2016年8月12日金曜日

大江健三郎『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」____「暗喩(メタファー)」としての「雨の木(レイン・ツリー)」___三角関係という宇宙モデル

 前作「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」から一年十か月経って「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」が発表された。本作は、「僕」の「友人にして師匠(パトロン)というのがあっている」音楽家のTさん(これはあきらかに武満徹のことである)が作曲した「雨の木(レイン・ツリー)」の演奏を聴いて、「僕」が涙を流すところから始まる。「雨の木(レイン・ツリー)」の話を書きながら、その中では一言も触れなかった人物__高安カッチャンが常用したことばであり、、彼の存在そのものがそうであったような「悲嘆_griefとルビをふられた気分」から逃れられなかったのである。

 だが、高安カッチャンと彼の妻ペニー(正確にはペネロープ・シャオリン・タカヤス__この名前もまた様々な連想をよぶのだが)、そして「僕」の奇妙な「三角関係」がかたちづくるエピソードを語る前に、「僕」がその演奏を聴いて涙を流した「雨の木(レイン・ツリー」という曲及び「雨の木(レイン・ツリー)」そのものについて考えてみたい。

「雨の木(レイン・ツリー)」という曲は実際にユーチューブで聞くことができる。三本のトライアングルから始まり、1台のヴィブラフォンと2台のマリンバからなる演奏は、繊細にして霊妙、というほかない。この曲の楽譜のはじめに「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」中のアガーテのことばが引用されているので、直接にはその部分からインスピレーションを受けたのだと思われる。「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」では英文だが、ここでは「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」の日本語原文を書き出してみる。

  「雨の木(レイン・ツリー)」というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴を滴らせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。

 アガーテのことばは、実在する「雨の木」について説明しているようで、「僕」もそのようにうけとっているが、一方で狂人の幻想のようでもある。「雨の木(レイン・ツリー)」そのものも、前作では、ほんとうにパーティ会場となった精神病者の施設にあったかどうかも曖昧なまま小説は終わっていた。だが、本作では、アガーテのことばを媒介にして、「暗喩(メタファー)」としての「雨の木(レイン・ツリー)」は作曲家のTと「僕」に「宇宙モデル」として共有されている。「暗喩(メタファー)」としての「雨の木(レイン・ツリー)」___私にはいまひとつ、わかった、といえないものがあるのだが、作者はこのように説明している。

 そして僕がこの小説で表現したかったものは、その「雨の木(レイン・ツリー)」の確かな幻であって、それはほかならぬこの僕にとっての、この宇宙の暗喩(メタファー)だと感じたのである。自分がそのなかにかこみこまれて存在しているあり方、そのありかた自体によって把握している、この宇宙。それがいまモデルとして、「雨の木(レイン・ツリー)」のかたちをとり、宙空にかかっているのだと。

 「確かな幻」という日本語にもどうしても異和感を覚えてしまうのだが、「この宇宙の暗喩(メタファー)」という「雨の木(レイン・ツリー」がこの後、「三角関係」に結びつけられる次第に絶句してしまう。作曲家自身が演奏の前に「僕は三角関係に興味を持っているんですよ」といったのは、演奏者が女ひとりと男二人であることの解説につながるものだったと思うが、「僕」は演奏を聴きながら、「雨の木(レイン・ツリー)」の暗喩(メタファー)が三人の男女によって具体化されてもいると感じた、とある。三段論法的にいえば、宇宙_雨の木(レイン・ツリー)_三角関係、となる。? 「雨の木(レイン・ツリー)」という曲が「トライアングル」から始まるのも作曲のための必然だけではなかったのかもしれない。

 三角関係の一人であり、主役である高安カッチャンは「僕」の大学の同級生だった。ただの誇大妄想狂か天才か、もしかしたらその両方だったかもしれない。ハワイ大学のセミナーに参加した「僕」の前に現れた時、すでに彼は人生の敗残者のたたずまいだった。アルコールと薬物中毒で衰弱し、「外目にも見てとれる重たげな外套のような悲嘆をまといこんでいるのであった。」と書かれている。

 高安カッチャンをめぐる三角関係は二つ語られているのだが、そのどちらも「宇宙モデル」とは程遠いように思われる。ひとつは、高安カッチャンと「僕」の共通の友人であり、白血病で死んだ斎木と高安カッチャンと電鉄会社系大資本の一族の娘の話である。高安カッチャンを愛している大資本の娘を金主にして、斎木とカッチャンで大資本の「文化的前衛」として英・仏二国語の国際誌を出そうというものだった。彼はそれに「大河小説」を書いて掲載する予定でもあった。だが、高安カッチャンのいうところによれば、斎木が娘に熱中し、娘がそれをうるさがったため、計画は破綻した。次善の作として、彼と斎木と二人で娘を共有して事業を継続しようとした高安カッチャンの提案は受け入れられなかった。

