昨年末から何回もこの映画を観ているのだが、さて、何をどう書こうかと構えるとどうしてもまとまらない。いろいろと曰くのある作品である。
よくいわれるのは、この映画の制作のかげで、日独防共協定が秘密裡に締結されようとしていたということである。一九三六年十一月二十五日締結にいたる日独防共協定の交渉を仲介したフリードリッヒ・ハックという親日家のドイツ人が『新しき土』の実質的なプロデューサーであったといわれている。フリードリッヒ・ハックについては、ノンフィクション作家の中田整一氏が『ドクター・ハック__日本の運命を二度握った男」という著書で詳しく述べられているが、私見では、日独そしてソ連の三重スパイだったのではないかと考えている。
映画そのものは、これを何と評してよいか__今日の日本人の目で見ると、「国策映画」として何をプロパガンダしようとしたのか、まったくわからないのである。冒頭、祭囃子の笛、太鼓、拍子木の音とともに、富士山と桜を描いた紙芝居の絵のような画面が現れる。その直後に、今度は日本列島を上から俯瞰した画面で、列島上空には煙とも霧ともつかぬものが立ち込めていてる。それから次は火山が噴火する。噴火のシーンは特撮らしいが、映画の中で何回も登場する。噴火、地震の日本列島なのである。火山の後は、険しい岸壁に荒波が押し寄せては砕けるシーンだ。間違っても、「明るく楽しく満州に行こうよ」という映画ではない。
ストーリーは単純で、洋行帰りの「大和輝男」という若い男性が、許嫁で戸籍上の妹である「大和光子」という少女と結ばれるまでの物語である。輝男は、富士山の見える農村に住む「神田耕作」という百姓の子だが、大富豪の「大和家」の養子となって、海外留学させてもらったのである。輝男を慕い続けて八年間待った光子は彼の帰国の知らせに飛び上がって喜ぶが、輝男は「ゲルダ・シュトルム」というドイツ人の恋人と一緒だった。
作品のテーマとしては、ヨーロッパの空気に触れた輝男が、日本の慣習を受け入れるまでの葛藤、であろうか。輝男は「日本のために働きたい」と志し、満洲に自己実現の場を見出す。だが、輝男の帰国を知らせる電報が耕作の家に届いたとたんに、地震が起きるのだ。地震と噴火のシーンは、輝男と日本との葛藤の象徴として、繰り返し登場する。輝男の恋人「ゲルダ・シュトルム」のシュトルムも疾風の意なので、日独とも、天変地異が相次ぐことを示唆しているようだ。
後半は、噴火する山の描写の連続である。輝男に捨てられたと思った光子が、花嫁衣裳を包んだ風呂敷を手に家を出る。そして、一両編成の市電のような電車に乗って、下車すると、そこから登山道に向かい、着物姿で噴火を続ける山に上って行く。これはいったいどこの火山なのだろう。
余談だが、たぶん、ドイツ人観客のために名所案内サービスを意図したのだろうが、この映画の地理は無茶苦茶である。大和家がどこにあるのかわからないのだが(横浜に輝男を迎えに来た光子が「あたくし、もう東京にいたくありませんの」と言っているので東京でないのはたしかだろう)、大和家の大邸宅を出ると、厳島神社があったり、浜辺に鹿がいたりする。ヨーロッパから航海して横浜港に入るのに松島湾の映像が挿入されたりする。
光子を追って、輝男も山に登る。光子は着物姿で険しい山を上って行くが、輝男は不気味な沼を泳いで渡ってずぶ濡れになって、靴も履かずに噴火する山をよじ登るのである。足を血まみれにしながら、山頂で光子と巡りあった輝男が、どうやって光子を抱えて下山できたのか、不思議なのだが、延々二十分ほど続くこの部分がこの映画のクライマックスなのだろう。山岳映画を得意としたドイツ人監督ファンク(フリードリッヒ・ハックの大学の後輩で、彼の依頼で監督を引き受けたそうである)の腕の見せ場、というより若き円谷英二が特撮技術を駆使したものと思われる。迫力満点、というべきか、荒唐無稽、というべきか。
ラストは満洲である。戦車のようなトラクターに乗った輝男と、生まれて間もない赤ん坊を抱いた光子が登場する。王道楽土に新しい生命を育む若いふたり、と絵に描いたような予定調和の画面で終わる。__と言ってもよいのだろうが、このあと少し気になるシーンがある。
ひとつは、輝男が光子から渡された赤ん坊をトラクターの轍の溝に置いて「坊主、お前も土の子になれよ」という場面である。赤ん坊を泥の上に寝かせて「土の子になれ」とはどういう意味なのだろう。輝男はそう言って微笑みながら光子を見上げるのだが、光子はニュートラルな表情のまま、視線をそらす。その視線の先には、機関銃を構えた兵士の姿がある。
さらに気になるのが、アップで映された兵士の表情である。赤ん坊を抱いた二人の光景を見ていた兵士は、笑みをたたえていたのだが、視線を上に向けると、笑みは消え、険しい(あるいは恐怖の色を浮かべた)目つきになる。映画はここで終わるのである。
「日独合作映画」としての主題は、大和家を訪れたゲルダと当主の巌が岸壁に押し寄せる荒波を前に佇むシーンにあるのだろう。巌は「私たちが極東でこの岩だらけの島を守っている。この防壁にあらゆる嵐は打ち砕かれるだろう」 と言うのだ。しかし、この映画はどう見ても、戦意高揚(まだ日中戦争も日米戦争も始まっていなかったが)、士気を鼓舞、といった目的にかなうものとは思われない。
もっとも国策映画らしいのは、登場人物のネーミングかもしれない。大和巌、大和輝男、大和光子、神田耕作、神田日出子((輝男の妹)、ネーミングがキャラクターを十分に説明している。
全編を通して、おどろおどろしい音響と地震、噴火のシーンの連続で、『新しき土』_満洲国建国の希望につながる要素を見出すのは難しいのである。むしろ、頻繁に登場する噴火の映像は、なんだかキノコ雲のように見えてくる。私だけかもしれないが。もちろん、一九三六年に制作されたこの作品にきノコ雲が登場するはずはないので、噴火も爆発も同じように見える現象だということなのだろう。
見終わっての感想がどうしてもまとまらないのは、私の理解力の不足かもしれないが、敢えていってしまえば、シナリオが悪いのではないか。あれもこれも入れようとして、ただのごった煮になってしまっている。いろいろな要素が無責任に放り出されているように思う。脚本は伊丹万作とアーノルド・ファンクの共同執筆となっているが、プロが責任をもって制作したものとは思われない。何より情熱が感じられないのだ。それでも、現在の金額に換算すると数十億円を費やして出来上がったのがこの映画だそうで、なんとも不思議な気がする。
作品の欠点をあげつらうより自らの集中力と文章力の不足を自覚すべきかもしれません。一六歳で主役をつとめた原節子の目を見張るような演技力についても触れたかったのですが、また機会があれば、と思います。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。
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