「日中戦争と紀子三部作の謎」について、いつまで経ってもいっこうに解きほぐせないので、つい考えるのが億劫になってしまう。それで、大した進展はないのだが、少しだけ、また独断と偏見を書いてみたい。「紀子三部作」の一作目の『晩春』(一九四九年公開)と、小津の遺作となった『秋刀魚の味』(一九六一年公開)の比較である。
『秋刀魚の味』は、晩春』の焼き直しといわれても仕方がないほど、同じプロットから成り立っていることは誰でもわかるだろう。寡夫となった父が娘を嫁にやるまでの経緯をきめ細やかに淡々と描いた作品である。ラスト近く、花嫁衣裳の娘が父に挨拶して家を出ていくシーンも共通している。
ただ、微妙に違うのは、『晩春』の紀子が、白黒の映画なので黒く見える地色の花嫁衣裳に身を包み、どこか恨めしそうに、もっといえば、屠殺場に引かれていく行く牛のようなたたずまいの後ろ姿を見せるのに対し、『秋刀魚の味』の路子は、美しく輝く白無垢の衣装で、あっけらかんと、明るく家を出ていくことである。『晩春』の紀子は、纏綿たる情緒をただよわせ、どこまでも「女」だったが、『秋刀魚の味』の路子は、どこか無機質で、人形のように可愛いのだ。
ストーリーは『晩春』のほうがはるかに単純である。父を慕う紀子の執着をいかに断ち切って嫁にやるか、ほぼこれに尽きるといってよい。紀子の恋人に擬せられる服部という父の助手とか、父の再婚相手として紹介されるという未亡人の三輪夫人が登場するが、メインはあくまで紀子と父の葛藤である。
『秋刀魚の味』は、前回のブログでも書いたが、冒頭主人公の平山と友人の河合とのやり取りから、初老の平山の隠された情動がひそかに暗示される。娘のような若い女と再婚した同窓生も登場する。同時に、早くに妻をなくし、娘を妻替わりに使って嫁にやりそびれた教師と娘の無残な老後も描かれる。『秋刀魚の味』はいくつかの主題がからみあって展開される。
平山の次の世代も登場する。『晩春』の紀子は一人娘だったが、『秋刀魚の味』の平山家には、路子の兄、弟がいる。弟はまだ学生のようだが、兄は社会人で、結婚して団地住まいのサラリーマンである。冷蔵庫を買うといって、父に金を無心するが、実はほしいのはゴルフのセットである。マクレガーというアメリカ製のセットが欲しいのだが、中古でもサラリーマンの給料ではとても買えないのだ。いや、妻と共稼ぎの所帯だが、冷蔵庫も高値の花だったのである。
『晩春』の紀子に結婚を決意させたものは、父と三輪夫人の再婚話だったが、『秋刀魚の味』の路子は、兄の部下の男に失恋したためである。この男は計算高くて調子のいい軽薄な人間として描かれているので、路子がこんな男を好きだったというのが、ちょっと不思議なのだが。
という風に『秋刀魚の味』は、まさに高度成長期にさしかかった日本の風俗を軽やかにすくい上げていく。抑制の効いたカラーの画面も上品で美しい。そんな中、ある種唐突に、戦時中平山の部下だった坂本という男が登場する。いまはラーメン屋を営んで生計をたてているかつての恩師のもとに、同窓生一同から募った寸志を届けに行った平山は、店に入ってきた男に声をかけられる。平山は軍艦「朝風」(実在の駆逐艦である)の艦長で、男はその部下だったというのだ。自動車の修理工場をしているという坂本に連れられて、平山は彼のなじみのバーに行くと、そこに流れていたのは「軍艦マーチ」だった。
「軍艦マーチ」はこのバーの名物らしく、坂本が音頭をとって、レコードに合わせて敬礼しながら店内を行進するシーンがある。坂本は平山に「艦長もやってくださいよ」と敬礼させ、お風呂から帰ってきたという店のママも一緒に敬礼する。
思うに、『秋刀魚の味』のテーマは「軍艦マーチ」に収斂されていく、といってよいのではないか。赤い横線の入った煙突が煙を吐く冒頭のシーン(おそらく川崎の工場地帯だと思われる)、いまから見るとおもちゃ箱のようなコンクリートの団地、長男夫婦に象徴される消費経済への転換、など世相を描き、人情の機微も描きながら、ラスト近く再び軍艦マーチが流れる。
路子の結婚式を終えた平山は、仲人をつとめた河合の家でかなりの酩酊状態になりながら、坂本に案内されたバーに足を運ぶ。そこには、平山の亡き妻に似ているというママがいて、「今日はどちらのお帰り?お葬式ですか?」と聞いた後、「かけましょうか、あれ」と軍艦マーチのレコードをかけるのだ。サラリーマン風の男が二人隣のツールに座っていて、音楽が流れると、「大本営発表!」「帝国陸軍は今暁五時三十分南鳥島東方海上において」「負けました」「そうです。負けました」とかけあいでアナウンサーの真似をしている。平山は無言である。