 もうひとつの三角関係とは、「僕」と高安カッチャンと彼の妻ペニーの関係である。彼は泥酔してハワイの「僕」の宿舎を訪れる。妻のペニーを高級コールガールと偽って、三百ドルで「僕」に売る、という。「僕」にその気がないのを見てとった彼は、暗闇の中とはいえ、「僕」の目の前でペニーと性交しようとする。実際にしたのかもしれないが。そして、契約だから三百ドル払え、と難癖をつける。難癖をつけること自体が目的だったのかもしれない。「僕」はペニーに三百ドル渡し、高安カッチャンは、ペニーからかすめた三百ドルを最後に「僕」に返してきたのだが、それは「僕」に密輸の片棒をかつがせるというもので、「僕」を罠に嵌めたのであった。

 ハワイから帰国後ペニーから手紙がくる。ペニーは少女時代香港の空手映画の主演女優で、いまはハワイ大学の聴講生でマルカム・ラウリーの研究をしているという。アルコール症で自己破壊してしまったマルカム・ラウリーと妻のマージョリーとの関係を、自分と高安カッチャンの関係になぞらえるペニーは、日本語の文体に不安がある高安カッチャンと「僕」が合作して小説を書いてほしいと頼んできたのだった。ペニーの語る高安カッチャンの大河小説の構想とは、白血病で死んだ斎木がその妻にのみ語っていたものとまったく同じものだった。__現代世界の運命打開に責任のある秀れた男女たちが、宇宙のへりでの鷲の羽ばたきに感応して、地球上で行動をおこす、という・・・・・・

 「僕」が「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」を発表した後、ペニーから再び手紙がくる。高安カッチャンがアルコールと薬品を重ねたあげく、事故で死んだのだ。自分が彼の死に関して潔白であることを述べた上で、彼女は高安カッチャンのことばをつたえる。あの小説(「頭のいい雨の木(レインツリー)」)のアイデアは自分のものであり、「雨の木(レイン・ツリー)」の暗喩は自分のことを指すのだ、と。

 だが、ペニーは、小説中の巨大な樹木が単なる暗喩だとは思わない。実際にある「雨の木(レイン・ツリー)」の下で、その水滴の音を聞きながら、高安のことを考えていたいので、どの施設がモデルなのか教えてくれ、という。これからは、自分とプロフェッサー(と呼ばれる「僕」)だけが高安を記憶しつづけるだろう、とも書いて、「高安の小説」の鷲の羽ばたきの構想を「僕」が使うことを「許可」するのである。

 高安カッチャンをそれほどまでに信じるペニーとは何だろう。「この現代世界には私らのような女がいるのだ」というが、「私らのような女」とはどんな女なのか。狂気は高安カッチャンではなくてペニーなのか。語り手の「僕」は狂気でないのか。

 さて、この「奇妙に捩れたかたちの、いわばひずんだ球体に描いた三角形」の三角関係がいったい、どのようにして、「宇宙モデル」になるのか。「自分がそのなかにかこみこまれて存在しているありかた、そのありかた自体によって把握している、この宇宙」という「僕」の定義にしたがえば、ここに描かれている地球上の様々な、決して高尚とはいえない人間関係はそのまま「宇宙モデル」ということになろうか、とも思うのだけれど。

 思えば八十年代は「宇宙ブーム」の時代だった。すでに七十年代後半にアニメの分野で松本零士が「宇宙戦艦ヤマト」「キャプテン ハーロック」「銀河鉄道999」の連載を始め、TVドラマ化されていた。「機動戦士ガンダム」が始まったのも七九年だった。この「宇宙ブーム」についていうべきことはあるのだが、長くなるのでそれはまたの機会にしたい。ただこれらの作品が、「銀河鉄道999」を除いて、ほとんどがいわゆる「戦争もの」だったことは記憶しておきたい。

 八十年代とは何だったのか。

 相変わらず未整理な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

   

2016年8月4日木曜日

大江健三郎『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」__「80年代」とは何だったか?

 やはり今でも『晩年様式集』について書けなくて、あるいは書かないで、留保の状態を続けている。そしてもう一度、私が大江健三郎の作品を読むきっかけとなった『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』を読み直している。読み直しても、最初に読んでわからなかったことがわかるようになった、とはとてもいえないのだが。

 『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』は、五つの短編からなる連作短篇集である。昭和五五年一月号の《文學界》に「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」が発表された。以下《文學界》昭和五六年十一月号「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」、《新潮》昭和五七年一月号「雨の木(レイン・ツリー)の首吊り男」、《文學界》昭和五七年三月号「さかさまに立つ雨の木(レイン・ツリー)」、《新潮》昭和五七年五月号「泳ぐ男__水のなかの「雨の木(レイン・ツリー)」とあわせて昭和五七年七月に『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』として新潮社から出版された。五つの短編は、「雨の木(レイン・ツリー)」という記号は共通しているが、その主題と方法は必ずしも同じではないようで、わかりにくさの一因はそこにあるのかもしれない。

