2014年10月12日日曜日

大江健三郎『宙返り』__片肢のない蝉__「踊り子(ダンサー)」とは何か

 前回私は「如何に書いたか」でなく「何を書いたか」をまず明らかにしなければいけない、と問題を提起した。さて、ところが「何を書いたか」がさっぱりつかめないのである。いっそ謎は謎のままでおいて、次の『取替え子』を読もうかと思った。だが、やはり気になるので、ごく細かい箇所で、あまり議論にならないような部分かもしれないが、私には非常に印象的な描写がなされているところを取り上げてみたい。『宙返り(下)』の最初の部分、四国の谷間の森のかつてギー兄さんが教会をたてた場所に、「無邪気な青年(この無邪気の意味もなかなか複雑である__無邪気はナイーヴイノセントか、あるいはその両方の意味をもつのか)」と称される萩という青年と踊り子(ダンサー)が師匠(パトロン)たちの先乗りとして入った翌朝の出来事である。

 
 地獄のように暗く静かな、雨に降り込められた夜が明けて、踊り子(ダンサー)は自分たちが泊まった家のすぐ下を無数の沢蟹が流れていくのを発見し、「新鮮な血」が流れている、と驚愕する。沢蟹は大江の作品のなかで重要なモチーフとなっている(『同時代ゲーム』の最後、語り手の「僕」が全裸となって森に入り、無数の沢蟹を食べて真っ赤な口になっているところを発見されたのを思いだす)が、その沢蟹を調べに行った踊り子(ダンサー)は、堰堤に降りる細道で胸部の片肢が第一関節までしかない蝉を見つける。羽化したばかりの蝉は蕗の葉に登ろうとしては転がり落ちるのだ。踊り子(ダンサー)はその蝉を萩青年に頼んで柏の枝にとまらせてやる。

 
 片肢がない蝉、という設定がまず、グロテスクである。そのような不具の生き物が羽化することがあるのだろうか、と疑問がわくのだが、作者はここに異形の存在を「虫」として呈示し、踊り子(ダンサー)の次の言葉を導きたかったのだと思われる。

__土のなかに千日も潜っていて、地上に出てみると樹にしがみつく肢が足りないのでは、さぞかし驚いたと思うわ。鳴き声がよくとおりそうな枝を選んで、とまらせてくれる?蝉が鳴くのは生殖のためでしょう?

 踊り子(ダンサー)の言葉はたんなる生き物への憐れみあるいは愛情の表現でないのはいうまでもない。この言葉と照応するのは、小説の末尾近く、最後の「大きな説教」のなかの師匠(パトロン)の言葉である。師匠(パトロン)は、ヒマワリの種を持ち去ろうとする五十雀が、恐慌に襲われたように、チチッと鳴くことに言及する。自分が「大きな瞑想」からこちら側にもどって案内者(ガイド)に喋った言葉はそのチチッに類したものだったと言うのだ。

 その師匠(パトロン)を踊り子(ダンサー)は「初めてあの人を見た時は、掘り起こされたばかりの甲虫の幼虫を思ったもの。黄ばんだ紙のような皮膚に柔らかそうな肉がつまっていて」と表現し「私は案内者(ガイド)が飼っている特殊な生き物を世話する気持ちだったもの。」と言っている。踊り子(ダンサー)とは何か。

 小説の最初に萩青年と踊り子(ダンサー)の出会いが描かれている。そこで踊り子(ダンサー)は「たいていの若者に充分魅惑的なはずの、若さと美しさをそなえた、加えて並なみならぬ個性もうかがわせる娘だった。」と書かれるが、より重要なのは次のような具体的描写である。「それこそこちらと抱き合って踊りたがってでもいるように、小柄で華奢な身体を近付けて親しくささやきかける。しかもその声に、たいてい批評的な鋭い言葉をのせてよこさずにはいられないのだ。」「黙っている際にも口をうっすらと開けてほの暗い赤さの口腔の奥まで見せている」その他にも、「細いがつよい頸」など踊り子(ダンサー)の身体の特徴は繰りかえし表現されるが、とくに、「踊り子(ダンサー)がいつも口を開けている」という特徴は折に触れて強調される。一方の萩青年の身体的特徴がほとんど描かれていないのに比べて、彼女のそれが執拗に繰り返されるのは何故だろうか。

 そしてそのような踊り子(ダンサー)について、無邪気な萩青年が「踊り子(ダンサー)の柔らかくささやくような話しぶりと、いつも口を開いている感じ___だからといって愚かしく見えるのではなくて、利発で機敏な動きをする表情の小休止というふうだ___との結合を寛大に見過ごす、少なくともニュートラルに受けとめるということがなかなかできなかったのであった。」と書かれるのである。

 この小説は師匠(パトロン)の「宙返り」の小説であるのはいうまでもないが、同時に奇怪な出会いをした育雄と踊り子(ダンサー)の小説でもある。少年育雄の抱いた「プラスチックの構造物」の「翼」で「処女膜を破られた」少女が、魁夷な若者となった育雄に「ヤレ!」と言った小説なのだ。

 とりあえずひとつの謎に挑んでみました。不出来な走り書きの文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

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