リアリティとは何か、ということを考えている。私たちが文学作品を読むとき、少なくともそのテキストに書かれていることは、一貫する真実である、という無意識の前提で読んでいる。語りが一人称であれ、三人称であれ、作品の中では「真実」__「事実」ではない__が語られていると信じて最後まで読むのだ。「エズミに捧ぐ」を読んでいて、ある不快ともいうべき違和感をどうしてもぬぐえないのは、その前提が揺らぐからだ。そして、その前提の揺らぎは、サリンジャー自身がそう仕向けたものなのだ。サリンジャーはルール違反ぎりぎりのことをやっている。
語り手の「私」がこれは回想記ですとことわって始まった小説は、その直後「一九四四年四月」と日時を特定したうえでストーリーを展開する。主人公の「私」は史上最大の上陸作戦といわれた「ノルマンディー作戦」に備えた諜報活動のためにデヴォンシアにいる。この作戦がいかに厳しいものだったかは記録が示す通りである。作戦準備のための演習ですでに七百名以上の死者をだしたともいわれている。訓練の最終日に「私」は激しい雷雨の中「引金を引く指がむずむずするような思いとはおよそ離れた気持ち」で外出する。雷に打たれるのも弾丸に撃たれるのも、どちらも「こちらでどうにかできることではないのだから」という思いで。ここまでは、「この小説」の語り手、そしてサリンジャーが文字に定着させたリアリティーを疑わせるものは何ひとつない。異常を日常として生きる人間の孤独な姿が浮かび上がってくる。
場面はその後「町の中心部__町の中でもおそらく、ここが一番ひどい雨に見舞われているらしかった」教会の中に移る。そこで子供たちが練習している聖歌の響きに「私」は感動する。中でも、際立った声でみんなをリードしている「少女に「私」は目をとめる。その少女が、弟と家庭教師らしき婦人とともに、一足先に教会を出た「私」が立ち寄った喫茶店に入ってきて、「私」と言葉をかわす。リアリティはこのあたりから微妙にゆらぎだすのだ。
喫茶店の中での三人の会話にも行動にも不自然なところはない。あどけないがやんちゃなチャールズと、彼をたしなめながら、自分たちの身の上を「私」に語るエズミ、少し緊張しながらも彼女の言葉にこたえる「私」のやり取りが一人称で書かれる。ここで少し違和感を覚えるのは、エズミとチャールズの言葉が直接話法で書かれるのに、「私」の言葉は短い応答の言葉がいくつか直接話法で書かれるが、ほとんどが間接話法で記されていることだ。「私」は用心深く背景に退いて、小さな貴婦人のエズミと小さな暴君のチャールズの姿が鮮明に浮かび上がってくる。キャンベル・タータンの服を着て、雨に濡れた美しい金髪をしきりに気にしながら、大人びた言葉づかいで「私」と会話するエズミと、「「ひとつの壁が隣の壁になんて言ったか」という謎謎を繰り返してエズミと「私」の会話に割り込んでくるチャールズの様子は具体的すぎるくらい具体的に語られる。いま目の前に二人がいるような気分になるほど、生き生きとした描写が続く。
リアリティがゆらぎだすのは、自己紹介を終えたエズミが、「わたしのために」「愛と汚辱の短編」を書いてほしいと頼むあたりからだ。「十三歳くらい」の少女エズミがなぜ「わたし、汚辱ってものにすごく興味があるの」と言うのか。そしてなぜ「お身体の機能がそっくりそのままでご帰還なさいますように」と、ある種不気味な言葉を別れの挨拶にしたのか。やんちゃなチャールズは帰り際なぜ「片方の肢がもう一方のより数インチも短い人みたいに、ひどいびっこを引きながら歩いてゆく」と描写されるのか。エズミとは何ものなのか?チャールズとは?また、「私」の前歯に真っ黒な詰め物がしてある、という記述が繰り返されるのも異様である。
小説の後半は「私の口から明らかにすることは許されない理由によって」三人称で記述される。だが、語り手は「私」で「私」が三人称で書いている、と読者は無意識のうちに前提している。たしかにそのはずである。そして、誰もがX曹長は「私」である、と信じる。Z伍長はクレーと呼ばれる男で、クレーにはロレッタという心理学に詳しい妻とその母親がいる、と理解する。それ以外に考えられない。だが、小説の冒頭、「私」が結婚式に出られない理由として「家内の義母が、四月の最後の二週間をうちに来て、われわれのところで過ごすのを楽しみにしている」という文章があったのは偶然なのだろうか。それから「アルヴィン」という犬は何のために登場したのか。そもそも本当に犬はいたのだろうか。
