2024年12月25日水曜日

宮澤賢治『銀河鉄道の夜』再考___誰がカムパネルラを殺したか___最終稿に見る断念と希望                                         

  カムパネルラを殺したのは、いうまでもなく作者賢治である。右手に時計をもって「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」と父親に宣告させ、賢治がカムパネルラを死なせたのだ。そして、カムパネルラは賢治である。賢治はカムパネルラを殺して、自分に罰を与えたのだ。『ポラーノの広場』のレオーネ・キューストと同じように。

 前回の投稿で、カムパネルラのモデルについて、保坂嘉内と妹のとし子をあげ、おおむねそれで間違っていないと思うと述べたが、いまは賢治その人がカムパネルラだと考えている。それだけでなく、『銀河鉄道の夜』という作品そのものを根本から見直さなければならないと思う。

 『銀河鉄道の夜』は、初稿、第二次稿と書き継がれ、第三次稿でいったん完成されたかに見えた作品だった。だが、賢治は最終稿で完全に結末のベクトルを変えてしまった。結末の部分がどうなっているか、繰り返しになるが、もう一度確かめたい。

 初稿、第二次稿では、カムパネルラがいなくなると、ジョバンニが
 「さあ、やっぱりたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」

と叫ぶ。そのことばにこたえるかのように、まっくらな地平線の向こうに青じろいのろしうちあげられる。昼間のように明るくなった汽車の中で、ジョバンニは
 「あゝマジェラン星雲だ。さあ、もうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」と宣言する。すると、「セロのやうな声」がして、ジョバンニに、汽車の中で車掌に見せた「切符」をしっかり持って、現実の世の中を歩いて行くようにはげます。その声がしたと思うと、天の川は遠くなって、「あのブルカニロ博士」が現れ、ジョバンニの体験が博士の実験だったといい、彼に金貨を二枚くれる。

 第三次稿でもおおむねプロットは変わらないが、「セロのやうな声」の人は、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」の姿をしてあらわれ、カムパネルラの座っていたところにすわり、ジョバンニに語りかける。そして、詳しく、具体的に、宇宙の真実のようなものをジョバンニにおしえ、不思議な実験を彼にほどこすのである。さらに、その人がジョバンニに「プレオシスの鎖」を解かなければいけない、というと、青じろいのろしがあがり、ジョバンニはマジェラン星雲に誓いをたてるのだ。

 そのあと、再び「セロのやうな声」がして、ジョバンニをはげまし、天の川が遠くなって、「あのブルカニロ博士」が登場し、ジョバンニにこれが実験であると伝える部分は前二稿と同じである。前二稿と異なるのは、「セロのやうな声」のひとと「あのブルカニロ博士」と二人がジョバンニを実験の対象としていることである。「セロのやうな声」の人がした実験も含めて、ジョバンニの銀河鉄道の旅の体験すべては「あのブルカニロ博士」のした実験であって、ジョバンニに対して二重の実験がされたことになっている。

 これは前ニ稿へのかなり大きな改変だと思うが、最終稿は、何と、この部分を完全に削除してしまっている。「青じろいのろし」、「マジェラン星雲」「セロのやうな声」「あのブルカニロ博士」といった印象的な表象はすべて消され、ジョバンニの持っているとされた「切符」も、かれに与えられた「二枚の金貨」の話もない。ジョバンニをはげまし導いてくれるメンターも、お金をくれていつでも相談にのってくれるというパトロンも消えてしまう。いうまでもなく作者賢治が消したのである。第三次稿まで紡ぎあげてきた物語は、最終稿でハッピーエンドから一転、何もない空間に読者を放り出してしまう。

 胸を熱らせ頬につめたい涙を流してジョバンニは夢からさめる。注意しておきたいのは、彼の銀河鉄道の旅の体験が夢だったと明言されるのは最終稿だけである。それまでの三稿では、「セロのやうな声」がしたと思うと天の川が遠ざかり、風が吹いて、ジョバンニは「まっすぐ草の丘にたってゐる」自分を見るのだ。それは夢と現実の二項対立ではなく、銀河鉄道の旅の体験とひとつながりの現象なのである。自分で自分の姿を見る、という不思議な現象であるが。

 夢から覚めたジョバンニは、病気の母親のことを思い出し、走って丘を下りさっき断られた牛乳をもらいに牧場に行く。今度は白いズボンをはいた人が出てきて、まだ熱い牛乳瓶が渡される。そのあと、ジョバンニは、牧場を出て家に向かうが、町の十字路で女たちが集まって、橋のほうを見ながらひそひそ話しているのを見て「なぜかさあっと胸が冷たくなったやうに思ひました。」と書かれる。カムパネルラの溺死という事実を知る前に、ジョバンニは戦慄を感じたのだ。

 カムパネルラは、烏うりを流そうとしてあやまって川に落ちたザネリを救うために飛び込んで、その後見えなくなってしまった。たくさんの人が集まる中、黒い服を着た「青じろい尖った顎をした」カムパネルラのお父さんが、カムパネルラの死を宣告する。もう四十五分たったから駄目だ、と。なぜ四十五分が期限となるのかわからないのだが。

 『銀河鉄道の夜』の読者は、汽車に先に乗っていたのが「ぬれたやうなまっ黒な上着を着た」カムパネルラであり、そのカムパネルラは「少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいといふふう」と書かれているのを知っているので、カムパネルラの死を違和感なくうけいれてしまう。だが、そもそも、なぜ、カムパネルラは死ななければならなかったのか。あるいは、なぜ、ザネリを救うために死ななければならなかったのだろう。ほかでもない、ジョバンニを辱め、執拗に苛めたザネリを助けるために。作者はどうしてこんな皮肉な設定にしたのか。

