まっ赤に光る赤い円い実」をつけることはないので、この部分が何を指しているのかわからない。何かの比喩なのか、あるいは、実際は青や紫の実を「赤」と書いているのか。余談だが、賢治は色彩の表現、とくに「赤」にはこだわりがあるようである。この作品でも、ふくろうや蠍の眼を「赤」と書いているが、どちらの眼も実際には赤くない。

 続いて、

 「青年はぞくっとしてからだをふるふやうにしました。
 だまってその譜を聞いてゐると、そこらいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蠟のやうな露が太陽の面を捺めて行くやうに思われました。」

と書かれているのも不審である。まず第一に、「青年はぞくっとして」という叙述は青年の心理を内側から描写したもので、三人称の話法ではルール違反ではないか。一方「だまってその譜を聞いてゐると...」という文章は、主語がない。おそらく「ジョバンニが」という主語を示す部分が省かれていて、主語がなくても日本語は成り立つので、些細な事にとらわれる必要はないのかもしれないが。

 だが、何よりも、「何とも云へずきれいな音いろ」で「そこらいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物がひろがり、またまっ白な蠟のやうな露が太陽の面を捺めて行くやう」な光景を浮かびあがらせるような「譜」が青年を「ぞくっと」させるのはなぜか、いったいその「譜」は何だろう、という疑問の解決の糸口さえわからないのである。そもそも、青年の「ぞくっとした」と表現される心理の内容がわからない。たんなる「怯え」ではないだろう。

 初稿では、橄欖の森を「琴(ライラ)の宿」と呼び、橄欖の森を過ぎた後イルカ_イルカ座が登場する。琴座とイルカ座は、そのどちらもオルフェウス、アリオンという琴の名手を主人公とする神話を持つ星座であることから、「何とも云へずきれいな音いろ」は竪琴を鳴らす音だと思われる。だが、第二次稿以降はその部分はどちらも削除されてしまっているので、これもまた断定はできないのだが。

 このあと、少し唐突な感を覚えるのだが、天の川の河原にたくさんのかささぎが列をなしてとまっている描写が挿入される。かささぎといえば、

 かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける 大伴家持

が有名である。七夕に織女と牽牛の逢瀬のために天の川を填めて橋をなしたという伝承が想起されるが、そのことと青年をぞくっとさせる「あやしい音いろ」は関係があるのだろうか。

 「あやしい音いろ」が竪琴を鳴らす音であると仮定すると、前述したように、琴の名手オルフェウスの伝説に行きつく。オルフェウスは、毒蛇にかまれて死んだ妻エウリュディケーを取り戻しに冥界に入り、いったんは取り戻すことをゆるされたが、はやまって失敗する。妻を失ったオルフェウスは、女性との愛を断ち、オルフェウス教を広めるが、ディオニューソスの信者の女たちに八つ裂きにして殺される。ばらばらになったオルフェウスの首と竪琴は歌を歌いながら、投げ込まれた川をくだって海に出、レスボス島に流れ着いたといわれている。

 不思議なのは、オルフェウスの伝説もかささぎの七夕伝承も、どちらも恋愛の話なのである。なぜ、この時点で恋愛がテーマになるのか。橄欖山=オリーブ山であるとすれば、聞こえてくるのは、マタイ受難曲のたぐいのものではないだろうか。もしかしたら、オーケストラやジロフォンの奏でる曲はそれかもしれない。「あやしい音いろ」はそれにまじって、だがかき消されることなく聞こえてきたのだった。

 この後、汽車が橄欖の森を正面に見る位置に来たとき、汽車の中で起こった合唱はまぎれもなく讃美歌だった。第二次稿では詳しく歌詞を紹介しているが、有名な「主よみもとにちかづかん」である。

 「主よみもとにちかづかん
 のぼるみちは十字架に
 ありともなどかなしむべき
 主よみもとにちかづかん」

なぜか歌詞は第三次稿以降省かれ、讃美歌の番号も不明のままにされているが、汽車のうしろの方からこの讃美歌が聞こえてくる。ジョバンニもカムパネルラも一緒にうたいだしたが、かほる子と呼ばれる女の子はハンケチを顔にあててしまい、「青年はさっと顔いろが青ざめ、立っていっぺんそっちへ行きそうにしましたが思ひかへしてまた座りました。」と書かれる。青年は讃美歌を歌ったのだろうか。

