『憂い顔の童子』を読み始めてからもう三ヶ月になるのに、いまだに何も書けないままである。ひとつには私の生活が、ものを書いたりあるいは読んだりすることさえも厳しい状況にあった、といえなくもないのだが、それはやはり言い訳で、作品と私の間に「いま、これを書かなくては」というのっぴきならない緊張の関係が成り立たなかったのだ。大江健三郎の「良い読者」どころか「読者」であること自体に自信をうしなってしまいそうな気がする。
この小説の目次をみて気がつくことは、ひとつひとつの章がこれまでの大江の作品にくらべて非常に短い、と感じられることである。序章「見よ、塵のなかに私は眠ろう」から終章「見出された「童子」」まで二十一章ある。いったん通読すれば、章題を見てその内容を思い出すことができるので、章題は索引のような役割を果たしているようだ。
序章「見よ、塵のなかに私は眠ろう」は特に重要である。ここに、以下に続く物語のテーマがすべて呈示されている。主人公の作家長江古義人が谷間の森に帰って暮らし、「童子のこと」をするのは、死にゆく母の強い要請が誘引するものであった、ということ。古義人のもっともよき理解者であり、最も深い批判者であった母の言葉としてあるように、古義人の書くものは「ウソの世界」を思い描いたものであって、本当のことは「ウソに力をあたえるため」に交ぜるのだということ(その逆ではない、いうまでもなく)。そして最後に、章題「見よ、私は塵のなかに眠ろう」の出典であるヨブ記_義人の苦難をうたった長詩として有名である_とくにその七章21節
「今や、わたしは横たわって塵に帰る。
あなたが捜し求めても
わたしはもういないでしょう」
という敗北宣言である。だが、それはほんとうに敗北宣言なのか。
長男のアカリを連れて郷里に帰った古義人は、「ローズさん」という古義人の作品の研究者と同居して「童子のこと」にとりかかる。「童子」とは、五歳のとき自分を置いてひとり森に戻ってしまったコギーであり、コ・ギーであることから「ギー兄さん」と呼ばれる古義人の作品の主人公たち、また、明治の終わりに別子銅山の住友騒動で鉱夫の側に立って県警と採鉱課相手に調停した「(歴史上)はっきり実在した人物」とされる動(アヨ)童子、西南戦争で敗走する西郷隆盛が託した二頭の犬を世話し、遺された一頭とその仔犬の血筋を増やすことに一生をささげたという「老人になった童子」のことである。「童子のことをする」とは、「童子」について「書くこと」である。第十一章「西郷さんの犬を世話した童子」のなかで、ローズさんが古義人のノートに記された文章としてこう説明している。
《私の主人公が何故、東京という中心の土地に住まうことを止めて、周縁の森のなかに帰っていくのか?私の影武者でもあるかれは、自分の作り出した作品世界において根本的な主題を、はっきりいえばつまりノスタルジーのいちいちをあらためて検証しようとしているのです。とくに土地の伝承のうちにある、つねに少年として森の奥に生きており、この土地を危機が見舞う際、時を越えてその現場に出現し、かれらを救う「童子」についてあきらかにしよう、とめざしています。》
ここまで自作自解をやられると、みもふたもない感もするのだけれど、「童子」についてあきらかになったか、というと、そもそもあきらかにしようとする意図があったのか、と思ってしまう。あきらかになっていくのは、古義人を取り巻く状況の変容である。「谷間の森」と名づけられた郷里の人心は荒廃している。かつてそこが「根拠地」とされ、「教会」が建てられた「倉屋敷」は崩壊の寸前だ。古義人のスポークスマンでもある妹のアサさんも例外ではない。アサさんは古義人にとって、中立、公平な「社会との仲介者」でありながら、最も厳しい批判者でもあるのだ。実際に、「童子」のことを調べていく過程で、古義人は肉体にも精神にもさまざまなダメージを加えられる。
最初に、初代童子ともいうべき「亀井銘助」が描かれた絵を探して不識寺の松男さん(『燃え上がる緑の木』に登場し、「ギー兄さんの教会の信仰の中心的存在となる)を訪れた古義人が、納戸の上の「いかにも特別なあつかいを受けている感じ」の箱を取ろうとして、落下して納骨堂に突っ込んでしまい、逆さ吊りになった古義人に「引き取り手のない県出身のBC級戦犯」の遺骨が骨壷ごと降り注ぐ、という事件が起こる。たんなる事故ではないようで、松男さんと「三島神社の神主となった同志社出身の真木彦さん」がはかったことのようである。古義人の左足は「ギブスに捕われの身」になってしまう。
次に古義人が受けたダメージは、あきらかに真木彦さんのたくらみによるものである。真木彦さんは古義人の義兄である吾良の死について古義人と話すうちに、その真相をあぶりだそうとする。神主の真木彦さんは、土地の習俗である「御霊」の行進に、吾良と足を潰されたアメリカ兵の御霊を登場させる。吾良と古義人が高校生のときにかかわった事件があって「アレ」と呼ばれるのだが、かれらのせいでアメリカ兵が殺されたかもしれないのだ。吾良とアメリカ兵の御霊を見た古義人は恐怖とも怒りともつかぬ情動に突き動かされて森の中を走り出し、斜面から沢に墜落する。そうして左耳に裂傷を負ってしまうのだ。
真木彦さんはこれ以降も執拗に「アレ」を追及する。なぜ神官の真木彦さんが「アレ」と古義人にこだわるのか。作者は(もちろん古義人は、ではない)は真木彦を恋してしまったローズさんに、「古義人はこの世紀の変わり目の、真の小説家なんです。一方で真木彦は、あなたが想像力で作りあげた「救い主」を検討して、この土地で、それらを超えた「救い主」を現実に作り出したいんです。わかりましたか?真木彦は革命家なんです!」と言わせている。_______しかし、古義人が真の小説家であることはうなづけても、真木彦は革命家なのだろうか。また、彼が執拗にアレを追求して、というよりアレを利用して再び古義人にダメージを負わせ再起不能かもしれない状態にまで追い込むのは革命の戦略といえるのだろうか。
物語は後半、古義人が若い頃参加していた「若い日本の会」のメンバーが登場して、革命と童子とアレが複雑に入り組んだ展開をなしていくのだが、長くなるので、回を改めて続けたい。不出来で半端な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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