平山の遅い帰宅を待っていた長男夫婦も帰って、家には次男と平山の二人だけになる。平山は台所の椅子に座って軍艦マーチを口ずさんでいる。「浮かべる城ぞたのみなる・・・」もう寝ろよ、と次男は気遣うが、平山は、「やぁ、ひとりぼっちか・・・浮かべるその城日の本の・・・」とつぶやいた後、立ち上がって階段の前にたたずむ。しばらく上を見上げている。カメラだけが主の去った路子の部屋を映して回る。
やがて平山はもう一度台所に戻って、やかんから水を飲む。軍艦マーチの音楽がテーマミュージックにかぶりながら変わって「終」の文字がでる。やかんの水が末期の水に見えてくるような終わり方である。
世紀を超えたいま、この時点から振り返ると、「六十年代」は日本が劇的に変わっていった時代だった、と思う。以前にも書いたが、小津安二郎の映画は、政治にかかわらないという点で、きわめて政治的である。日本中を政治の季節に巻き込んだ「六十年安保」を経て、時代は確実に、そして劇的に変わっていったのだ。「小津安二郎の日本」__あるいは「小津安二郎と日本」は終わったのである。
余談だが、この映画には「海」の映像がない。『晩春』、『麦秋』、『東京物語』の紀子三部作はもちろん、その他の映画にも海の映像はほとんどといっていいくらい登場する。だが、「軍艦マーチ」が主旋律となるこの映画に海の映像はないのだ。「海」の映像と訣別しなければならない何かがあったのだろうか。
『秋刀魚の味』について何ほどのものが書けたのか、という忸怩たる思いがあるのですが、ひとまずこれで区切りを付けたいと思います。また紀子三部作に戻る予定です。今日も不出来な感想文を読んでくださって、ありがとうございます。
2018年12月19日水曜日
2018年12月5日水曜日
宮沢賢治『フランドン農学校の豚』__父と子そして国家
前回『フランドン農学校の豚』について、救済をもたらさない受難物語として読んでみた。概ねそれでいいと思うのだが、もう少し書いてみたい。この作品に限らないのだが、賢治の作品、とくに散文の中には、ときに周到に隠されているのだが、「父と子」のテーマが存在するのである。
フランドン農学校の校長と豚の関係は、たんに擬人化された飼育者と家畜のそれにとどまらないものがあるように思う。豚と言葉を交わしコミュニケーションをとるのは、校長だけである。どこにも救いのない死に至る豚だが、校長とのやりとりには、微かな甘えの気配が漂うのだ。校長もまた、豚に対して決然とした態度をとれないでいる。
校長は、印を押させるための死亡承諾書を持って来ながら、豚の様子があまりに陰気だったので、承諾書をそのまま持ち帰ってしまう。再びやってきた校長が意を決して切り出すと、豚は「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」と泣き叫ぶ。犬/猫にも劣る恩知らず、と罵りながらも、校長はやはり印を押させることができない。豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってますよう、わあ」と、すねて大泣きする。ここには哀歓をともにする感情の交流が間違いなくあるのだ。
だが、豚は「農学校で飼育されている食肉用家畜」である以上、殺戮されることを運命として引き受けなければならない。校長と感情の交流があるといっても、校長は最終的に豚に死を宣告する役割がある。殺戮を実行するのは冷徹なテクノクラートだが、「死亡承諾書」に印を押させることは、校長にしかできないのである。
ところで、「死亡承諾書」なるものは何を意味するのか。豚が殺される前の月、その国の王が「家畜/撲殺同意調印法」を布告した、と書かれている。『フランドン農学校の豚』を、たんなる受難物語として読み過ごすことができないのは、「家畜/撲殺同意調印法」の意味がわからないからである。なぜ家畜を殺すのに家畜の同意を得る必要があるのか。それを法律で定める必要があるのか。___というより、賢治がこの作品の中に、唐突に国王と法律を持ち出すことの意味がわからないのである。
「死亡承諾書」が存在しなくても、殺される豚と農学校の校長との物語は成り立っただろう。死を強制せざるを得ない父と最後にはそれを受け入れざるを得ない子との物語である。だが、その強制の背後に「法律」が存在して、「国」の「王」がいる、となると、これは「父と子」のプロットを包み込む、さらに大きな枠組みが用意されていることになる。
