生と死、家族のあり方を描いた傑作として評価が定まっている作品である。尾道から老夫婦(妻が六八歳、夫はそれよりいくらか年上か)が上京する。長男と長女の家に滞在するが、それぞれの生活の都合があって、結局義理の娘(亡くなった次男の嫁)の世話になる。帰りの列車の中で具合が悪くなった妻は尾道に帰ると急死してしまう。「ハハキトク」の電報で子供たちが尾道に集まるが、葬式が終わるとその日のうちに帰っていく。最後に残った次男の嫁も、尾道の小学校で教師をしている次女と東京での再会を約束して帰京する。
プロットの展開といい、登場人物の性格描写と言い、リアリティに満ちていて、これもまた不自然なところなどどこにもないように見える。何となく次男の嫁_紀子の献身ぶりが浮き立ってしまうようなところがあるのだけれど、その素晴らしい日本語、というか東京山の手の上流階級風のことばと物腰、表情に納得してしまう。
しかし、それでもやはり、この映画はおかしいのである。今日、映画はDVDその他で繰り返し見ることができる。時には、映像を中断して、停止画像を検証することもできる。そのような操作をして「おかしさ」を発見することは、観客として邪道かもしれないが、小津もまた確信犯的アンフェアだといわざるを得ない。
熱海の宿で眠れぬ夜を過ごして、東京に帰った周吉ととみの夫婦は、泊まろうと思っていた長女の家を追い出されてしまう。とみは紀子のアパートに泊めてもらう。時計の鐘が十二時を告げている。アパートの部屋で、紀子に肩を揉んでもらうとみ。とみの表情はほんとうに柔和で幸せそうだが、紀子のそれはニュートラルである。とみに向かい合う時は十分に笑みをたたえているが、そうでないときは、はっとするほど冷酷な表情をする。それがまた、慄然とする美しさなのである。
まだ若いのだから、と再婚をすすめるとみに「もう、若かありませんわ」と自嘲気味に答える紀子。その目はなまめかしい、というか妖しいというか、複雑な色を帯びていて、夫を亡くした後の紀子の生活が葛藤に満ちたものであったことをうかがわせるようだ。「それじゃぁ、いいとこがありましたら」と受け流す紀子に、さらに「苦労をかけた・・」と言いつのるとみ。行く末を案じるとみに紀子は「あたし齢取らないことに決めてますから」と冗談とも本気ともわからないことをいう。「ええ人じゃのう、あんた」と、とみは俯いて涙ぐむのだが、紀子はどこか突き放した口調で「じゃ、おやすみなさい」と切り上げ、電灯を消す。とみの背中を見る紀子の視線は獲物をうかがう動物のような冷酷さである。
カメラはさらに、仰向けになった紀子の横顔を映す。目を見開いて、上を見上げる紀子は何事か考えている様子である。二度瞬きをして、かすかに喉もとを動かし、何か飲み込むようである。とみと紀子の間にはひそかに張り巡らされた緊張の糸が存在するのだ。薊を意匠した紀子の浴衣も無気味である。棘だった葉の模様が蝙蝠のように見える。
とみの危篤を兄嫁から職場の電話で知らされた紀子の表情もまた、ぞっとするものがある。受話器を置いて自分の机まで歩いていく紀子。タイプライターの音が続く。俯いているが、その表情は険しい。覚悟を決めたような気配も感じられる。机に向かって鉛筆を回転させながら、何事か考えているようだが、不貞腐れたようにも見える顔つきである。これが、あのアパートで慄然とするまでの美しさを見せた紀子と同一人物かと思うほど不細工に映っている。
そして、この直後、この映画で最も不思議な映像が挿入される。電動ドリルで穴を開ける音とともに、画面いっぱいに組まれた鉄骨が映し出される。鉄骨の向こうにビルの壁が見える。回天窓の大きさと形から、オフィス街のビルだと思われる。画面が切り替わって、鉄骨の組まれた上に空が広がる。自動車のクラクションの音も聞こえる。
この画面が、とみの死、そして紀子の運命と何の関係があるのか。
ラスト近く、出勤する京子を東京での再会を約束した紀子が見送る。この間二、三分のシーンだが、京子と紀子が会話する座敷の外側に鶏頭の花がぼんやりと映っている。鶏頭の花は座敷の両側に植えられている。周吉ととみの出発時にはなかった鶏頭の花が、とみの葬儀のあたりから頻繁に映されるが、無気味である。そういえば、冒頭、出勤前の京子と周吉夫婦のやり取りのシーンで、座敷の向こうに蛸の干したものがぶら下がっている。これもまた気持ちのよいものではない。人間の頭蓋骨のように見える。