 第一作「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」は昭和五五年一月_一九八〇年の幕開けに発表された。この小説をいま、この時点で取り上げることに、何とも形容しがたい心地わるさを覚えるのだが、これは、精神病を病む人たちが起こしたミニ・クーデターの話なのである。主人公の「僕」はハワイ大学のセミナーに参加し、ある晩そのスポンサーが経営する精神病の民間治療施設で催されたパーティに招かれる。ホーキング博士を思わせる車椅子の建築家が登場し、客として招かれていたアメリカ人の詩人と論戦するのだが、実は建築家を含め、パーティの主催者側と思われていた人たちは、みな精神病の人たちだった。患者たちが看護婦と警備員を縛り、地下室に閉じ込めていたのである。暗闇の中で「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」を見に「僕」をつれ出した「アガーテ」と呼ばれるドイツ系アメリカ人もその一人だったのだ。

 「僕」が見たのはパーテイ会場の外に広がる闇を埋めつくすような巨木の板根だけだった。夜中に降った驟雨をその葉の窪みにためて、次の昼すぎまで滴らせるので「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」だとアガーテはいう。そういうことが可能な木があるのだろうか?アガーテは「雨の木(レイン・ツリー)」の板根の間に椅子を置いてそこから「馬上の少女(ア・ガール・オン・ホースバック)」と自ら題する幼女期__「本当に恐ろしい不幸なことは起こっていなかった頃」と彼女はいう___の肖像画を眺めることがあったらしいのだが。

 ここにさしだされる「雨の木(レイン・ツリー)」とは何か。次作「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」の中では「宙に架けるようにして提示した暗喩(メタファー)」としている。さらに四作目「さかさまに立つ雨の木(レイン・ツリー)」では、ユダヤ教のカバラにいうセフィロトあるいはクリフォトの暗喩となるのだが、第一作「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」が発表されてから二作目との間には一年十カ月の間隔がある。最初からそのような構想のもとに「雨の木(レイン・ツリー)」を提示したとは思えないのだ。

 確かなことは、「僕」が精神病の人たちが開いたパーテイ会場の「ニュー・イングランド風の古く大きい建物」__それは「はてしなく天上へ向けて上昇する構造をそなえた」と形容される__の外の暗闇が「巨きい樹木ひとつで埋められている」と思ったこと、そして、最後までその姿を見ることがなかった、と書かれていることである。それからもうひとつ、パーティの主催者が精神病の患者だったことがわかって、「僕」を含む客たちが一目散に逃げ出すときに、頭のいい「雨の木レイン・ツリー)」の方角から「およそ悲痛の情念に躰がうちがわから裂けるような、大きい叫びとしての女性の泣き声」を聞いたことである。

 大江健三郎は80年代の幕開けに、ハワイというアメリカ本土と異なる風土、歴史をもつ、しかし紛れもなくアメリカである島の狂人の家で起こった出来事を書いたのである。「雨の木(レイン・ツリー)」というより、この出来事自体が状況の「暗喩」だったのではないだろうか。パーティは島の狂人の家で開かれる。その家は「はてしなく天上へ向けて上昇する構造をそなえた」もので、住人(収容されている人)は各々個個の「位置」を割り当てられている。このことが意味する具体的な現実がどのようなものであるか、あるいはあったか、ということは未だに私のなかで揺らいだままなのだが。

 あまりに長い間書かないでいると、書くことがどうでもよくなってしまいそうで、苦しんでいます。何でもいいから書いてみた、の見本のような文章ですが、最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2016年6月23日木曜日

映画『静かな生活』伊丹十三と大江健三郎____『晩年様式集』読解の助走として

  『晩年様式集』についていつまでも考えている。

 『日常生活の冒険』の斎木犀吉、『懐かしい年への手紙』のギー兄さん、そして『取り換え子』から『晩年様式集』にいたるまでの塙吾郎、それらのモデルはあからさまに伊丹十三である。『晩年様式集』では、その三者をもう一度作品中に呼び戻し、しかもそれらの人物と長江古義人あるいはKちゃん、いや大江健三郎その人かもしれない人物との関係を「ちゃぶ台返し」にしているように見える。

 何故、3.11フクシマの後、この作品が書かれなければならなかったのか。大江健三郎はそれまで書いていた長編小説を中絶してこの小説にとりかかった、としている。3.11と『晩年様式集』との関係を探るために、ここでは、伊丹十三をモデルとする人物は作品中に登場せず、伊丹十三本人が監督、制作した映画『静かな生活』と、原作となった大江健三郎の短編集『静かな生活』を比べながら、「ちゃぶ台返し」の意味について考えてみたい。探索の手がかりをつかめる確信はないのだが。