いったい、賢治の「童話」と称されるものは、実はかなり複雑な影を帯びているものが多い。有名な『注文の多い料理店』という作品も、例によって独断と偏見の持ち主の私は、「富国強兵」のスローガンのもと、「イギリス風の紳士」然と西洋化した(させられた)日本が、言葉巧みに操られて、最後は丸裸になって滅亡させられてしまうところだった、というお話だと考えている。賢治は、最後に死んだはずの犬が「山猫軒」を襲って二人の「イギリス風の紳士」を助けてくれることにしているが、この結末にはかなりの無理があるように思われる。
『フランドン農学校』という作品は、賢治の晩年、と言っても三十代のことだろうが、に書かれたようである。晩年に近づくほど、詩、散文ともに、賢治の作品は、実生活の影が濃く、苦渋に満ちたものが多くなってくる。『フランドン学校の豚』は、擬人法、というより、人間社会を豚に擬えて書いた、という意味で「擬豚法」とでも呼ぶべき方法で描いた、苦渋に満ちた傑作であると思う。
もっと丁寧に「父と子」と「国家」について掘り下げなければならないのですが、体力、気力ともに十分ではないので、もう少し時間が欲しいと思っています。今日も不出来な感想文を読んでくださってありがとうございます。
フランドン農学校の校長と豚の関係は、たんに擬人化された飼育者と家畜のそれにとどまらないものがあるように思う。豚と言葉を交わしコミュニケーションをとるのは、校長だけである。どこにも救いのない死に至る豚だが、校長とのやりとりには、微かな甘えの気配が漂うのだ。校長もまた、豚に対して決然とした態度をとれないでいる。
校長は、印を押させるための死亡承諾書を持って来ながら、豚の様子があまりに陰気だったので、承諾書をそのまま持ち帰ってしまう。再びやってきた校長が意を決して切り出すと、豚は「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」と泣き叫ぶ。犬/猫にも劣る恩知らず、と罵りながらも、校長はやはり印を押させることができない。豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってますよう、わあ」と、すねて大泣きする。ここには哀歓をともにする感情の交流が間違いなくあるのだ。
だが、豚は「農学校で飼育されている食肉用家畜」である以上、殺戮されることを運命として引き受けなければならない。校長と感情の交流があるといっても、校長は最終的に豚に死を宣告する役割がある。殺戮を実行するのは冷徹なテクノクラートだが、「死亡承諾書」に印を押させることは、校長にしかできないのである。
ところで、「死亡承諾書」なるものは何を意味するのか。豚が殺される前の月、その国の王が「家畜/撲殺同意調印法」を布告した、と書かれている。『フランドン農学校の豚』を、たんなる受難物語として読み過ごすことができないのは、「家畜/撲殺同意調印法」の意味がわからないからである。なぜ家畜を殺すのに家畜の同意を得る必要があるのか。それを法律で定める必要があるのか。___というより、賢治がこの作品の中に、唐突に国王と法律を持ち出すことの意味がわからないのである。
「死亡承諾書」が存在しなくても、殺される豚と農学校の校長との物語は成り立っただろう。死を強制せざるを得ない父と最後にはそれを受け入れざるを得ない子との物語である。だが、その強制の背後に「法律」が存在して、「国」の「王」がいる、となると、これは「父と子」のプロットを包み込む、さらに大きな枠組みが用意されていることになる。
いったい、賢治の「童話」と称されるものは、実はかなり複雑な影を帯びているものが多い。有名な『注文の多い料理店』という作品も、例によって独断と偏見の持ち主の私は、「富国強兵」のスローガンのもと、「イギリス風の紳士」然と西洋化した(させられた)日本が、言葉巧みに操られて、最後は丸裸になって滅亡させられてしまうところだった、というお話だと考えている。賢治は、最後に死んだはずの犬が「山猫軒」を襲って二人の「イギリス風の紳士」を助けてくれることにしているが、この結末にはかなりの無理があるように思われる。
『フランドン農学校』という作品は、賢治の晩年、と言っても三十代のことだろうが、に書かれたようである。晩年に近づくほど、詩、散文ともに、賢治の作品は、実生活の影が濃く、苦渋に満ちたものが多くなってくる。『フランドン学校の豚』は、擬人法、というより、人間社会を豚に擬えて書いた、という意味で「擬豚法」とでも呼ぶべき方法で描いた、苦渋に満ちた傑作であると思う。
