前回「南家郎女と水の女」を投稿してから随分と時間が経ってしまった。次は小説としての『死者の書』の「世態風俗」について書いてみたい、としながら果たせないでいる。
『死者の書』前半は、滋賀津彦と呼ばれる大津皇子と南家郎女の出会いが語られ、その描写は鬼気迫るものがあって、しかも、不思議なリアリティがある。折口でなければ書けない文章であって、口述筆記する折口の息の匂いがつたわってくるような気がする。
ところが中段になって、大伴家持が登場し、藤原仲麻呂と会話する場面では、木に竹を接いだように、文章の調子ががらりと変わる。藤原京から平城京へ都が変わり、権力闘争が相次ぐ。そのさなかに身を置きながら、流れに乗りきれない自分の内面を確かめようとする家持の視点から、出来事が語られる。だが、『死者の書』中段の主人公は、家持ではなくて、じつは、藤原仲麻呂なのではないか。
、
家持が仲麻呂の邸宅に招かれ饗応を受けている。仲麻呂の息子久須麻呂と家持の娘の縁談がもちあがっていたようだから、そのための饗応だったのかもしれない。家持は、十歳年上の仲麻呂の悠揚迫らぬ風格に気おされそうになる。会話はふたりの共通の話題の漢文学から、神隠しにあったという南家郎女の話に及ぶ。春の日長の、何事も起こっていないかのような、平和で満ち足りた光景が展開するのだが、家持は一抹の不安を覚える。恵美屋敷の立派過ぎる庭が、気になるのだ。立派な庭に住んだ貴族の末は滅びてしまう、という。
高校日本史程度の知識しかない私が七、八世紀の歴史を俄か勉強して、あらためて驚いたのは、近畿地方の狭い地域を中心に、血で血を洗う権力闘争が絶えなかったという事実と、その経緯のむごたらしさが目を覆うばかりであったことである。叔母の光明皇太后の権威を盾に、権力をみずからの手に集中させた藤原仲麻呂は律令体制の施行に驀進する。作品中の家持との会話にも窺われるように、仲麻呂は当代一流の知識人であり教養人であった。『懐風藻』の編者の一人ともいわれている。その仲麻呂が橘奈良麻呂の変に際して行った処罰は苛烈極まるものだった。皇族を含む四百人以上が逮捕され、ほとんどが訊杖という杖で打たれる拷問によって獄死している。家持と仲麻呂の会話は、家持が越中から帰京して八年後と書かれているので、この事件の後という設定になっている。
光明皇太后の死後、仲麻呂の運命は暗転する。天皇の大権である貨幣鋳造権までも手中にして、政、官、軍の大権を掌握した仲麻呂だが、孝謙上皇に謀反を起こそうとしたとの密告があって、近江に逃れ、越前を目指す。だが、吉備真備を指揮官とする孝謙上皇方の討伐軍に、海、陸両方から攻められた仲麻呂軍は、わずか九日であっけなく敗れる。湖上に船を出して逃れようとした仲麻呂は妻子ともに皆殺しにされるのだ。
昔見し 舊き堤は年深み 池の渚に 水草生ひにけり
手入れの行き届き過ぎた庭を目にして危惧する家持の心を読んだかのように、仲麻呂は
古歌を呟く。萬葉集巻三山部赤人が、仲麻呂の祖父不比等の館跡で詠んだ歌
いにしへの 古き堤は 年深み 池の渚に 水草生ひにけり
として知られているものだが、一句目「昔者之」を、折口は「いにしへの」ではなく、「昔見し」と訓んで、仲麻呂に呟かせている。余談ながら、折口は「口訳萬葉集巻三」中の表記も「昔見し」としているので、そう訓むのが正しいと考えていたのだろう。山部赤人にとって、淡海公藤原不比等の館跡はたんに漠然とした「いにしえの古き堤」ではなく、「昔見し舊き堤」だった。ほんの一昔前のことだったかもしれない。赤人はそこが水草の生い繁るがままにまかされていることに時間の推移を見ている。しずかな感動と、たしかな鎮魂の思いが過不足なく表現されていると思う。そしてその思いは、仲麻呂に寄せる折口の思いでもあったのではないか。
「庭はよくても、滅びた人ばかりはないさ。」と、家持の顔色をよんだ仲麻呂は言ったが、信じ難いほど急転直下の成りゆきで滅亡してしまう。そんなに仲麻呂の権力の基盤は脆かったのだろうか。一方、対話の相手の家持は、相次ぐ政変からあやうく身をかわしながら、仲麻呂の死後二十年以上生き延びている。藤原宿奈麻呂の仲麻呂暗殺計画に加わっていたともいわれるが、罪に問われることはなかった。もっとも、死後に起った藤原種継暗殺事件に関与していたとされ、埋葬を許されなかった、とあるので、名門貴族の氏上でありながら、順風満帆の生涯とは程遠かったようである。
物語の本筋に直接関係ない家持と仲麻呂の対話は、何故木に竹を接いだように、挿入されたのだろうか。折口はこの後、「たなばたつめ」のモチーフを用いて南家郎女が曼荼羅を織り上げる物語を語る。家持と仲麻呂のその後の消息が語られることは二度とない。「當麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされた」と、仲麻呂の庇護のもとにあった大炊王が即位したことを記すのみである。
折口の「民俗学」は、徹底して「歴史」を語らない。膨大な文献を渉猟して緻密に組み立てられた、むしろ「言語学」に近いもののような気がする。そのこと自体がきわめて政治的であると思う。小津安二郎の映画が日常茶飯に徹して、政治を語らないのと同じように。「歴史」を語らないという禁欲。過去の文献を読み解きながら、文献に書かれた「事実」に触れないという禁欲。その禁欲が、折口を読む者に、いいようのない息苦しさを覚えさせるのではないか。
それでは『死者の書』の中で、折口は歴史を語っているだろうか。語っているようにも見えるし、そうでないようにも見える。いえることは、折口は、ここではのびやかに書いている、ということだ。大仏開眼に沸く奈良朝の「世態風俗」、家持と仲麻呂の二人の「人情」、それらを折口は楽しみながら書いているように思われる。折口が「民俗学」の中では解放できなかったもの、徹底して禁欲してきたこと、「事実」に触れるということは「小説」の中だからこそなし得たのだと思う。それが「歴史」ではなく、「伝承」の記録というかたちであっても。
『死者の書』に登場する大津皇子、天若日子、隼別皇子、そしていうまでもなく藤原仲麻呂はみかどに弓引く企てをした反逆者として非業の死を遂げた者たちである。折口は、南家郎女の物語を縦糸に、彼ら反逆者の伝承を横糸にして『死者の書』という曼荼羅を織り上げたのだと思われる。
『死者の書』については、郎女の見る「俤人」が何故「金髪、白皙」の「色人」なのか、という問題を考えなければならなく、そして、その解についてもある仮説があるのですが、いまは、まだ、まとまったことが書けそうにありません。自分の文章作成能力の乏しさをつくづく 感じています。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2020年4月12日日曜日
2020年3月4日水曜日
NHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」を見て_personからindividualへ
深夜つれあいとユーチューブをネットサーフィンしていたら、「認知症の第一人者が認知症になった」というドキュメンタリーに出会った。タイトルにある通り「痴呆症」と呼ばれていたものを「認知症」と名づけた文字通りの第一人者が、その症状を発症してから、一年余りの生活に取材して映像化した作品である。一時間に満たない番組をつくるために、どれほどの映像、というか情報を切り捨てたのだろう。過不足なく、抑制のきいた映像が流れるのだが、それでいて、取材する側とされる側ドキュメンタリーにかかわる人それぞれの思い、息づかいが伝わってくるような気がした。
この番組は相当な反響をよんだものらしく、ネットで標題のタイトルを探したら、たくさんの感想が寄せられていた。いま現在身内の方を介護している人、介護の経験はないが、これから起こりうるかもしれない事態として自らの老後を考えている人などのいくつかのコメントを読んだが、それらがじつに達意の文章で、エッセイとはこうやって書くものだ、と感心かつ同感しながら読んでいた。
具体的な事柄についての感想は、ご本人とご家族の方たちのプライヴァシーにかかわり、微妙な問題を含む場合もあるかと思うので、さし控えたい。それで、私が印象的だったふたつの場面について考えてみたい。
ひとつは、認知症になった先生が、介護施設に招かれて「私はキリスト教の信仰に出会って……」、と話し始めた場面だが、その後話の続きがカットされてしまった。帰宅後、終始先生に付き添ってサポートしている長女の方が「キリスト教の話はしない方がいい」と父親に言っている場面があるので、おそらくその判断を優先したのだと思われる。介護施設のお年寄りを前に、先生がどんな話をしたのか、どうしてキリスト教の話はしない方がいいと判断したのかわからないのだが、私はその話を聞いてみたかった。先生はいつキリスト教に出会ったのか。認知症を自覚する前なのか、それとも後なのか。また、先生の出会ったキリスト教とはどんなキリスト教なのか。というより、先生はキリスト教の何に出会ったのか。
