2024年10月4日金曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』___燃える蝎__救済か地獄の劫火か

  双子の星の話は、姉と弟のの要領を得ない会話のあと、男の子の「ぼく知ってらあ。ぼくおはなししやう。」ということばの後は空白になり、段落が切り替わる。

 「川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えているのでした。」

 近くの光景は黒い影絵のようで、その向こうに巨大な燃焼がある。賢治は筆を尽くして、それこそ「うつくしく酔ったやう」に銀河鉄道の旅のクライマックスを描写する。

 あれは何の火だろう、とジョバンニが言うと、カムパネルラが地図を見て蝎の火だとこたえる。すると、女の子が「蝎がやけて死んだのよ。」と説明をはじめる。父親から何度も聞いた話だという。

 むかし、バルドラの高原にいた一びきの蝎が、いたちに食べられそうになって、必死に遁げ、そして井戸に落ちてしまう。井戸からあがれなくて、溺れそうになって、蝎は祈る。

 「あゝ、わたしはいままでいくつの命をとったかわからない。そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもたうたうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかひ下さい。」

 蝎は後悔している。いままでたくさんほかの命をとってきた自分が、今度は命をとられそうになったら遁げて溺れ死のうとしている。遁げないで、自分のからだを「だまって」いたちに食わせてやるべきだったのに、そうしないで、「むなしく」命をすてようとしている。そして祈っている。次に生まれてきたら、「まことのみんなの幸い」のために自分のからだを使ってください、と。

 そして蝎は自分のからだがまっ赤なうつくしい火になって燃え、夜の闇を照らしているのを「見た」、と女の子はいう。蝎は、自分のからだが燃えているのを自分で見ている。幽明境をことにした世界ではそのようなことができるのだろう。

 多くの人がここに銀河鉄道の旅の倫理的、思想的到達点をみている。「まことのみんなの幸いのため」という絶対利他の考えが、ことばとしてわかりやすいこともあるかもしれない。仏教の素養のない私には詳しいことはわからないが、捨身説話の一つのパターンがここで語られているのだと思われる。

 自然界で食うものと食われれるものとの関係は「捕食」とよばれる。実は、捕食者(=食うもの)は、被食者(=食われるもの)を必ずしも仕留めることが出来るとは限らず、逃げられることも多いが、捕食者が追い、被食者が逃げるという関係に、それぞれの自由意志がはたらくことはなく、それは自然の必然である。蝎がたくさんの命をとってきたのも、いたちに追われて逃げたのも必然の行為である。蝎が自分のからだを「だまっていたちに呉れてやる」ことはありえない。また、井戸に落ちて溺れ死のうとしているからといって、「こんなにむなしく命を捨てずに」と罪の意識を覚えることもない。

 一言でいえばこの話は嘘である。「おはなし」なのだから嘘に決まっている。問題は、この嘘の話が、「まことのみんなの幸いのため私のからだをおつかひ下さい。」という蝎の「心」をみた「神さま」が蝎のからだを燃やしまっ赤なうつくしい火と変えたと閉じられることである。あまりにも美しい嘘なので看過されそうだが、ここには「死」は「有用」であるべきだという思想が潜んでいる。「有用な死」と「自己犠牲」との間に距離はほとんどない。「自己犠牲」は『銀河鉄道の夜』のテーマの代表的なものとなった。

 たくさんの命を奪ったから、自分の命も誰かに与えて死ななければならないという掟は自然界に存在しない。Give and Take は人間社会の論理である。人間社会の論理を自然に当てはめ、「自己犠牲」のベクトルのもとに語るのはプロパガンダである。作品がプロパガンダであってわるいということはない。蝎の話は初稿から最終稿まで一貫して存在し、多くの読者がこの部分を、というよりこの作品そのものを「自己犠牲」のテーマで論じているのだから、作者の狙い通りになったといえる。

 もうひとつ微妙なのは、蝎の焼死は救済なのか、という問いである。「蝎がやけて死んだのよ。」という女の子の即物的な説明からこの話は始まっている。神に祈って、そのからだが天に引き上げられ、「まっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしている」__未来永劫照らし続けるだろう。未来永劫焼かれ続けるのである。「その黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。」これは地獄の劫火ではないか。