 映画『静かな生活』は、原作の短編集をほぼ忠実になぞっているように見える。世界的に有名な作家の家族の物語である。作家の父が外国の大学に招かれ、母も同行する。脳に障害をもって生まれたイーヨーと姉のマーちゃん、弟のオーちゃんの三人が、子供たちだけで生活する。子供たちといっても、一番年下のオーちゃんが浪人生、という設定なので、イーヨーもマーちゃんもすでに成人である。

 小説も映画もイーヨーの性の目覚めが周囲に微妙な波紋を投げかけることから始まっている。性の目覚め、といっても、原作ではイーヨーは性的な話題から潔癖に遠ざかる人物として描かれ、もっぱら機能的に成熟した、というように記されている。それに対して映画では、原作にないお天気お姉さんが登場し、イーヨーは彼女にひそかに思いを寄せ、淡い失恋の痛みを味わうことを思わせる場面がある。

 映画と原作とのささいな差異は、そもそも、作家の父が招かれた大学が、原作では米カリフォルニアにあるのに対し、映画ではオーストラリアのシドニーとなっていることである。そんなに大した違いとは思われないが、なぜ、カリフォルニアではいけなかったのか。どちらも作家の「ピンチ」をのりこえるために必要な樹木のある避難場所とされているのだが。オーストラリアは、地図で見るとかたちが作家の郷里である四国に似ているからだろうか。

  それから、これも大した意味はないかもしれないが、子供たち三人が暮らす家が、映画では海が見える閑静な住宅街にある。原作は、はっきりと「成城学園前」と駅名を記しているが、「成城学園前」付近で海の見える場所はないだろう。小説もフィクションだが、映画はさらに小説をフィクショナイズしたものである、ということを象徴したのだろうか。

 映画の中で起こる出来事はおおむね原作と同じである。家に毎日水を届けに来る得体のしれない狂信者めいた男が、実は幼女を襲う連続事件の痴漢だったこと。幼女を襲っているのがイーヨーかもしれない、というマーちゃんの心配が杞憂だったこと。イーヨーが「すてご」というタイトルの曲をつくったことから、マーちゃんやKの親友でイーヨーの作曲の先生の「重藤さん」(これも映画ではなぜか「だんとうさん」となっている)が子供たちを置いて外国に行った作家のKに憤慨すること。

 その他、重藤さんの奥さんが、ポーランドの作家や詩人への弾圧に抗議するビラを来日したポーランド国家評議会議長のヤルゼンスキ氏に手渡そうとして、パニックに陥った警官に突きとばされれ、鎖骨を折る怪我をしたこと。ビラは、動けない奥さんのかわりに重藤さんとイーヨー、マーちゃん、オーちゃんの四人でレセプションのパーティ会場から退出する代表団の一行にもれなく配ったこと。満員電車の中でイーヨーが発作を起こし、女子中学生に「おちこぼれ」と罵られたこと、など。だが、ここでは、「すてご」というタイトルでイーヨーが作曲したことについて考えてみたい。

 イーヨーは、自分たち姉弟が両親から棄ててられた、という思いで「すてご」というタイトルをつけたのではなかった。マーちゃんや重藤さんはそう思ったのだが、福祉作業所の仲間が(映画ではイーヨー本人になっているが)公園清掃のとき棄てられた赤ん坊を見つけ、保護したことがイーヨーの記憶にあり、「すてごを救ける」曲をつくったのだった。その経緯を聞き出したのはイーヨーのお祖母ちゃんだった。四国の谷間の村でKちゃんの兄の葬儀があり、マーちゃんと一緒に参列したイーヨーはお祖母ちゃんとと作曲の話をしたのだ。

 この部分は原作をほぼ忠実に映像化している。お祖母ちゃんがイーヨーと話しているときに、マーちゃんはフサ叔母さん(Kちゃんの妹)から、Kちゃんが小さい頃、アシジのフランチェスコが水車小屋に現れて、すぐさま自分を連れていくのではないかと惧れた話を聞いているところも同じだ。だが、原作にあって、映画が省いたフサ叔母さんの一言が、映画と原作の決定的な違いを明らかにしている。「すてご」の由来を聞いてフサ叔母さんはこう言ったのだ。「もしこの惑星の人間みなが棄て子だったとすれば、イーヨーの作曲のあらわしているものは、なんだか壮大な規模だわねぇ!」

 映画にはイーヨー(本人)が棄て子を見つけ抱き上げているシーンがある。そのシーンの後にフサ叔母さんの前述のセリフがあったら、イーヨーは「この惑星の人間みな」を救う「壮大な規模」のヒーロー(もしくはアンチ・ヒーロー)になってしまう。伊丹十三はそういう「壮大な規模」の作品にしたくなかったのだ。