もうひとつは、番組の最後に近い場面で、長女の方が「お父さん、私が誰かわかる?」と聞くと、先生が「わからん」と答えるくだりである。その前に先生はインタビューーに答えて、自分が見ている景色はと以前と変わらない、と言っているので、長女の方も以前と同じ存在として認識していると思われる。姿、かたち、年齢、声等々、それとして認識しているのだが、「みずこか?」と奥さんの名を呼び、「わからん…」とつぶやく。目の前にいる人間が妻なのか娘なのか、それとも他の誰かなのか、わからない。存在は認めても、自分との関係性が抜け落ちている。これは絶対の孤独である。
認知症も様々なかたちがあるようだが、門外漢で経験が乏しい私には、詳しいことがわからない。ただ、このドキュメンタリーを見て思うことは、老いるとは、この方も言われるように、「自分の中にあるものをひとつひとつ失っていくこと」なのだ、という当たり前のことであり、それを受け入れていく過程なのだ、ということである。そして、それはそんなに悪いことでもないし、悲しむことでもないような気がする。
他者との関係性が欠落していくことは、他者との関係を結ぶための「顔_仮面_ペルソナ」が剥ぎ取られていく過程である。「人間」から「ひと」になっていく。person からindividual になっていくのだ。もうこれ以上分けられない存在、究極絶対の個。
もちろん、これは、私の想像の世界の中で理念としてのみ成り立つ図式かもしれない。現実はもっと複雑で情念に満ちた世界があるのだろう。だが、「キリスト教の信仰に出会った」という先生の言葉を聞いたとき、私もその信仰に出会ったような気がしたのである。というか、もし私がキリストに出会うことがあるとしたら、そういう絶対の孤独、究極の個に近づくときだろう、と思うのだ。
折口信夫の続きを書かなければならないのですが、相変わらず悪戦苦闘しています。それで、というわけでもないのですが、ちょっと折口の呪縛から逃れたくもあって、寄り道してしまいました。不出来な作文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
この番組は相当な反響をよんだものらしく、ネットで標題のタイトルを探したら、たくさんの感想が寄せられていた。いま現在身内の方を介護している人、介護の経験はないが、これから起こりうるかもしれない事態として自らの老後を考えている人などのいくつかのコメントを読んだが、それらがじつに達意の文章で、エッセイとはこうやって書くものだ、と感心かつ同感しながら読んでいた。
具体的な事柄についての感想は、ご本人とご家族の方たちのプライヴァシーにかかわり、微妙な問題を含む場合もあるかと思うので、さし控えたい。それで、私が印象的だったふたつの場面について考えてみたい。
ひとつは、認知症になった先生が、介護施設に招かれて「私はキリスト教の信仰に出会って……」、と話し始めた場面だが、その後話の続きがカットされてしまった。帰宅後、終始先生に付き添ってサポートしている長女の方が「キリスト教の話はしない方がいい」と父親に言っている場面があるので、おそらくその判断を優先したのだと思われる。介護施設のお年寄りを前に、先生がどんな話をしたのか、どうしてキリスト教の話はしない方がいいと判断したのかわからないのだが、私はその話を聞いてみたかった。先生はいつキリスト教に出会ったのか。認知症を自覚する前なのか、それとも後なのか。また、先生の出会ったキリスト教とはどんなキリスト教なのか。というより、先生はキリスト教の何に出会ったのか。
もうひとつは、番組の最後に近い場面で、長女の方が「お父さん、私が誰かわかる?」と聞くと、先生が「わからん」と答えるくだりである。その前に先生はインタビューーに答えて、自分が見ている景色はと以前と変わらない、と言っているので、長女の方も以前と同じ存在として認識していると思われる。姿、かたち、年齢、声等々、それとして認識しているのだが、「みずこか?」と奥さんの名を呼び、「わからん…」とつぶやく。目の前にいる人間が妻なのか娘なのか、それとも他の誰かなのか、わからない。存在は認めても、自分との関係性が抜け落ちている。これは絶対の孤独である。
認知症も様々なかたちがあるようだが、門外漢で経験が乏しい私には、詳しいことがわからない。ただ、このドキュメンタリーを見て思うことは、老いるとは、この方も言われるように、「自分の中にあるものをひとつひとつ失っていくこと」なのだ、という当たり前のことであり、それを受け入れていく過程なのだ、ということである。そして、それはそんなに悪いことでもないし、悲しむことでもないような気がする。
他者との関係性が欠落していくことは、他者との関係を結ぶための「顔_仮面_ペルソナ」が剥ぎ取られていく過程である。「人間」から「ひと」になっていく。person からindividual になっていくのだ。もうこれ以上分けられない存在、究極絶対の個。
もちろん、これは、私の想像の世界の中で理念としてのみ成り立つ図式かもしれない。現実はもっと複雑で情念に満ちた世界があるのだろう。だが、「キリスト教の信仰に出会った」という先生の言葉を聞いたとき、私もその信仰に出会ったような気がしたのである。というか、もし私がキリストに出会うことがあるとしたら、そういう絶対の孤独、究極の個に近づくときだろう、と思うのだ。
折口信夫の続きを書かなければならないのですが、相変わらず悪戦苦闘しています。それで、というわけでもないのですが、ちょっと折口の呪縛から逃れたくもあって、寄り道してしまいました。不出来な作文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2020年2月18日火曜日
折口信夫『死者の書』__水の女と南家郎女__入水と「白玉」
前回『死者の書』のもう一人の主人公藤原南家郎女について、彼女をとりまく時代状況「世態風俗」を考えてみたいと書いたのだが、その前に、やはり「水の女」と「たなばたつめ」というモチーフにどうしても触れなくてはいけないような気がする。松浦寿輝氏は南家郎女について「水の女とたなばたつめの系譜」と総括して、折口信夫の「水の女」と「大嘗祭の本義」の一節を引用してしている。
みづのをひもを解いた女は、神秘に触れたのだから「神の嫁」となる。(「水の女」)
此みづのひもを解くと同時に、ほんとうの神格になる。そして、第一に媾はれるのが、此紐をといた女である。さうして、其人が后になるのである。(「大嘗祭の本義」)
「みずのをひも」とは、大嘗祭の儀式において、物忌みに籠った天皇の体に結ばれた紐であり、その解きかたを知っているのは神に仕える処女=水の女だけである、とされている。だが、ここでの松浦氏の論の中心は「水の女」の行為あるいは機能にあるのではない。氏は、大嘗祭の儀式の核心が、物忌みに籠った天皇が「神の魂を受け取るために女性化を強いられ」る「独身者同士が軀を擦り合わせる倒錯した舞台」にあることを示唆している。「水の女」が「みずのをひもを解く」行為は、「神の魂を受け取」り、神格化が完了した天皇を忌から解き放ち、再び共同体の場にもどす重要な役割をになうが、あくまで、先の倒錯した舞台劇が行われた上で、それに続く秘事であるとされている。
「水の女」の基本的な概念が、松浦氏の引用した折口の文章にあり、また氏の解析に同意もするのだが、『死者の書』の南家郎女と「水の女」の関わりについて、もう少し、小説の文脈に沿って考えてみたい。「水の女」は折口の論文の中でも有名なものであるが、折口の他の論文同様、非常に難解で、かなり大部の論文である。「みぬま」という語の解釈から始まるこの論文が主題とするものは、じつは複雑多岐にわたっている。記紀神話をはじめとする多くの伝承や文献の知識、素養が乏しい私が容易に要約できるはずもないが、南家郎女という女主人公を形象化するうえで、折口が何をヒントにしたかを探ってみたい。
余談だが、「水の女」「若水の話」「貴種誕生と産湯の信仰と」「最古日本の女性生活の根底」と続く折口の古代研究の論文の多くが女性に関するものであったことに、いまあらためて、かるい驚きを覚えている。
『死者の書』で「藤原南家郎女」と呼ばれる女性は、奈良県当麻寺につたわる「当麻曼荼羅」を一夜にして織り上げた「中将姫」として伝説化された存在だが、藤原豊成の娘で、母は当麻氏出身の藤原百成ともいわれ、実在した人物のようである。藤原南家郎女の屋敷があった奈良の三条と当麻寺はかなりの距離で、作品中にあるように、春秋二回の彼岸の中日に美しい人の俤を見て憧れたからといって、嵐の中を徒歩でたどりつくことのできる距離ではない。当麻_曼荼羅_南家郎女を結んで伝説化するには、何らかの因縁があったのだと思われる。
幼いときから美しく聡明だった郎女は、父から贈られてきた「称讃浄土摂受経」の写経をはじめる。そして春、秋の彼岸の中日、夕日の沈む一瞬に、山の端に美しい人の姿を見る。だが、半年後の春分の日に雨が降り、沈む夕日と美しい人の姿を見ることができなくなった郎女は、いたたまれずに家を飛び出す。夕日の沈む方向へ、俤(おもかげ)人を求めて、南家郎女は嵐の夜一晩中歩き続け、二上山の麓当麻の里にたどりつく。