 救済か、地獄の劫火か。一見美しくわかりやすい蝎の話に、私は賢治の抱え込んだ深い闇を見る気がする。新大陸アメリカのコロラドインディアンから誕生間もないユーラシアの共産主義国家へ、銀河鉄道は地上を旅し、ふたたび天井を行く。天上の旅の最期に永遠の劫火を見て、ケンタウルの村に帰ってくる。だが、ジョバンニとカムパネルラ、そしてクリスチャンの一行との旅は終わらず、南十字星をめざすのである。

 最後にまたもや蛇足をひとつ。宮沢賢治の抱えこんだ闇について関心のある方は、見田宗介著『宮沢賢治__存在の祭りの中へ』を読むことをおすすめしたい。あとがきに「わたしはこの本を、ふつうの子高校生に読んでほしいと思って書いた。」とあるが、わかりやすく、頭の中が整理されるような気がして、しかも、創作の秘儀にたちあっているような感覚を覚える。ただし_吉本隆明の『宮沢賢治』にも共通するのだが_不思議なほど時代状況とのかかわりへの関心が薄いのだ。いつかもういちど見田宗介の本については、熟読して思ったところを書きたいと考えている。

 たくさんの謎を謎のままにして、ようやく蝎の話までたどり着きました。多くの人がとりあげる「自己犠牲」について、私も言わなければならないことがあるように思いますが、もう少し先の「カムパネルラの死」を読んでから考えたいと思います。きょうも不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2024年9月29日日曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__星とつるはしの旄、双子の星

  銀河鉄道はコロラド渓谷を下って、ふたたび天の川の横手を走る。河原にはうすあかい河原なでしこの花が咲いている。ゆっくり走る汽車の両岸に「星のかたちとつるはしを書いた旄」が立っている。

  ジョバンニもカムパネルラも「「星のかたちとつるはしを書いた旄」が何の旗かわからない。鉄の舟もおいてある。女の子が橋を架けるところではないか、と問いかけると、ジョバンニは、これは工兵隊の旗で、架橋演習をしているのだと気づく。

 少し下流の方で発破が仕掛けられ、烈しい音とともに天の川の水がはねあがり、大きな鮭や鱒が空中に抛り出され、輪を描いてまた水に落ちる。「空の工兵大隊だ。」とジョバンニは昂奮する。「僕こんなに愉快な旅はしたことない。いいねぇ。」とジョバンニの機嫌はすっかり直り、女の子と水の中の魚についてことばを交わしたりする。

 この後しばらく架橋演習のシーンが続くのかと思いきや、ジョバンニと女の子の会話に追いかぶさるように、男の子が「あれきっと双子のお星さまのお宮だよ。」と叫んで、場面が急転換する。「双子のお星さま」の話とは、ポウセとチュンセという双子の星が傷ついた蝎を助けて難儀したり、箒星に騙されて海の底に落とされたりするが、最後は「王様」が救いの手をさしのべてくれるというあらすじで、賢治の処女作ともいうべき童話である。なぜ、この話が、唐突に、しかも男の子の要領を得ない説明とともに持ちだされるのか、わからない。

 さらに、男の子が「ぼく知ってらあ。ぼくおはなししよう。」というのに、この後「双子の星」の話は展開せず、有名な蝎の話が語られるのである。「星とつるはしの旄」から空の工兵大隊、架橋演習の場面から「双子の星」の話への急転換、さらに尻切れトンボにうちきられた「双子の星」から、燃え続ける蝎の話、木に竹をついだようなエピソードの羅列は何を意味するのだろう。  

 ところで、細かいことだが、賢治は「星のかたちとつるはしを書いた」と「工兵の」と「はた」の文字を使い分けている。おそらく意図的だろう。「旄」は見慣れない文字で、「漢字の音符」というサイトによると、「ヤクの毛をまるめて丸くした飾りを五つほど連続して旗竿の上からつるしたもの。皇帝の使節に任命したしるしとして与えられた」とある。のちに舞踊あるいは軍隊を指揮する際にも使われたようだが、なんとなく「旗」よりも生々しい表情を帯びている。

 そもそも「星のかたちとつるはしを書いた旄」が「空の工兵大隊」の旗として登場するのは何故か。「星のかたちとつるはし」からただちに連想されるのはソビエト連邦の旗だろう。一九二三年七月に制定されてから、いくたびか変更はあっても、ソビエト連邦の国旗に共通しているのは「槌と鎌と五芒星」である。「星のかたちとつるはしを書いた旄」にはじまる一連のエピソードは初稿から最終稿まで一貫して存在しているが、この時代に共産主義国家を連想させるものは危険だったのではないか。にもかかわらず、賢治はこの部分をどうしても残したかった。

