「作家・大江健三郎」は「反キリスト」である。『宙返り』の主人公「師匠(パトロン)」が反キリストだというのではない。『懐かしい年への手紙』から『燃え上がる緑の木』『宙返り』と宗教団体をテーマに小説を書いた作家・大江健三郎が反キリストなのである。そして私はそのことについて必ずしもネガティヴに捉えているのではない。少なくともいまのところは。
作品としての『宙返り』については、まだ卒読の段階なので詳しく書くことはできない。もっともっと読み込んで作品論を書けるようになってからいうべきなのかもしれない。だが、大江の長編としてはめずらしく三人称で書かれたこの『宙返り』はなかなか複雑で、何通りにも読めてしまうので、解釈の落ち着きを待っていては埒が明かないような気がする。何通りにも読めてしまう、それが作者の狙いであるのだろうが、どんな読み方をしても気になることがある。それを書かないでは先に進めないので、まずはそのことから書いてみたい。
大江は原水爆についてどう考えているのだろうか。先に『ヒロシマの生命の木』について書いた拙文でも触れたように、原水爆は純然たる経済行為である。爆弾投下は戦闘行為であるとともに、経済行為なのである。爆弾の企画、製作、投下=消費はお金をもってあがなわれる。広島、長崎への原水爆の投下は、莫大な利益を生む経済行為であって、自然災害ではないのだ。一方、『宙返り』のもう一人の主人公ともいうべき「案内人(ガイド)」の父のことばとして、作中次のようなことが語られる。
軍医という立場上、中国人への直接の残虐行為から免れていた自分は、復員して原爆で潰滅させられた長崎を見た。敬虔なカトリック信者だった妻は赤ん坊を残して殺されていた。
「自分は、これこそが神のおはからい、神の御業だと思う」
「ある場所で罪が行われる。罪に参加しなかった者も、その場所にいたということのみで、同じく罪のある者ではないか?」
「さらにいえば、神が人間に大きい罰をあたえる時、それは罪ある人間、罪のない人間を問わないのではないか?なにより人間であることこそが罰せられるのであるから」
括弧でくくった三つの文章は、そのままこの小説のもっとも重要なモチーフ「ヨナ書」のテーマであり、「よな」と記される重要人物「育雄」の問いの根本にあるものだと思うが、今は作品論に入ることをさけて、このような文章を書く大江健三郎という作家について考えたい。この三つの文章は先の3・11フクシマの直後、石原慎太郎が「天罰だ」と言ったのとどこが違うのか。共通しているのは「人間であることで罰せられる」という言いまわしである。
そうではないだろう。いま3・11フクシマはひとまずさておいて、広島、長崎は原爆投下を命じながら、みずからは絶対に安全な場に身を置いて、ぬくぬくと利益(必ずしも経済的利益だけではない)を手中にした人間たちがまず罪に問われるべきである。罰せられるべきである。原水爆というものの存在すら知らなかった大多数の庶民が一方的に残酷に殺されたのに、どうして彼らが「人間であるということ」で罰せられなければならないのか。人間が起した現実の出来事の実相を見ないで、その悲惨を「神のおはからい」といい、「その場所にいたということのみで、同じく罪のある者ではないか?」というのは支配者に都合のいいすり替えである。
案内者(ガイド)の父は、『人間であることこそが罰せられる」苦しみを生き続けるために生きるのであり、それを介して「悔い改める」ために生きるという。「「悔い改め」は『宙返り』の大きななテーマである。それは黙示録的終末とともに『宙返り』のなかで繰りかえし取り上げられるのだが、いまは作品からいったん離れて考えてみたい。「悔い改め」とはいったいどのようなことか。もっと言えば、何をしたら悔い改めたことになるのか。
作中の「静かな女たち」のように、俗世間から身を避けて、「祈り」に集中することなのか。「エフェソ人への手紙」を引用して「情欲から身を遠ざけ云々」とあるような禁欲的な生活をすることが「悔い改め」にいたるのか。そもそも、大江の作品にでてくるようなハイ・ブロウな人たちならいざしらず、私を含めた大多数の庶民に「悔い改め」は必要だろうか。「悔い改め」が必要なのは、まず第一に原爆投下にかかわったごく少数の支配者たちであろう。「師匠(パトロン)」と「静かな女たち」の「悔い改め」はまさに「宙返り」している。彼らはまず、空前絶後の悪をなした人間たちを「糾弾」しなければならないのだ。そして、ほんとうに罰せられるべきは誰かをあきらかにしなければならない。
作品論に入る前にのっけから刺激的な文章になってしまいました。『宙返り』はいままでに読んだ大江の小説の中で、ある意味一番面白く、魅力的な作品だと思います。もう少し熟読して、また書きたいと思います。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
3.11ですね。
返信削除過ちは繰り返しませぬから。
この碑文について、
広島を訪れたインドのパール判事が、
原爆を落としたのは日本人ではない。
アメリカ人の手はまだ清められていない。
と避難したそうです。
彼も、支配者に都合のいいすり替えを感じたのでしょうか。
もっともっと読み込んでから作品論をかく。
naokoさんの誠実な姿勢がすばらしいです。
貴重なコメントをいただきました。3.11なのだ、お前は何をしている!と背中に鞭うたれたように感じました。この作品は大江の「魂のこと」の総決算ともいえるものだと思います。そして、私はまだまだ読みきれていないのです。
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