知らぬ間に結界をおかし、寺の境内に入っていた郎女は、朝になって、寺人に見つけられ、寺に留め置かれることになる。そして、その夜、郎女は孔雀明王を祀る小さな廬の中で、夜を徹して、当麻の語部の媼の語りを聞くことになるのだ。
媼は、まず、郎女の祖中臣氏の神わざを語る。中臣・藤原の遠い祖あめの押雲根命が、日のみ子の飯、酒を作る水を求めて、大和国中に得られず、当麻の地二上山に八か所の天水の湧き口を見つけたこと。それ以来、代々の中臣が日のみ子の食す水を汲みに当麻の地に来ること。「お聞き及びかえ。」と念を押しながら媼は語る。当麻と南家郎女を結ぶ縁は水であったのだ。
語り終わって、いったん口をつぐんだ媼は、今度は神懸って歌いはじめる。
ひさかたの 天の二上に
我が登り 見れば
とぶとりの 明日香
ふる里の 神南備山隠り、
家どころ 多(サハ)に見え、
豊にし 屋庭は見ゆ
濔彼方(イヤヲチ)に見ゆる家群
藤原の 朝臣が宿
遠々に 我が見るものを
たかだかに 我が待つものを
處女子は 出通(イデコ)ぬものか。
よき耳を 聞かさぬものか。
青馬の 耳面刀自。
刀自もがも。 女弟(オト)もがも。
その子の はらからの子の
處女子の 一人
一人だに、 わが配偶(ツマ)に来よ。
ひさかたの 天の二上
二上の陽面(カゲトモ)に、
生ひをゝり 繁み咲く
馬酔木の にほへる子を
我が 捉り兼ねて、
馬酔木の あしずりしつゝ
吾はもよ偲ぶ。藤原處女
二上山に埋葬された大津皇子の独白である。長い眠りから「徐(シズ)かに覚めた」大津皇子は、「まだ反省のとり戻されぬむくろには、心になるものがあって、心はなかった」が、当麻の語部の媼の口を通して、處女子を、「藤原處女」を求めるのだ。幽界の大津皇子には、南家郎女が、磐余の池で処刑される寸前に一瞬に視線をかわした耳面刀自に見えるという。
ところで、また余談だが、この長歌は折口の創作だろうか。松浦寿輝氏は、歌人折口を「三流」と評して、「うた」がない、と断じている。たしかに、折口とほぼ同時代の斎藤茂吉のように「うたいあげる」ことは折口にとって不可能だった。折口自身は「調子が張っている」かどうかを歌の評価の基準にしていたが、折口の歌で「調子が張っている」ものは少ないのではないか。むしろ「うたえない」歌人だったと思う。だが、この長歌は、「うたう」のでなく、「つぶやく」あるいは「くどく」歌である。そして、出典を探し求めずにいられないくらいに、この時代の息づかいをつたえてくるのだ。歌が「時代と寝る」ものだとすれば、折口の歌は、彼の時代と寝ることができなかった。「古代」の時代と寝たのだ。
折口信夫は「水の女」の後半で
私は古代皇妃の出自が、水界に在って、水神の女である事、竝に、その聖職が、天子即位甦生を意味する禊の奉仕にあった事を中心として、此論を完了しようとしてゐのである。
と述べている。冒頭松浦氏の引用した「大嘗祭の本義」の文章を要約したものである。折口には珍しく、近代的というか合理的な説明のように見えて、私のようなレベルの読者でもすんなりわかったような気がしてくる。だが、ここに至るまで、折口はじつに様々な伝承、文献を渉猟して「水」_「神」_「女」の織りなす物語を吟味検証しているのだ。
折口は、貴人のために女が水に潜る行為は、天皇即位甦生の儀式だけでなく、貴人誕生時に産湯を使わせる場面でも行われるという。また、たんに「潜る」というよりは、その「冷たさに堪える」ことが、ある目的を成就させるという発想があった、とも指摘している。儀式化される以前、「禊」の原初には、「水を浴びる」という程度の内容より、はるかに重く、危険をともなう場面があったのではないか。折口は「水の女」中「とりあげの神女」の章末尾で、入水すること_潜る(くくる)ことがそのまま死を連想させる伝承をいくつかとりあげている。それらの伝承をヒントに、『死者の書』の白眉ともいえる郎女の入水の夢の場面が書かれたのではないか。
周りの侍女たちが寝静まった夜更け、廬の中、郎女が座る帳台に跫音が近づいてくる。昨晩は廬の戸が激しく叩かれたのだった。恐怖と同時に鮮烈なときめきがほとばしって、郎女は思わず目をつむる。昨夜、当麻の媼は、大津皇子が藤原處女を求めて声にならない叫びをあげているのだと言った。あるいは、皇子と同じように反逆の罪をおかした「天若日子」が祟るのだ、とも。
やがて帷帳がうごいて、瞬間指が見える。細く白い、まるで骨のような指が帷帳を摑んでいる。思わず、郎女の洩らした言葉は
なも 阿彌陀ほとけ あなたふと 阿彌陀ほとけ
だった。寝食を忘れて写経に励んだ称讃浄土経の文である。
なうなう。あみだほとけ……。再びつぶやく。
帷帳は元のまま垂れて、何事もなかったかのようなかったかのようだが、白い骨、白玉の並んだような骨の指がいつまでも郎女の目に残っている。そしてその後、郎女は入水の夢を見るのである。
郎女は「海の中道」を歩いて行く。踏んでいるのが砂ではなく、白く光る玉だと気がついて、拾うのだが、拾っても拾っても掌に置くと砂のように砕けて散ってしまう。
姫は__やっと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。さう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆される。浪に漂ふ身……衣もなく裳もない。抱き持った等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現し身。
ずんずんと下がって行く。水底に水漬く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹の白い珊瑚の樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生ひ靡くのは、玉藻であった。玉藻が、深海のうねりのまゝに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光__。ほっと息をついた。
まるで、潜(ミズ)きする海女が二十尋、三十尋の水底から浮び上がって嘯(ウソブ)く様に、深い息の音で、自身明かに目が覚めた。
非常に美しいイメージの連続だが、死の隠喩に満ちている。ここは「海の中道」だが、生き物の気配はない。「白玉」があるだけだ。拾おうとすると砕け散って砂となる無数の白玉。等身大の輝く大きな白玉。それを抱き持った郎女の身も白玉となり、さらに白い珊瑚の木になってしまう。
「白玉」とは何か。夢の直前に見た帷帳をつかむ「白い指」が「「白い骨、白玉の竝んだような骨の指」とが書かれていることから推察すれば、それは「白骨」ではないだろうか。
折口に「石に出で入るもの」という論文がある。その中で、「玉_たま(魂)」について説明している。「玉」は、外見だけでなく、それに内在しているものを問題にしているので、見る人が玉だとみれば、貝でも石でも人の骨でも「玉」であって、人の骨を玉に見立てた歌が萬葉集に少なくとも二つあるともいっている。
「白玉」=「白骨」という仮定が正しいとすれば、夢の中で「輝く、大きな玉」と抱き合ったまま海底に沈む郎女は、自身も白玉=白骨となって、白骨同士の、いわば死の抱擁をかわすのだが、果たして「みづのをひもを解いて」禊は完了したのだろうか。目覚めた郎女が、もう一度「なうなう 阿弥陀ほとけ」とつぶやくと、明るい光明の中に、山の端に見た美しい俤人が姿を現したのである。郎女はその白玉の指をはっきりと見たのだが、起き直ると、天井の光の輪が揺れているだけだった。
南家郎女については「たなばたつめ」のモチーフも考えなければいけないのですが、これについてはまた回を改めたいと思います。ここまでくるのも悪戦苦闘の連続でした。家持と藤原仲麻呂が作品中に突如登場することの意味も考えたいのですが、なかなか先が見えません。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
みづのをひもを解いた女は、神秘に触れたのだから「神の嫁」となる。(「水の女」)
此みづのひもを解くと同時に、ほんとうの神格になる。そして、第一に媾はれるのが、此紐をといた女である。さうして、其人が后になるのである。(「大嘗祭の本義」)
「みずのをひも」とは、大嘗祭の儀式において、物忌みに籠った天皇の体に結ばれた紐であり、その解きかたを知っているのは神に仕える処女=水の女だけである、とされている。だが、ここでの松浦氏の論の中心は「水の女」の行為あるいは機能にあるのではない。氏は、大嘗祭の儀式の核心が、物忌みに籠った天皇が「神の魂を受け取るために女性化を強いられ」る「独身者同士が軀を擦り合わせる倒錯した舞台」にあることを示唆している。「水の女」が「みずのをひもを解く」行為は、「神の魂を受け取」り、神格化が完了した天皇を忌から解き放ち、再び共同体の場にもどす重要な役割をになうが、あくまで、先の倒錯した舞台劇が行われた上で、それに続く秘事であるとされている。