 「星とつるはしを書いた旄」が掲げられ、架橋演習が行われている。投げ出された鮭や鱒を見て、ジョバンニは欣喜雀躍する。このくだりについて、賢治は好戦的であるとする評者もいるようだが、そんなに短絡的に断定してよいものだろうか。

 以前「桔梗いろの空にあがる狼煙と鳥の大群_ジョバンニの孤独感」でも書いたように、賢治は、体に横木を貫かれた兵隊の姿を画いて不気味で無残な表紙絵にしている。その名もずばり『飢餓陣営』では、餓死寸前の兵士をユーモアのオブラートでくるみこんで登場させる。『北守将軍と三人の兄弟医者』も、北守将軍は反英雄の英雄で、よく練られた反戦小説である。モデル(というより反モデル)は賢治の時代からそんなに離れていない時代の人かもしれない。賢治の戦争に対する意識は単純ではない。

 ソビエト連邦を連想させる「星とつるはしを書いた旄」「空の工兵大隊」が行う「架橋演習」は何かの隠喩だろうか。「抛り出された大きな鮭や鱒」や遠くからは見えない小さな魚も同様だろうか。隠喩だとしたら、あまりにも危険である。「旄」という漢字を使い、祝祭をイメージさせながら、隠喩されたものがあからさまになることが危険すぎるので、唐突に男の子の「双子の星」の話を挿入して流れを中断したのではないか。全能で慈悲深い王様が、冒険して苦境におちいった双子の星を救ってくれるという予定調和のストーリーも危険な暗喩のめくらましになる、と賢治が考えたのかもしれない。あくまで推測の域をでないのだが。

 男の子の「ぼく知ってらあ。ぼくおはなししやう。」ということばの後は空白になり、段落が切り替わる。この後、有名な燃える蝎の話になるのだが、長くなるので、また回を改めたい。蝎の話は、賢治の多くの作品がそうであるように、「自己犠牲」というテーマで語られることが多い。私は、「自己犠牲」ということばに回収されてしまってはならない複雑微妙な要素がここに含まれていると思う。

 新大陸アメリカのコロラド高原からユーラシア大陸へ自在に、海峡を越えて汽車は走ったのだろうか。蝎の話まで含めてひとつながりの投稿にするべきかとも考えたのですが、ひとまずこれで区切りたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2024年9月12日木曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』___新世界交響楽とインディアン

  桔梗いろの空を鳥の大群がわたり、どこからかのろしが上がる。カムパネルラと女の子がことばを交わすかたわらで、ジョバンニはかなしくなって泪にくれている。

 「そのとき汽車は川からはなれて崖の上を通るやうになりました。」と書かれて、なぜ「それから」でなく「そのとき」なのか微かな違和感をおぼえるのだが、これ以降汽車は渓谷を登っていく。黒いいろの崖の上には、野原の地平線のはてまで、ほとんどいちめん美しく立派なとうもろこしが実っている。「あれたうもろこしだねぇ。」とカムパネルラがジョバンニに話しかけるが、ジョバンニの気分は変わらない。

 それからまた「そのとき汽車はだんだんしづかになって」小さな停車場にとまる。停車場の時計の振子が規則正しく音を刻む合間に、遠くの野原のはてから「新世界交響楽」のかすかな旋律が流れてくる。汽車の中は誰もがやさしい夢を見ているが、ジョバンニはひとり沈んでいる。

 「すきとほった硝子のやうな笛が鳴って」汽車が動き出し、後ろのほうでとしよりらしい人が話している。この辺はひどい高原で、川までは二尺から六尺もある渓谷なのでとうもろこしの種は二尺も穴をあけておいてそこにまくという。それを聞いたジョバンニは、ここはコロラドの高原ではなかったかと思う。カムパネルラはさびしそうにひとり星めぐりの口笛を吹き、女の子は「絹で包んだ苹果のやうな顔色をして」ジョバンニと同じ方向を見ている。