 またしても謎は謎のままで、かえって深まるばかりです。この後、遠くになって緑いろの貝ボタンのように小さく見える橄欖の森の上に登場する孔雀についても書きたいのですが、もう少し時間がかかりそうです。

 ここまで書いてきて、橄欖の森=オリーブ山と同定するならば、もう少し深くオリーブ山について考えなければいけないことに気がつきました。たんに、イエスが十字架にかけられる直前に祈ったゲッセマネがそのふもとにあり、復活のイエスが昇天したのがその頂であるというだけで、橄欖の森_オリーブ山がこの作品の肝ともいうべき部分に登場するのではないように思います。そのことを書くかどうか、迷っています。『銀河鉄道の夜』論、あるいは宮沢賢治論を根底から検討し直すことにつながるかもしれず、軽々に文章にできないのが現状です。

 いま、私が立てている仮説が正しいならば、「まっ赤に光る赤い円い実」と「高い高い三角標」の意味するところも分かるような気がするのですが、むしろ、その仮説が間違っていてほしいような矛盾した思いがあります。

 混乱を極めた文章を、最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2024年7月2日火曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__燈台看守が配る苹果

  プリオシン海岸の発掘現場を後にして、再び汽車に乗ったジョバンニの隣に不思議な人物が座る。天の川に帰って死ぬ間際の鳥を捕まえて「からだに恰度合ふほどに稼いでゐる」鳥捕りである。鳥捕りについては以前「ケンタウロス_生の軛」というサブタイトルの投稿で触れたので、ここでは詳しく語らないが、ジョバンニがその人を見て「なにか大へんさびしいやうなかなしいやうな気がし」たこと、その人が、ジョバンニが車掌にわたした紙切れを横目で見て「ほんたうの天上へさへ行ける」「どこでも勝手に歩ける通行券」とほめだしたこと、そしてジョバンニはその鳥捕りが気の毒になって「ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこのひとのほんたうの幸いになるならじぶんがあの光る天の川の河原に立って百年つゞけて鳥をとってやってもいゝといふやうな気がし」たことを覚えておきたい。

 とくに、ジョバンニ自身も不可解な「いちめん黒い唐草のやうな模様の中に、をかしな十ばかりの字を印刷した」紙切れを解読したのが鳥捕りだったこと、さらに、鳥捕りが、これがあれば「こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこでも行ける筈」とまで断言していることは忘れてはならない。ジョバンニの持っていた紙切れは、独断と偏見で推測すれば、何かの護身符の役割をするものだったと思う。そしてそれは、後に登場する孔雀と関連するのではないかと考えている。

 鳥捕りが姿を消すのと入れ替わりに、苹果と野茨の匂いがして、「つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子」と「黒い服をきちんと着たせいの高い青年」、「十二ばかりの眼の茶色な可愛らしい女の子」が登場する。氷山にぶつかって沈没したタイタニック号を思わせる客船に乗っていて、船とともに沈没した三人連れらしい。黒服のせいの高い青年は二人の子どもたちの家庭教師で、一足先に帰国した父親のあとに子どもたちを連れて本国に帰るための航海だった。

 船が沈んでいくなかで、青年は葛藤する。子どもを含む他の客をおしのけて、二人の子どもたちを救命ボートに乗せて救うか、それとも、このままみんなで神の前に行くほうが子どもたちの本当の幸福なのか。「神に背く罪」は自分ひとりで引き受けて、子どもたちはぜひとも助けてあげよう、と思いながらどうしてもそれができず、船はどんどん沈んでいく。青年は覚悟して子どもたちを抱いて沈む船と運命をともにしたのだった。

 ちょっと不思議なのは、青年の話を聞いたジョバンニの反応である。青年の話のあと、汽車の中では「小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れてゐたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱くなりました。」とあるが、ジョバンニはどんなことを思い出したのだろう。

 (あゝ、その大きな海はパシフィックといふのではなかったらうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、だれかが一生けんめいはたらいてゐる。ぼくはそのひとにほんたうに気の毒でそしてすまないやうな気がする。ぼくはそのひとのさいわひのためにいったいどうしたらいゝのだらう。)

 ジョバンニの関心の中心は、自分の行動の当為を問う青年の葛藤や、生死を分けた乗客の運命ではなかった。北の海の厳しい自然とたたかいながら労働する人たちを思って、その人たちのために何ができるかを自分に問うている。そして、何もできないでいることで自責の念にかられている。

 青年の話をひきとったのは、燈台守だった。燈台守は「尖った帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げ」、ジョバンニとカムパネルラの向こうの席に座っていた。燈台守は青年をなぐさめて言う。