小説の読者は、作品の中で書かれている事柄は、作品中では「真実」である、と信じられるから読み進むことができる。信じることができるから「リアリティ」が存在するのであって、「リアリティ」があるから信じられるのではない。だが、「エズミに捧ぐ」と言う小説は、敢えてリアリティをゆるがすような構成で書かれてる。エズミと「私」の出会い、X曹長とクレーのやりとり、それらは一見いかにもリアルな、一方は「愛」に一方は「汚辱」にかかわるエピソードのようでありながら、実はその細部に複雑な罠が仕掛けられた「短編」の一部なのだ。前回は「語り手は誰か」という問題提起をしたのだが、今回はもうひとつの疑問を提出してとりあえずのまとめとしたい。それは、「この小説」は「何時」書かれたのか。そして「どこで」書かれたのか、という疑問である。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年2月28日火曜日
2012年2月27日月曜日
「エズミに捧ぐ」その1___「語り手」は誰か
これもまた難解極まりない小説である。サリンジャーの小説作法には大分慣れてきたつもりだったが、ここまで仕掛けられると、もうサリンジャーを読むのはやめようかとさえ思った。
小説は、結婚式の招待状を受け取った「私」が、花嫁との六年前の出来事を回想する、という書き出しではじまる。一九四四年の四月、イギリスのデヴォン州でノルマンディー上陸作戦に備えた特殊訓練を受けていた「私」は訓練最終日激しい雨の中外出する。子どもたちが聖歌の練習をしているのを聞きに教会に入った「私」は、その中でひときわ美しい声を響かせている少女に目をとめる。教会を出て喫茶店に入った「私」は、遅れて入ってきたその少女から話しかけられる。「エズミ」と名のった少女と彼女が連れていたチャールズという名の弟は、両親が亡くなったため、伯母に育てられたという。亡くなった父親が古文書の蒐集をしていて名文家だったと話すエズミは、「短編作家のつもり」と言う「私」に、「わたしだけのために、短編をひとつ」書いてほしいと頼む。そしてなぜか「どちらかと言えば、汚辱のお話が好き」なので「うんと汚辱的で感動的な作品にしてね」と言う。エズミは、自分のほうから先に必ず手紙を書くと約束し、「お身体の機能がそっくり無傷のままでご帰還なさいますように」という言葉を残して、喫茶店から出ていった。
小説の後半は、「場面はここで一転する」と書かれて始まる。「私は依然として登場するけれど、これから以後は、私の口から明らかにすることを許されない理由によって巧妙に扮装してしまっているので、どんなに慧眼な読者でも私の正体を見抜くことはできないだろう」という文章の後、文体は三人称で書かれる。
翌年五月のヨーロッパ戦勝記念日から数週間後の夜十時半ごろ、バヴァリアのガウフルトの民家に、フランクフルトの病院から退院してきたX曹長がいる。彼は文字を読むことも書くことも思うようにできず、指はたえずふるえている。郷里の兄からの無神経な手紙に神経を苛まれているX曹長の部屋にZ伍長という年下の戦友が入ってくる。「Z伍長」と呼ばれながら、なぜか「クレー」とも呼ばれるこの男はX曹長と対照的に神経のタフな人間である。X曹長のことを「神経衰弱になりやがった」とうれしそうにいうクレーは、ノルマンディー上陸作戦で砲撃を受けたとき、ジープのボンネットにとび乗った猫を撃ち殺した話をし始める。X曹長の再三の制止にもかかわらず話を続けるクレーに、彼は「あの猫はスパイだったんだ。」と「ユーモア」と取れなくもない言い方で、逆に彼の神経を逆なでする。だが、そのことがX曹長自身の心身を一気にずたずたに切り裂き、彼は屑籠に吐いてしまう。
ようやくクレーを部屋から追い出したX曹長は、手紙を書くために机の上をかたづけようとして、「緑色の紙に包まれた小箱」を見つける。封を開けると、それは、前年六月七日付のエズミからの手紙だった。箱の中には、X曹長の安否を気づかう文章に添えて、エズミが身につけていた父親の腕時計が一緒に入っていた。彼は、送られてくる途中でガラスがこわれてしまった時計を長いこと手にしていたが、そのうちに快い眠気を覚える。
ここまで三人称で書かれていた小説は、最後にまた一人称に戻る。最後はこう終わるのだ。「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね」