 多くの読者は、とくに第三次稿の中で、ジョバンニのカムパネルラへの思慕が縷々つづられているのを読んで、無条件に二人が親友だと思っている。ほんとうにそうだろうか。親友だったら、苛められ辱められている友を見過ごして、高く口笛を吹いて遠ざかっていくことなどできるだろうか。カムパネルラはジョバンニを裏切り続けたのだ。そして、その報いに殺されたのだ。作者賢治に。

 そして、冒頭書いたように、カムパネルラは賢治である。『銀河鉄道の夜』を先入観なしに読むことができたら、カムパネルラは賢治とほぼ等身大に描かれていることに気がつくだろう。「せいが高い」ことなどささいな違いはあるが。自分と等身大に描いたカムパネルラに、友を裏ぎらせ、その報いに死を与える作者賢治の屈折、挫折そして自罰の念は、いつから、どこからきたのだろう。

 第三次稿から最終稿への変化は、結末部分だけではない。初稿と第二次稿の前半部分が欠落しているので、断定はできないが、最終稿の冒頭「午后の授業」から「活版所」「家」まで、かなり長い部分は最終稿で書き加えられたもののようである。ここには、銀河鉄道に乗るまでのジョバンニの生活が具体的に時系列に沿って書かれている。

 ジョバンニは毎日学校の授業の前後にはたらかなければならないので、どうしても勉強に身が入らない。先生に指名されても、わかっているはずのことに自信がもてず、こたえられなくて浮き上がってしまう。授業が終わると活版所に行って活字を拾う仕事をする。一緒に働いている労働者から「虫めがね君」と呼ばれて冷たくわらわれるが、六時過ぎまで働いて銀貨を一枚もらう。 

 仕事を終えたジョバンニはパンを一塊と角砂糖を買って家に帰る。角砂糖は母親に飲ませる牛乳に入れるのである。「あゝジョバンニ、お仕事がひどかったらう。」と彼を迎えた母親は、白い巾を被って寝ている。ジョバンニは、姉がつくってくれたトマトのおかずでパンをたべながら母親と会話している。話題は不在の父親のことである。ジョバンニは、北方の漁に出ている父親はまもなく帰ってくると思っている。母親もそう思っていると言いながら、父親は漁には出ていないかもしれない、とも言う。言外に、監獄に入っているかもしれない、とにおわせている。

 それにたいして、ジョバンニは、父親がそんな悪いことをしたはずはない、と言う。父親は前回巨きな蟹の甲羅やとなかいの角を持って帰り、学校に寄贈したのだ。この次はジョバンニにラッコの上着をもってくる、ともいっていたのだが、そのことがジョバンニが苛められる理由になっている。

 不在の父親については、第三次稿でより詳しく書かれている。ザネリに「お父さんから、らっこの上着が来るよ。」とからかわれたとき、ジョバンニは心の中でこう思っている。

 「ザネリは、どうしてぼくがなんにもしないのに、あんなことを云ふのだらう。ぼくのお父さんは、わるくて監獄にはひってゐるのではない。わるいことなど、お父さんがする筈はないんだ。去年の夏、かえって来たときだった、ちょっと見たときはびっくりしたけれども、ほんたうはにこにこわらって、それにあの荷物を解いたときならどうだ。鮭の皮でこさへた大きな靴だの、となかいの角だの、どんなにぼくは、よろこんで跳ね上がって叫んだかしれない。・・・・・・・。」

 第三次稿で、ジョバンニが「お父さんは、わるくて監獄にはひってゐるのではない。」と思っているということは、彼は、父が監獄に入っていることは事実として受けとめていることになる。ところが、最終稿では、ジョバンニは、「お父さんが、監獄に入るやうなそんな悪いことをした筈がないんだ。」といっているので、監獄に入っているかどうかは不明である。共通するのは、父親が「となかいの角」「蟹の甲ら」「らっこの上着」など、動物を屠ってこしらえたものを持って帰る、と書かれていることだ。「蟹の甲ら」は第三次稿では「鮭の皮でこさえた巨きな靴」となっていて、こちらの方がより生々しい印象がある。ジョバンニの父親の職業は何だろう。

 「となかいの角」や「蟹の甲ら」は違法な獲物ではないかもしれないが、「らっこの上着」については、漁獲に関して禁止、規制の法律が定められているので、違法の可能性がある。ジョバンニの父親は、監獄に入っているかどうかは別にしても、何らかの違法行為を犯しているかもしれない。ジョバンニはたんに「病気の母親の面倒を見ながら家計を支えるけなげな少年」として描かれるだけでなく、出自に何か暗い闇の部分をかかえる複雑な存在として登場する。ジョバンニにたいする差別、執拗な苛めの原因は彼を取り巻く闇の部分にあるのだろう。作者はそれをあえて明らかにしないのだ。

 第三次稿から最終稿への過程で、第三次稿の結末部分の削除と、カムパネルラの死、「午后の授業」「活版所」「家」の部分の加筆と、どちらが先だったかわからない。同時並行的に行われた可能性もあるだろう。銀河鉄道に乗るまでのジョバンニについては、第三次稿では、彼の心理に即して語られているので、それを整理し、客観化して最終稿に組みなおしたともいえる。

 いずれにしろ、最終稿のジョバンニには、何もない。メンターもパトロンも誰もいないし、道しるべとなる切符もお守りのような金貨もない。彼は孤独だ。そして自由である。もう彼は博士の実験の対象ではないのである。