画面の不思議といえば、周吉ととみが紀子のアパートで食事をする場面がある。隣の部屋の若い主婦から酒を借りてきた紀子が周吉に酒をすすめ、出前の丼を取る。配達された丼にとみが箸をつけた途端、背後のガラスがひび割れているのである。周吉が盃を干したときには気が付かなかったが、とみがものを食べた瞬間にひび割れて、テープのようなもので補修されたガラスになるのだ。そもそもこの映画にはひび割れたガラスがあちこち出現する。長男の開業する医院の薬棚のガラスもひびだらけである。
ラストはやはり紀子と周吉の対決になる。出勤する京子が玄関を出ると、紀子は踵を返して手早く部屋を片付け、周吉に「わたくし、今日お昼からの汽車で」と、帰京する旨を告げる。周吉に対しては、紀子は「わたくし」という自称で話すのだ。紀子の行為に謝意を述べる周吉に、紀子は「何にもおかまいできませんで」と返し、「ありがとう」と周吉があらためて礼を言うと「いいえ・・・」とバツが悪そうに俯く。
亡くなる前に紀子のアパートでとみが言ったのと同じことばを周吉も繰り返す。良縁があったら再婚してほしい、亡くなった息子のことは忘れてもらって構わない、と。さらに、周吉は、とみが紀子のことをこんなに、良い人はいないと褒めていたことを伝える。すると紀子は「お義母さま、わたくしのことを買いかぶっていらしたんですわ」と答え、「わたくし、ずるいんです。お義父様やお義母様が思ってらっしゃるほど、そういつもいつも省二さんのことばかり考えているわけじゃありません」と言う。
「ええんじゃよ、忘れてくれて」と周吉が言うと、紀子は「でも、この頃思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです」と答え、堰を切ったように言葉を重ねるのだ。この場面、カメラは、なぜか周吉の後ろ姿の向こうに紀子をとらえる。行く末の不安と未来に起こるかもしれない出来事への期待を必死に訴える紀子の表情は、無言の周吉の背中越しに見えるのだ。
「心の片隅で何かを待ってるんです。ずるいんです」と言う紀子に、周吉は「ずるうはない」と答える。「いいえ、ずるいんです。そういうことお義母様には申し上げられなかったんです」と紀子が返して、ここからカメラはまた紀子を近くでとらえる。周吉が「やっぱりあんたはええ人じゃよ。正直で」がと言うと紀子は「とんでもない」と顔をそむけて泣く。
涙をこらえている風情の紀子に、周吉はとみの形見の懐中時計を差し出す。このシーンにも鶏頭の花が映っている。ちょうど紀子の齢くらいからとみが持っていたという時計を紀子に、と言う周吉の言葉に紀子は涙をたたえた目で「すみません」とうつむく。そして、紀子の幸せを祈る、と周吉が続けると、紀子は手で顔を覆って泣き崩れる。
この後「主は冷たい土の中に」の曲が流れる。小学生の合唱のようである。小学校の校舎、バケツをもった子供たちが歩いている廊下、京子が算数を教えている教室が映される。教室の窓から外を見る京子。紀子の乗る汽車が轟音とともに疾走して行くシーンが危険なほどの近さで映される。
汽車の中で、懐中時計を見る取り出して、蓋を開け確かめる紀子。髪型を変え、ブラウスも変えて、周吉と対話していたときとは別人のようである。ニュートラルな表情だが、最後に何事か決意したような気配になる。汽笛が鳴る。
以上、「紀子物語」をざっとトレースしてみたが、これが『東京物語』の中でどのような役割を果たすのか、いまの私には解が見つけられないのである。紀子の行動については、まだあといくつか触れたい箇所もあるのだが、長くなるのでまた次の機会にしたい。もっとも根本的なのは、「堀切」という駅名が明示された荒川の土手下を中心とする場所が、なぜ「東京物語」の舞台に選ばれたのか、という疑問である。それは『東京物語』の構造にかかわる核心の問題なのだろうが。
ラストちかくの紀子と周吉の対決について、もう少し二人の心理の襞に立ち入って書かなければならないのですが、これ以上冗長な文章を続けるのも憚られるので、これもまた次の機会にしたいと思います。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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