あらすじの紹介だけで大分長くなってしまった。今日は、「この小説」の作者は誰か、語り手は誰か、という問題提起をして終わりたいと思う。それからまた、「私の口から明らかにすることを許されない理由」とは何か、と言う問題も提起したい。そのヒントは、あらすじの紹介では触れなかったが、作中一度だけ登場する「アルヴィン」 という名の「犬」にある。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
小説は、結婚式の招待状を受け取った「私」が、花嫁との六年前の出来事を回想する、という書き出しではじまる。一九四四年の四月、イギリスのデヴォン州でノルマンディー上陸作戦に備えた特殊訓練を受けていた「私」は訓練最終日激しい雨の中外出する。子どもたちが聖歌の練習をしているのを聞きに教会に入った「私」は、その中でひときわ美しい声を響かせている少女に目をとめる。教会を出て喫茶店に入った「私」は、遅れて入ってきたその少女から話しかけられる。「エズミ」と名のった少女と彼女が連れていたチャールズという名の弟は、両親が亡くなったため、伯母に育てられたという。亡くなった父親が古文書の蒐集をしていて名文家だったと話すエズミは、「短編作家のつもり」と言う「私」に、「わたしだけのために、短編をひとつ」書いてほしいと頼む。そしてなぜか「どちらかと言えば、汚辱のお話が好き」なので「うんと汚辱的で感動的な作品にしてね」と言う。エズミは、自分のほうから先に必ず手紙を書くと約束し、「お身体の機能がそっくり無傷のままでご帰還なさいますように」という言葉を残して、喫茶店から出ていった。
小説の後半は、「場面はここで一転する」と書かれて始まる。「私は依然として登場するけれど、これから以後は、私の口から明らかにすることを許されない理由によって巧妙に扮装してしまっているので、どんなに慧眼な読者でも私の正体を見抜くことはできないだろう」という文章の後、文体は三人称で書かれる。
翌年五月のヨーロッパ戦勝記念日から数週間後の夜十時半ごろ、バヴァリアのガウフルトの民家に、フランクフルトの病院から退院してきたX曹長がいる。彼は文字を読むことも書くことも思うようにできず、指はたえずふるえている。郷里の兄からの無神経な手紙に神経を苛まれているX曹長の部屋にZ伍長という年下の戦友が入ってくる。「Z伍長」と呼ばれながら、なぜか「クレー」とも呼ばれるこの男はX曹長と対照的に神経のタフな人間である。X曹長のことを「神経衰弱になりやがった」とうれしそうにいうクレーは、ノルマンディー上陸作戦で砲撃を受けたとき、ジープのボンネットにとび乗った猫を撃ち殺した話をし始める。X曹長の再三の制止にもかかわらず話を続けるクレーに、彼は「あの猫はスパイだったんだ。」と「ユーモア」と取れなくもない言い方で、逆に彼の神経を逆なでする。だが、そのことがX曹長自身の心身を一気にずたずたに切り裂き、彼は屑籠に吐いてしまう。
ようやくクレーを部屋から追い出したX曹長は、手紙を書くために机の上をかたづけようとして、「緑色の紙に包まれた小箱」を見つける。封を開けると、それは、前年六月七日付のエズミからの手紙だった。箱の中には、X曹長の安否を気づかう文章に添えて、エズミが身につけていた父親の腕時計が一緒に入っていた。彼は、送られてくる途中でガラスがこわれてしまった時計を長いこと手にしていたが、そのうちに快い眠気を覚える。
ここまで三人称で書かれていた小説は、最後にまた一人称に戻る。最後はこう終わるのだ。「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね」
あらすじの紹介だけで大分長くなってしまった。今日は、「この小説」の作者は誰か、語り手は誰か、という問題提起をして終わりたいと思う。それからまた、「私の口から明らかにすることを許されない理由」とは何か、と言う問題も提起したい。そのヒントは、あらすじの紹介では触れなかったが、作中一度だけ登場する「アルヴィン」 という名の「犬」にある。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年2月23日木曜日
「ながめ(長雨)」と「しぐれ(時雨)」___日本の雨の歌