「水の女」の基本的な概念が、松浦氏の引用した折口の文章にあり、また氏の解析に同意もするのだが、『死者の書』の南家郎女と「水の女」の関わりについて、もう少し、小説の文脈に沿って考えてみたい。「水の女」は折口の論文の中でも有名なものであるが、折口の他の論文同様、非常に難解で、かなり大部の論文である。「みぬま」という語の解釈から始まるこの論文が主題とするものは、じつは複雑多岐にわたっている。記紀神話をはじめとする多くの伝承や文献の知識、素養が乏しい私が容易に要約できるはずもないが、南家郎女という女主人公を形象化するうえで、折口が何をヒントにしたかを探ってみたい。
余談だが、「水の女」「若水の話」「貴種誕生と産湯の信仰と」「最古日本の女性生活の根底」と続く折口の古代研究の論文の多くが女性に関するものであったことに、いまあらためて、かるい驚きを覚えている。
『死者の書』で「藤原南家郎女」と呼ばれる女性は、奈良県当麻寺につたわる「当麻曼荼羅」を一夜にして織り上げた「中将姫」として伝説化された存在だが、藤原豊成の娘で、母は当麻氏出身の藤原百成ともいわれ、実在した人物のようである。藤原南家郎女の屋敷があった奈良の三条と当麻寺はかなりの距離で、作品中にあるように、春秋二回の彼岸の中日に美しい人の俤を見て憧れたからといって、嵐の中を徒歩でたどりつくことのできる距離ではない。当麻_曼荼羅_南家郎女を結んで伝説化するには、何らかの因縁があったのだと思われる。
幼いときから美しく聡明だった郎女は、父から贈られてきた「称讃浄土摂受経」の写経をはじめる。そして春、秋の彼岸の中日、夕日の沈む一瞬に、山の端に美しい人の姿を見る。だが、半年後の春分の日に雨が降り、沈む夕日と美しい人の姿を見ることができなくなった郎女は、いたたまれずに家を飛び出す。夕日の沈む方向へ、俤(おもかげ)人を求めて、南家郎女は嵐の夜一晩中歩き続け、二上山の麓当麻の里にたどりつく。
知らぬ間に結界をおかし、寺の境内に入っていた郎女は、朝になって、寺人に見つけられ、寺に留め置かれることになる。そして、その夜、郎女は孔雀明王を祀る小さな廬の中で、夜を徹して、当麻の語部の媼の語りを聞くことになるのだ。
媼は、まず、郎女の祖中臣氏の神わざを語る。中臣・藤原の遠い祖あめの押雲根命が、日のみ子の飯、酒を作る水を求めて、大和国中に得られず、当麻の地二上山に八か所の天水の湧き口を見つけたこと。それ以来、代々の中臣が日のみ子の食す水を汲みに当麻の地に来ること。「お聞き及びかえ。」と念を押しながら媼は語る。当麻と南家郎女を結ぶ縁は水であったのだ。
語り終わって、いったん口をつぐんだ媼は、今度は神懸って歌いはじめる。
ひさかたの 天の二上に
我が登り 見れば
とぶとりの 明日香
ふる里の 神南備山隠り、
家どころ 多(サハ)に見え、
豊にし 屋庭は見ゆ
濔彼方(イヤヲチ)に見ゆる家群
藤原の 朝臣が宿
遠々に 我が見るものを
たかだかに 我が待つものを
處女子は 出通(イデコ)ぬものか。
よき耳を 聞かさぬものか。
青馬の 耳面刀自。
刀自もがも。 女弟(オト)もがも。
その子の はらからの子の
處女子の 一人
一人だに、 わが配偶(ツマ)に来よ。
ひさかたの 天の二上
二上の陽面(カゲトモ)に、
生ひをゝり 繁み咲く
馬酔木の にほへる子を
我が 捉り兼ねて、
馬酔木の あしずりしつゝ
吾はもよ偲ぶ。藤原處女
二上山に埋葬された大津皇子の独白である。長い眠りから「徐(シズ)かに覚めた」大津皇子は、「まだ反省のとり戻されぬむくろには、心になるものがあって、心はなかった」が、当麻の語部の媼の口を通して、處女子を、「藤原處女」を求めるのだ。幽界の大津皇子には、南家郎女が、磐余の池で処刑される寸前に一瞬に視線をかわした耳面刀自に見えるという。
ところで、また余談だが、この長歌は折口の創作だろうか。松浦寿輝氏は、歌人折口を「三流」と評して、「うた」がない、と断じている。たしかに、折口とほぼ同時代の斎藤茂吉のように「うたいあげる」ことは折口にとって不可能だった。折口自身は「調子が張っている」かどうかを歌の評価の基準にしていたが、折口の歌で「調子が張っている」ものは少ないのではないか。むしろ「うたえない」歌人だったと思う。だが、この長歌は、「うたう」のでなく、「つぶやく」あるいは「くどく」歌である。そして、出典を探し求めずにいられないくらいに、この時代の息づかいをつたえてくるのだ。歌が「時代と寝る」ものだとすれば、折口の歌は、彼の時代と寝ることができなかった。「古代」の時代と寝たのだ。
折口信夫は「水の女」の後半で
私は古代皇妃の出自が、水界に在って、水神の女である事、竝に、その聖職が、天子即位甦生を意味する禊の奉仕にあった事を中心として、此論を完了しようとしてゐのである。
と述べている。冒頭松浦氏の引用した「大嘗祭の本義」の文章を要約したものである。折口には珍しく、近代的というか合理的な説明のように見えて、私のようなレベルの読者でもすんなりわかったような気がしてくる。だが、ここに至るまで、折口はじつに様々な伝承、文献を渉猟して「水」_「神」_「女」の織りなす物語を吟味検証しているのだ。
折口は、貴人のために女が水に潜る行為は、天皇即位甦生の儀式だけでなく、貴人誕生時に産湯を使わせる場面でも行われるという。また、たんに「潜る」というよりは、その「冷たさに堪える」ことが、ある目的を成就させるという発想があった、とも指摘している。儀式化される以前、「禊」の原初には、「水を浴びる」という程度の内容より、はるかに重く、危険をともなう場面があったのではないか。折口は「水の女」中「とりあげの神女」の章末尾で、入水すること_潜る(くくる)ことがそのまま死を連想させる伝承をいくつかとりあげている。それらの伝承をヒントに、『死者の書』の白眉ともいえる郎女の入水の夢の場面が書かれたのではないか。
周りの侍女たちが寝静まった夜更け、廬の中、郎女が座る帳台に跫音が近づいてくる。昨晩は廬の戸が激しく叩かれたのだった。恐怖と同時に鮮烈なときめきがほとばしって、郎女は思わず目をつむる。昨夜、当麻の媼は、大津皇子が藤原處女を求めて声にならない叫びをあげているのだと言った。あるいは、皇子と同じように反逆の罪をおかした「天若日子」が祟るのだ、とも。
やがて帷帳がうごいて、瞬間指が見える。細く白い、まるで骨のような指が帷帳を摑んでいる。思わず、郎女の洩らした言葉は
なも 阿彌陀ほとけ あなたふと 阿彌陀ほとけ
だった。寝食を忘れて写経に励んだ称讃浄土経の文である。
なうなう。あみだほとけ……。再びつぶやく。
帷帳は元のまま垂れて、何事もなかったかのようなかったかのようだが、白い骨、白玉の並んだような骨の指がいつまでも郎女の目に残っている。そしてその後、郎女は入水の夢を見るのである。
郎女は「海の中道」を歩いて行く。踏んでいるのが砂ではなく、白く光る玉だと気がついて、拾うのだが、拾っても拾っても掌に置くと砂のように砕けて散ってしまう。
姫は__やっと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。さう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆される。浪に漂ふ身……衣もなく裳もない。抱き持った等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現し身。
ずんずんと下がって行く。水底に水漬く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹の白い珊瑚の樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生ひ靡くのは、玉藻であった。玉藻が、深海のうねりのまゝに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光__。ほっと息をついた。
まるで、潜(ミズ)きする海女が二十尋、三十尋の水底から浮び上がって嘯(ウソブ)く様に、深い息の音で、自身明かに目が覚めた。
非常に美しいイメージの連続だが、死の隠喩に満ちている。ここは「海の中道」だが、生き物の気配はない。「白玉」があるだけだ。拾おうとすると砕け散って砂となる無数の白玉。等身大の輝く大きな白玉。それを抱き持った郎女の身も白玉となり、さらに白い珊瑚の木になってしまう。
「白玉」とは何か。夢の直前に見た帷帳をつかむ「白い指」が「「白い骨、白玉の竝んだような骨の指」とが書かれていることから推察すれば、それは「白骨」ではないだろうか。
折口に「石に出で入るもの」という論文がある。その中で、「玉_たま(魂)」について説明している。「玉」は、外見だけでなく、それに内在しているものを問題にしているので、見る人が玉だとみれば、貝でも石でも人の骨でも「玉」であって、人の骨を玉に見立てた歌が萬葉集に少なくとも二つあるともいっている。
