2014年11月3日月曜日

大江健三郎『宙返り』__「百合」というモチーフ

 いつまでも同じ作品にこだわっていて、発展がないのだけれど、もうひとつだけ考えてみたいことがある。「静かな女たち」と呼ばれるグループとその象徴ともいえる百合の花について、である。

 「静かな女たち」とは、師匠(パトロン)が宙返りした後も、信仰を守り続けた人々のグループで、「小田急線の急行でも新宿から一時間かかる距離の、田畑を残した住宅地帯」で、神奈川県の西南部にある閉鎖された小学校を改築して住んでいる、と書かれる。非常に具体的な記述で、グーグルで地図を開けばおよその場所が見当がついてしまう。

 いったい、大江健三郎の小説は、細部の描写が生き生きとリアルで、とくに食事の場面など、登場人物と一緒に料理を前にしているような錯覚におちいってしまう。そしてそれが、ある種の幸福感を読者にもたらすのだけれど、しかし、実はそのことが厄介なのだ。そうやって組み立てられたプロットが、たんに現実の出来事を記述するだけでなく、神話的なモチーフを暗示しているのではないか、と思われてならないからだ。

 「四月も終わりに近い土曜日の午後」師匠(パトロン)から新しい案内者(ガイド)になるよう依頼された木津と育雄は、「静かな女たち」が出家して生活している小学校を訪れる。季節はずれの雪が降りはじめるなか、彼らがそこで見たのは、校庭を掘り起こして立ち並んだビニールハウスのなかで百合を段ボールの箱に詰める女たちの姿だった。印象的なのは、無音で作業を続ける蒼ざめた女たちのたたずまいより、むしろ、「生なましく獣じみているほど強い百合の匂い」で、「木津と育雄は,気圧されて立ちどまっていた」と書かれる。

 何故「百合」なのか。百合は、「薔薇」とならんで古くから文学作品に登場してきた植物だが、おそらく、この場面では賛美歌(「うるわしの白百合」)にあるように、イエスの墓に咲いた、という伝承を踏まえているのだろう。
 
 
うるわしの白百合 ささやきぬ昔を、
 イエス君の墓よりいでましし昔を。

 四十数人の「静かな女たち」が次からつぎへと百合の花を段ボールに詰める作業をしていた、という描写は、彼女たちが生活の糧を得るための仕事をしていたという説明のためにだけなされたのではない。なりわいとして、「救い主」の葬送の準備をしていたということを暗示しているのではないか。

 ところで、「百合」には、もうひとつのイメージが重なり合う。それは旧約聖書「雅歌」で歌われる官能的な、恋人のメタファーとしての「百合」である。

 わたしたちの寝床は緑の茂み。
 レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。

 わたしはシャロンのばら、野のゆり。

 おとめたちの中にいるわたしの恋人は
 茨の中の咲きいでたゆりの花

 これはおそらく、バルザックの『谷間の百合』のイメージの源だと思われる。そして、この『谷間の百合』のパロディ、というか変奏曲とでもいうべきものが、作中の萩青年と津金夫人の恋愛であると思われる。物語の終盤、「静かな女たち」が集団で青酸カリを飲んで自殺することを知らされた萩青年が、二十五人の死体処理をやっている自分をイメージし、直後に津金夫人の生身の肉体を思うことで救いをもとめようとした、書かれている。「死」へのベクトルと「生」へのベクトルが「百合」の両義性において結びついているのだ。

 この作品に限らず、大江健三郎の紡ぎだす世界はさまざまな神話のイメージが満ちあふれている。それはけっして牧歌的なものだけではない。むしろ、どす黒い、グロテスクなものが潜んでいることが多い。(詳しく触れる余裕はないのだが、「静かな女たち」の代表の老婦人が「樫の木」に自分たちの集団をたとえているのも意味が深いと思われる。)一方、さりげない説明的な記述が、なかなか油断できない内容を含んでいることもあって、大江の作品はなんでもありの曼荼羅模様の感がある。『宙返り』はとくにそうであると思う。

 これでいったん『宙返り』の備忘録はおしまいにしようと思います。いつかきちんとしたものを書きたいと思っていますが、つくづく非力な自分を思い知らされています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

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