 連作短編集『静かな生活』の中で、作者の大江がかなりの頁をさいてこだわっているのが、「キリスト」、というよりむしろ「アンチ・キリスト」の問題である。映画『案内人(ストーカー)』(原作はストロガツスキー兄弟の『道傍のピクニック』)、エンデの『モモ』、『はてしない物語』、セリーヌの『リゴドン』、そしてブレイクの詩が縦横に引用される。『静かな生活』のテーマは、これ以降の作品で「魂のこと」として明確に主題としてあつかわれる「救い」__現実の日常生活の中で「救い」はどのようにもたらされるか、ではないだろうか。そして「救い」をもたらす存在は、決して誰の目にもそれとわかるヒーローではありえないということ。

 満員電車の中でイーヨーが発作を起こすシーンについていえば、映画では発作を起こしたイーヨーは一方的に庇われる存在として描かれているが、原作では、発作を起こして苦しみながらイーヨーは、マーちゃんを守ろうとして庇ったのだった。それから起こったマーちゃんの思いを大江健三郎はこのように書いている。

 そのうち、私の胸のなかに、___もしかしたらイーヨーはアンチ・キリストのように邪悪な力をひそめているかも知れない。たとえそうだったとしても、私はイーヨーについてどこまでも行こう、という不思議な決心が湧いてきたのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 それでも私の躰をつらぬいて光が放射されるように、続けて起こって来るのはあきらかに邪悪な強い歓喜で__私はこの世界の人間のうちもう兄と自分自身のことしか考えなかったから__ひとつ向こうのフォームから出ていく特急のレールの音にまじって、ベートーベンの第九とはくらべることもできないが、やはり一種の「歓喜の歌」が聞こえるのを、自分の頭のすぐ上にあるイーヨーのふっくらした耳と一緒に、私は勇気にあふれて受けとめるようであったのだ。

 これは明らかに、『燃え上がる緑の木』のサッチャンの原型だろう。

 後半イーヨーの水泳のコーチとして登場する新井君は、『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』中の「泳ぐ男___水のなかの雨の木(レイン・ツリー)」の玉利君だろう。保険金殺人で多額の金を手にした疑いをもたれている新井君がマーちゃんを強姦しようとする。原作はその行為を、慎重に、(あるいは巧妙に?)「どこか本気か冗談かわからない、それでいて・またはそれゆえに、過剰な露骨さに誇張されたものだった」とするが、映画では新井君はあきらかに「悪い人」である。新井君にいいように嬲られているマーちゃんをイーヨーが救う。

 映画ではイーヨーとマーちゃんが力を合わせて新井君をやっつける。新井君のマンションから裸足で飛び出したマーちゃんが土砂降りの雨のなかマンションの駐車場で泣き崩れ、イーヨーがマーちゃんを支えて抱擁する。そこへ新井君がマーちゃんの帽子やバッグ、靴などを持って現れ、それらを投げ出して駆け足で戻るのだ。アンチではなくて、颯爽としたヒーロー・イーヨーの誕生である。観客は「脳に障害をもちながらも」音楽の天分に恵まれ、悪漢新井君をやっつけるイーヨーと、イーヨーに助けられたマーちゃんに感情移入してカタルシスを味わう。折からオーストラリアの母から国際電話があって、「パパがピンチを乗り越えた」という報告を受ける。メデタシ、メデタシの予定調和の世界である。

 原作はもう少し複雑である。マーちゃんは一人でマンションから飛び出し、大声で泣いた後、イーヨーを凶暴な新井君のもとに置き去りにしてしまったことに気が付いて、水泳クラブのメンバーに助けを求めに戻る。「アンズのかたちの目をした」女の子と見まがうような顔の新井君は、「マーちゃんに近づくな」と警告した重藤さんに蹴りを入れて肋骨を折ってしまう(この部分は映画と原作は同じ)ほど、徹底的にやる人なのだ。ところがそこに、イーヨーが、マーちゃんの残した荷物と傘を持った新井君に「つきそわれて」歩いて来るのだ。「大丈夫ですか?マーちゃん!私は戦いました!」とマーちゃんに声をかけるイーヨーと新井君の間には微妙な親和性がほのめかされている。

 連作短編集『静かな生活』文庫版の解説を伊丹十三が『「静かな生活」映画化について』と題して書いている。「話すように書」いたこの文章は、自己嘲弄と韜晦に満ちていて、私にとって読むのがつらいものがあった。伊丹十三は何より大江の文学の深い理解者である。饒舌をよそおった書きぶりを裏切って誠実なメッセージが直につたわってくる。

 伊丹十三は、大江がこの作品以降テーマとする「魂のこと」としてこれを映画化しなかった。映画『静かな生活』のナラティブは映画の定型を敢えて外した、と伊丹十三は書いているが、立派に定型を完成している。「この世で一番美しい魂を持ったイーヨーと、一生イーヨーに寄り添って生きて行こうと決心した二人の波瀾万丈の体験の物語』として。「品が良くて、毒があって、美しくて、見終わったときに生きるための静かな力が湧いてくるような映画」__大衆に消費されるエンターテインメントとして十分である。原作にまったくない「お天気お姉さん」まで登場させるサービス精神だ。