 ジョバンニからいっさいを奪って、現実の中に立たせたもの、それは作者の大きな断念だろう。最終稿のジョバンニは、マジェラン星雲に向かって誓いをたてることもない。病気の母親のために、牛乳を受けとりにもう一度牧場に行き、今度は熱い牛乳瓶をもらって帰るのだ。希望があるとすれば、カムパネルラの父が、ジョバンニの父から無事の便りを受け取った、と知らせてくれたことかもしれない。

 不思議な、謎にみちた銀河鉄道の旅の終わりに、ジョバンニはあたたかい牛乳を受け取り、父の無事を知らされる。金貨二枚がもたらされるハッピーエンドはなくなったが、ここに救いが、そして希望の光が、微かだが確かにに見いだされるような気がする。 

 『銀河鉄道の夜』について、いくつも投稿してきましたが、何か違う、何も言えていない、という消化不良の思いを拭いきれませんでした。賢治の作品は、今までにもいくつか取り上げて書いてきましたが、今回が一番七転八倒して、なおかつ一番不出来だと思っています。今回満足にほど遠いながら、何とか最後まで書くことができたのは、鈴木守氏の「みちのく山野草」というブログに助けられたことが大きかったと思います。連日の鈴木氏の投稿が、生活者賢治のいきづかいを伝えてくれるような気がしました。本当にありがとうございました。

 今日も未熟な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

 

              

2024年11月28日木曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の旅の夜』__旅の終わりに___カムパネルラの消失から死まで

  前回の投稿を終えて、ずっとカムパネルラのことを考えている。カムパネルラとは何だったのか。

 カムパネルラについては、今回『銀河鉄道の旅の夜』を読み直すにあたって、最初に「カムパネルラという存在とその消失の意味するもの」と題して書いている。興味のある方はそちらを参照していただけるとありがたい。今回あらためて考えてみたいのは、「カムパネルラとは何か」あるいは「ジョバンニとは何か」である。

 前回「カムパネルラという存在とその消失」でも述べたように、第三次稿で具体的に記されたジョバンニとカムパネルラのかかわり、そして縷々と綴られたジョバンニのカムパネルラへの切ない思いは最終稿ではほとんど削除されてしまっている。代わりに、病気で臥せっているジョバンニの母とジョバンニとの会話のなかで、少し不思議なことが語られている。

 「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまへたちのやうに小さいときからのお友達だったさうだよ。」これはジョバンニの母のことばだが、「あの人=カムパネルラ」が「うちのお父さん」と「小さいときからのお友達だった」とはどういうことを意味するのだろう.

 「あの人のお父さん」と「うちのお父さん」が小さいときからの友達だった、と言っているのではない。ややこしい話だが、「あの人=カムパネルラ」が「うちのお父さんの友達だった」と言っているのである。作者賢治の書き間違いだろうか。ジョバンニの同級生のカムパネルラがジョバンニの父と「小さいときからの友達だった」という状況は普通はあり得ない。また、ジョバンニの母の「小さいときからのお友達だったさうだよ」という言葉は、母がジョバンニの父からカムパネルラとジョバンニの父が友達であると聞いていたことを示している。

 ところで、『銀河鉄道の旅の夜』の多くの読者は、ジョバンニのモデルは作者賢治であり、カムパネルラのモデルは賢治の思慕の対象となった保阪嘉内、あるいは亡くなった妹のとし子を想定していると思う。おおむねそれで間違ってはいないと思うが、ジョバンニとカムパネルラの人物造型は少し複雑である。

 ジョバンニは父が不在で、貧しく、病気の母の面倒をみながら、学校の前後に働かなくてはならない。そのため同級生にいじめられ、疎外されている。この状況は賢治とまったくかけ離れたものである。賢治はむしろ、何不自由ない暮らし向きのカムパネルラと同じ境遇だった。では、ジョバンニは賢治とまったくことなった人物として描かれているのかといえば、もちろんそうではない。

 「天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとここさへなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」サウザンクロスの駅で降りる支度をしている女の子にかけたジョバンニのことばだが、これは賢治の思想だろう。この後、クリスチャンの青年とジョバンニは「たったひとりのほんたうのほんたうの神さま」について神学論争をはじめるのだが、結論は出るはずもない。ほかならぬ「ここで」、「天上よりももっといゝとここさへなけぁいけない」とは、賢治の至上命題で、ジョバンニはまさに賢治の代弁者である。

 そのジョバンニを、なぜ賢治は自身と正反対の境遇においたのか。おそらくそれは、「みんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」主人公を、経済的、あるいは政治的にも賢治の属する階層とは異なった階層の人間として設定したかったのだと思われる。そして、それは、旅の途中で唐突に新大陸のインディアンや「星とつるはしの旄」が登場することにつながっているのではないか。

 賢治とほぼ重なる境遇のキャラクターとして造型されたのは、先に述べたようにカムパネルラの方である。裕福な家庭に育ち、学力も高く、絵も上手で、「運動場で銀貨を二枚弾いてゐたりしていた。」と第三次稿で書かれている。もっともこの部分は最終稿では完全に削除されてしまっているのだが。

  では、カムパネルラは銀河鉄道の旅の中で、何をしたのか。

 ひとことでいえば、何もしていないのだ。何もしていない、といえば語弊があるかもしれない。先に汽車に乗ったが、ジョバンニの同行者として最後まで彼の傍らに「ゐた」のである。