 「なにがしあわせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから」

 汽車はきらびやかな燐光の川岸を進み、対岸の野原は「まるで幻燈のやう」と書かれているが不思議な光景である。「百も千もの大小さまざまの三角標」が野原のはてに集まってぼおっと青白い霧のやう」で、どこからか狼煙のようなものが桔梗色のそらにうちあげられる。風はばらの匂いでみちている。

 それから、燈台看守は、ひともりの金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を配る。

 少し違和感を覚えるのは、これ以降「燈台守」が「燈台看守」と書かれることである。なぜ「看」という文字を入れたのか。「看守」とは、牢獄の番人である。「大きな鍵を腰に下げ」ているのは囚人を管理するためだろう。「燈台看守」という呼称は当時一般的だったのだろうか。船の航行を見守るのに「大きな鍵」はいらないと思うのだが。

 苹果を最初に受け取ったのは青年で、次にカムパネルラが「ありがとう」といったので、気がすすまなかったジョバンニも青年から送られた苹果を受け取る。この苹果が、というより、苹果について語る燈台看守のことばがまた不思議なのだ。

 こんな立派な苹果はどこでできるのか、という青年の問いに燈台看守はこの辺ではひとりでにいいものができるので苦労がない、と答える。不可解なのは、その後の燈台看守のことばである。

 「けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかおりになって毛あなからちらけてしまふのです。」

 農業がない即ち人間が耕して作物をつくることがない、ということと、食べ物にかすが生じないということがどうして結びつくのか。さらに、苹果やお菓子が「そのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかをりになって毛あなからちらけてしまふ」とはどういうことなのか。ここでいう「苹果やお菓子」は『注文の多い料理店』の序にある「あなたのすきとおったほんたうのたべもの」にあたるのだろうか。なんとなく観念的にはわかるような気がするが、わかる、と安易に言ってはいけないように思う。「毛あなからちらけてしまう」という表現が妙に生々しい。

 注目すべきは、燈台看守がくれた苹果を、青年たち一行は食べ、ジョバンニとカムパネルラの「二人はりんごを大切にポケットにしまいました。」と書かれていることである。ジョバンニが苹果を受け取りたくなかったのは、燈台看守に「坊ちゃん」と呼ばれたのが面白くなかったからとされている。だが、第二次稿では、青年たち一行(第二次稿では五人)が五つの苹果をきらきらのナイフでむいているのを見たジョバンニが、心の中で「僕はあゝいふ苹果を百でももってゐるとおもひました。」と書かれているのだ。「あゝいふ苹果」とはどういうりんごか。

 燈台看守から声がかかったとき、こだわりなく受け取ったカムパネルラも苹果を食べなかった。苹果を食べるという行為の意味するものは何だろう。それから、これもまた些細なことにこだわるようだが、「苹果」と「りんご」の表記のちがいに何かの意味があるのだろうか。男の子が夢のなかで「立派な戸棚や本のあるとこ(それは普通の家庭の居間だろうか)に居たおっかさん」に「りんごをひろってきてあげましょうか」というときも「りんご」と記されているのだが。

 燈台看守の配る苹果の意味を考えるとき、誰でも思い浮かべるのは旧約聖書の創世記第三章だろう。蛇が女にすすめてエデンの園の中央にある禁断の「善悪を知る木」の実を食べさせ、夫にも与える。このことが神に知れて、女と男はエデンの園を追放され、神は「善悪を知る木」と同じく園の中央にある「命の木」を守るためにケルビムと回る炎の剣を置いた、と書かれている。

 さて、「金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果」は「善悪を知る木」の実だろうか。また、「燈台看守」はケルビムだろうか。「燈台」は航海する船の安全を守るためでなく、「善悪を知る木」に近づく者を発見するための光を照らしているのだろうか。「回る炎の剣」あるいはそのメタファーは、この後『銀河鉄道の夜』に登場するだろうか。

 そしてまた、「燈台看守」は蛇だろうか。「善悪を知る木」の実を青年たち一行に与え、同時に「命の木」に近づく者を発見して、遠ざけるという両義的な役割をもつ存在が「燈台看守」だろうか。

 このように、「燈台看守」と苹果のモチーフを考えるとき、創世記第三章には重要なヒントが隠されていると思うのだが、創世記第三章後半にはこう書かれている。

 17.更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、
    地はあなたのためにのろわれ、
    あなたは一生、苦しんで地から食物をとる。
 18.地はあなたのために、いばらとあざみを生じ、
    あなたは野の草を食べるであろう。......