もっと丁寧に「父と子」と「国家」について掘り下げなければならないのですが、体力、気力ともに十分ではないので、もう少し時間が欲しいと思っています。今日も不出来な感想文を読んでくださってありがとうございます。
2018年11月28日水曜日
宮沢賢治『フランドン農学校の豚』__絶望の果ては何か
異様な作品である。賢治の死後に原稿が発見されたそうで、作品の冒頭部分が欠落している。『フランドン農学校』で飼育されている豚が屠られるまでの数日間を、豚の内面に入って描いた小説である。「童話」というにはあまりにも残酷で、「寓話」と呼ぶには描写がリアル過ぎる。
この豚は人間の言葉を理解し、話す。当然に、人間と同じ感情をもつ。同時に豚なので、金石でなければ、あたえられるものは何でもたべて上等な脂肪や肉にする。触媒として、白金と同じだ、といわれてよろこぶ。豚は白金の値も知っていて、自分の目方もわかっているので、素早く自分の値打ちを計算して幸福感にひたったりする。
豚の運命が暗転していくのは、あたえられた餌のなかに歯磨楊枝が混じっていたときからである。ここまでは三人称の叙述だったのだが、ここで突如として語り手が語り始める。少し長いがその部分を引用したい。
それから二三日たって、そのフランドンの豚は、どさりと上から落ちて来た一かたまりのたべ物から、(大学生諸君、意志を鞏固にもち給え。いいかな。)たべ物の中から、一寸細長い白いもので、さきにみじかい毛を植えた、ごく率直に云うならば、ラクダ印の歯磨楊枝、それを見たのだ。どうもいやな説教で、折角洗礼を受けた、大学生諸君にすまないが少しこらえてくれ給え。
つまり、この作品は語り手(誰かわからないが)が、複数の大学生に向かって語っているのである。しかも、その「大学生諸君」は「折角洗礼を受けた」とあるので、キリスト教の学生なのだ。
飼育が進んでいく豚を怜悧な目で観察していくのは畜産学校の教師である。教師と助手は毎日豚の様子を見に来るが、豚と言葉を交わすことはない。直覚で豚は彼らの冷酷さを感じて恐怖する。豚と言葉を交わしコミュニケーションをとるのは、農学校の校長だけである。
校長は豚から「死亡承諾書」を取るためにやってくる。その国の王が前月「家畜撲殺調印法」という法律を布告したので、家畜を殺すものはその家畜から「死亡承諾書」を取って判を押させることになったからである。ところが、校長は豚に「死亡承諾書」のことを切り出せなかった。気分がふさぐという豚とにらみ合ったままで、しばらく立っていたが、「とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまわらんでね。」という言葉を残して行ってしまう。
豚は「承諾書]という言葉を畜産学の教師と助手の会話から聞いてしまう。豚は「承諾書」という言葉に不安と恐怖を覚えて煩悶する。さらに寄宿舎の生徒がやって来て、屠った豚の料理の話をする。彼らが小屋を出て行った後に、校長が再びやって来る。そして、今回は飼育されたことのありがたさを豚に説いて、「死亡承諾書」に判を押させようとする。「死亡承諾書」にはこう書いてある。
死亡承諾書、私/儀永永御恩顧の次第に有候儘、御都合により、何時にても死亡/仕るべく候年月日フランドン畜舎内、ヨークシャイア、フランドン農学校長/殿
校長は「ほんの小さなたのみだが」というが、読めば恐ろしい事が書いてある。「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」と、泣いて叫ぶ豚に、校長は「いやかい。それでは仕方がない。お前もあんまり恩知らずだ。犬/猫にさえ劣ったやつだ。」と怒って出て行ってしまう。校長はまたしてもしくじったのだ。
次の日また畜産の担任が助手を連れてやって来る。校長と違って畜産学の教師は冷酷な実務家だ。悲嘆にくれてやせ衰えた豚を運動させて腹を空かせようとする。教師は「む茶くちゃにたたいたり走らしたりしちゃいけないぞ」と指示するのだが、助手は丁寧な言葉使いでいたぶりながら、鞭をくれて豚に散歩させる。登場人物のなかで、この助手が最も残酷で嗜虐的な人間として描かれている。
三日経っても痩せる一方で回復しない豚を見て、畜産の教師は肥育器を使うことにする。豚を縛りつけて喉に管を通し、強制給餌をするのだ。縛りつける前に死亡承諾書に判
を押させなければならないので、あわてて校長がやって来る。今度ばかりは校長の剣幕におびえて、豚は承諾書に判を押してしまう。
