どうして大江健三郎はこんなにもわかりにくいのだろう。標題の「みずから我が涙ぬぐいたまう日」のわかりにくさなど犯罪的ではないか、と思ってしまう。いま平行して読んでいる三島由紀夫のほうが、彼が頑なにこだわった旧字体と修辞的な文章に慣れれば、ずっと素直に読めてしまうような気がする。
この小説のわかりにくさの第一は、叙述の複雑さにあるだろう。語り手の作家がみずからを「かれ」と呼んで「同時代史」を語り、その語るところを「遺言代執行人」あるいは「看護婦」と呼ばれる「かれ」の妻(と推測される人間)が「口述筆記」をする、という体裁で叙述されるのだ。さらに二重括弧《》でくくられる地の文があるのだが、ここでも語り手の作家は「かれ」と呼ばれるので、読む側は、語られる内容が語り手の主観的な思い込みなのか、それとも客観的な事実なのかをしばしば混乱してしまう。これはアンフェアなやりかたではないか。
わかりにくさの第二は叙述される内容そのもののゆらぎである。いったい語り手の「かれ」は本当に癌なのか。物語の冒頭「いったい、おまえは、なんだ、なんだ、なんだ!」と叫んで登場する男(これがじつは「かれ」の母親であることがラスト近くで示唆される)と「おれは、癌だ、癌だ、肝臓がんそのものがおれなんだ!」という「かれ」とのやりとりは夢なのか、それとも現実なのか。
また「かれ」の語る「同時代史」___「あの人」と呼ばれる父親(らしき人物)の追憶は真実なのか。満州に渡って何やら策動していたものの、一九四二年春日本に戻るとそのまま郷里の家の倉に閉じこもり、一九四五年敗戦の日まで水中眼鏡をかけ、ラジオのヘッドホーンを放さなかったという「あの人」の行動の意味するところは何か。
そして最後の「蹶起」の日___末期の膀胱癌で出血の止まらない身でありながら木車に乗せられて「あの人」が郷里を出ていったのは八月十五日の敗戦の日なのか、それともその翌日なのか。そもそもそれはほんとうに「蹶起」だったのか。
こうしたわかりにくさを増幅する、というよりわかりにくさの根源が「かれ」の母親である。「かれ」の追憶の中で語られる母親はつねに「あの人」と呼ばれる父親を否定する存在である。母親の祖父は「明治四十五年に摘発された、戦時においてはおよそそれを口にだすこともはばかられる事件に関係があった模様」の人物であり、母親は中国大陸で育ったのだが、「かれ」の長兄が軍を脱走すると、「かれ」の両親の対立、憎悪は決定的なものになる。「かれ」自身は、膀胱癌でありながら極度に肥満して自らの用をたせぬ「あの人」の側について、「あの人」と倉で一緒に暮らす「ハピィ・デイズ」を送る。その追憶の日々を、いま「かれ」は happy days are here again という歌をうたいつつ語る。そして、みずから「あの人」の遺品の水中眼鏡をかけ、肝臓癌の末期患者となることで「あの人」の事跡の追体験を試みるのだが、その「ハピィ・デイズ」をことごとく否定したのが母親なのだ。
その母親が物語りの後半、突然二重括弧でくくられた地の文に登場する。そこで彼女は、「かれ」の「ハピィ・デイズ」の頂点ともいうべき蹶起の真相について、「かれ」の言葉を真っ向から否定するのだ。「かれ」は、「あの人」が血まみれの身ながら脱走兵たちを率いて蹶起したという。バッハの受難曲を高唱する兵隊たちに曳かれた木車に乗せられた「あの人」とともに「かれ」自身も進んで行った。軍の飛行場に乗りこんで戦闘機を奪い大内山を爆撃するという計画は、しかし、当然のことだが失敗した。軍資金を調達すべく、母親の持っていた株券を現金化するために立ち寄った銀行を出た途端、「あの人」は撃ち殺され、将校以外の兵隊たちも銃殺されてしまったのである。