 23.そこで神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。

 旧約聖書の世界では、農業は神が人間に定めた苦役だったのである。燈台看守が「あなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。」といったのは、青年たち一行は苦役から解放され、エデンの園に戻ることができることを示唆したのだろうか。苹果が「善悪を知る木」の実であるとすれば、ここには大きな矛盾があると思うのだが。

 あるいは、青年たちが向かうのは、「苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかおりになって毛あなからちらけてしまふのです。」という不思議な言葉の具現する世界であって、エデンの園とは違う場所なのだろうか。

 『銀河鉄道の夜』のなかでは、不思議な人物が不思議な言葉を発する。プリオシン海岸の発掘現場の学者然り、苹果を配る燈台看守然り。おろかな私は、それらの言葉を自分の経験の範疇で理解することができない。混乱の中で思考が堂々巡りして、解決の糸口が見つからないのだが、燈台看守と苹果のモチーフについては、創世記第三章を手掛かりに模索してみた。

 この後汽車は対岸に青い橄欖の森が見える場所にさしかかる。森の方からきれいな音楽が流れ、汽車の中では、ジョバンニやカムパネルラも一緒になって、讃美歌が合唱される。この青い橄欖の森と、その上で羽を光らせる孔雀については、また次回考えてみたい。どこまで考察できるか、はなはだ心もとないのだが。

 苹果と野茨の匂いとともに汽車に乗り込んできた青年と子どもたちは、あきらかにキリスト教のエートスを身にまとっているが、しかし賢治の視線は単純ではない。「ハレルヤ」を「ハルレヤ」と表記したり、橄欖の森を正面に見る汽車の中で合唱される讃美歌(第二次稿では、「主よみもとにちかづかん...」と特定されるが)が特定されない、など微妙に曖昧なのである。

 たんに『銀河鉄道の夜』の疑問点を書き出しただけになってしまいました。未整理で未熟な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2024年6月10日月曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__「牛」というモチーフ__届かない牛乳とカムパネルラの死

 ジョバンニとカムパネルラを乗せた銀河鉄道の汽車は、白い十字架を通り過ぎた後、白鳥の停車場に「十一時かっきりに」着く。停車場の時計に二十分停車」と書いてあって、乗客はみな降りてしまう。二人も飛ぶようにして降りて、天の川の河原に来ると、「プリオシン海岸」という標識が立った白い岩が川に沿って平らに出ている。そこは「ボス」と呼ばれる「大きな大きな青白い獣の骨」の発掘現場だった。発掘を指導していた学者は、ここは百二十万年前は海岸だった、といい、カムパネルラが途中でひろった大きなくるみも百二十万年前のものだという。

 不思議なのは、蹄の二つある足跡のついた岩やくるみを「標本にするんですか。」という問いにこたえた学者のことばである。

  「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらゐ前にできたといふ証拠もいろいろあがるけど、ぼくらとちがったやつからみでもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。」

 『銀河鉄道の夜』は謎に満ちているが、この言葉は私にとって最大の謎である。「厚い立派な地層」の年代が「百二十万年」前かどうかを証明するのではなく、「厚い立派な地層」が「風か水や空」に見えないことの証明が必要なのである。

 私たちは、少なくとも同じ時点では、同じものを同じように見ているのではないか。「プリシオン海岸」という標識が立った白い岩という実体が、「風か水や空」に見える可能性はあるのだろうか。そもそも「風」は見えるのか。

 プリオシン海岸のエピソードは賢治の実体験にもとづくもので、『銀河鉄道の夜』に後から挿入されたといわれている。たしかに、ここは、作品全体をつらぬく倫理的、求道的な息苦しさから解放される部分であり、他のエピソードと異質なものがある。しかしそれは、この後に展開される「ほんたうの幸い(それはほんたうの正しさ」といってよいと思うが)とどのような関係があるのだろうか。

 結論からいえば、プリシオン海岸のエピソードは、キリスト教を基調とする全体の展開に後から付加されたものではなく、むしろ、当初から賢治のなかに「牛」というモチーフが存在していたのではないか。モチーフの形成には、賢治自身が北上川河畔で、農学校の生徒たちと一緒に偶蹄類の化石の発掘に参加した実体験も大いに影響を与えていたと思われるが、それだけではない。キリスト教、とくに原始キリスト教と牛の関係は看過できないものがある。