今日はサリンジャーはちょっとお休みです。朝から雨なので、日本の雨の歌をいくつか紹介したいと思います。日本人は雨の歌が好きです。「長崎は今日も雨だった」___いいですねぇ。前川清が若かったですね。「雨の外苑、夜霧の日比谷」って、題名は何だったでしょうか。もうひとつ日本人は地名を詠みこんだ「ご当地ソング」も好きです。若き日の森進一が絶唱した「港函館、通り雨」の「港町ブルース」もありますね。「雨と地名の日本歌謡史」をいつか書きたいと思っています。
「起きもせず寝もせで夜をあかしては春のものとてながめ暮らしつ」
「伊勢物語」第二段と「古今和歌集」に載っている。古今和歌集では、「弥生のつひたちより、忍びに人にものらいひてのちに、雨のそほふりけるに、よみてつかはしける、在原業平朝臣」とある。女のもとを訪れた男が、「起きもせず寝もせで___逢うには逢ったが、結局本意は遂げられないで一夜明かしてしまった。おりしも季節はもの忌みの春で、昼間もぼうっとした気分でいます。」と相手の女に送った歌である。古代は農耕の作業を始める前に、厳重な禁欲生活を送らねばならなかった、と折口はいう。それが春の長雨の時期と重なるので、春は「ながめ_長雨_禁欲」の季節として意識されたのである。
「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」
「古今集」に「小野小町」作として載っている有名な歌。「花」が何とも特定されていないのだが、その花びらの色が変わってしまった、と時の推移を嘆いた歌である。「いたづらに」_無為のうちに_という言葉は「うつりにけりな」にかかるのか「ながめせし間に」にかかるのか、あるいは「世にふる」にかかるのか、揺れ動くものがあるが、この言葉が一首の焦点だろう。こちらの「ながめ」も禁欲してぼうっとしている間に、という意味と実際に「長雨が降る」という意味の両方がこめられているのだろう。「花の色」を自分の容貌にたとえたものであるとする解釈は、いわゆる「小町伝説」にひかれたものだと思われる。単純に花びらの色が変わってしまったことに、時の推移を気づかされて、それを嘆いたものと解釈した方が、悲しみが深い。
「うらさぶる 心さまねし。 ひさかたの 天の時雨の流らふ。見れば」
以前もとりあげた萬葉集巻一長田王の歌。折口信夫が「どうしてこんな歌ができたのかと思うほどだ」と激賞した歌である。「うらさぶ」も「心さまねし」も、現代語にどう訳すか難しい言葉である。「うらさぶ」は、「さざ波の国つみ神のうらさびて、荒れたる都みれば 悲しも」という高市黒人の歌が参考になるだろう。魂が遊離した状態をさす言葉であると思われる。「心さまねし」は寡聞にして他に用例を知らない。漠然とした不安な心理をいうのだろう。騒がしい相聞や儀礼的な羈旅歌にまじって、ひとり自分の内面を見つめようとする、心がしんとなる歌だ。雨の歌ではないのだけれど、長田王の歌のなかで私が好きなものをもう一首。
「聞きしごと まこと貴く 奇(くす)しくも神さびおるか。 これの水島」萬葉集巻三
「袖ひづる時をだにこそ嘆きしか身さへ時雨のふりもゆくかな」
「蜻蛉日記」と「続古今集」に「長月のつごもりのころ、いとあはれにうちしぐれけるけしきを見て 右近大将道綱母」として載っている。「涙で袖がぬれただけでも悲しかったのは昔のことでした。今はこの身まで時雨に、いえ涙にぬれそぼって年をとっていくのです」「蜻蛉日記」中随一の絶唱だと思う。夫兼家との葛藤は、道綱母が「石山詣で」で山に籠ることで頂点に達した。だが、それも父の倫寧の勧告で下山を余儀なくされる。これは、その激動の夏の後、冬の訪れをつげる時雨に兼家との愛の終わりを実感したものである。
平安時代を過ぎると、何故か「ながめ」の歌は詠まれなくなる。歌人たちの生活と「農耕作業開始前の禁欲」という観念が結びつかなくなっていったのだろうか。かわって「しぐれ」は日本の雨の歌、というより「わび」「さび」という文化の規範意識と密接に結びついて盛んに詠まれるようになる。
「世にふるは苦しきものを槇の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」新古今集 三条讃岐から始まって
「世にふるもさらに時雨の宿り哉」宗祇
「世にふるも更にに宗祇のやどり哉」芭蕉
と続いて、さらに
「初時雨猿も小蓑をほしげ也」
また民謡の世界でも
「さんさ時雨か萱野の雨か」と謡われる。
近代になっても雨の歌の伝統はやむことがない。