「白玉」=「白骨」という仮定が正しいとすれば、夢の中で「輝く、大きな玉」と抱き合ったまま海底に沈む郎女は、自身も白玉=白骨となって、白骨同士の、いわば死の抱擁をかわすのだが、果たして「みづのをひもを解いて」禊は完了したのだろうか。目覚めた郎女が、もう一度「なうなう 阿弥陀ほとけ」とつぶやくと、明るい光明の中に、山の端に見た美しい俤人が姿を現したのである。郎女はその白玉の指をはっきりと見たのだが、起き直ると、天井の光の輪が揺れているだけだった。
南家郎女については「たなばたつめ」のモチーフも考えなければいけないのですが、これについてはまた回を改めたいと思います。ここまでくるのも悪戦苦闘の連続でした。家持と藤原仲麻呂が作品中に突如登場することの意味も考えたいのですが、なかなか先が見えません。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2020年1月22日水曜日
折口信夫『死者の書』__大津皇子「くれろ。おつかさま」の謎__松浦寿輝『折口信夫論』に触発されて
三島由紀夫の『奔馬』について書こうと思い、背景となった昭和維新の時代を調べていて、松浦寿輝氏の『折口信夫論』に出会った。出会いの必然はこの著書の後記にある
この国の、奇妙に柔らかく弾性に富んだ不可視の権力システムの謎は、折口のあの薄気味悪い文章や詩歌の中に、ことごとく畳みこまれているのではないかとつねづね考えていたからである。
という文章がすべてを語っている。松浦氏の『折口信夫論』には、全編珠玉のような文章がきらめていて、そうだ、そうだと「激しく同意」しながら一気に読了した。折口を読まない人でも、この本を読めば折口の最も核心的なものに触れることができるのではないか。もう半世紀以上も折口を読んでいながら、何もいえずに立ちつくしている私は、自分のふがいなさに自信をなくしかけている。
だが、あえてひとつ言わせてもらうことができるとしたら、これらは折口の「同性」だから書けた文章なのではないか。論の初頭からたびたび引用される折口の「大嘗祭の本義」について、松浦氏は最後にこういっている。
この「褥=寝床」が異性を排除した独身者の床であるという点をいま一度強調しておくことにしよう。「水の女」が現れ、禊を行い、新天皇がまとうべき衣を織り、それを着せかけてくれるのは、物忌みが明けた後になってからのことにすぎない。「喪の儀礼のさなかにあっては、女との婚姻の証である「水の羽衣」は未だ奪われたままであり、仮死状態を耐えている宙吊りの「死者」は「をゝ寒い。……著物を下さい。著物を___」とおらびつづけなければならない。大嘗祭の「褥」は、異性との交接が行われるエロスの床ではなく、同性同士が軀を擦り合わせる倒錯の舞台なのである。
文中「仮死状態を耐えている宙吊りの死者」とは、折口信夫の『死者の書』の主人公「滋賀津彦」こと大津皇子である。天皇への反逆を企てたとして処刑され、二上山に埋葬されている死者が数十年後によみがえる。『死者の書』の冒頭「彼の人の眠りは、徐に覚めて行った。」と書き出され、少しずつ意識と記憶を取り戻していった死者は、むき出しの裸体に気づき、寒さに震えながら「著物をください。」と叫ぶのだ。松浦氏の『折口信夫論』は、主として折口の小説『死者の書』をテキストとして取り上げ、その創作の秘儀に迫りつつ、折口自身も気づかなかったのではないかと思われる「折口」を示現させるのだ。
「大嘗祭」に戻れば、折口自身が、この儀礼についての具体的な描写を「大嘗祭の本義」という論文の中深く畳みこむように、つまり用心深く隠すかのように置いているのと同じく、松浦氏もこの著書の最後でようやく一気に核心を抉り出す。ここに書かれてあることが事実かどうかは検証のしようがないのだが、折口と、そしてもちろん松浦氏とも異性である私には、この文章自体が「同性同士が軀を擦り合わせ」ている」ているように感じられてならない。折口の残虐な魅惑にあえて「十分以上に素肌をさら」すことができるのは同性の特権である。異性は最初から疎外されている。
だが、だから、それゆえに、松浦氏が『死者の書』の大津皇子(作品中では滋賀津彦と呼ばれる)が召喚する三人の女たち__耳面刀自、姉御(大伯皇女)、おつかさま__の差異に関心がなさそうであるのが、少しものたりないのである。以下、三人の女たちに滋賀津彦がどのように訴えたのかたどってみたい。
長い眠りから覚めた滋賀津彦の意識が、まず最初に、記憶から呼び起こしたのは耳面刀自だった。謀反の罪をきせられ、磐余の池で処刑される寸前に一目見た耳面刀自を、滋賀津彦は思い続けていた。滋賀津彦は言う。
おれによって来い。耳面刀自。
滋賀津彦の独白の中で最も多くその名が呼ばれるのは耳面刀自である。耳面刀自は実在の人物と考えられている。大織冠藤原鎌足の娘で、天智天皇の長子大友皇子の妃となったが、壬申の乱で大友皇子が敗れ自殺したため、妃である耳面刀自も死んだとされている。あるいは、近江宮から脱出し、父鎌足の故地鹿島を目指して九十九里浜に上陸したが、その地で亡くなったという伝説もある。
作中滋賀津彦と呼ばれる大津皇子は、天武天皇の子でありながら、天智天皇の近江宮で育てられた。人質としての存在だったかもしれない。だから、耳面刀自のことを
おまへのことを聞きわたった年月は、久しかった。
というのだろう。だが、いつ明けるとも知れぬ岩窟の暗闇の中で
子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り傳える子どもを。
と執着するのは異様である。
「滋賀津彦。其が、おれだったのだ。」と記憶を取り戻して歓びの激情をおぼえたとはいえ、「岩屋の中に矗立(シュクリツ)した、立ち枯れの木に過ぎなかった」と描写される滋賀津彦の生々しい欲望は、不思議な現実感をもって読む者の感性を脅かす。それは、立ち枯れの木と描写される滋賀津彦のむこうに、いや内側に、折口信夫その人の姿がすけて見えるような感覚を覚えてしまうからかもしれない。
折口信夫は「耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、さらに深い印象であったに違ひはない。彼の人の出来あがらぬ心に、骨に沁み、干からびた髄の心までも、唯彫りつけられたやうになって、残っているのである。」とのみ記すのだが。
その次に思い出したのは、伊勢の斎宮となった姉の大伯皇女だった。作中彼女の
いその上に生ふる馬酔木をたをらめど見すべき君がありと言はなくに
うつそみの人なる我や明日よりは二上山をいろせと思はむ
二首の和歌が記されている。弟が処刑された後、墓の前で哭きながら歌ったものとされている。誅歌(なきうた)と書かれていて、紛れもなく死者のための歌だが、この二首は、は、誅歌というよりむしろ恋人たちがかわす相聞歌の感情が漂っている。相聞歌と挽歌はいずれも相手の魂を「乞う」歌なので、厳密な区別がつきにくいものだが、万葉集には大伯皇女の歌がこの二首以外にも四首記録されている。そのいずれもむしろ民謡的な相聞歌である。
よい姉御だった。
折口はあっさりと、滋賀津彦にそういわせているが、墓の戸をこじあけようとする大伯皇女の姿は尋常ではない。
最後に召喚される「おつかさま」は謎である。実在の大津皇子の母は天智天皇の娘大田皇女だが、大津皇子が七歳の時になくなっている。目覚めた滋賀津彦は
をゝ寒い。おれを、どうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが悪かったというのなら、あやまります。著物をください。著物を___。おれのからだは、地べたに凍りついてしまひます。
と「おつかさま」に訴えかけるのだが、はたして「おつかさま」は早世した太田皇女だろうか。滋賀津彦は
恵みのないおつかさま。お前さまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうおいでない此世かも知れぬ。
と、「おつかさま」の生死について判断できない。ただ言えることは、「おつかさま」は権力者なのである。「おれが悪かったというのなら、あやまります。」と滋賀津彦が言うのは、いうまでもなく「おつかさま」が「尊い」からであり、「恵みのないおつかさま」でも「お縋りする」しかないのだ。「憐みのないおつかさま」は「おれの妻の、おれに殉死するのを、見殺しになされた。」とも書かれている。大津皇子の実母大田皇女がこのような権力者であったとは考えられない。そもそも大津皇子が処刑され、大津皇子の妃山辺皇女が殉死した時に、大田皇女はすでに他界している。権力者である「おつかさま」は実在のモデルがあるのだろうか。それとも何か抽象的な存在なのだろうか。
こうしてたどってみると、歌を詠んでくれた姉の大伯皇女の記述が、むしろ一番あっさりしている。この姉弟の関係は、当時からすでに近親愛的な叙事詩としてストーリーが組み立てられていた形跡があるのだが、作者折口はなぜかそこに関心をふりむけようとしないのである。それに対して、耳面刀自と「おつかさま」にからむ滋賀津彦は、奇妙なというか、異様なというか、その具体的身体の描写とあいまって、「死者の性欲」とでもいうべきオーラに満ちている。はたして、この滋賀津彦が南家郎女の俤にあらわれる「黄金の髪と白い肌」の主となるのだろうか。