 ジョバンニが持っていない「銀河ステーションでもらった地図」をもっていて、旅の途中都度々々地図を開いて、現在地とその状況を確認するのがカムパネルラだった。天の川の砂を見て、「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。」と言ったり、河原に列をなしてとまっている鳥が烏でなくかささぎであると判定したり、自然科学の知識が特に豊富なようだ。空を渡る鳥の大群に旗を振って信号を送る渡し人が現れる場面では「どこからかのろしがあがるため」だろうと推測したりしている。両岸に「星とつるはしの旄」が立つ川に発破がしかけられ、鮭や鱒が打ち上げられる場面では、ジョバンニとともに小躍りして喜んでいる。

 『銀河鉄道の旅の夜』は三人称の作品だが、一貫してジョバンニの心情から語られているので、カムパネルラが何を考えているかはわからない。ほぼジョバンニと重なっているように見えるが、二人の距離は稿を重ねるごとに微妙に離れていく。少し煩雑になるが、サウザンクロスでほとんどの乗客が降りたあとのジョバンニとカムパネルラの会話を比べてみたい。

 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねぇ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼ひてもかまはない。」(下線は筆者)
 「うん、僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
 「けれどもほんたうのさいはいは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
 「僕わからない。」カムパネルラはさうは云っていましたがそれでも胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をしました。
 「僕たちしっかりやらうねぇ。」ジョバンニが云ひました。

 これが初稿だが、第二次稿もほとんど同じである。ただジョバンニのことばから「そしておまへのさいはひのためならば」が削除されている。第三次稿と最終稿ではこうなっている。

 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねぇ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼ひてもかまはない。」
 「うん、僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
 「けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
 「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。(下線は筆者)
 「僕たちしっかりやらうねぇ。」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。(下線は筆者)

 初稿では、ジョバンニはカムパネルラを前にして「そしておまへのさいはひのためならば」僕のからだなんか百ぺん灼ひたってかまはない、と言っている。はっきりと、カムパネルラそのひとを対関係の対象にすえている。

 第二次稿では「そしておまへのさいはひのためなら」は削除され、「おまへのさいはひ」は「みんなの幸」と集約され一般化されている。さらに第三次稿と最終稿では、それまでの稿と以下の二点で明確に異なっている。

 ひとつは、初稿と第二次稿では、本当の幸いはなんだろう、というジョバンニの問いにカムパネルラは「僕わからない」と言いながら、「それでも胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をしました。」と書かれているのに対し、第三次稿と最終稿では、「「僕わからない」カムパネルラがぼんやり云ひました。」となっていること。また、「胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をしたのは、カムパネルラではなく、ジョバンニなのだ。

 初稿から最終稿まで、ジョバンニの傍らにいるカムパネルラは、「きれいな涙を「うかべて」ジョバンニに共感するたたずまいはかわらないが、最後は「ほんたうのさいはひはなんだらう。」というジョバンニの問いに「僕わからない」と「ぼんやり」言うだけなのだ。ジョバンニひとりが「「僕たちしっかりやらうねぇ。」と「胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をした。」のである。賢治は、ジョバンニから完全ににカムパネルラを引きはがしたのだ。

 「僕たちしっかりやろうねぇ。」とジョバンニが言った直後「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」とカムパネルラが天の川に空いた大きなまっくらな孔を指し示す。そして彼は「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」というジョバンニに「あゝきっと行くよ。」と言いながら消えてしまう。

 注意しなければならないのは、初稿と第二次稿では、カムパネルラは「いなくなった」のであり、必ずしも「死んだ」ことにはなっていないことだ。というより、作者の関心は「さあ、やっぱりぼくはたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」(下線は筆者)というジョバンニの決意表明にある。そしてジョバンニは「セロのやうな声」の主に、切符をしっかりもって、厳しい現実を歩いて行くよう訓示をうけ、次に現れた「ブルカニロ博士」から金貨を二枚もらって帰途に向かう。

 第三次稿のカムパネルラは、「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」というジョバンニに「あゝきっと行くよ。」といった後「あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集まってるねぇ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ。」と叫んで消えてしまう。カムパネルラの消失に慟哭しているジョバンニに声をかけたのは、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」だった。その人はカムパネルラが「ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。」といい、もうさがしてもむだだ、と彼の死を示唆する。

 『銀河鉄道の旅の夜』の成立論を始めるつもりはないのだが、第三次稿はそれまでの二稿に比べて、かなり異色である。初稿、第二次稿は前半が欠落しているので、一概にいえないが、第三次稿は分量が前の二稿の倍以上になっている。とくに、カムパネルラが消えた後に不思議な人物が現れるが、その人物がジョバンニに世界の真理を説く部分が長いのである。

 前の二稿では「セロのやうな声」がして、ジョバンニを励まし、「天の川のなかでたった一つのほんたうの切符」を持って「本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐ歩いていかなければならない。」という。それから、「あのブルカニロ博士(欠落している前半部分にすでに登場しているのだろうか)が近づいてきて、ジョバンニの銀河鉄道の旅の体験が「遠くから私の考えを伝える実験」であり、「これから、何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」と言って、金貨を二枚ジョバンニに与える。

 第三次稿では、消えたカムパネルラの座っていた席に「「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」が「優しく笑って大きな一冊の本をもって」いた。そして、その人は、カンパネルラの死を示唆した後、人生と世界の秘儀について長い講釈をするのだが、私の能力ではそれを要約することができない。おそらく仏教の宇宙観、もしかしたら三島由紀夫が「暁の寺」で精緻な説明を試みていた阿頼耶識のことかもしれない。それからその人はジョバンニに不思議な実験をする。

 「そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものがじぶんの考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんながいっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。」