「雨は降る降る、城ケ島の磯に。利休鼠の雨が降る。」北原白秋の「城ケ島の雨」である。
「雨の歌」は日本文学の発想の原点なのだ。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「起きもせず寝もせで夜をあかしては春のものとてながめ暮らしつ」
「伊勢物語」第二段と「古今和歌集」に載っている。古今和歌集では、「弥生のつひたちより、忍びに人にものらいひてのちに、雨のそほふりけるに、よみてつかはしける、在原業平朝臣」とある。女のもとを訪れた男が、「起きもせず寝もせで___逢うには逢ったが、結局本意は遂げられないで一夜明かしてしまった。おりしも季節はもの忌みの春で、昼間もぼうっとした気分でいます。」と相手の女に送った歌である。古代は農耕の作業を始める前に、厳重な禁欲生活を送らねばならなかった、と折口はいう。それが春の長雨の時期と重なるので、春は「ながめ_長雨_禁欲」の季節として意識されたのである。
「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」
「古今集」に「小野小町」作として載っている有名な歌。「花」が何とも特定されていないのだが、その花びらの色が変わってしまった、と時の推移を嘆いた歌である。「いたづらに」_無為のうちに_という言葉は「うつりにけりな」にかかるのか「ながめせし間に」にかかるのか、あるいは「世にふる」にかかるのか、揺れ動くものがあるが、この言葉が一首の焦点だろう。こちらの「ながめ」も禁欲してぼうっとしている間に、という意味と実際に「長雨が降る」という意味の両方がこめられているのだろう。「花の色」を自分の容貌にたとえたものであるとする解釈は、いわゆる「小町伝説」にひかれたものだと思われる。単純に花びらの色が変わってしまったことに、時の推移を気づかされて、それを嘆いたものと解釈した方が、悲しみが深い。
「うらさぶる 心さまねし。 ひさかたの 天の時雨の流らふ。見れば」
以前もとりあげた萬葉集巻一長田王の歌。折口信夫が「どうしてこんな歌ができたのかと思うほどだ」と激賞した歌である。「うらさぶ」も「心さまねし」も、現代語にどう訳すか難しい言葉である。「うらさぶ」は、「さざ波の国つみ神のうらさびて、荒れたる都みれば 悲しも」という高市黒人の歌が参考になるだろう。魂が遊離した状態をさす言葉であると思われる。「心さまねし」は寡聞にして他に用例を知らない。漠然とした不安な心理をいうのだろう。騒がしい相聞や儀礼的な羈旅歌にまじって、ひとり自分の内面を見つめようとする、心がしんとなる歌だ。雨の歌ではないのだけれど、長田王の歌のなかで私が好きなものをもう一首。
「聞きしごと まこと貴く 奇(くす)しくも神さびおるか。 これの水島」萬葉集巻三
「袖ひづる時をだにこそ嘆きしか身さへ時雨のふりもゆくかな」
「蜻蛉日記」と「続古今集」に「長月のつごもりのころ、いとあはれにうちしぐれけるけしきを見て 右近大将道綱母」として載っている。「涙で袖がぬれただけでも悲しかったのは昔のことでした。今はこの身まで時雨に、いえ涙にぬれそぼって年をとっていくのです」「蜻蛉日記」中随一の絶唱だと思う。夫兼家との葛藤は、道綱母が「石山詣で」で山に籠ることで頂点に達した。だが、それも父の倫寧の勧告で下山を余儀なくされる。これは、その激動の夏の後、冬の訪れをつげる時雨に兼家との愛の終わりを実感したものである。
平安時代を過ぎると、何故か「ながめ」の歌は詠まれなくなる。歌人たちの生活と「農耕作業開始前の禁欲」という観念が結びつかなくなっていったのだろうか。かわって「しぐれ」は日本の雨の歌、というより「わび」「さび」という文化の規範意識と密接に結びついて盛んに詠まれるようになる。
「世にふるは苦しきものを槇の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」新古今集 三条讃岐から始まって
「世にふるもさらに時雨の宿り哉」宗祇
「世にふるも更にに宗祇のやどり哉」芭蕉
と続いて、さらに
「初時雨猿も小蓑をほしげ也」
また民謡の世界でも
「さんさ時雨か萱野の雨か」と謡われる。
近代になっても雨の歌の伝統はやむことがない。
「雨は降る降る、城ケ島の磯に。利休鼠の雨が降る。」北原白秋の「城ケ島の雨」である。