 突然とうもろこしがなくなり「巨きな黒い野原」がひらけ、新世界交響楽がいよいよはっきり地平線のはてから涌く。そのまっ黒な野原のなかを一人のインディアンが走ってくる。インディアンは「白い鳥の羽根を頭につけたくさんの石を腕と胸にかざり小さな弓に矢を番へて」いる。やさしい夢を見ていた青年が眼をさまし、「インディアンですよ。ごらんなさい。」とよびかけ、ジョバンニとカムパネルラも立ち上がる。

 インディアンは半分は踊っているように見えたが、急に立ちどまって、弓を空にひくと、一羽の鶴が落ちてきて、また走り出したインディアンのひろげた両手に落ちこむ。インディアンはうれしそうに立ってわらうが、その影もどんどん小さくなって、またとうもろこしの林になってしまう。

 天の野原を走っていた銀河鉄道がいつの間にか新大陸アメリカのコロラド渓谷を登っている。コロラドの高原にとうもろこしが植わっている。とうもろこし畑を行くと小さな停車場があって、新世界交響楽がかすかに聞こえてくる。停車場を過ぎると、突然とうもろこしがなくなって、黒い野原がひらけ、新世界交響楽がはっきりと聞こえるようになる。そしてインディアンが登場する。新世界交響楽とインディアンの登場がもたらす意味は何か。

 ドヴォルザークが一八九三年アメリカ滞在中に作曲した新世界交響楽は日本でも親しまれたようだが、賢治は第二楽章の主題に詩をつけて、一九二四年夏には「種山ヶ原」として歌っていたといわれている。

 「春はまだきの朱雲を
  アルペン農の汗に燃し
  縄と菩提皮にうちよそひ
  風とひかりにちかひせり
    四月は風のかぐわしく
    雲かげ原を超えくれば
    雪融けの草をわたる

  繞る八谷に霹靂の
  いしぶみしげきおのづから
  種山ヶ原に燃ゆる火の
  なかばは雲に鎖さるる
    四月は風のかぐわしく
    雲かげ原を超えくれば
    雪融けの草をわたる」

 第二楽章の主旋律には、野上彰、堀内敬三がそれぞれ「家路」「遠き山に日は落ちて」という歌詞をつけていて、その親しみやすいメロディとあいまって、日本人の感性に訴える名曲としての評価がさだまっている。だが、そのいずれも一九三〇年代以降のことなので、日本で最も早く歌詞をつけて歌っていたのは賢治だろう。注目すべきは、時期的に賢治の歌詞が早いということだけでなく、むしろ、賢治のそれが、アメリカで一九二二年ドヴォルザークの弟子だったウィリアム・アームズ・フィッシャーのつけた「Goin' Home」の歌詞と共通のベースをもつと思われることである。

 フィッシャーの歌詞は「Goin' Home」というタイトルからうかがわれるように黒人奴隷の労働の歌である。

 Goin' home,goin' home,
  I'm a goin' home,
  Quiet-like ,some still day,
  I'm  jes goin' home
  It's not far, jes closs by,
  THrough an open door,
  Work all done ,care laid by,
  Gwine(or:Goin') to fear no more.

  Mother's there 'spectin' me,
  Father's waitin' too,
  Lots  o' folk gather'd there,
  All the frend I knew,
  All the frends I knew,
  Home I'm goin' home!
            以下略。

 フィッシャーの詞は、過酷な労働からの解放を歌い、次に同胞の待つ故郷への帰還を歌う。故郷への帰還はまた天国への導きとなっていく。余談だが、私は黒人霊歌を聴くのは好きではない。ほとんど絶望的な状況のなかで渇望する救済が、彼らを支配する白人の宗教であるキリストによるものであるというパラドックスが何ともやりきれないのだ。フィッシャーは白人なので、きれいにまとめた詞をつけているが、それでも黒人たちが置かれた状況の過酷さが浮かび上がってくる。

 これに対して賢治の「種山ヶ原」の詞は、颯爽と「アルペン農」の労働を歌い上げる。「アルペン農」とは、高原で牛や馬を放牧させることだそうで、自立した農業労働のひとつの理想をそこに見ていたのかもしれない。あくまで理想だったが。

 だが、新世界交響楽とともに、突然ひらけた巨大な黒い野原の中に現れたのは、いうまでもなくアルペン農でもなければ黒人奴隷でもなかった。鳥の羽根と石で身を飾った一人のインディアンが汽車の後を追って走ってきたのだった。