 以前のブログでもふれたが、原始キリスト教と「聖牛」を仲立ちにして複雑な関係にあるのがミトラ教である。ミトラ教については、その信者の多くが下層階級の庶民や軍人、あるいは海賊であったため、資料とされるものに乏しく、実態がよくわからない。秘密に祭儀を行う「密議宗教」であったといわれているが、牡牛を屠る太陽神ミトラの像が有名である。ミトラが牡牛を殺し、信者はその血を浴びることによって、歓喜し陶酔状態になる。牡牛を屠る英雄神ミトラがメシア信仰とむすびつき、ミトラがメシア_キリストと同一視されるようになったという説がある。

 そもそもミトラ教の起源、歴史は確実な考証がされているとは言い難い状況なのだが、原始キリスト教がミトラ信仰を取り込んで、融合というか習合していったのは確かだと思われる。。その過程で、殺された牡牛ではなく、殺したミトラ神が救世主キリストとして崇められるようになった。牡牛の「血の贖い」を支点にして、ここには非常に狡猾な顛倒がある。

 『銀河鉄道の夜』冒頭の「午後の授業」で、まず、先生は、天の川を「巨きな乳の流れ」にたとえ、その星を「乳のなかにまるで細かにうかんでゐる油脂の球」に当たると言っている。牛の乳が望遠鏡でしか見ることのできない天の川にたとえられ、そのなかの星は逆に顕微鏡でしか見えない乳脂にたとえられている。『銀河鉄道の夜』の構造自体が「巨きな乳の流れ」であり、「大きな大きな青白い獣」のモチーフに包摂されているとは言えないだろうか。ジョバンニが母親のために「届かない牛乳」を取りに行くというプロットが偶然に用意されているものでないことはいうまでもない。

 ジョバンニは、「白い布を被って寝んで」いる母親のために、牛乳をもらいに牧場の「黒い門」を入り、うすくらい台所に出てきた「赤い眼」の女のひとに「いま誰もゐないでわかりません。」と拒まれる。だが、銀河鉄道の旅の夢からさめて、ふたたび「ほの白い牧場の柵」をまわって牛舎の前に来ると、今度は「白い太いズボン」をはいた人が出て来て、まだ熱い乳の瓶を渡してくれる。この変化をもたらせたものが、銀河鉄道の旅であり、ジョバンニの経験だが、では、具体的にジョバンニに何が起こったのか。

 ジョバンニに起こった最も深刻なできごとは、これもまた、いうまでもなくカムパネルラの消失である。それは夢のなかだけでなく、(たぶん)現実であった。カムパネルラの死が、ジョバンニに届かなかった牛乳を「まだ熱い瓶」に入れて届けてくれた、とすれば、その死は何を意味するのだろう。カムパネルラはなぜ死ななければならなかったのか。カムパネルラの死を、たんにひとこと「犠牲」ということばですませてしまえるだろうか。そもそも「犠牲」という言葉のなかに牛が二匹いるのだが、カムパネルラの死と「まだ熱い乳の瓶」は、何かもっと生々しい経路でつながれているような気がする。

 『銀河鉄道の夜』の初稿から最終稿とされる第四稿まで、どれだけの年月が流れたのかわかりませんが、その生涯の最期まで決定稿を完成させられなかったというところに、賢治の苦闘の跡を見る思いがします。だからこそ、『銀河鉄道の夜』は汲みつくせぬ魅力と読者をひきつけてやまない磁場をもっているのでしょう。非力な私は、ほんの少々のキリスト教の素養しかなく、賢治の信仰していたという法華経はじめ仏教についてまるで何もわからないので、いつまでも堂々巡りの思考の罠からぬけだせないような気がします。前回、「橄欖の森」と「灯台看守」そして「孔雀」について書く、といいながら、「白鳥の停車場」であまりにもながく停まってしまったように思うので、ここでいったん「牛」というモチーフから離れて、次回は「灯台看守」の役割を中心に考えてみたいと思います。

 今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2024年6月2日日曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』___十字架と苹果の旅__白い十字架

 『銀河鉄道の夜』に限らず宮沢賢治の作品を読んで、「自己犠牲」をテーマに論じる読者が多い。以前私自身も「ケンタウルス、牛殺し_生の軛」というタイトルでこの作品について書いたとき、カムパネルラの死を「自己犠牲でなく犠牲」として論じた。烏瓜でつくった灯籠を川にながし、「星祭り」という美しいことばでよばれる「ケンタウル村」の祭りに秘められた本質の象徴が「犠牲」である、と仮説をたててみたのだが、それでよかったのかどうか、ジョバンニとカムパネルラの旅を振り返って、もう一度考えてみたい。