こうして書いてくると、松浦氏の明晰かつ抽象化された論の枠組みに無理やり夾雑物を紛れ込ませようとしているようにも思われてくる。だが、『死者の書』は小説として書かれている。「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ」と坪内逍遥の言葉にあるように、「人情」と「世態風俗」について、もう少しこだわってみてもいいのではないか。「世態風俗」については、もう一人の主人公南家郎女と彼女を取り巻く状況を考えてみたい。その上でもう一度松浦氏の『折口信夫論』にもどって、何か言えることがあるかどうか考えてみたいとも思っている。
「権力とは現勢化するエロスの反復形態である」という『折口信夫論』の帯の文章は、まさに金言だと思うが、ならばなおのことそのエロスがどのように具体化されているかを、日常、生活者の感性で探ってみたいのである。
ずいぶん長いこと書かないでいたことも手伝って、未整理に拍車がかかる文章となってしまいました。最後まで読んでくださってほんとうにありがとうございます。
この国の、奇妙に柔らかく弾性に富んだ不可視の権力システムの謎は、折口のあの薄気味悪い文章や詩歌の中に、ことごとく畳みこまれているのではないかとつねづね考えていたからである。
という文章がすべてを語っている。松浦氏の『折口信夫論』には、全編珠玉のような文章がきらめていて、そうだ、そうだと「激しく同意」しながら一気に読了した。折口を読まない人でも、この本を読めば折口の最も核心的なものに触れることができるのではないか。もう半世紀以上も折口を読んでいながら、何もいえずに立ちつくしている私は、自分のふがいなさに自信をなくしかけている。
だが、あえてひとつ言わせてもらうことができるとしたら、これらは折口の「同性」だから書けた文章なのではないか。論の初頭からたびたび引用される折口の「大嘗祭の本義」について、松浦氏は最後にこういっている。
この「褥=寝床」が異性を排除した独身者の床であるという点をいま一度強調しておくことにしよう。「水の女」が現れ、禊を行い、新天皇がまとうべき衣を織り、それを着せかけてくれるのは、物忌みが明けた後になってからのことにすぎない。「喪の儀礼のさなかにあっては、女との婚姻の証である「水の羽衣」は未だ奪われたままであり、仮死状態を耐えている宙吊りの「死者」は「をゝ寒い。……著物を下さい。著物を___」とおらびつづけなければならない。大嘗祭の「褥」は、異性との交接が行われるエロスの床ではなく、同性同士が軀を擦り合わせる倒錯の舞台なのである。
文中「仮死状態を耐えている宙吊りの死者」とは、折口信夫の『死者の書』の主人公「滋賀津彦」こと大津皇子である。天皇への反逆を企てたとして処刑され、二上山に埋葬されている死者が数十年後によみがえる。『死者の書』の冒頭「彼の人の眠りは、徐に覚めて行った。」と書き出され、少しずつ意識と記憶を取り戻していった死者は、むき出しの裸体に気づき、寒さに震えながら「著物をください。」と叫ぶのだ。松浦氏の『折口信夫論』は、主として折口の小説『死者の書』をテキストとして取り上げ、その創作の秘儀に迫りつつ、折口自身も気づかなかったのではないかと思われる「折口」を示現させるのだ。
「大嘗祭」に戻れば、折口自身が、この儀礼についての具体的な描写を「大嘗祭の本義」という論文の中深く畳みこむように、つまり用心深く隠すかのように置いているのと同じく、松浦氏もこの著書の最後でようやく一気に核心を抉り出す。ここに書かれてあることが事実かどうかは検証のしようがないのだが、折口と、そしてもちろん松浦氏とも異性である私には、この文章自体が「同性同士が軀を擦り合わせ」ている」ているように感じられてならない。折口の残虐な魅惑にあえて「十分以上に素肌をさら」すことができるのは同性の特権である。異性は最初から疎外されている。
だが、だから、それゆえに、松浦氏が『死者の書』の大津皇子(作品中では滋賀津彦と呼ばれる)が召喚する三人の女たち__耳面刀自、姉御(大伯皇女)、おつかさま__の差異に関心がなさそうであるのが、少しものたりないのである。以下、三人の女たちに滋賀津彦がどのように訴えたのかたどってみたい。
長い眠りから覚めた滋賀津彦の意識が、まず最初に、記憶から呼び起こしたのは耳面刀自だった。謀反の罪をきせられ、磐余の池で処刑される寸前に一目見た耳面刀自を、滋賀津彦は思い続けていた。滋賀津彦は言う。
おれによって来い。耳面刀自。
滋賀津彦の独白の中で最も多くその名が呼ばれるのは耳面刀自である。耳面刀自は実在の人物と考えられている。大織冠藤原鎌足の娘で、天智天皇の長子大友皇子の妃となったが、壬申の乱で大友皇子が敗れ自殺したため、妃である耳面刀自も死んだとされている。あるいは、近江宮から脱出し、父鎌足の故地鹿島を目指して九十九里浜に上陸したが、その地で亡くなったという伝説もある。
作中滋賀津彦と呼ばれる大津皇子は、天武天皇の子でありながら、天智天皇の近江宮で育てられた。人質としての存在だったかもしれない。だから、耳面刀自のことを
おまへのことを聞きわたった年月は、久しかった。
というのだろう。だが、いつ明けるとも知れぬ岩窟の暗闇の中で
子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り傳える子どもを。
と執着するのは異様である。
「滋賀津彦。其が、おれだったのだ。」と記憶を取り戻して歓びの激情をおぼえたとはいえ、「岩屋の中に矗立(シュクリツ)した、立ち枯れの木に過ぎなかった」と描写される滋賀津彦の生々しい欲望は、不思議な現実感をもって読む者の感性を脅かす。それは、立ち枯れの木と描写される滋賀津彦のむこうに、いや内側に、折口信夫その人の姿がすけて見えるような感覚を覚えてしまうからかもしれない。
折口信夫は「耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、さらに深い印象であったに違ひはない。彼の人の出来あがらぬ心に、骨に沁み、干からびた髄の心までも、唯彫りつけられたやうになって、残っているのである。」とのみ記すのだが。
その次に思い出したのは、伊勢の斎宮となった姉の大伯皇女だった。作中彼女の
いその上に生ふる馬酔木をたをらめど見すべき君がありと言はなくに
うつそみの人なる我や明日よりは二上山をいろせと思はむ
二首の和歌が記されている。弟が処刑された後、墓の前で哭きながら歌ったものとされている。誅歌(なきうた)と書かれていて、紛れもなく死者のための歌だが、この二首は、は、誅歌というよりむしろ恋人たちがかわす相聞歌の感情が漂っている。相聞歌と挽歌はいずれも相手の魂を「乞う」歌なので、厳密な区別がつきにくいものだが、万葉集には大伯皇女の歌がこの二首以外にも四首記録されている。そのいずれもむしろ民謡的な相聞歌である。
よい姉御だった。
折口はあっさりと、滋賀津彦にそういわせているが、墓の戸をこじあけようとする大伯皇女の姿は尋常ではない。
最後に召喚される「おつかさま」は謎である。実在の大津皇子の母は天智天皇の娘大田皇女だが、大津皇子が七歳の時になくなっている。目覚めた滋賀津彦は
をゝ寒い。おれを、どうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが悪かったというのなら、あやまります。著物をください。著物を___。おれのからだは、地べたに凍りついてしまひます。
と「おつかさま」に訴えかけるのだが、はたして「おつかさま」は早世した太田皇女だろうか。滋賀津彦は
恵みのないおつかさま。お前さまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうおいでない此世かも知れぬ。
と、「おつかさま」の生死について判断できない。ただ言えることは、「おつかさま」は権力者なのである。「おれが悪かったというのなら、あやまります。」と滋賀津彦が言うのは、いうまでもなく「おつかさま」が「尊い」からであり、「恵みのないおつかさま」でも「お縋りする」しかないのだ。「憐みのないおつかさま」は「おれの妻の、おれに殉死するのを、見殺しになされた。」とも書かれている。大津皇子の実母大田皇女がこのような権力者であったとは考えられない。そもそも大津皇子が処刑され、大津皇子の妃山辺皇女が殉死した時に、大田皇女はすでに他界している。権力者である「おつかさま」は実在のモデルがあるのだろうか。それとも何か抽象的な存在なのだろうか。
こうしてたどってみると、歌を詠んでくれた姉の大伯皇女の記述が、むしろ一番あっさりしている。この姉弟の関係は、当時からすでに近親愛的な叙事詩としてストーリーが組み立てられていた形跡があるのだが、作者折口はなぜかそこに関心をふりむけようとしないのである。それに対して、耳面刀自と「おつかさま」にからむ滋賀津彦は、奇妙なというか、異様なというか、その具体的身体の描写とあいまって、「死者の性欲」とでもいうべきオーラに満ちている。はたして、この滋賀津彦が南家郎女の俤にあらわれる「黄金の髪と白い肌」の主となるのだろうか。