 『銀河鉄道の夜』は解けない謎に満ちているが、私にとって最も大きな謎は、このインディアンが鶴を射ることである。コロラド高原にインディアンが現れるのは不思議ではなく、もともとはコロラド高原に限らず、アメリカ大陸に先住していたのは彼らだったのはいうまでもない。一面に植え付けられた美しいとうもろこしはインディアンの命を養ってきた作物だった。

 コロラドでは、新世界交響楽が作られる三十年前に「サンドクリークの虐殺」と呼ばれる有名な事件が起きている。映画「ソルジャーブルー」はこの事件を提示することで、ベトナムでおきたソンミ村の虐殺を告発したともいわれている。男たちがバッファロー狩に出かけて不在のときに、軍の騎兵隊がインディアンのキャンプを襲い、無抵抗の女、子供を無差別に、口にするもおぞましいやり方で殺したのである。

 だが、賢治がこの事件を知っていたとは思われないし、仮に知っていたとしても、新世界交響楽とともにコロラド高原にインディアンが登場することとどのような関係があるのかわからない。 

 新世界交響楽とインディアンとのかかわりといえば、第二楽章と第三楽章は、アメリカの詩人ロングフェローの「ハイアワサの歌」というインディアンの英雄譚から着想を得て、これをオペラ化しようとしたスケッチがもとになっているといわれている。第二楽章は、「森の葬礼」と題して、ハイアワサの妻ミンネハハの死を悼んだレクレイムだそうである。たしかに第二楽章の旋律は、颯爽とした労働歌よりも悲傷の情がしみとおるようなレクレイムの方がふさわしいように思われる。だがこれも、インディアンが鶴を射止めてわらうことと直接結びつけて考えることは難しい。

 そして、何の根拠もなく思うのだけれど、インディアンが弓を射て鶴を射止め、落ちて来た鶴を両手でうけとめるという行為が、青年のいう「猟をするか踊るか」どちらにしても、ここには濃密なエロスの交換があるのではないか。

 これもまた余談だが、私の住む町は東京からそんなに離れていない小都市で、わずかに残った田んぼと急速に増えた耕作放棄地の間にけっこう新しい家が建ったりしている。越してきて十年余りだが、この町で私は初めて鶴という鳥をま近に見た。建物のすぐ傍らの小川だったり、その上を車が通る橋の下の川だったり、刈り入れの終わった田んぼだったり、鶴はいつも一羽で、そんなに警戒心もないようだった。だが、もちろん、近づくと飛び上がって逃げる。体が大きいからだろうが、ゆったりと、優雅に、泳ぐように空をかけるのだ。

 時空の次元を越境して、銀河鉄道はアメリカ大陸を走る。コロラド渓谷を下り川が下に見えるようになると、ジョバンニの気持ちはだんだん明るくなってくる。なぜか、小さな小屋の前にしょんぼり立っている子供を見つけてほうと叫んだりする。

 ジョバンニが、というより賢治がアメリカ大陸で見たものは、故郷を追われて絶滅寸前のインディアンだった。美しいとうもろこし畑を見ても気持ちの晴れなかったジョバンニの心は、鶴を抱いたインディアンの姿を後にして、徐々にほぐれていく。ジョバンニの心理の機微をこのように描く賢治の意図はわからないが、賢治はここに生きることへの希望あるいは可能性を見出したのは事実だろう。そして、それは次の「星とつるはしの旄」へとつながっていく。

 書いては削除し、また書いては削除の悪戦苦闘の日々でした。最後まで論旨を整理することが出来ず、何か言い足りないような、それでいて余計なことを言っているような、歯切れの悪い一文です。ほんとうは賢治と農業についても考えたいのですが、それはまた別の機会にしたいと思います。最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年8月21日水曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__桔梗いろの空にあがる狼煙と鳥の大群___ジョバンニの疎外感

 銀河鉄道は讃美歌の合唱とともに橄欖の森を通り過ぎていく。やがて青い森が「緑いろの貝ボタン」のように見えるようになり、その上で孔雀のはねが青じろく光を反射させている。橄欖の森=オリーブ山の上に立つ孔雀が何を象徴するのか、そのことについても考えなければいけないのだが、ひとまず、それは措いて、孔雀の声を話題にして、カムパネルラと女の子(ここでは「かほる子」と呼ばれる)が会話するのを聞いているジョバンニの疎外感に注目したい。