 前の二稿はブルカニロ博士が実験をしたのだが、第三次稿ではカンパネルラの席に座った不思議な人が汽車のなかでジョバンニに実験をする。だが、この後またしても「あのブルカニロ博士」が現れ、この実験を含む銀河鉄道の旅すべてが私の実験だった、という。賢治はなぜこんな重複とも見える筋立てにしたのだろう。

 不思議なことに、こんなに詳しく世界を語ることに情熱を傾けた第三次稿の最期の部分は最終稿では完全に削除されている。「あのブルカニロ博士」の実験のくだりもなく、代わりに、「青じろい尖った顎をした」カムパネルラのお父さんが黒い服を着て登場し、カムパネルラの死を宣告する。第三次稿と最終稿の断絶については検討しなければならない多くの課題があるが、それについてはもう少し時間がほしいと思っている。

 ひとつの仮説として、第三次稿までは、ジョバンニが求道者として世界に屹立するまでの物語だった。そのためにジョバンニは、カムパネルラから自立しなければならなかった=カムパネルラを失わなければならなかった。そのことによって、「みんながカムパネルラだ」という真実に気づくために。

 『銀河鉄道の旅の夜』の難解さは、決定稿がないため、活字化されたものでも初稿から最終稿まで段落が錯綜していることにも原因があるように思います。今回は岩波現代文庫の『「銀河鉄道の旅の夜」精読』を参考にさせていただきました。初稿から最終稿まで掲載されているので、賢治の推敲の過程がわかりやすく、非力な私でもいくらか読解を深めることが出来たように思います。著者の鎌田東二氏に感謝申し上げます。

 未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2024年10月4日金曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』___燃える蝎__救済か地獄の劫火か

  双子の星の話は、姉と弟のの要領を得ない会話のあと、男の子の「ぼく知ってらあ。ぼくおはなししやう。」ということばの後は空白になり、段落が切り替わる。

 「川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えているのでした。」

 近くの光景は黒い影絵のようで、その向こうに巨大な燃焼がある。賢治は筆を尽くして、それこそ「うつくしく酔ったやう」に銀河鉄道の旅のクライマックスを描写する。

 あれは何の火だろう、とジョバンニが言うと、カムパネルラが地図を見て蝎の火だとこたえる。すると、女の子が「蝎がやけて死んだのよ。」と説明をはじめる。父親から何度も聞いた話だという。

 むかし、バルドラの高原にいた一びきの蝎が、いたちに食べられそうになって、必死に遁げ、そして井戸に落ちてしまう。井戸からあがれなくて、溺れそうになって、蝎は祈る。

 「あゝ、わたしはいままでいくつの命をとったかわからない。そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもたうたうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかひ下さい。」

 蝎は後悔している。いままでたくさんほかの命をとってきた自分が、今度は命をとられそうになったら遁げて溺れ死のうとしている。遁げないで、自分のからだを「だまって」いたちに食わせてやるべきだったのに、そうしないで、「むなしく」命をすてようとしている。そして祈っている。次に生まれてきたら、「まことのみんなの幸い」のために自分のからだを使ってください、と。

 そして蝎は自分のからだがまっ赤なうつくしい火になって燃え、夜の闇を照らしているのを「見た」、と女の子はいう。蝎は、自分のからだが燃えているのを自分で見ている。幽明境をことにした世界ではそのようなことができるのだろう。

 多くの人がここに銀河鉄道の旅の倫理的、思想的到達点をみている。「まことのみんなの幸いのため」という絶対利他の考えが、ことばとしてわかりやすいこともあるかもしれない。仏教の素養のない私には詳しいことはわからないが、捨身説話の一つのパターンがここで語られているのだと思われる。

 自然界で食うものと食われれるものとの関係は「捕食」とよばれる。実は、捕食者(=食うもの)は、被食者(=食われるもの)を必ずしも仕留めることが出来るとは限らず、逃げられることも多いが、捕食者が追い、被食者が逃げるという関係に、それぞれの自由意志がはたらくことはなく、それは自然の必然である。蝎がたくさんの命をとってきたのも、いたちに追われて逃げたのも必然の行為である。蝎が自分のからだを「だまっていたちに呉れてやる」ことはありえない。また、井戸に落ちて溺れ死のうとしているからといって、「こんなにむなしく命を捨てずに」と罪の意識を覚えることもない。

 一言でいえばこの話は嘘である。「おはなし」なのだから嘘に決まっている。問題は、この嘘の話が、「まことのみんなの幸いのため私のからだをおつかひ下さい。」という蝎の「心」をみた「神さま」が蝎のからだを燃やしまっ赤なうつくしい火と変えたと閉じられることである。あまりにも美しい嘘なので看過されそうだが、ここには「死」は「有用」であるべきだという思想が潜んでいる。「有用な死」と「自己犠牲」との間に距離はほとんどない。「自己犠牲」は『銀河鉄道の夜』のテーマの代表的なものとなった。

 たくさんの命を奪ったから、自分の命も誰かに与えて死ななければならないという掟は自然界に存在しない。Give and Take は人間社会の論理である。人間社会の論理を自然に当てはめ、「自己犠牲」のベクトルのもとに語るのはプロパガンダである。作品がプロパガンダであってわるいということはない。蝎の話は初稿から最終稿まで一貫して存在し、多くの読者がこの部分を、というよりこの作品そのものを「自己犠牲」のテーマで論じているのだから、作者の狙い通りになったといえる。

 もうひとつ微妙なのは、蝎の焼死は救済なのか、という問いである。「蝎がやけて死んだのよ。」という女の子の即物的な説明からこの話は始まっている。神に祈って、そのからだが天に引き上げられ、「まっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしている」__未来永劫照らし続けるだろう。未来永劫焼かれ続けるのである。「その黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。」これは地獄の劫火ではないか。