こうして書いてくると、松浦氏の明晰かつ抽象化された論の枠組みに無理やり夾雑物を紛れ込ませようとしているようにも思われてくる。だが、『死者の書』は小説として書かれている。「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ」と坪内逍遥の言葉にあるように、「人情」と「世態風俗」について、もう少しこだわってみてもいいのではないか。「世態風俗」については、もう一人の主人公南家郎女と彼女を取り巻く状況を考えてみたい。その上でもう一度松浦氏の『折口信夫論』にもどって、何か言えることがあるかどうか考えてみたいとも思っている。
「権力とは現勢化するエロスの反復形態である」という『折口信夫論』の帯の文章は、まさに金言だと思うが、ならばなおのことそのエロスがどのように具体化されているかを、日常、生活者の感性で探ってみたいのである。
ずいぶん長いこと書かないでいたことも手伝って、未整理に拍車がかかる文章となってしまいました。最後まで読んでくださってほんとうにありがとうございます。
2019年12月2日月曜日
三島由紀夫『春の雪』_日露戦争の亡霊
『豊穣の海』第二作の『奔馬』についてはある程度まとまったことが書けそうな気がするのだが、『春の海』は難問である。どこまでも美しく、崇高でしかも限りなく官能的な清顕と聡子の恋、それがどのように始まって成就したか、作者の視線はこの一点にそそがれて揺るぎない。恋愛の要素であるむき出しの欲望や生臭い情動は、彫琢をきわめた流麗な文章によって、みごとに「優雅」の域に昇華されている。非の打ちどころのない恋愛小説として完結しているようにみえ、そこに謎を見出すことは困難であるように思われる。
主人公松枝清顕は、明治維新で勲功を立て、郷里鹿児島で「豪宕な神」とみなされた人物を祖父にもつ。祖父の息子二人は日露戦争で戦死して、残ったのは清顕の父一人のようである。清顕の父は清顕以外に子をもたなかったので、清顕は松枝家のただ一人の嫡子である。冒頭、渋谷郊外の広大な敷地十四万坪の中に、和洋取り交ぜた豪壮な建物を保有するばかりでなく、その名も「紅葉山」と呼ばれる山、その山を背景にする広い池、池に落ちる滝など、平安時代の王朝絵巻と見紛う松枝家の光景が描かれる。ここには、爛熟と豪奢、つまり貴族趣味そのものがあって、生硬なもの、粗削りなもの、質素なものは登場しない。
松枝清顕は、貴族趣味、というより、その性質もふくめて、貴族そのものである。若く、美しく、自尊心が抜きんでて高く、そして優柔不断な御曹司が清顕である。その清顕の心情を、作者は物語の冒頭「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する日露戦争の戦死者の写真と結びつけて語るのである。
すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標へ向って、波のように押し寄せる心をささげているのだ。野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思いが、中央へ向ってその重い鉄のような巨大な輪を徐々にしめつけている。古びた、セピア色の写真であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないように思われた。
十八歳の清顕がこのような心持になったのは、幼いころ公家の家に預けられて「優雅」を学ばされたことに原因がある、と書かれている。その公家の家が、清顕と禁断の恋に落ちる聡子が生まれた綾倉という伯爵家であって、清顕と綾倉聡子はまさに「優雅」な、そしてすさまじい恋をするのだが、いまは「優雅」にしのびより浸透していく死の影が、最初から清顕を覆っていたことに注目しておきたい。死と戦争は、物語の辻々に、さりげなく、だが印象的に挿入される。父侯爵が妾に会いに行くとき、付き添う清顕は、寒夜の風が松の梢を騒がす音にも「得利寺の戦死者弔祭の写真」の樹々のざわめきを聞き、死を連想するのだ。
清顕が再び「得利寺附近の戦死者の弔祭」を見るのは、雪の中、聡子と俥を走らせていたときのことだった。美しく怜悧で活発な聡子に対して、少年らしい自尊心から反発しながらも惹かれていた清顕だったが、ある雪の朝、唐突に、聡子から雪見に連れて行ってくれと呼び出しがかかる。迎えに行った清顕の俥に聡子が乗り込んできた時の様子はこう描かれている。
聡子が俥へ上がってきたとき、それはたしかに蓼料や車夫に扶けられて、半ば身を浮かすようにして乗ってきたのにはちがいないが、幌を掲げて彼女を迎い入れた清顕は、雪の幾片を襟元や髪にも留め、吹き込む雪と共に、白くつややかな顔の微笑を寄せてくる聡子を、平板な夢のなかから何かが身を起こして、急に自分に襲いかかってきたように感じた。聡子の重みを不安定に受けとめた俥の動揺が、そういう咄嗟の感じを強めたのかもしれない。
それはころがり込んできた紫の堆積であり、たきしめた香の薫りもして、清顕には、自分の冷えきった頬のまわりに舞う雪が、俄かに薫りを放ったように思われた。
これ以上ないほどの近さで身を寄せてきた聡子は、清顕にとって、美しい恋人というよりむしろ、何か日常世界を超えた次元からやってきた存在のようである。この後すぐ世にも美しい接吻へのなりゆきが繊細、精妙な描写で続くのだが。
そして、官能のほてりに暑さを覚えた清顕が、俥の幌を開けたときに、日露戦争の亡霊が現れるのである。折しもさしかかった坂の上の崖から見下ろす麻布三聯隊の兵庭には、肩と軍帽の庇に雪を積んだ数千の兵士が、白木の墓標と祭壇を遠巻きにしてうなだれていた。彼らはみな死んでいて、みずからを弔っているのだった。幻は一瞬にして消え、あたりは平穏な日常の佇まいに戻るのだが、清顕と聡子の陶酔は戻らなかった。
麻布三聯隊と霞町という場所はこの後、『春の雪』という作品の中で、一つの記号のように繰り返し登場する。清顕と聡子が初めて結ばれるのも、蓼料が懇意にしている北崎という軍人宿の離れで、そこは三聯隊の正門近くである。ふりつづく雨の中、清顕は北崎の宿におもむき、聡子と逢う。下宿の離れで清顕と聡子が結ばれる性愛の描写は、これほど具体的かつ高度な象徴性に満ちた描写はあるまいと思われるのだが、はたしてこれは、たんに性愛の描写だろうか。
清顕が、禁忌の存在に対して、自らの純潔をかけて届こうとすること、そのことによって
誰も見たことのないような完全な曙が漲る筈だった。
という預言は第二作『奔馬』のラスト、飯沼勲が
正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と上った。
となって成就するのだ。
北崎の宿は、物語の後半綾倉伯爵と綾倉家の老女蓼科の会話の中で登場する。清顕の子を身ごもった聡子が蓼科の指示を受け入れず、いっこうに中絶しようとしないことで、進退窮まった蓼科はカルチモンを飲んで自殺を図る。蓼科の部屋を訪れた伯爵に、蓼科は八年前の北崎の宿での伯爵の言葉をもちだすのである。
八年前も雨が降っていた。もう梅雨に入っていた。八年後に清顕と聡子が結ばれることになる北崎の離れで、伯爵と蓼科は何とも陰惨な春画を見て、十四年ぶりに情を交わした。そして伯爵は驚くべきことを蓼科に頼んだのだった。
八年前のその日、松枝侯爵が十三歳になった美しい聡子を見て、自分が三国一の婿を世話して、綾倉家から一度も出たことのないような豪勢な嫁入りをさせてやろう、と言った。このとき、無力な伯爵はこのはずかしめに対して、あいまいに笑っているだけだったが、何とか長袖者流の復讐をしてやろうと思っていたのである。それは、松枝侯爵が決めた婿に、生娘の聡子を与えない。縁組の前に、聡子を彼女が気に入っている男と添臥させる、ということで、このことを誰にも知らせず、蓼科一存でおかした過ちのようにやりとおしてほしい。そのために、生娘でないものと寝た男に生娘と思わせ、反対に、生娘と寝た男に生娘でないと思わせる二つの術を聡子に教え込むことができるだろうか。伯爵のこの恥知らずな、残酷な頼みを蓼科は「承りましてございます」と請け合ったのである。
「門も玄関もない、そのくせかなりな広さの庭に板塀をめぐらした坂下の家。湿った、暗い、なめくじの出そうな」と描写される北崎の家での伯爵と蓼科の会話は、『春の雪』という舞台劇の暗い裏側を覗かせる。清顕と聡子の美しすぎる悲恋は、彼らを取り巻く大人たちの情念と陰謀によって仕組まれたものだったのだ。零落しているがゆえにはずかしめられ、やりどころのない伯爵の憤懣が、このようなグロテスクな企てを思いつかせたのだろうが、それだけではない。ここにはもっと淫靡で複雑な男と女の情念が濃縮されて呈示されている。その情念のひとつひとひとつを書くのもおぞましいが、伯爵も侯爵も、自分の命さえも手玉に取って、みごとに情念をつらぬき復讐を果たした蓼科の存在感は圧倒的である。