 私は独断と偏見の持ち主だから山田洋二の「寅さんシリーズ」が大嫌いである。だが、映画『静かな生活』はそれよりも好きになれない。私は『静かな生活』以外の伊丹十三の映画を見たことがないのだが、いったい彼は監督として何がしたかったのか。
 
 ところで、DVDを何回か見直すうちに、この映画の登場人物は、痴漢騒ぎの野次馬のおじさんまでも、ほとんどチェックの服を着ていることに気づいた。マーちゃん、重藤さん、その奥さん、オーちゃん、パパも、タータンチェック、マドラスチェック、グレンチェック、ギンガム、ダイヤ柄など、さまざまなチェックが登場する。チェックを着ないのはママと新井君だけである。イーヨーは横縞を着ていることが多いが一回だけチェックの服を着て出てくることがあったと思う。服だけでなく帽子、バッグ、水着、カーテン、クッションまでもチェックである。なんとなく気分に触ってくるものがある。

 それから、これもささいなことなのだが、映画の中で市松模様(これもチェックの一種だろうが)が、奇妙なところに使われているのに気がついた。海が見える道路のガードレールと新井君のマンションの駐車場の舗装(?)である。ガードレールは水色と白で、マンションの駐車場は黒と白である。おそらく特殊撮影なのだろうが、なぜこんなところに市松模様を使うのか。

 というわけで『晩年様式集』読解の助走どころか、準備体操にもなっていないありさまです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

   

2016年4月23日土曜日

三島由紀夫『禁色』__三島由紀夫とは何者だったのか

 三島由紀夫の『禁色』について、いつまでも考えている。書くことはたくさんありそうで、さて、何をどう書いたらいいのか迷っている。ひとことでいったら思弁的、形而上学的装いの通俗小説である、と評したくなる誘惑にかられている。あるいは、複雑かつ巧妙にカモフラージュされたモデル小説である、とも。

 物語の発端は檜俊輔という老齢の作家が美少女に懸想し、袖にされたことから始まる。美少女康子に執着する俊輔は、彼女の後を追って海辺のさびれた観光地で、南悠一という美青年に出会う。アポロンのようなこの美青年は女を愛することができないのに、持参金目当てで康子と結婚することになってしまった。腎臓病の母親をかかえ、没落した家の家計を支えなければならなかったからである。

  悠一の告白を聞いた俊輔は彼に持参金以上の金を与え、その上で康子と結婚させる。俊輔は自分を愛さなかった康子を女を愛することのできない悠一と結婚させ、不幸にしたかったのだ。そして、俊輔が不幸にしたかったのは康子だけではなかった。夫と組んで彼を美人局の罠に陥れた鏑木伯爵夫人、彼の愛を受けいれなかった穂高恭子、この三人の女が悠一を愛することによって、俊輔から復讐されるのである。「醜さ」のゆえに女から愛されない青春を送った作家俊輔は絶世の美青年南悠一という「作品」を操って女への復讐を企てたのだ。

 中でも最も残忍な仕打ちを受けるのは穂高恭子である。俊輔の描いたシナリオ通りに悠一に誘惑された恭子は、悠一と思いこんで暗闇の中で俊輔に犯され、一夜をすごしてしまう。何故彼女がこうまでされなければならないのかその理由は明らかではない。俊輔は「あんな目に会わせるだけの悪いことはしていない女なんだ」といいながら「あの女はこの事件を境にひどく身を持崩すだろう」と予言するのである。

 康子と鏑木夫人の不幸は複雑である。女を愛さない夫との間に子を生んだ康子は、夫が「作品」から「現実の存在」になったときに、ほんとうの「不幸」になる。悠一は同性愛が露見すると、それを取り繕うために鏑木夫人の力を借りる。だが、悠一が同性愛であろうがなかろうが、康子にとっては、もはやどうでもよいことだった。この間の機微を三島はこう書いている。

 「しかるにすでに康子は自若としていて生活の中に腰をおちつけ、渓子を育てながら、老醜の年齢まで、悠一の家を離れない覚悟を固めていたのである。絶望から生まれたこんな貞淑には、どのような不倫も及ばない力があった。
 康子は絶望的な世界を見捨てて、そこから降りて来ていた。その世界に住んでいたとき、彼女の愛はいかなる明証にも屈しなかった。・・・・・・・・
 その世界から降りて来たのは、何も彼女の発意ではない。・・・良人として多分親切すぎた悠一は、わざわざ鏑木夫人の力を借りて、妻をそれまで住んでいた灼熱とした静けさの愛の領域から、およそ不可能の存在しない透明で自在な領域から、雑然とした相対的な愛の世界に引きずり下ろしたのである。・・・・・そこに処する方法は一つである。何も感じないことである。何も見ず、何も聴かないことである。
 ・・・・(康子は)自分にたいしてすら敢然と愛さない女になった。この精神的な聾唖者になった妻は、一見はなはだ健やかに、派手な格子縞のエプロンを胸からかけて良人の朝食に侍っていた。もう一杯珈琲はいかが、と彼女は言った。やすやすとそう言ったのである。」