「雨の歌」は日本文学の発想の原点なのだ。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年2月22日水曜日
「対エスキモー戦争の前夜」(続きの続き)___再び『美女と野獣』のプロットについて
作中エリックに「ぼくは八遍見たな。あれこそまさに醇乎たる天才だね」と言わせているコクトーの『美女と野獣』から、サリンジャーは「ここまでやるの!」と言いたくなるくらい本歌取りをしている。まず、セリーヌの兄フランクリンとエリックは、野獣と美女ベルを慕うアヴナンの役割だろう。「髪は寝乱れ、金色の薄い鬚は二,三日も剃刀を当ててなかったと見えてまばらに伸びて」ジニーが「これまでお目にかかったことがない」と描写されるセリーヌの兄は野獣で、「整った顔立ち、短めに刈った髪形、背広の仕立て、絹のネクタイ」のエリックがアヴナンだ。それから、野獣の城の燭台をさしだすものが人間の「手」であるという奇怪な画面とジニー「マノックス(手の絆)」も無関係ではないだろう。
セリーヌの兄の関心が指に集中しているのは、野獣が自分の爪が尖った指を見つめる動作を連想させる。口から出した煙を鼻から吸い込むという「フランス式喫煙術」とは、野獣の城の彫像が鼻から煙を出すシーンとほぼ同じ動作だ。「ベルが鳴りやがった。」と言って退場するセリーヌの兄と入れ代わりに入ってきたエリックは、自分が「善きサマリア人」よろしく助けた作家に恩を仇で返された、と長話をする。だが、「もっぱら口先だけで喋っている感じ」なのだ。もしかしたら、『美女と野獣』のアヴナンのように、借金のかたに家財道具を持ち出されてしまったのかもしれない。犬の毛だらけなのも、映画の冒頭で、アヴナンの射た矢が危うく室内にいた犬を射抜きそうになったことと関係があるのかもしれない。
極地探検にもなぞらえ得るような過酷な飛行機工場での労働で、もともと病弱なセリーヌの兄は満身創痍であり、孤独だ。ジニーの「バンド・エイドないの?」という問いに、彼は「ああ、ないね」と答える。彼に手をさしのべてくれる存在はなかったのだ。だが、ジニーはその事実に心を動かされる。変化は彼女の内面におきた。この次のエスキモーとの戦争は年寄りでないと行かせてもらえない、というセリーヌの兄の言葉に「でもあなたはどっちみち行かなくてもいいわね」と反応して、自分の言葉が彼を傷つけたのではないかと心配する。だから、彼がさしだすサンドイッチの半分を「とってもおいしそう」と言って「苦労して飲み込」んだのだ。
さて、ジニーはセリーヌの兄の「善きサマリア人」になれるのか。彼女は、見かけはいいが通俗的で中身のないエリックには目もくれなかった。そしてセリーヌに「あたし、遊びに来るかもしれない」と言って彼女を驚かせる。彼女の兄に関心をもったことを明らかにしたのだ。だが、「復活祭の贈り物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いた鋸屑の上で死んでいるのを見つけたときにも、捨てるのに三日かかったジニー」は、セリーヌの兄のくれたサンドイッチをどうするだろうか。サンドイッチは、野獣が美女ベルにくれた宝物の入った箱を開ける魔法の鍵ではないのだから。
これで、ひとまず「対エスキモー戦争の前夜」の読書感想文にもなっていないnoteは終わりにします。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
セリーヌの兄の関心が指に集中しているのは、野獣が自分の爪が尖った指を見つめる動作を連想させる。口から出した煙を鼻から吸い込むという「フランス式喫煙術」とは、野獣の城の彫像が鼻から煙を出すシーンとほぼ同じ動作だ。「ベルが鳴りやがった。」と言って退場するセリーヌの兄と入れ代わりに入ってきたエリックは、自分が「善きサマリア人」よろしく助けた作家に恩を仇で返された、と長話をする。だが、「もっぱら口先だけで喋っている感じ」なのだ。もしかしたら、『美女と野獣』のアヴナンのように、借金のかたに家財道具を持ち出されてしまったのかもしれない。犬の毛だらけなのも、映画の冒頭で、アヴナンの射た矢が危うく室内にいた犬を射抜きそうになったことと関係があるのかもしれない。