 銀色のすすきと青や橙やさまざまな色にちりばめられた三角標の光がちらちら揺れ動くなか、銀河鉄道の小さな汽車が走る。線路のへりに咲いた紫のりんどうの花が次から次へと過ぎ去っていく。ところでこの「三角標」がどういうものなのか、じつは私はよくわからない。銀河鉄道の旅のいたるところに登場するが、どのような標識なのだろうか。

 旅の始まりに、カムパネルラの「母のゆるし」と「ほんたうの幸い」の葛藤を告白されたジョバンニが「「ああ、さうだ。ぼくのおっかさんは、あの遠いちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考へてゐるんだった。」と心の中で思っているので、三角標は現実世界の何かに対応するのだろう。

 そして、旅の出発点の前と終着点の後に登場する「天気輪の柱」はもっとわからない。こちらは天上の世界とつながるものを意味すると思われるが、三角標よりイメージをむすぶことが困難である。

 りんどうの花と三角標の列に迎えられて始まった二人の旅が最初に出会ったのは「ぼぅっと青白く後光の射した一つの島」とその平らないただきに立った「立派な目もさめるやうな白い十字架」だった。カムパネルラが「母のゆるし」と「ほんたうの幸い」の葛藤から「ほんたうの決心」を告白すると、俄かに、車のなかがぱっと白く明るくなる。「金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたやうな」きらびやかな銀河のまん中に小島があって、そこに十字架が見える。「それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいゝか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しづかに永久に立ってゐるのでした。」と書かれている。きらびやかにして清浄無垢、荘厳な世界の出現である。

 「ハルレヤ、ハルレヤ。」の声が起こり、乗客はみな十字架に向けて祈る。ジョバンニとカムパネルラも思わず立ちあがる。「カムパネルラの頬は、まるで熟した苹果のあかしのやうにうつくしくかゞやいて見えました。」

 白い十字架と赤い苹果、「ハルレヤ(ハレルヤでないことに注意)」の声と祈り、絵にかいたようなキリスト教の光景である。銀河鉄道の旅の基調にあるものが、キリスト教の世界であることは多くの人が指摘するもので、私も異論はないが、あえて、ひとこと言えば、この場面で描かれる「キリスト教」の世界は、あまりにも完璧に予定調和のそれである。「キリスト教」の象徴として「十字架」は、こんなに清浄無垢で荘厳、もっと言えば無機的に輝く存在だろうか。

 イエスの十字架は、この上なくむごたらしく血にまみれた実在の杭である。そのことを十分理解していたと思われる賢治は、なぜ十字架をこのように描いたのか。

 おそらく、賢治がこの十字架(白鳥座の北十字星のことであると言われる)を荘厳無垢に描いたのは、ここを、誰も足を踏み入れることなく、ひたすらな祈りがささげられる対象として措定したからではないか。旅人たちは「しづかに永久に立ってゐる」十字架に祈る。だが、汽車は止まることなく、乗客はみな車内で祈りをささげ、白鳥の島が「絵のやうになって」ついにすっかり見えなくなってしまうと、旅人たちは「しづかに席に戻り」、ジョバンニとカムパネルラも、「胸いっぱいのかなしみに似た新しい気持ちを、何気なくちがった詞で、そっと談し合ったのです。」

 白鳥座の十字架から、南十字星の十字架まで、銀河鉄道は走る。じつは十字架、というか十字架を暗喩するものは旅の途中でもあらわれ、それは非常に重要な問題を提起しているものだが、それについては、また回をあらためて考えてみたい。私見では、物語の後半に登場する「橄欖の森」がそれであると考える。また、苹果、とくに「燈台看守」が配る「金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果」についても考察を試みたい。どちらも、容易に作者の肉声を聞くことが拒まれているような気がして、難問である。カムパネルラの死と、タイタニック号の乗客の死、そして、蠍の死、これらと、十字架、苹果の両義的で複雑な関係を解きほぐす糸口だけでもみつかればいいと思っている。

 ここまで書いてきて、誤解のないように、あえて、いわずもがなのことを言っておきたい。私はこの作品をキリスト教のプロパガンダとして読むつもりはまったくない。他の宗教も同様である。それは、決して賢治の本意ではなかったと考える。根源的でありながら複雑で矛盾に満ちた生の本質に迫り、その過程での実践を模索するために、賢治は書き続けたのだと思っている。

