2018年6月26日火曜日

小津安二郎『晩春』の謎__紀子と周吉の永劫回帰あるいは安珍清姫を巡る幻想__蛇というモチーフ

 『晩春』は原節子が演じる「紀子三部作」の第一作である。あまりにも有名な作品なので、改めてストーリーを紹介する必要もないだろう。父と二人暮らしで婚期を逸しかけている娘がようやく結婚する物語である。娘を思う父は、自分が再婚すると偽って、娘を結婚に追いやる。言ってみればそれだけの話で、シンプルなことこの上ない。父を慕う娘と娘を思う父との繊細微妙な心理の動きがきめ細やかに映像化されている。プロットの展開といい、映像の流れといい、どこにも不自然なところはないように見える。

  なので、これから書くことは、すべて私の独断と偏見に満ちた妄想かもしれない。

 この映画のテーマは「永劫回帰」であり、隠されたモチーフは「蛇」である。

 一分の隙もなく組み立てられた完璧な作品に対して、その一部を切り取って分析するのはどう見ても下品な行為のように思われるので、具体的な場面を取り上げるのは最小限にしたい。上記の「永劫回帰」と「蛇」の暗示は、まず、映画の導入部に登場する。

 「北鎌倉」の駅を映した映像は、一転、寺の境内でお茶会が行われているシーンになる。着物姿の紀子が登場する。席に座った紀子に叔母のまさが話しかける。夫の縞のズボンを切り取って息子の半ズボンにしてほしい、と頼むのである。風呂敷に包んだものをその場で紀子に渡す。この後、周吉がまさの家で紀子の結婚について話すシーンがあるが、部屋の中に縞のシャツがハンガーに掛かっている。まさの夫は一度も画面に登場することはないが、縞模様が好みらしい。

 お茶会の席に「三輪夫人」が登場するのも蛇を意識させる。まさと挨拶を交わす中年の女性の名前は後に明かされるのだが。ついでに言えば、この時紀子が着ている着物は鉄扇の模様である。あまり見かけない模様で花びらだけ描いているが、鉄扇はつる性の植物である。T.Sエリオットの「バーント・ノートン」という詩の中にも「身を屈め、からみつく」両義的な存在として登場する。

 この他にも蛇を暗示する映像は枚挙にいとまがない。洗濯物干しに紀子のストッキングが吊るされている。「多喜川」という割烹に周吉が忘れた手袋を紀子が家に持って帰ってひらひらとかざすシーン。「多喜川」は「瀧川」なのだろうが。ストッキングも手袋も抜け殻のイメージである。京都の旅館で帰り支度をしている紀子が、ストッキングを2枚重ねてぐるっと裏返して一つにまとめるシーンもある。「蝦蟇口」を拾ったから紀子が縁談を承諾するだろうと言ってまさが縁起をかつぐシーン。曾宮家の玄関脇の部屋に置かれ、頻繁に画面の隅に登場するミシン。ボビン窯の形が似ていることから名づけられたと言われるその名もずばり「蛇の目」である。

 蛇のモチーフが最も象徴的かつ重層的に用いられているのが、能「杜若」の舞台シーンである。延々六分ほど「杜若」の謡と舞が繰り広げられる。ここは原節子の眼の演技が有名であるが、謡と舞の舞台そのものにも注目してみたい。「杜若」は一幕もので短いが、伊勢物語の解説書のような内容で、かなり複雑である。『晩春』では後半部分が映像化されている。

 植ゑおきしむかしの宿の杜若 色ばかりこそむかしなりけれ 色ばかりこそ昔なりけれ
 色ばかりこそ 昔男の名を留めて 花橘の匂いうつる 菖蒲の鬘の 色はいずれ
 似たりや似たり 杜若花菖蒲 
 こずゑに鳴くは 蝉のからころもの 
 袖白妙の 卯の花の雪の 夜も白々と 明くる東雲のあさ紫の
 杜若の 花も悟りの心開けて すはや今こそ草木国土 すはや今こそ草木国土

 縁語、懸詞を多用した技巧的な文句が続くので、文字に起こしても意味が分かりにくい。舞台上では朗々と謡われるので、なおさらなのだが、繰り返される「あやめ」「から衣」は蛇の隠語であったり脱皮のメタファーである。「卯の花」_ウツギも茎が中空であることから命名されたそうである。これも脱皮のイメージにつながるのだろうか。

 シテの杜若の精は薄紫の衣裳をつけて演じることが多いようだが、この映画ではさらにその上に薄く透けて見えるものを重ねている。これは脱皮前の蛇のイメージとするのはあまりに強引だろうか。

 シテの舞の映像は「花も悟りの心開けて」の部分で終わり、「すはや今こそ草木国土」以下は謡の音声だけで、画像は大きく梢を広げた松の木に変わる。もう一度「すはや今こそ草木国土」と繰り返される。杜若のシーンはここで終わり、「悉皆成仏の御法を得てこそ 失せにけれ」の結びの部分は音声も映像も映画の中には存在しない。悉皆成仏は成らなかったのである。

 悉皆成仏は、蛇の寓意がさらに「安珍清姫」の伝承に具体化されなければ、成らなかった。安珍清姫の伝承は『大日本国法華経験記』『今昔物語』にその原形があるといわれる。熊野に参詣に来た僧安珍に宿を貸した清姫が恋慕し、逃げる安珍を追って蛇となって日高川を渡り、さらに道成寺の鐘の中に逃げ込んだ安珍を、清姫が口から吐いた炎で焼き殺してしまう話である。『大日本国経験記』『今昔物語』とも女は「伊の国牟婁の女」と記述されている。

 女は「紀」子である。安珍清姫はともに蛇界に転生するが、道成寺の住持の唱える法華経の功徳で成仏する。住持の夢に現れた二人は熊野権現と観世音菩薩の姿であった。紀子のお見合いの相手が「佐竹熊太郎」というのも「熊野」を連想させたかったものと思われる。それでもまだ「成仏」は成らなかったように思われるのだが、

 永劫回帰のテーマのについても書きたいが、すでにかなりの長文となってしまったので、また回を改めたい。ヒントをひとつ。冒頭大学教授の父とその助手が「リスト」という名前のスペルに「Z」があるとかないとか言っている。結論は、「z」はない、のである。それからラスト近く、周吉と紀子が京都を訪れて帰りの支度をしているとき、周吉が最後に旅行鞄に入れた本の題名は何だったろうか。

 下品な謎解きはしたくない、などと言いながら、どう見ても上品とは言えない文章になってしまいました。謎解きのさらに奥にあるものが、まだ掴めていないのです。紀子_蛇_? 「叔父様の縞のズボンを半分に切って」履かされる勝義が、バットをエナメルで赤く塗ってしまって乾かないために、野球の試合に参加できない、というエピソードは何を意味するのか。その試合のシーンで、バッターボックスに立っている子だけがユニフォームを着ていないのはなぜか、など、(おそらく)どうでもいいことばかり気になってしまうのも、病膏肓なのかもしれません。

 今日も未整理な文章を読んでくださってありがとうございました。
 

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