それから豚は縛りつけられて喉に管を通され、胃の中まで餌を送り込まれる。七日間ひたすら餌を送りこまれて、息をするのも苦しいくらい太った豚は「もういいようだ。丁度いい。・・・丁度あしたがいいだろう」という教師の言葉を聞いて、自分があす死亡することを知る。それから助手と小使いがやって来る。助手に鞭打たれて体を洗われた豚は、小使いのもつブラシが豚の毛でできているのを見て、泣きわめく。
寒さと空腹と恐怖のなかで一夜を明かした豚は、また助手に鞭打たれ、畜舎から外に出され、殺される。「はあはあ頬をふくらませて、ぐたっぐたっと歩き出す」豚を鉄槌を持って殺したのは、畜産の教師である。生徒らにもう一度体を洗われた豚の喉を刺したのは助手だった。
作者みずから最後に「一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。」と書かずにいられないほど、この作品は残酷である。みずからの死に何の意味も見いだせないばかりか、不安が恐怖へ、恐怖が絶望に変わって、絶望の中で、誰にも愛されず豚は殺されるのだ。なおかつ、殺された豚は、生徒たちが待っていたような晩餐の糧となったわけでもなさそうである。「からだを八つに分解されて、厩舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩/
漬けられた。」とあるのだ。
ところで「フランドン農学校」とはどこにあるのだろう。フィクションなのだから、固有の地名にこだわる必要はないのかもしれないが、「フランドン」から「フランダース」_『フランダースの犬』を連想するのは突拍子もないことではないだろう。賢治の時代に日本に紹介されていたかどうかわからないのだが、『フランダースの犬』は一八七一年に書かれているので、その可能性がないとはいえないと思う。
『フランダースの犬』という小説は書かれたイギリスよりも日本で愛読されたようで、最後に、教会のルーベンスの絵の前で死ぬ少年と犬の話として有名である。月光の中で、キリストの十字架を描いたルーベンスの絵を見て死んでいく少年の姿に涙しながらも、ひとすじのカタルシスをもたらす「フランダースの犬」にくらべて、「フランドン農学校の豚」はあまりにも暗い。というか、『フランダースの犬』の宗教的法悦を真っ向否定するために『フランドン農学校の豚』は書かれたのではないかとさえ思われる。
前述の「折角洗礼を受けた、大学生諸君」に「どうもいやな説教ですまないが」という叙述から、この作品がキリスト教と深い関連があると推察するのは間違っていないと思う。十字架に掛けられるイエスの受難、それによる救済の福音と、無残に、無意味に死んでいく豚の絶望を対比させたかったのではないか。最後に作者はこう結ぶ。
さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。
(「二十四日の銀の月」は十二月二十四日キリスト生誕の前夜である)
ことわっておくが、私は、賢治がキリスト教を否定したかったのだというつもりはない。ただ、徹底して無残な、孤独の死を描きたかったのだろうと思う。ここには『なめとこ山の熊』の予定調和もない。無常が、観念でなく実在しているだけだ。そして、一個の豚の無残な死を書き留めることによって、この世で誰にも愛されず絶望の果てに死んでいった豚への愛を語ったのだろうと思われる。もちろんそれが、何の救いになるわけでもないのだけれど。
「小津安二郎と日中戦争」について書くといいながら、また寄り道してしまいました。弁解になるのですが、それほど小津の映画は手ごわいのです。今日も不出来な読書ノートを読んでくださって、ありがとうございます。
この豚は人間の言葉を理解し、話す。当然に、人間と同じ感情をもつ。同時に豚なので、金石でなければ、あたえられるものは何でもたべて上等な脂肪や肉にする。触媒として、白金と同じだ、といわれてよろこぶ。豚は白金の値も知っていて、自分の目方もわかっているので、素早く自分の値打ちを計算して幸福感にひたったりする。
豚の運命が暗転していくのは、あたえられた餌のなかに歯磨楊枝が混じっていたときからである。ここまでは三人称の叙述だったのだが、ここで突如として語り手が語り始める。少し長いがその部分を引用したい。
それから二三日たって、そのフランドンの豚は、どさりと上から落ちて来た一かたまりのたべ物から、(大学生諸君、意志を鞏固にもち給え。いいかな。)たべ物の中から、一寸細長い白いもので、さきにみじかい毛を植えた、ごく率直に云うならば、ラクダ印の歯磨楊枝、それを見たのだ。どうもいやな説教で、折角洗礼を受けた、大学生諸君にすまないが少しこらえてくれ給え。