 「孔雀の声だってさっき聞こえた。」とカムパネルラが言うと、女の子は、孔雀は三十疋ぐらい居て、ハーブのように聞こえたのは孔雀の声だと答える。「ハーブのやうに聞こえた」孔雀の声とは、青年をぞくっとさせた「何とも云へずきれいな音色」であり、それを奏でる「あやしい楽器の音」のことだろうが、孔雀の声はそんなにきれいな音色だろうか。孔雀は雉科の鳥で鳴き声は決して美しいとは言えないと思うのだが。

 それはともかく、女の子とカムパネルラが親しくことばを交わす傍らで、ジョバンニは急にかなしくなる。カムパネルラを誘って、ここで降りようとしたくらいだった。ジョバンニはなぜ「俄かにかなしくなり」「こはい顔をして」カムパネルラと女の子を離そうとしたのだろうか。たんなる嫉妬だろうか。

 この後、川が二つにわかれる。「そのまっくらな島」と書かれるのは川の中州のことだろうか、中州のまん中に高いやぐらが組まれ、その上に「寛(ゆる)い服を着て赤い帽子をかぶった男」が立っている。男は赤と青の旗を交互に振りあげ、「美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下」をせわしく鳴きながら通っていく何万という小さな鳥に「いまこそわたれ、わたり鳥。」と叫んでいる。

 「まっくらな島」の「寛い服と赤い帽子」の男は何者だろう。銀河鉄道はどこを走っているのか。男が「俄かに赤い旗をあげて狂気のやうにふりうごか」すと、鳥の群れは通らなくなり、同時にぴしゃぁんという潰れたような音が川下の方でおこった、とあるのはどんな事態なのか。女の子の「あの人鳥へ教へてるんでせうか。」という問いにカムパネルラは「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでせう。」と答えている。のろし?どこで誰があげるのだろう。

 桔梗いろの空にのろしがあがる光景は、先に難破船から乗り込んできた青年が灯台看守とことばを交わした後にも描写されている。

 「ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向ふの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のやうでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなもの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のやう、そこからかまたはもっと向ふからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のやうなものが、かはるがはるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとほった綺麗な風は、ばらの匂いでいっぱいでした。」

 ほんとうに「幻燈のやう」に美しく夢幻的な光景だが、この場面ですでに「狼煙」がうちあげられている。ところでこの「のろし_狼煙」のくだりは、第一次稿と第二次稿でカムパネルラは「わたり鳥へ信号してるんです。射手のとこから鉄砲があがるためでせう。」と説明している。総じて、第一次稿から最終稿への推敲の過程で、直接的具体的な叙述は控えられ、より抽象的、というよりあえて言えば曖昧な叙述にかわっていったように思われる。「すきとほった綺麗なばらの匂いでいっぱい」な風がそよぐ空にうちあげられる「狼煙(先の箇所では漢字で「狼煙」と表記されている)」が意味するものは何だろう。

 鳥の群れが止まったと同時の「ぴしゃぁんという潰れたやうな音」と「のろし_狼煙」、ここは戦場だろうか。『「銀河鉄道の夜」の謎を解く』という著書のなかで、著者の三浦幸司氏は、この場面を陸軍の渡河演習の様子であると解釈しておられる。「寛い服」は満州人の着る「旗袍」で「ぴしゃぁんという潰れた音」は砲撃の着弾音であり、最終弾落下とともに「進め!」と号令をかけるそうである。だとすると、「せわしくせわしく鳴いて通って行く鳥」は戦場に駆り出された兵隊たちだろう。旗振り役が「旗袍」というの「は満州人に化けた日本兵」という二重の意味をもっていた、とされているが、そこまで特定しうるのだろうか。

 「寛い服」を着た男が何者かわからないのだが、「せわしくせわしく鳴いて通って行く鳥」は、兵隊ではなく戦場を逃げまどう人々かもしれない。だとすれば、「寛い服を着て赤い帽子をかぶった男」は避難民を誘導する存在となる。いずれにしろ、この場面はこれまでの静謐な宗教的雰囲気とは異質な空間である。