「かれ」の語る蹶起の真相はこうである。「それはまさに市街戦だったのだ、しかも頭上には日本軍かアメリカ軍か、おそらくは双方の戦闘機が低空飛行して、轟々と市街を鳴りひびかせていたのである。・・・・・・・・一九四五年八月十五日、天皇は人間の声でかたるところのものたるべく地上に急降下した。その天皇が八月十六日、あらためて急旋回、急上昇をおこなおうとしていたのだ。いったんは爆死せざるをえないにしても、国体そのものとして、あらたによみがえり、かつてよりなお確実に、なお神的に、普遍の菊として日本のすべての国土、すべての国民を覆う。巨大な紫色の背光に、オーロラのような輝きをあたえられた黄金の菊の花として現前する。わが国の歴史に立つ数多い神々が、いったん人間の声で語るものへと急降下した天皇に、国体の威厳を再逆転させるため、飛行する殉死者の爆弾によるみそぎをこそもとめるということがありえなかったろうか?」
このみそぎこそ、まさに純粋天皇誕生の瞬間である。だが、「かれ」が実際に見とどけたのは、天皇ではなく「あの人」の死であり、その死の瞬間にあらわれた「巨大な紫の背光にかこまれた輝く黄金の菊の花」だったのである。
母親が突然行動に出たのは「かれ」がここまで語り終わったときである。彼女は「かれ」が片時も外さなかった父親の遺品の水中眼鏡をひきずりあげて、眩しさのために滲ませた「かれ」の涙を手慣れたやりかたでぬぐいとってしまう。そして「かれ」のことばを真っ向から否定しはじめるのだ。「あの人」は最初から本気で大内山を爆撃する気などなかった。現実に「あの人」が株を換金した金は将校に持ち逃げされ、銀行を出た途端「あの人」と兵隊たちを撃ち殺したのは、別の銀行強盗のグループだった。「あの人」が「かれ」をつれていったのは「口にだすこともはばかられる事件」を起した人間を祖父にもつ子だったからで、にせ蹶起の失敗にそなえたアリバイつくりのためである。「かれ」もそれがわかっていたから、撃ち合いが始まる前に逃げ出したのだというのだ。
彼女の語る真相はこうである。「自分の躰のなかに大逆罪をおかすような者の血が流れており、いつそれがはっきり形をとって動き出すのかと、心底恐れていた子供が、実際これから大内山を襲撃するのだというようなことをいわれると、責任はみな自分の躰にあって、自分の躰を流れる血が、国の歴史をひっくりかえすようなことをひきおこす手引きになるのだと考えて、それでどこまでも、どこまでも、自分自身の躰からさえも、逃げ出してしまいたいと思ったんですが!・・・・・・・」
母親と「かれ」と、狂気ははたしてどちらだろうか。あるいは、どちらも狂気なのだろうか。「神話か歴史のなかの、架空にちかい人物のように響く」と「遺言代執行人」にいわれる「あの人」は実在するのか。これらの疑問に解を与えるのでなく、さらに決定的に混乱に陥れるのが、冒頭に登場するヒゲダルマ風の男がじつは変装した母親だったという結末である。もしかすると、この小説は読者を混乱に陥れるために書かれたのではないだろうか。
以前「アンフェア」というテレビドラマがあったが、この小説も「アンフェア」ではないか。そして、「かれ」がくりかえし歌う happy days are here again という歌もまたアイロニーに満ちている。この歌は一九二九年十月ニューヨーク株式市場が大暴落したときにイントロデュースされ、続く大恐慌の時代にルーズベルトが大統領選挙のテーマ・ソングにしたことで大流行したのだ。軽快なテンポとリズムにのって happy days are here agein と歌いまくり、ルーズベルトは不利といわれていた大統領選に勝った。そして日米戦争が導かれていったのである。
この難解な小説のとりあえずの途中経過報告です。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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