 救済か、地獄の劫火か。一見美しくわかりやすい蝎の話に、私は賢治の抱え込んだ深い闇を見る気がする。新大陸アメリカのコロラドインディアンから誕生間もないユーラシアの共産主義国家へ、銀河鉄道は地上を旅し、ふたたび天井を行く。天上の旅の最期に永遠の劫火を見て、ケンタウルの村に帰ってくる。だが、ジョバンニとカムパネルラ、そしてクリスチャンの一行との旅は終わらず、南十字星をめざすのである。

 最後にまたもや蛇足をひとつ。宮沢賢治の抱えこんだ闇について関心のある方は、見田宗介著『宮沢賢治__存在の祭りの中へ』を読むことをおすすめしたい。あとがきに「わたしはこの本を、ふつうの子高校生に読んでほしいと思って書いた。」とあるが、わかりやすく、頭の中が整理されるような気がして、しかも、創作の秘儀にたちあっているような感覚を覚える。ただし_吉本隆明の『宮沢賢治』にも共通するのだが_不思議なほど時代状況とのかかわりへの関心が薄いのだ。いつかもういちど見田宗介の本については、熟読して思ったところを書きたいと考えている。

 たくさんの謎を謎のままにして、ようやく蝎の話までたどり着きました。多くの人がとりあげる「自己犠牲」について、私も言わなければならないことがあるように思いますが、もう少し先の「カムパネルラの死」を読んでから考えたいと思います。きょうも不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2024年9月29日日曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__星とつるはしの旄、双子の星

  銀河鉄道はコロラド渓谷を下って、ふたたび天の川の横手を走る。河原にはうすあかい河原なでしこの花が咲いている。ゆっくり走る汽車の両岸に「星のかたちとつるはしを書いた旄」が立っている。

  ジョバンニもカムパネルラも「「星のかたちとつるはしを書いた旄」が何の旗かわからない。鉄の舟もおいてある。女の子が橋を架けるところではないか、と問いかけると、ジョバンニは、これは工兵隊の旗で、架橋演習をしているのだと気づく。

 少し下流の方で発破が仕掛けられ、烈しい音とともに天の川の水がはねあがり、大きな鮭や鱒が空中に抛り出され、輪を描いてまた水に落ちる。「空の工兵大隊だ。」とジョバンニは昂奮する。「僕こんなに愉快な旅はしたことない。いいねぇ。」とジョバンニの機嫌はすっかり直り、女の子と水の中の魚についてことばを交わしたりする。

 この後しばらく架橋演習のシーンが続くのかと思いきや、ジョバンニと女の子の会話に追いかぶさるように、男の子が「あれきっと双子のお星さまのお宮だよ。」と叫んで、場面が急転換する。「双子のお星さま」の話とは、ポウセとチュンセという双子の星が傷ついた蝎を助けて難儀したり、箒星に騙されて海の底に落とされたりするが、最後は「王様」が救いの手をさしのべてくれるというあらすじで、賢治の処女作ともいうべき童話である。なぜ、この話が、唐突に、しかも男の子の要領を得ない説明とともに持ちだされるのか、わからない。

 さらに、男の子が「ぼく知ってらあ。ぼくおはなししよう。」というのに、この後「双子の星」の話は展開せず、有名な蝎の話が語られるのである。「星とつるはしの旄」から空の工兵大隊、架橋演習の場面から「双子の星」の話への急転換、さらに尻切れトンボにうちきられた「双子の星」から、燃え続ける蝎の話、木に竹をついだようなエピソードの羅列は何を意味するのだろう。  

 ところで、細かいことだが、賢治は「星のかたちとつるはしを書いた」と「工兵の」と「はた」の文字を使い分けている。おそらく意図的だろう。「旄」は見慣れない文字で、「漢字の音符」というサイトによると、「ヤクの毛をまるめて丸くした飾りを五つほど連続して旗竿の上からつるしたもの。皇帝の使節に任命したしるしとして与えられた」とある。のちに舞踊あるいは軍隊を指揮する際にも使われたようだが、なんとなく「旗」よりも生々しい表情を帯びている。

 そもそも「星のかたちとつるはしを書いた旄」が「空の工兵大隊」の旗として登場するのは何故か。「星のかたちとつるはし」からただちに連想されるのはソビエト連邦の旗だろう。一九二三年七月に制定されてから、いくたびか変更はあっても、ソビエト連邦の国旗に共通しているのは「槌と鎌と五芒星」である。「星のかたちとつるはしを書いた旄」にはじまる一連のエピソードは初稿から最終稿まで一貫して存在しているが、この時代に共産主義国家を連想させるものは危険だったのではないか。にもかかわらず、賢治はこの部分をどうしても残したかった。

 「星とつるはしを書いた旄」が掲げられ、架橋演習が行われている。投げ出された鮭や鱒を見て、ジョバンニは欣喜雀躍する。このくだりについて、賢治は好戦的であるとする評者もいるようだが、そんなに短絡的に断定してよいものだろうか。

 以前「桔梗いろの空にあがる狼煙と鳥の大群_ジョバンニの孤独感」でも書いたように、賢治は、体に横木を貫かれた兵隊の姿を画いて不気味で無残な表紙絵にしている。その名もずばり『飢餓陣営』では、餓死寸前の兵士をユーモアのオブラートでくるみこんで登場させる。『北守将軍と三人の兄弟医者』も、北守将軍は反英雄の英雄で、よく練られた反戦小説である。モデル(というより反モデル)は賢治の時代からそんなに離れていない時代の人かもしれない。賢治の戦争に対する意識は単純ではない。

