『同時代ゲーム』の読みに難渋しております。SFあるいはファンタジー、さらには網野民俗学とも絡めて読みたくはない天邪鬼な私は、めくらめっぽう資料をあさるうちに、作品とはほとんど無関係かもしれない事実を発見することが多々ありました。それに導かれて、いままで気がつかなかった事が重要な意味を持つのではないか、と思うようになりました。その一つが、以前ブログの開設まもなくとりあげたレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』に登場するテリー・レノックスの「ぼくはソルト・レーク・シティの孤児院で育った」という言葉のもつ意味です。
高級クラブの駐車場で正体をなくすほど飲んだくれていたテリー・レノックスを自宅に連れて行って介抱した探偵マーロウは、再びぼろくずのようになった彼が留置場にほおり込まれるのを救う。そして三度目にマーロウの前に現れたとき、彼は一度離婚した億万長者の娘シルヴィアと再び結婚していており、もはや酔いつぶれるような人間には見えなかった。テリーとシルヴィアの結婚生活に疑問をもつマーロウに、彼は「なぜ彼女がぼくをそばにおきたがっているかを考えるべきだ。ぼくが繻子のクッションにすわって頭をなでられるのを辛抱づよく待っている理由なんか考えないでいいよ」と言う。「君は繻子のクッションが好きなんだろう」と言うマーロウにテリーはこう答える。「そうかもしれない。ぼくはソルト・レーク・シティ・の孤児院で育った」
チャンドラーの読書暦?十年、いままで「ソルト・レーク・シティの孤児院」という言葉はたんに「親のいない、したがって貧しい子の生活する場所」の意味でしか理解してこなかった。それは間違ってはいないが、事柄の半分しかとらえていなかったのだ。「ソルト・レーク・シティ」という記号はより複雑で多義的な意味をもつ。ソルト・レーク・シティは末日聖徒キリスト教会(モルモン教会)がユタ州の荒地に開拓した都市で州の金融、経済の中心地なのである。だが、もっとも重要なのは末日聖徒キリスト教会が長く一夫多妻の生活を送ってきたと言う事実だ。「ぼくはソルト・レーク・シティの孤児院で育った」というテリーの言葉の背後にある状況に注意を喚起しなければならない。一般的なな日本人からみればかなり特殊な共同体の中で、どういう子供が「孤児院で」育たなければならなかったのか。そしてそれは、テリー・レノックスの一生にどんな意味をもつのか。
だが、今はこれ以上の分析はしたくない。テリー・レノックスについても、作品そのものについても。ことばにするにはもう少し時間が必要な気がする。ただ、最後マーロウに「君はぼくを買ったんだよ、テリー。なんともいえない微笑やちょっと手を動かしたりするときのなにげない動作やしずかなバーで飲んだ何杯かの酒で買ったんだ」「まるで五十ドルの淫売みたいにエレガントだぜ」といわれるテリーの悲劇はこの世に生きるだれにとっても無関係な出来事ではないことを言っておきたい。テリー・レノックスは若い日の純粋な愛をつらぬけなかった。それを阻んだのは戦争だった。そして年を経て、抜け殻となった愛を償うために犯罪に加担する結果となってしまう。もし、その愛がそれほど激しく純粋でなかったなら、もし戦争が愛を阻むことがなかったら、そして、もし彼が抜け殻となった愛を償おうとしなかったなら、悲劇は起こらなかった。
ほんとうはもう少し突っ込んだ分析を書きたかったのですが、何だかことばにしたくなくなってきました。今の段階でことばにしてしまうと、この作品の印象を薄っぺらなものにしてしまうような気がします。文学作品は精神分析や社会学的考察の素材ではないので、この小説の馥郁とした香りと奥の深さを伝えながらものが言えるまで、もう少し研鑽を重ねたいと思っています。
今日も拙い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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