『春の雪』の原点ともいえる八年前の出来事が、日露戦争に出征にする兵士の壮行会と同じ場所で行われたことに注目したい。降りしきる雨の中、事後の二人の耳に軍歌の合唱が届く。
鉄火はためく戦場に
護国の運命、君に待つ
行け忠勇の我が友よ
ゆけ君国の烈丈夫
北崎の宿と日露戦争は、この後『春の雪』に登場することはない。美しく崇高な悲劇の原点が、陰惨で淫靡な情念の世界であり、そこはまた血生臭い戦場と隣り合わせの場所であることを示唆して、物語は終末に向かっていく。
難問の『春の雪』に、せめて補助線を引いてみようと思って書き出したのですが、やはり難問のままでした。でも、あきらめないで、影の主人公本多繁邦を中心に、もう一度考えたいと思っています。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
主人公松枝清顕は、明治維新で勲功を立て、郷里鹿児島で「豪宕な神」とみなされた人物を祖父にもつ。祖父の息子二人は日露戦争で戦死して、残ったのは清顕の父一人のようである。清顕の父は清顕以外に子をもたなかったので、清顕は松枝家のただ一人の嫡子である。冒頭、渋谷郊外の広大な敷地十四万坪の中に、和洋取り交ぜた豪壮な建物を保有するばかりでなく、その名も「紅葉山」と呼ばれる山、その山を背景にする広い池、池に落ちる滝など、平安時代の王朝絵巻と見紛う松枝家の光景が描かれる。ここには、爛熟と豪奢、つまり貴族趣味そのものがあって、生硬なもの、粗削りなもの、質素なものは登場しない。
松枝清顕は、貴族趣味、というより、その性質もふくめて、貴族そのものである。若く、美しく、自尊心が抜きんでて高く、そして優柔不断な御曹司が清顕である。その清顕の心情を、作者は物語の冒頭「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する日露戦争の戦死者の写真と結びつけて語るのである。
すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標へ向って、波のように押し寄せる心をささげているのだ。野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思いが、中央へ向ってその重い鉄のような巨大な輪を徐々にしめつけている。古びた、セピア色の写真であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないように思われた。
十八歳の清顕がこのような心持になったのは、幼いころ公家の家に預けられて「優雅」を学ばされたことに原因がある、と書かれている。その公家の家が、清顕と禁断の恋に落ちる聡子が生まれた綾倉という伯爵家であって、清顕と綾倉聡子はまさに「優雅」な、そしてすさまじい恋をするのだが、いまは「優雅」にしのびより浸透していく死の影が、最初から清顕を覆っていたことに注目しておきたい。死と戦争は、物語の辻々に、さりげなく、だが印象的に挿入される。父侯爵が妾に会いに行くとき、付き添う清顕は、寒夜の風が松の梢を騒がす音にも「得利寺の戦死者弔祭の写真」の樹々のざわめきを聞き、死を連想するのだ。
清顕が再び「得利寺附近の戦死者の弔祭」を見るのは、雪の中、聡子と俥を走らせていたときのことだった。美しく怜悧で活発な聡子に対して、少年らしい自尊心から反発しながらも惹かれていた清顕だったが、ある雪の朝、唐突に、聡子から雪見に連れて行ってくれと呼び出しがかかる。迎えに行った清顕の俥に聡子が乗り込んできた時の様子はこう描かれている。
聡子が俥へ上がってきたとき、それはたしかに蓼料や車夫に扶けられて、半ば身を浮かすようにして乗ってきたのにはちがいないが、幌を掲げて彼女を迎い入れた清顕は、雪の幾片を襟元や髪にも留め、吹き込む雪と共に、白くつややかな顔の微笑を寄せてくる聡子を、平板な夢のなかから何かが身を起こして、急に自分に襲いかかってきたように感じた。聡子の重みを不安定に受けとめた俥の動揺が、そういう咄嗟の感じを強めたのかもしれない。
それはころがり込んできた紫の堆積であり、たきしめた香の薫りもして、清顕には、自分の冷えきった頬のまわりに舞う雪が、俄かに薫りを放ったように思われた。
これ以上ないほどの近さで身を寄せてきた聡子は、清顕にとって、美しい恋人というよりむしろ、何か日常世界を超えた次元からやってきた存在のようである。この後すぐ世にも美しい接吻へのなりゆきが繊細、精妙な描写で続くのだが。
そして、官能のほてりに暑さを覚えた清顕が、俥の幌を開けたときに、日露戦争の亡霊が現れるのである。折しもさしかかった坂の上の崖から見下ろす麻布三聯隊の兵庭には、肩と軍帽の庇に雪を積んだ数千の兵士が、白木の墓標と祭壇を遠巻きにしてうなだれていた。彼らはみな死んでいて、みずからを弔っているのだった。幻は一瞬にして消え、あたりは平穏な日常の佇まいに戻るのだが、清顕と聡子の陶酔は戻らなかった。
麻布三聯隊と霞町という場所はこの後、『春の雪』という作品の中で、一つの記号のように繰り返し登場する。清顕と聡子が初めて結ばれるのも、蓼料が懇意にしている北崎という軍人宿の離れで、そこは三聯隊の正門近くである。ふりつづく雨の中、清顕は北崎の宿におもむき、聡子と逢う。下宿の離れで清顕と聡子が結ばれる性愛の描写は、これほど具体的かつ高度な象徴性に満ちた描写はあるまいと思われるのだが、はたしてこれは、たんに性愛の描写だろうか。
清顕が、禁忌の存在に対して、自らの純潔をかけて届こうとすること、そのことによって
誰も見たことのないような完全な曙が漲る筈だった。
という預言は第二作『奔馬』のラスト、飯沼勲が
正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と上った。
となって成就するのだ。
北崎の宿は、物語の後半綾倉伯爵と綾倉家の老女蓼科の会話の中で登場する。清顕の子を身ごもった聡子が蓼科の指示を受け入れず、いっこうに中絶しようとしないことで、進退窮まった蓼科はカルチモンを飲んで自殺を図る。蓼科の部屋を訪れた伯爵に、蓼科は八年前の北崎の宿での伯爵の言葉をもちだすのである。
八年前も雨が降っていた。もう梅雨に入っていた。八年後に清顕と聡子が結ばれることになる北崎の離れで、伯爵と蓼科は何とも陰惨な春画を見て、十四年ぶりに情を交わした。そして伯爵は驚くべきことを蓼科に頼んだのだった。
八年前のその日、松枝侯爵が十三歳になった美しい聡子を見て、自分が三国一の婿を世話して、綾倉家から一度も出たことのないような豪勢な嫁入りをさせてやろう、と言った。このとき、無力な伯爵はこのはずかしめに対して、あいまいに笑っているだけだったが、何とか長袖者流の復讐をしてやろうと思っていたのである。それは、松枝侯爵が決めた婿に、生娘の聡子を与えない。縁組の前に、聡子を彼女が気に入っている男と添臥させる、ということで、このことを誰にも知らせず、蓼科一存でおかした過ちのようにやりとおしてほしい。そのために、生娘でないものと寝た男に生娘と思わせ、反対に、生娘と寝た男に生娘でないと思わせる二つの術を聡子に教え込むことができるだろうか。伯爵のこの恥知らずな、残酷な頼みを蓼科は「承りましてございます」と請け合ったのである。
「門も玄関もない、そのくせかなりな広さの庭に板塀をめぐらした坂下の家。湿った、暗い、なめくじの出そうな」と描写される北崎の家での伯爵と蓼科の会話は、『春の雪』という舞台劇の暗い裏側を覗かせる。清顕と聡子の美しすぎる悲恋は、彼らを取り巻く大人たちの情念と陰謀によって仕組まれたものだったのだ。零落しているがゆえにはずかしめられ、やりどころのない伯爵の憤懣が、このようなグロテスクな企てを思いつかせたのだろうが、それだけではない。ここにはもっと淫靡で複雑な男と女の情念が濃縮されて呈示されている。その情念のひとつひとひとつを書くのもおぞましいが、伯爵も侯爵も、自分の命さえも手玉に取って、みごとに情念をつらぬき復讐を果たした蓼科の存在感は圧倒的である。
『春の雪』の原点ともいえる八年前の出来事が、日露戦争に出征にする兵士の壮行会と同じ場所で行われたことに注目したい。降りしきる雨の中、事後の二人の耳に軍歌の合唱が届く。
鉄火はためく戦場に
護国の運命、君に待つ
行け忠勇の我が友よ
ゆけ君国の烈丈夫
北崎の宿と日露戦争は、この後『春の雪』に登場することはない。美しく崇高な悲劇の原点が、陰惨で淫靡な情念の世界であり、そこはまた血生臭い戦場と隣り合わせの場所であることを示唆して、物語は終末に向かっていく。
難問の『春の雪』に、せめて補助線を引いてみようと思って書き出したのですが、やはり難問のままでした。でも、あきらめないで、影の主人公本多繁邦を中心に、もう一度考えたいと思っています。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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