つまり、この作品は語り手(誰かわからないが)が、複数の大学生に向かって語っているのである。しかも、その「大学生諸君」は「折角洗礼を受けた」とあるので、キリスト教の学生なのだ。
飼育が進んでいく豚を怜悧な目で観察していくのは畜産学校の教師である。教師と助手は毎日豚の様子を見に来るが、豚と言葉を交わすことはない。直覚で豚は彼らの冷酷さを感じて恐怖する。豚と言葉を交わしコミュニケーションをとるのは、農学校の校長だけである。
校長は豚から「死亡承諾書」を取るためにやってくる。その国の王が前月「家畜撲殺調印法」という法律を布告したので、家畜を殺すものはその家畜から「死亡承諾書」を取って判を押させることになったからである。ところが、校長は豚に「死亡承諾書」のことを切り出せなかった。気分がふさぐという豚とにらみ合ったままで、しばらく立っていたが、「とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまわらんでね。」という言葉を残して行ってしまう。
豚は「承諾書]という言葉を畜産学の教師と助手の会話から聞いてしまう。豚は「承諾書」という言葉に不安と恐怖を覚えて煩悶する。さらに寄宿舎の生徒がやって来て、屠った豚の料理の話をする。彼らが小屋を出て行った後に、校長が再びやって来る。そして、今回は飼育されたことのありがたさを豚に説いて、「死亡承諾書」に判を押させようとする。「死亡承諾書」にはこう書いてある。
死亡承諾書、私/儀永永御恩顧の次第に有候儘、御都合により、何時にても死亡/仕るべく候年月日フランドン畜舎内、ヨークシャイア、フランドン農学校長/殿
校長は「ほんの小さなたのみだが」というが、読めば恐ろしい事が書いてある。「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」と、泣いて叫ぶ豚に、校長は「いやかい。それでは仕方がない。お前もあんまり恩知らずだ。犬/猫にさえ劣ったやつだ。」と怒って出て行ってしまう。校長はまたしてもしくじったのだ。
次の日また畜産の担任が助手を連れてやって来る。校長と違って畜産学の教師は冷酷な実務家だ。悲嘆にくれてやせ衰えた豚を運動させて腹を空かせようとする。教師は「む茶くちゃにたたいたり走らしたりしちゃいけないぞ」と指示するのだが、助手は丁寧な言葉使いでいたぶりながら、鞭をくれて豚に散歩させる。登場人物のなかで、この助手が最も残酷で嗜虐的な人間として描かれている。
三日経っても痩せる一方で回復しない豚を見て、畜産の教師は肥育器を使うことにする。豚を縛りつけて喉に管を通し、強制給餌をするのだ。縛りつける前に死亡承諾書に判
を押させなければならないので、あわてて校長がやって来る。今度ばかりは校長の剣幕におびえて、豚は承諾書に判を押してしまう。
それから豚は縛りつけられて喉に管を通され、胃の中まで餌を送り込まれる。七日間ひたすら餌を送りこまれて、息をするのも苦しいくらい太った豚は「もういいようだ。丁度いい。・・・丁度あしたがいいだろう」という教師の言葉を聞いて、自分があす死亡することを知る。それから助手と小使いがやって来る。助手に鞭打たれて体を洗われた豚は、小使いのもつブラシが豚の毛でできているのを見て、泣きわめく。
寒さと空腹と恐怖のなかで一夜を明かした豚は、また助手に鞭打たれ、畜舎から外に出され、殺される。「はあはあ頬をふくらませて、ぐたっぐたっと歩き出す」豚を鉄槌を持って殺したのは、畜産の教師である。生徒らにもう一度体を洗われた豚の喉を刺したのは助手だった。
作者みずから最後に「一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。」と書かずにいられないほど、この作品は残酷である。みずからの死に何の意味も見いだせないばかりか、不安が恐怖へ、恐怖が絶望に変わって、絶望の中で、誰にも愛されず豚は殺されるのだ。なおかつ、殺された豚は、生徒たちが待っていたような晩餐の糧となったわけでもなさそうである。「からだを八つに分解されて、厩舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩/
漬けられた。」とあるのだ。