 康子は『仮面の告白』の園子をはるかに超えて、正真正銘の悪女となったのだ。
 
 鏑木夫人の場合は、さて、彼女は不幸になったのか。それとも幸福になったのか。あるときは単独に、あるときは夫と組んで背徳をかさねた彼女は悠一に殉愛を捧げる。同性愛の夫と悠一の現場を見てしまってもその愛は変ることがない。悠一も失踪した彼女からの手紙に感動して「僕はあの人を愛している。・・・僕が女を愛しているんだ!」と思う。だがその愛は、少なくともこの世のものとしては、成就することはない。ラスト近く二人は連れ立って伊勢、志摩の海に浮かぶ賢島に旅行する。そこでプラトニックな一夜を明かすことで鏑木夫人は悠一への愛を永遠のものとしたのである。まるでエーゲ海のほとりで語られる神話のように。

 悠一と三人の女たちとの関係は、美と愛をキーワードに語られる。それは、虚実皮膜論の皮のような危うさを含んでいる。絶対にありえないリアルさ、とでもいったらいいのだろうか。それに比べて、悠一と男たちとの関わりはリアルそのものである。そのキーワードは「金」と「権力」である。檜俊輔は悠一を愛して、彼に莫大な遺産を残して自殺する。鏑木伯爵は夫人に去られて生活の糧を失い、悠一に捨てられる。産業資本家であり有能な経営者の河田は悠一への愛に溺れそうになる自分を守るために多額の手切れ金を悠一に渡して別れる。悠一自身は、これら年上の男たちを愛することはない。彼が愛するのは、彼と同じように若くて美しい男である。そしてその愛はすべて一回的な愛である。

 檜俊輔の女たちへの復讐譚として始まったこの小説は、途中から俊輔の「作品」としてつくられた美青年南悠一の物語となる。アポロンの塑像から血の通った野心的な青年へと悠一は成長していく。その過程が観念的でありながらも精緻な心理分析とともに語られるのだが、これが敗戦からそんなに月日を隔てていない昭和二十六年に書かれた小説であることに驚いてしまう。朝鮮動乱を経て、ようやく庶民が食べ物に困らなくなったこの時代に、鏑木夫人は悠一に「プラム入りの温かいプディング」をつくって食べさせるのである。不夜城と化すナイトクラブ、同性愛の外人のたむろする大磯の「ジャッキー」の家などの描写は、日本の上流階級は敗戦の打撃など受けなかったのだろうか、と思ってしまうほど豪奢である。三島由紀夫は庶民と隔絶した別世界の出来事をほとんど痛みなく書いていく。いったい三島由紀夫とは何者だったのか。何のためにこの小説を書いたのか。

 この小説は、作中人物のそれぞれにモデルがいて、当時の読者にはそれを特定することが容易だったのではないだろうか。鏑木伯爵や河田、あるいは一場面だけ登場する製薬会社社長の松村など、それぞれに経歴や地位が書かれているので、大体のところは察しがついてしまう。不思議、というか複雑なのは檜俊輔で、そのモデルは誰でも思い浮かぶ文豪だろうが、私見ではそれは一人ではない。いや、モデルは何人いてもいいし、そのうちの一人は三島由紀夫自身かもしれないのだが、問題は作品中とはいえ、俊輔を自殺させてしまっていることである。小説が書かれて二十年近く経って、最初に三島が死に、それから文豪が不可解な死を遂げたことをいま現在の私たちは知っている。メビウスの輪のように、現在と過去と未来がよじれて繋がっていて、時間がゆがんでいるような感覚にはまってしまう。

 いったい三島由起夫とは何者だったのか。

 まだまだ書かなくてはならないことがあるのですが(この作品以降繰り返される「覗き見」と「火事」のモチーフについてなど)、長くなるのでまた次の機会にしたいと思います。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2016年3月28日月曜日

映画『恋人たち』___「映画」という文法

 去年の暮れにカメラマンをしている息子から薦められて、はやく見ようと思っていた『恋人たち』という映画をやっと見ることができた。もう都心の映画館では上映しているところがなく、やっていたのは「深谷シネマ」というNPO法人が運営している地方の、映画館というより民俗資料館みたいな外観のこじんまりした施設だった。観客はどれくらいいただろうか。でも、すばらしい映画だった。そして複雑な映画だと思った。いまでも消化不良の部分がいくつもある。