 なお、三浦氏は「賢治は軍隊が大好きな人で、「月夜のでんしんばしら」や「虔十公園林」にそれが表れていますし、反戦的といわれる「飢餓陣営」でもバナナン大将が兵士たちの実情(飢え)を理解することで大円団となっています。とくに『銀河鉄道の夜』では、軍事演習を見てジョバンニもカムパネルラも大喜びしていることに留意すべきでしょう。」と書かれているが、これはあまりに単純な見方ではないか。まずは、賢治自身が画いた「月夜のでんしんばしら」の表紙絵をみてほしい。兵隊帽をかぶった男の体に横木が三本つらぬかれている。何とも無残でグロテスクである。

 「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるんでせう。」とカムパネルラが答えると、車の中はしづまりかえる。ジョバンニは口笛を吹きながら涙にくれている。

 「(どうして僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこゝろもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずぅっと向ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほんたうにしづかでつめたい。ぼくはあれをよく見てこゝろもちをしづめるんだ。)ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押さへるやうにしてそっちの方を見ました。」

 ジョバンニ自身も不可解なまでのかなしみの感情はどこから湧き上がるのだろう。また、その感情を鎮めるためにみつめる「しづかでつめたい」「けむりのやうな小さな青い火」とは何か。自然科学の世界では「青い火」は赤く燃える火よりさらに高温だが、「しづかでつめたい」のはこの世の炎ではないのだろうか。

 「あゝほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだらうか。」というジョバンニの希求は満たされることなく、銀河鉄道の旅は続き、この後、汽車はしばらく川から離れてコロラドの高原を行くのである。

 ほんとうはコロラド渓谷とインディアン、それから星とつるはしの旗のことを書きたかったのですが、その前の鳥の大群と「寛い服」の男で立ち止まってしまいました。例によって立ち止まって謎を深めているだけなのですが、とりあえず備忘録として書き留めてみました。最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2024年7月22日月曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__橄欖の森のあやしい音いろ

  燈台看守が配った苹果はジョバンニとカムパネルラのポケットにしまわれ、汽車は青い橄欖の森にさしかかる。

 「川下の向ふ岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る赤い円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標がたって、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじって何とも云へずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れてくるのでした。」

 橄欖の森は、白鳥の停車場から南十字星まで、銀河鉄道の旅のほぼ真ん中に当たる部分に位置する。『銀河鉄道の夜』はどの部分をとっても難解だが、とくに橄欖の森の場面はいつまでも解決のつかない謎にみちている。「橄欖の森」が何の寓意であるかは、私にとっては明らかで、橄欖=オリーブであることから、「オリーブ山」とほぼ同定している。旧訳の聖書ではオリーブ山を橄欖山と訳している。

 もっとも、「オリーブ」を「橄欖」と訳したのは中国語聖書の誤訳であるといわれているので、これもじつは橄欖の森をオリーブ山と同定することにゆらぎがまったくないわけはないのだが。

 問題は、「青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る赤い円い実がいっぱい」と書かれる「まっ赤に光る赤い円い実」が何を意味するのか、「その林のまん中」の高い高い三角標」はたぶん十字架のことだろうが、それでほんとうにいいのか、そしてまた、「オーケストラベルやジロフォンにまじって」流れてくる「何とも云へずきれいな音いろ」とは何か、皆目見当がつかないのだ。

 橄欖もオリーブもその実が「まっ赤に光る赤い円い実」をつけることはないので、この部分が何を指しているのかわからない。何かの比喩なのか、あるいは、実際は青や紫の実を「赤」と書いているのか。余談だが、賢治は色彩の表現、とくに「赤」にはこだわりがあるようである。この作品でも、ふくろうや蠍の眼を「赤」と書いているが、どちらの眼も実際には赤くない。

 続いて、

 「青年はぞくっとしてからだをふるふやうにしました。
 だまってその譜を聞いてゐると、そこらいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蠟のやうな露が太陽の面を捺めて行くやうに思われました。」

と書かれているのも不審である。まず第一に、「青年はぞくっとして」という叙述は青年の心理を内側から描写したもので、三人称の話法ではルール違反ではないか。一方「だまってその譜を聞いてゐると...」という文章は、主語がない。おそらく「ジョバンニが」という主語を示す部分が省かれていて、主語がなくても日本語は成り立つので、些細な事にとらわれる必要はないのかもしれないが。