ところで「フランドン農学校」とはどこにあるのだろう。フィクションなのだから、固有の地名にこだわる必要はないのかもしれないが、「フランドン」から「フランダース」_『フランダースの犬』を連想するのは突拍子もないことではないだろう。賢治の時代に日本に紹介されていたかどうかわからないのだが、『フランダースの犬』は一八七一年に書かれているので、その可能性がないとはいえないと思う。
『フランダースの犬』という小説は書かれたイギリスよりも日本で愛読されたようで、最後に、教会のルーベンスの絵の前で死ぬ少年と犬の話として有名である。月光の中で、キリストの十字架を描いたルーベンスの絵を見て死んでいく少年の姿に涙しながらも、ひとすじのカタルシスをもたらす「フランダースの犬」にくらべて、「フランドン農学校の豚」はあまりにも暗い。というか、『フランダースの犬』の宗教的法悦を真っ向否定するために『フランドン農学校の豚』は書かれたのではないかとさえ思われる。
前述の「折角洗礼を受けた、大学生諸君」に「どうもいやな説教ですまないが」という叙述から、この作品がキリスト教と深い関連があると推察するのは間違っていないと思う。十字架に掛けられるイエスの受難、それによる救済の福音と、無残に、無意味に死んでいく豚の絶望を対比させたかったのではないか。最後に作者はこう結ぶ。
さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。
(「二十四日の銀の月」は十二月二十四日キリスト生誕の前夜である)
ことわっておくが、私は、賢治がキリスト教を否定したかったのだというつもりはない。ただ、徹底して無残な、孤独の死を描きたかったのだろうと思う。ここには『なめとこ山の熊』の予定調和もない。無常が、観念でなく実在しているだけだ。そして、一個の豚の無残な死を書き留めることによって、この世で誰にも愛されず絶望の果てに死んでいった豚への愛を語ったのだろうと思われる。もちろんそれが、何の救いになるわけでもないのだけれど。
「小津安二郎と日中戦争」について書くといいながら、また寄り道してしまいました。弁解になるのですが、それほど小津の映画は手ごわいのです。今日も不出来な読書ノートを読んでくださって、ありがとうございます。
2018年10月26日金曜日
山口誓子 「つきぬけて天上の紺曼珠沙華」__満洲国を巡る随想の一間奏曲
山口誓子という人の俳句は私にとって難解である。
冷し馬潮北さすさびしさに
という句もいまもってわからない。標題の句は、「つきぬけるように澄み切った青空」、「真っ赤な曼珠沙華がすっくと立った様子」など、嘱目の光景を詠んだ句であるという解釈が多いようである。そうだろうか。
この句については、山口誓子自身が『自句自解』という本のなかで「つきぬけて天上の紺」まで一気に読む、としているそうである。だが、これは、実際に発声してみると難しいのだ。「つきぬけて」と「てんじょうのこん」は「つきぬけテ」「テんじょうのこん」と「テ」の音が重なる。舌を上の歯茎に打ちつける「テ」の音を続けるのは、生理的につらいものがある。それなのに、作者は間隙なく読んで欲しいと言っている。非常に切迫した衝動、とでもいうべきものを感じる。
この句の謎はもうひとつ「つきぬける」主体は何か、という問題である。何がどこからどこへ「つきぬける」のか。ほとんどの評者が「曼珠沙華」がすっくと立っている様を「つきぬけて」と描写したものとする。倒置法の句として解釈しているのだ。そうすると、「つきぬける」のは「曼珠沙華」ということになる。だが、「つきぬけて天上の紺」まで一気に読めば、「曼珠沙華」は「天井の紺」に開いた花ということになるのではないか。「つきぬけて」の主体ではないだろう。
「つきぬけて」の主体を特定する前に、「曼珠沙華」について考えてみたい。「天井の紺」に開いた花であれば、「曼珠沙華」は実景の「ヒガンバナ」ではないだろう。それは、『法華経』にあるという
是時下雨 曼荼羅華 摩訶曼荼羅華 曼珠沙華 摩訶曼珠沙華
の「曼珠沙華」だと思われる。釈迦が菩薩に大乗の法を説いたとき、天上に「曼荼羅華(蓮の花だそうである)」と「曼珠沙華」が開いたという。仏教の素養がまったくない私にはこれ以上の深遠な教えはわからないが、「曼珠沙華」は実景ではなく、イメージであると思われるのだ。
以上の推論が正しければ、「つきぬけて」の主体は「私」であろう。現実日常の世界から「天上」世界につきぬけるのである。無論それはイメージの世界、もしくは「狂想」である。何が作者を、現実世界から天上へ、仏教の言葉でいえば此岸から彼岸へ、というのだろうか、つきぬけさせたのか。これもまた私にとっては、たぶん、いつまでも解決できない謎なのだろうが。