 相変わらずまとまらなくてたどたどしい文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2024年5月23日木曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__カムパネルラという存在とその消失の意味するもの__「母」のゆるしと「ほんたうの幸い」

  『銀河鉄道の夜』について、以前「ケンタウルスー牛殺しー生の軛」というタイトルで投稿した。そこで繰り広げたテーマは核心の一部をついていた、という自負はないではないが、この複雑で重層的な作品のより重要な部分を取り残してと感じるもどかしさがあって、それが何か、言葉につむぎだせにままに無為に五年の時が流れてしまった。

 五年の間に断続的に、初稿から最終稿まで増補、削除の大胆な編集を経てきたものを順不同で読んできた。そのいずれの稿にも共通しているのは、「カムパネルラ」の存在であり、その突然の消失である。主人公ジョバンニは気がついたら銀河鉄道に乗っていて、そこにはすでにカムパネルラがいた。そして、カムパネルラが消えると、ジョバンニは銀河の夢からさめて、もとの草の上で胸を熱らせ、つめたい涙をながしていたのだった。「カンパネルラ」とは何か。

 カムパネルラのモデルについてはさまざまなことがいわれているが、重要なのはモデル探しではなく、「カムパネルラ」」という存在が作品の中で、とくにジョバンニとのかかわりにおいて、どのように描かれているかを検討していくことだろう。

 カムパネルラは作品冒頭「午後の授業」の章の登場する。銀河について先生に指名され、立往生しているジョバンニを慮って、カムパネルラはわかっている答えを答えなかった。裕福な家庭に育ったカンパネルラは、父親の書斎から「巨きな本」をもってきて、「ぎんが」の美しい写真をジョバンニに見せてくれたのだから、答えられないはずはない。その時一緒に写真を見たジョバンニだって銀河を知らないわけではなかったのに、このごろのジョバンニは学校の前後にする労働がつらくて、授業中ぼぉっとしている。ジョバンニは病気の母親の面倒をみながら、不在の父親に代わって働かなければならないのである。

 ジョバンニは活版所で活字拾いをして一日銀貨一枚をもらうのだが、現場でひそかな冷笑の対象となっている。それだけでなく、学校の仲間からもからわれ、いじめられている。カムパネルラはそんなジョバンニを気の毒そうに見ているが、積極的にかばってくれるわけではない。カンパネルラとジョバンニは父親同士が友達だったようで、ジョバンニは父親が一緒にいたときは、父親に連れられてたびたびカンパネルラの家に寄った、とある。ジョバンニとカムパネルラは、そこでレールを七つ組み合わせて円くした線路の上をアルコールで走る汽車で遊んだこともあったのだが。

 「ケンタウル祭」とよばれる「銀河のお祭り」の日、ジョバンニは病気の母親が飲む牛乳が届かなかったので、牛乳屋にとりにいく。空気は澄みきって町は美しく飾られ、子供たちは楽しそうに遊んでいるが、途中で会ったいじめっこのザネリに、「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」と嘲笑されたジョバンニの心は沈んでいる。そして、牛乳屋にいくと、「赤い目の下をこすりながら」あらわれたどこか具合が悪いような年取った女の人に、いまは誰もいないので、後にしてくれと言われてしまう。

 牛乳屋の台所から出たジョバンニは町で再びザネリに合う。ザネリはまたさっきと同じように「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」と叫び、今度は一緒にいた同級生の子たちも続いて叫ぶ。そのなかにカムパネルラもいたのだった。カムパネルラはだまって、ジョバンニを気づかっているようだったが、みんなと一緒に口笛をふきながら、橋の方へ歩いて行ってしまう。「なんとも云へずさびしくなって」ジョバンニはいきなり走り出し、町を離れて「黒い丘の方へ」向かう。

 以上の経緯は「午後の授業」の教室での出来事を除いて、第三次稿と第四次稿に共通しているが、第三次稿により詳しい。ジョバンニの父親が密漁船に乗っていて、誰かを怪我させて監獄に入っているという噂があること。そのためにジョバンニはいじめっこのザネリにからかわれ、同級生から疎外されていること。母親は生活のために無理な労働をして体をこわしてしまったこと。母親の面倒をみながら働くジョバンニの労働のつらさ。それらが具体的に生き生きと描かれているが、第四次稿とくらべて、より多く精緻に記述されているのが、カンパネルラへの思いである。