 ソビエト連邦を連想させる「星とつるはしを書いた旄」「空の工兵大隊」が行う「架橋演習」は何かの隠喩だろうか。「抛り出された大きな鮭や鱒」や遠くからは見えない小さな魚も同様だろうか。隠喩だとしたら、あまりにも危険である。「旄」という漢字を使い、祝祭をイメージさせながら、隠喩されたものがあからさまになることが危険すぎるので、唐突に男の子の「双子の星」の話を挿入して流れを中断したのではないか。全能で慈悲深い王様が、冒険して苦境におちいった双子の星を救ってくれるという予定調和のストーリーも危険な暗喩のめくらましになる、と賢治が考えたのかもしれない。あくまで推測の域をでないのだが。

 男の子の「ぼく知ってらあ。ぼくおはなししやう。」ということばの後は空白になり、段落が切り替わる。この後、有名な燃える蝎の話になるのだが、長くなるので、また回を改めたい。蝎の話は、賢治の多くの作品がそうであるように、「自己犠牲」というテーマで語られることが多い。私は、「自己犠牲」ということばに回収されてしまってはならない複雑微妙な要素がここに含まれていると思う。

 新大陸アメリカのコロラド高原からユーラシア大陸へ自在に、海峡を越えて汽車は走ったのだろうか。蝎の話まで含めてひとつながりの投稿にするべきかとも考えたのですが、ひとまずこれで区切りたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2024年9月12日木曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』___新世界交響楽とインディアン

  桔梗いろの空を鳥の大群がわたり、どこからかのろしが上がる。カムパネルラと女の子がことばを交わすかたわらで、ジョバンニはかなしくなって泪にくれている。

 「そのとき汽車は川からはなれて崖の上を通るやうになりました。」と書かれて、なぜ「それから」でなく「そのとき」なのか微かな違和感をおぼえるのだが、これ以降汽車は渓谷を登っていく。黒いいろの崖の上には、野原の地平線のはてまで、ほとんどいちめん美しく立派なとうもろこしが実っている。「あれたうもろこしだねぇ。」とカムパネルラがジョバンニに話しかけるが、ジョバンニの気分は変わらない。

 それからまた「そのとき汽車はだんだんしづかになって」小さな停車場にとまる。停車場の時計の振子が規則正しく音を刻む合間に、遠くの野原のはてから「新世界交響楽」のかすかな旋律が流れてくる。汽車の中は誰もがやさしい夢を見ているが、ジョバンニはひとり沈んでいる。

 「すきとほった硝子のやうな笛が鳴って」汽車が動き出し、後ろのほうでとしよりらしい人が話している。この辺はひどい高原で、川までは二尺から六尺もある渓谷なのでとうもろこしの種は二尺も穴をあけておいてそこにまくという。それを聞いたジョバンニは、ここはコロラドの高原ではなかったかと思う。カムパネルラはさびしそうにひとり星めぐりの口笛を吹き、女の子は「絹で包んだ苹果のやうな顔色をして」ジョバンニと同じ方向を見ている。

 突然とうもろこしがなくなり「巨きな黒い野原」がひらけ、新世界交響楽がいよいよはっきり地平線のはてから涌く。そのまっ黒な野原のなかを一人のインディアンが走ってくる。インディアンは「白い鳥の羽根を頭につけたくさんの石を腕と胸にかざり小さな弓に矢を番へて」いる。やさしい夢を見ていた青年が眼をさまし、「インディアンですよ。ごらんなさい。」とよびかけ、ジョバンニとカムパネルラも立ち上がる。

 インディアンは半分は踊っているように見えたが、急に立ちどまって、弓を空にひくと、一羽の鶴が落ちてきて、また走り出したインディアンのひろげた両手に落ちこむ。インディアンはうれしそうに立ってわらうが、その影もどんどん小さくなって、またとうもろこしの林になってしまう。

 天の野原を走っていた銀河鉄道がいつの間にか新大陸アメリカのコロラド渓谷を登っている。コロラドの高原にとうもろこしが植わっている。とうもろこし畑を行くと小さな停車場があって、新世界交響楽がかすかに聞こえてくる。停車場を過ぎると、突然とうもろこしがなくなって、黒い野原がひらけ、新世界交響楽がはっきりと聞こえるようになる。そしてインディアンが登場する。新世界交響楽とインディアンの登場がもたらす意味は何か。

 ドヴォルザークが一八九三年アメリカ滞在中に作曲した新世界交響楽は日本でも親しまれたようだが、賢治は第二楽章の主題に詩をつけて、一九二四年夏には「種山ヶ原」として歌っていたといわれている。

 「春はまだきの朱雲を
  アルペン農の汗に燃し
  縄と菩提皮にうちよそひ
  風とひかりにちかひせり
    四月は風のかぐわしく
    雲かげ原を超えくれば
    雪融けの草をわたる

  繞る八谷に霹靂の
  いしぶみしげきおのづから
  種山ヶ原に燃ゆる火の
  なかばは雲に鎖さるる
    四月は風のかぐわしく
    雲かげ原を超えくれば
    雪融けの草をわたる」

 第二楽章の主旋律には、野上彰、堀内敬三がそれぞれ「家路」「遠き山に日は落ちて」という歌詞をつけていて、その親しみやすいメロディとあいまって、日本人の感性に訴える名曲としての評価がさだまっている。だが、そのいずれも一九三〇年代以降のことなので、日本で最も早く歌詞をつけて歌っていたのは賢治だろう。注目すべきは、時期的に賢治の歌詞が早いということだけでなく、むしろ、賢治のそれが、アメリカで一九二二年ドヴォルザークの弟子だったウィリアム・アームズ・フィッシャーのつけた「Goin' Home」の歌詞と共通のベースをもつと思われることである。

 フィッシャーの歌詞は「Goin' Home」というタイトルからうかがわれるように黒人奴隷の労働の歌である。

 Goin' home,goin' home,
  I'm a goin' home,
  Quiet-like ,some still day,
  I'm  jes goin' home
  It's not far, jes closs by,
  THrough an open door,
  Work all done ,care laid by,
  Gwine(or:Goin') to fear no more.