極地探検にもなぞらえ得るような過酷な飛行機工場での労働で、もともと病弱なセリーヌの兄は満身創痍であり、孤独だ。ジニーの「バンド・エイドないの?」という問いに、彼は「ああ、ないね」と答える。彼に手をさしのべてくれる存在はなかったのだ。だが、ジニーはその事実に心を動かされる。変化は彼女の内面におきた。この次のエスキモーとの戦争は年寄りでないと行かせてもらえない、というセリーヌの兄の言葉に「でもあなたはどっちみち行かなくてもいいわね」と反応して、自分の言葉が彼を傷つけたのではないかと心配する。だから、彼がさしだすサンドイッチの半分を「とってもおいしそう」と言って「苦労して飲み込」んだのだ。
さて、ジニーはセリーヌの兄の「善きサマリア人」になれるのか。彼女は、見かけはいいが通俗的で中身のないエリックには目もくれなかった。そしてセリーヌに「あたし、遊びに来るかもしれない」と言って彼女を驚かせる。彼女の兄に関心をもったことを明らかにしたのだ。だが、「復活祭の贈り物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いた鋸屑の上で死んでいるのを見つけたときにも、捨てるのに三日かかったジニー」は、セリーヌの兄のくれたサンドイッチをどうするだろうか。サンドイッチは、野獣が美女ベルにくれた宝物の入った箱を開ける魔法の鍵ではないのだから。
これで、ひとまず「対エスキモー戦争の前夜」の読書感想文にもなっていないnoteは終わりにします。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年2月21日火曜日
「対エスキモー戦争の前夜」(続き)____もう一つの隠されたプロットとサリンジャーの命名法
今日はサリンジャーの小説の登場人物の名前について考えることで、難解極まりない「対エスキモー戦争の前夜」を読んでみたい。サリンジャーの小説は「ミュリエル」「シビル・カーペンター」「エロイーズ」そしてもちろん「シーモア・グラース」と、作中の役割を象徴する名前がつけられている。
まず、主人公の少女「ジニー・マノックス」。ジニーはいうまでもなくヴァージニアの愛称であるが、マノックスとは何か。これはエスペラント語で「手」を意味する「MANO]とラテン語で「絆」の意の「NEXUS」だそうである。それから、セリーヌの兄「フランクリン」_これはファーストネームだろうか。作中この名で呼ばれるのは、彼を訪れたエリックが「フランクリンを見かけなかった?」と聞く場面だけである。その他は、常に「セリーヌの兄」と呼ばれる。おそらくこの「フランクリン」は北大西洋航路を探検したジョン・フランクリンを連想させる役割をもつものだろう。ジニーの姉が「ジョーン」というのは偶然だろうか。この小説の隠されたもうひとつのプロットは、フランクリン隊の北大西洋航路の探検ではないだろうか。
「指の野郎を切っちまってさ」と部屋にとびこんできたフランクリンはジニーに彼女も指を切ったことがあるかとたずねる。その様子は「まるで前人未踏の境地に一人踏み込んで行く孤独から、彼女の同伴を得て救われたいと願っているようだ」と書かれる。また、「おれ、出血多量で死にそうなんだ。君、その辺にいてくれよ。輸血してもらわなきゃなんないかも」という彼の言葉は、フランクリン隊の隊員の多くが壊血病にかかって死んでいったことを連想させる。オハイオの飛行機工場で働いていた「三十七ヵ月」は、フランクリンの第一回の探検が1819年から1822年の3年間だったことに対応しているようだ。この探検で隊員八人が餓死、一件の殺人、人肉食も指摘されているという事実が、彼の「おれは彼女(ジョーン)に八遍も手紙を書いた。八遍だぜ。なのに彼女は一遍だって返事をよこさなかった」という言葉に関係があるのだろうか。彼の様子を見まもっていたジニーが突然「触っちゃダメ」と叫ぶのはどんな場面が生じたからか。
「さて、着替えでもするか。・・・チェッ!ベルが鳴りやがった。じゃあな」と言って「姿を消した」フランクリンと入れ替わりに部屋に入ってきたエリックもまた飛行機工場で「何年も何年も」働いていた。エリックは、なぜ軍隊に行かなかったのか。「エリック」という名前は何を意味するのか。
まだ解けない謎はいくつもあって、そもそも題名の「対エスキモー戦争の前夜」とは何か。それから、最後の「数年前、復活祭の贈り物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いた鋸屑の上で死んでいるのを見つけたときにも、捨てるのに三日もかかったジニーであった」という怖ろしい一文をどう読めばいいのか。疑問はつきないのですが、今日はひとまず、ここまでにします。