 だが、何よりも、「何とも云へずきれいな音いろ」で「そこらいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物がひろがり、またまっ白な蠟のやうな露が太陽の面を捺めて行くやう」な光景を浮かびあがらせるような「譜」が青年を「ぞくっと」させるのはなぜか、いったいその「譜」は何だろう、という疑問の解決の糸口さえわからないのである。そもそも、青年の「ぞくっとした」と表現される心理の内容がわからない。たんなる「怯え」ではないだろう。

 初稿では、橄欖の森を「琴(ライラ)の宿」と呼び、橄欖の森を過ぎた後イルカ_イルカ座が登場する。琴座とイルカ座は、そのどちらもオルフェウス、アリオンという琴の名手を主人公とする神話を持つ星座であることから、「何とも云へずきれいな音いろ」は竪琴を鳴らす音だと思われる。だが、第二次稿以降はその部分はどちらも削除されてしまっているので、これもまた断定はできないのだが。

 このあと、少し唐突な感を覚えるのだが、天の川の河原にたくさんのかささぎが列をなしてとまっている描写が挿入される。かささぎといえば、

 かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける 大伴家持

が有名である。七夕に織女と牽牛の逢瀬のために天の川を填めて橋をなしたという伝承が想起されるが、そのことと青年をぞくっとさせる「あやしい音いろ」は関係があるのだろうか。

 「あやしい音いろ」が竪琴を鳴らす音であると仮定すると、前述したように、琴の名手オルフェウスの伝説に行きつく。オルフェウスは、毒蛇にかまれて死んだ妻エウリュディケーを取り戻しに冥界に入り、いったんは取り戻すことをゆるされたが、はやまって失敗する。妻を失ったオルフェウスは、女性との愛を断ち、オルフェウス教を広めるが、ディオニューソスの信者の女たちに八つ裂きにして殺される。ばらばらになったオルフェウスの首と竪琴は歌を歌いながら、投げ込まれた川をくだって海に出、レスボス島に流れ着いたといわれている。

 不思議なのは、オルフェウスの伝説もかささぎの七夕伝承も、どちらも恋愛の話なのである。なぜ、この時点で恋愛がテーマになるのか。橄欖山=オリーブ山であるとすれば、聞こえてくるのは、マタイ受難曲のたぐいのものではないだろうか。もしかしたら、オーケストラやジロフォンの奏でる曲はそれかもしれない。「あやしい音いろ」はそれにまじって、だがかき消されることなく聞こえてきたのだった。

 この後、汽車が橄欖の森を正面に見る位置に来たとき、汽車の中で起こった合唱はまぎれもなく讃美歌だった。第二次稿では詳しく歌詞を紹介しているが、有名な「主よみもとにちかづかん」である。

 「主よみもとにちかづかん
 のぼるみちは十字架に
 ありともなどかなしむべき
 主よみもとにちかづかん」

なぜか歌詞は第三次稿以降省かれ、讃美歌の番号も不明のままにされているが、汽車のうしろの方からこの讃美歌が聞こえてくる。ジョバンニもカムパネルラも一緒にうたいだしたが、かほる子と呼ばれる女の子はハンケチを顔にあててしまい、「青年はさっと顔いろが青ざめ、立っていっぺんそっちへ行きそうにしましたが思ひかへしてまた座りました。」と書かれる。青年は讃美歌を歌ったのだろうか。

 またしても謎は謎のままで、かえって深まるばかりです。この後、遠くになって緑いろの貝ボタンのように小さく見える橄欖の森の上に登場する孔雀についても書きたいのですが、もう少し時間がかかりそうです。

 ここまで書いてきて、橄欖の森=オリーブ山と同定するならば、もう少し深くオリーブ山について考えなければいけないことに気がつきました。たんに、イエスが十字架にかけられる直前に祈ったゲッセマネがそのふもとにあり、復活のイエスが昇天したのがその頂であるというだけで、橄欖の森_オリーブ山がこの作品の肝ともいうべき部分に登場するのではないように思います。そのことを書くかどうか、迷っています。『銀河鉄道の夜』論、あるいは宮沢賢治論を根底から検討し直すことにつながるかもしれず、軽々に文章にできないのが現状です。

 いま、私が立てている仮説が正しいならば、「まっ赤に光る赤い円い実」と「高い高い三角標」の意味するところも分かるような気がするのですが、むしろ、その仮説が間違っていてほしいような矛盾した思いがあります。

 混乱を極めた文章を、最後まで読んでくださってありがとうございます。