  Mother's there 'spectin' me,
  Father's waitin' too,
  Lots  o' folk gather'd there,
  All the frend I knew,
  All the frends I knew,
  Home I'm goin' home!
            以下略。

 フィッシャーの詞は、過酷な労働からの解放を歌い、次に同胞の待つ故郷への帰還を歌う。故郷への帰還はまた天国への導きとなっていく。余談だが、私は黒人霊歌を聴くのは好きではない。ほとんど絶望的な状況のなかで渇望する救済が、彼らを支配する白人の宗教であるキリストによるものであるというパラドックスが何ともやりきれないのだ。フィッシャーは白人なので、きれいにまとめた詞をつけているが、それでも黒人たちが置かれた状況の過酷さが浮かび上がってくる。

 これに対して賢治の「種山ヶ原」の詞は、颯爽と「アルペン農」の労働を歌い上げる。「アルペン農」とは、高原で牛や馬を放牧させることだそうで、自立した農業労働のひとつの理想をそこに見ていたのかもしれない。あくまで理想だったが。

 だが、新世界交響楽とともに、突然ひらけた巨大な黒い野原の中に現れたのは、いうまでもなくアルペン農でもなければ黒人奴隷でもなかった。鳥の羽根と石で身を飾った一人のインディアンが汽車の後を追って走ってきたのだった。

 『銀河鉄道の夜』は解けない謎に満ちているが、私にとって最も大きな謎は、このインディアンが鶴を射ることである。コロラド高原にインディアンが現れるのは不思議ではなく、もともとはコロラド高原に限らず、アメリカ大陸に先住していたのは彼らだったのはいうまでもない。一面に植え付けられた美しいとうもろこしはインディアンの命を養ってきた作物だった。

 コロラドでは、新世界交響楽が作られる三十年前に「サンドクリークの虐殺」と呼ばれる有名な事件が起きている。映画「ソルジャーブルー」はこの事件を提示することで、ベトナムでおきたソンミ村の虐殺を告発したともいわれている。男たちがバッファロー狩に出かけて不在のときに、軍の騎兵隊がインディアンのキャンプを襲い、無抵抗の女、子供を無差別に、口にするもおぞましいやり方で殺したのである。

 だが、賢治がこの事件を知っていたとは思われないし、仮に知っていたとしても、新世界交響楽とともにコロラド高原にインディアンが登場することとどのような関係があるのかわからない。 

 新世界交響楽とインディアンとのかかわりといえば、第二楽章と第三楽章は、アメリカの詩人ロングフェローの「ハイアワサの歌」というインディアンの英雄譚から着想を得て、これをオペラ化しようとしたスケッチがもとになっているといわれている。第二楽章は、「森の葬礼」と題して、ハイアワサの妻ミンネハハの死を悼んだレクレイムだそうである。たしかに第二楽章の旋律は、颯爽とした労働歌よりも悲傷の情がしみとおるようなレクレイムの方がふさわしいように思われる。だがこれも、インディアンが鶴を射止めてわらうことと直接結びつけて考えることは難しい。

 そして、何の根拠もなく思うのだけれど、インディアンが弓を射て鶴を射止め、落ちて来た鶴を両手でうけとめるという行為が、青年のいう「猟をするか踊るか」どちらにしても、ここには濃密なエロスの交換があるのではないか。

 これもまた余談だが、私の住む町は東京からそんなに離れていない小都市で、わずかに残った田んぼと急速に増えた耕作放棄地の間にけっこう新しい家が建ったりしている。越してきて十年余りだが、この町で私は初めて鶴という鳥をま近に見た。建物のすぐ傍らの小川だったり、その上を車が通る橋の下の川だったり、刈り入れの終わった田んぼだったり、鶴はいつも一羽で、そんなに警戒心もないようだった。だが、もちろん、近づくと飛び上がって逃げる。体が大きいからだろうが、ゆったりと、優雅に、泳ぐように空をかけるのだ。

 時空の次元を越境して、銀河鉄道はアメリカ大陸を走る。コロラド渓谷を下り川が下に見えるようになると、ジョバンニの気持ちはだんだん明るくなってくる。なぜか、小さな小屋の前にしょんぼり立っている子供を見つけてほうと叫んだりする。

 ジョバンニが、というより賢治がアメリカ大陸で見たものは、故郷を追われて絶滅寸前のインディアンだった。美しいとうもろこし畑を見ても気持ちの晴れなかったジョバンニの心は、鶴を抱いたインディアンの姿を後にして、徐々にほぐれていく。ジョバンニの心理の機微をこのように描く賢治の意図はわからないが、賢治はここに生きることへの希望あるいは可能性を見出したのは事実だろう。そして、それは次の「星とつるはしの旄」へとつながっていく。

 書いては削除し、また書いては削除の悪戦苦闘の日々でした。最後まで論旨を整理することが出来ず、何か言い足りないような、それでいて余計なことを言っているような、歯切れの悪い一文です。ほんとうは賢治と農業についても考えたいのですが、それはまた別の機会にしたいと思います。最後まで読んでくださってありがとうございます。