というのは、今朝の新聞で光市の母子殺人事件の死刑が確定した、という報道を読んで、心が波立って、続きをまとめることができなさそうだからです。。「罪なき者まず石を打て」でも触れたように、法の厳罰化、とくに少年法のそれがすすんでいることを憂えてきました。報道によれば、犯行時少年だった被告に死刑が適用されるのは、永山則夫以来六人目だそうです。今回は実名報道もされました。賛否両論ある今回の判決確定だと思いますが、私は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」というマタイによる福音書7章冒頭の一節を、自戒の言葉としてかみしめたいと思います。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
まず、主人公の少女「ジニー・マノックス」。ジニーはいうまでもなくヴァージニアの愛称であるが、マノックスとは何か。これはエスペラント語で「手」を意味する「MANO]とラテン語で「絆」の意の「NEXUS」だそうである。それから、セリーヌの兄「フランクリン」_これはファーストネームだろうか。作中この名で呼ばれるのは、彼を訪れたエリックが「フランクリンを見かけなかった?」と聞く場面だけである。その他は、常に「セリーヌの兄」と呼ばれる。おそらくこの「フランクリン」は北大西洋航路を探検したジョン・フランクリンを連想させる役割をもつものだろう。ジニーの姉が「ジョーン」というのは偶然だろうか。この小説の隠されたもうひとつのプロットは、フランクリン隊の北大西洋航路の探検ではないだろうか。
「指の野郎を切っちまってさ」と部屋にとびこんできたフランクリンはジニーに彼女も指を切ったことがあるかとたずねる。その様子は「まるで前人未踏の境地に一人踏み込んで行く孤独から、彼女の同伴を得て救われたいと願っているようだ」と書かれる。また、「おれ、出血多量で死にそうなんだ。君、その辺にいてくれよ。輸血してもらわなきゃなんないかも」という彼の言葉は、フランクリン隊の隊員の多くが壊血病にかかって死んでいったことを連想させる。オハイオの飛行機工場で働いていた「三十七ヵ月」は、フランクリンの第一回の探検が1819年から1822年の3年間だったことに対応しているようだ。この探検で隊員八人が餓死、一件の殺人、人肉食も指摘されているという事実が、彼の「おれは彼女(ジョーン)に八遍も手紙を書いた。八遍だぜ。なのに彼女は一遍だって返事をよこさなかった」という言葉に関係があるのだろうか。彼の様子を見まもっていたジニーが突然「触っちゃダメ」と叫ぶのはどんな場面が生じたからか。
「さて、着替えでもするか。・・・チェッ!ベルが鳴りやがった。じゃあな」と言って「姿を消した」フランクリンと入れ替わりに部屋に入ってきたエリックもまた飛行機工場で「何年も何年も」働いていた。エリックは、なぜ軍隊に行かなかったのか。「エリック」という名前は何を意味するのか。
まだ解けない謎はいくつもあって、そもそも題名の「対エスキモー戦争の前夜」とは何か。それから、最後の「数年前、復活祭の贈り物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いた鋸屑の上で死んでいるのを見つけたときにも、捨てるのに三日もかかったジニーであった」という怖ろしい一文をどう読めばいいのか。疑問はつきないのですが、今日はひとまず、ここまでにします。
というのは、今朝の新聞で光市の母子殺人事件の死刑が確定した、という報道を読んで、心が波立って、続きをまとめることができなさそうだからです。。「罪なき者まず石を打て」でも触れたように、法の厳罰化、とくに少年法のそれがすすんでいることを憂えてきました。報道によれば、犯行時少年だった被告に死刑が適用されるのは、永山則夫以来六人目だそうです。今回は実名報道もされました。賛否両論ある今回の判決確定だと思いますが、私は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」というマタイによる福音書7章冒頭の一節を、自戒の言葉としてかみしめたいと思います。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
登録:
投稿 (Atom)