 あらすじはもう紹介するまでもないだろう。妻が連続通り魔殺人の被害者として殺され、やり場のない怒りにとらわれて、そこから脱け出すことのできない若い男(アツシ)、狭い借家で姑と同居しながら一人になると少女趣味のアニメと小説を書いている皇室オタクの中年女(瞳子)、同性愛だがエリート弁護士を絵にかいたような四ノ宮、この三人を中心にそれぞれの日常が丁寧に、優しく、どこか渇いたタッチで描かれる。

 大きな事件は起こらないのだが、ちょっとした事件はいくつか起こる。瞳子は偶然の出会いから実はチンケな詐欺師だった男に白馬の王子様を夢みて家出する。四ノ宮は何ものかに階段から突き落とされ右足を負傷する。それだけでなく、生活をともにしていたパートナーに去られ、ひそかに思いを寄せていた親友にも何故か関係を断たれる。物語が始まる前にすでに決定的な事件が起こってしまったアツシは、生活破綻の一歩手前の状況だ。

 三人の日常に起こる出来事は、かならずしも因果関係があきらかではないけれど、それぞれそれなりの結末を迎える。どうしても自分の殻を敗れなかったアツシは職場の前の埠頭で行われた夜のバーベキューで笑顔を見せ、彼を支えてくれた片腕の上司が焼いた魚を食べる。男と一緒に養鶏場をやろうと家出した瞳子は夢破れてもとの日常に戻るが、家の中の空気は微妙に変わっている。

 この二人にはささやかな救いが用意されているが、最も救いがないように見えるのが弁護士の四ノ宮だ。右足の傷は癒えてギブスは外されるが、愛する者に去られて彼の心は傷ついたままだ。人格が崩壊しつつある彼は、依頼人にきちんと向かい合うことができない。妻を殺した犯人に対して民事裁判を起してくれと頼むアツシの必至の訴えにも、これ以上やると四ノ宮自身が傷つくからやめよう、と取り合わない。離婚しようと思っていた夫への愛を涙を流して訴える女子アナのことばをうわの空で聞いていて、自分の思いにひたっている。そして、絶交を告げた親友がくれた万年筆が転がるのを見て涙を流すのだが、それを依頼人から「うれしい!先生、私のために泣いてくれたんですね」と誤解される。誤解されることが救いになるとは何という皮肉だろう。そうやって、それでも日常が流れていく、ということか。

 ごく普通の、弁護士の四ノ宮以外は、あまり豊かとはいえない人々の日常を丁寧にすくい取って映像は流れるが、ときに?と思われるシーンが挿入される。皇室オタクの瞳子がパート仲間と「雅子さん」を見に行ったときの様子をビデオで撮ったと思われる映像がでてくるが、これを撮ったのは誰だろう。ふだんの瞳子はいつも素顔だが「雅子さん」を見に行ったときの彼女は(パート仲間もそうだが)毒々しいまでの口紅をつけてカメラに手を振っている。この映像が何回か繰り返し出てくるのだ。

 最後に日常に戻った瞳子がテレビのスイッチを入れると、彼女にインチキな水を売りつけた女が皇族の名を騙って結婚式を挙げた事件が報道されている。アツシの上司は、皇居にロケットを飛ばそうとして自分の腕を飛ばした話をする。アツシに「笑っちゃうよね」と語りかける彼の笑顔の底の一瞬の陰惨な表情が凄いが、「俺サヨクだったから」という自己紹介は年齢的に見てどうしても無理があると思われるので、なぜそんな作り話?をしたのかわからない。ちくりと喉にささったトゲがいつまでも取れないような感触が残るのだ。

 他にも取れないトゲはいくつかあって、それぞれ結構重要なトゲだと思うのだが、それはあまり言葉にしたくないような気がする。最後に、この映画で一番印象的だったシーンについてひとこと。それは瞳子が家を出る前にお風呂場を洗うシーンである。瞳子は、ステンレスのどう見ても高級とはいえない浴槽をしっかりと泡立て洗っている。もう出て行く家なのに。幸せな暮らしをしていたとはいえない家なのに。それでも彼女はきれいにして家を出たいのだ。なんとも切なくて、この監督はどうして女の気持ちがこんなにわかるのかと思った。女の私が言葉をみつけられないのに。

 複雑で消化不良で、どうしても言葉で伝えきれないもの、それが日常であれば、そんな日常をそのまますくい取ろうとするところに映画の文法がある、そんなことをこの映画を観て思った。私が非力でうまくこの映画のすばらしさを伝えきれないのが残念です。

 大江健三郎の『晩年様式集』について書きたいのですが、どうしても集中できずグズグズしています。寄り道ばかりしているとあっという間に今年も終わってしまいそうなので、なんとか書く時間を見つけたいと思っています。今日も出来のわるい感想文を最後まで読んでくださってありがとうございます。