 牛乳屋で「今日はもう牛乳はない」と断られたジョバンニの悲しみは

(今日、銀貨が一枚さへあったら、どこからでもコンデンスミルクを買って帰るんだけれど。ああ、ぼくはどんなにお金がほしいだろう。青い苹果だってもうできてゐるんだ。カムパネルラなんか、ほんたうにいいなあ。銀貨を二枚も運動場で弾いたりしてゐた。
 ぼくはどうしてカムパネルラのように生まれなかったらう。カムパネルラなら、ステッドラーの色鉛筆でも何でも買へる。それにほんたうにカムパネルラはえらい。せいだって高いし、いつでも笑ってゐる。一年生のころは、あんまりできなかったけれども、いまはもう一番で級長で、誰だって負ひつきやしない。...)

と、カムパネルラへの羨望にかわっていく。そのカムパネルラまでが、ザネリたちと一緒に口笛を吹いて遠ざかっていってしまう。それを見たジョバンニはいきなり走りだして、町を離れ、黒い丘に登っていく。丘の上のつめたい草に寝て、ジョバンニは天の川を見ながら考える。

 (ぼくはもう、遠くへ行ってしまひたい。みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行ってしまひたい。それでも、もしカムパネルラが、ぼくといっしょに来てくれたら、そして二人で、野原やさまざまの家をスケッチしながら、どこまでもどこまでも行くのなら、どんなにいいだらう。...ぼくはもう、カムパネルラがほんたうにぼくの友だちになって、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやっていい。...)

 だが、第三次稿で縷々と綴られるジョバンニのカムパネルラへの切ない思いは、最終稿ではばっさりと切り捨てられ、カムパネルラその人の姿が現実的に描かれる。最終稿に登場するカムパネルラはいつも「気の毒さうに」しているが、ジョバンニをかばってくれるわけではない。カムパネルラは「だまって少しわらって」いじめられているジョバンニが自分のことを「怒らないだらうかと」見ているだけだった、とある。何もしないことでいじめに加担しているカムパネルラの姿を等身大に描写しているのだ。

 そのカムパネルラが銀河鉄道に乗っている。ジョバンニより先に乗っていたらしく、ぬれたようにまっ黒な上着をきて、窓から頭を出して外を見ていた。カムパネルラは「銀河ステーション」でもらった黒曜石でできた地図と切符も持っているので、正式な乗客である。銀河鉄道の「小さなきれいな汽車」に乗って、ジョバンニとカムパネルラの旅は始まる。現実に存在していたジョバンニとカムパネルラの距離は一気に縮まって、カムパネルラはジョバンニの唯一の確実な同行者になったのだ。

 カムパネルラがジョバンニにまず訴えたのは「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」ということだった。カムパネルラは、母がほんとうに幸いになるためなら何でもするが、いったいどんなことがほんとうの幸いなのか、わからない、という。そして、誰でも、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸いなのだ、と。「ほんたうの幸い」と、物語の終盤で議論される「たったひとりのほんたうのほんたうの神さま」を探して、銀河鉄道は走るのだが、その出発点は「母のゆるし」である。

 「おっかさんが、ほんたうに幸いになるなら、どんなことでもする。」と「泣き出したいのを、一生けん命こらへてゐる」のが、現実に病気の母を支えているジョバンニでなく「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」といわれるカムパネルラであることに注目しなければならない。

 「母」と「ゆるし」と「ほんたうの幸い」を探すためにカムパネルラはジョバンニの同行者となった。だが、「ほんたうの幸い」とは何か、という問いは物語の中空につるされたまま、カムパネルラは「みんなが集まっているきれいな野原」「ほんたうの天上」にいる「おっかさん」に吸い込まれていく。はたしてカムパネルラは「ゆるされた」のか。それとも、「ゆるし」か否かの次元をこえた無限の磁場が「天上」の「おっかさん」には存在するのか。

 カムパネルラについては、旅の出発点と終着点に触っただけなので、まだ書かなければならないことが少なからずあるが、長くなるので、また回を改めたい。とくに、最後に登場して、「黒い服を着てまっすぐに立って右手に持った時計をじっと見つめて」「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」とその死を宣告する「父」の存在とその意味も考えなければならない。そこまで辿りつけるかどうか、かなり心もとないのだが。

 書かなければ何も考えなかったことと同じになるので、なんとか文章にしています。今日も不出来な作文を読んでくださってありがとうございます。