くだくだしい解説を試みてきたが、この句は一気呵成に詠みあげた乾坤一擲とでもいうべき力にみちている。主観客観を超越する魔力といってもよいかもしれない。
昭和十六年(一九四一年)に詠まれたこの句は、私が満洲国のことを調べているときに「満洲=曼珠」のつながりで思い出したものである。満洲国の建国のイデオロギーとして法華経は重要な役目を果たしたと思われるので、この句に詠まれた「曼珠沙華」も「満洲」とどこかでつながっているかもしれない。だが、そんな小賢しい謎解きはどうでもよくて、「俳句」という短詩が、日本語の可能性を極限まで追求して、つねに文学の前衛でありつづけたということ、そしてそのことの素晴らしさを確認しておきたいと思う。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。
冷し馬潮北さすさびしさに
という句もいまもってわからない。標題の句は、「つきぬけるように澄み切った青空」、「真っ赤な曼珠沙華がすっくと立った様子」など、嘱目の光景を詠んだ句であるという解釈が多いようである。そうだろうか。
この句については、山口誓子自身が『自句自解』という本のなかで「つきぬけて天上の紺」まで一気に読む、としているそうである。だが、これは、実際に発声してみると難しいのだ。「つきぬけて」と「てんじょうのこん」は「つきぬけテ」「テんじょうのこん」と「テ」の音が重なる。舌を上の歯茎に打ちつける「テ」の音を続けるのは、生理的につらいものがある。それなのに、作者は間隙なく読んで欲しいと言っている。非常に切迫した衝動、とでもいうべきものを感じる。
この句の謎はもうひとつ「つきぬける」主体は何か、という問題である。何がどこからどこへ「つきぬける」のか。ほとんどの評者が「曼珠沙華」がすっくと立っている様を「つきぬけて」と描写したものとする。倒置法の句として解釈しているのだ。そうすると、「つきぬける」のは「曼珠沙華」ということになる。だが、「つきぬけて天上の紺」まで一気に読めば、「曼珠沙華」は「天井の紺」に開いた花ということになるのではないか。「つきぬけて」の主体ではないだろう。
「つきぬけて」の主体を特定する前に、「曼珠沙華」について考えてみたい。「天井の紺」に開いた花であれば、「曼珠沙華」は実景の「ヒガンバナ」ではないだろう。それは、『法華経』にあるという
是時下雨 曼荼羅華 摩訶曼荼羅華 曼珠沙華 摩訶曼珠沙華
の「曼珠沙華」だと思われる。釈迦が菩薩に大乗の法を説いたとき、天上に「曼荼羅華(蓮の花だそうである)」と「曼珠沙華」が開いたという。仏教の素養がまったくない私にはこれ以上の深遠な教えはわからないが、「曼珠沙華」は実景ではなく、イメージであると思われるのだ。
以上の推論が正しければ、「つきぬけて」の主体は「私」であろう。現実日常の世界から「天上」世界につきぬけるのである。無論それはイメージの世界、もしくは「狂想」である。何が作者を、現実世界から天上へ、仏教の言葉でいえば此岸から彼岸へ、というのだろうか、つきぬけさせたのか。これもまた私にとっては、たぶん、いつまでも解決できない謎なのだろうが。
くだくだしい解説を試みてきたが、この句は一気呵成に詠みあげた乾坤一擲とでもいうべき力にみちている。主観客観を超越する魔力といってもよいかもしれない。
昭和十六年(一九四一年)に詠まれたこの句は、私が満洲国のことを調べているときに「満洲=曼珠」のつながりで思い出したものである。満洲国の建国のイデオロギーとして法華経は重要な役目を果たしたと思われるので、この句に詠まれた「曼珠沙華」も「満洲」とどこかでつながっているかもしれない。だが、そんな小賢しい謎解きはどうでもよくて、「俳句」という短詩が、日本語の可能性を極限まで追求して、つねに文学の前衛でありつづけたということ、そしてそのことの素晴らしさを確認しておきたいと思う。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。
2018年10月15日月曜日
小津安二郎と日中戦争__「紀子三部作」の謎
8月の終わりに腰椎の手術をして、パソコンの前に長く座っていることができません。
なので、前回はメモでしたが、今回はメモ以下です。
標題の仮説のもとに、ずっと考え続けているのだが、どうしても、読み解けない。小津の「オズ」は「オズの魔法使い」の「オズ」ではなかろうか、などと突拍子もない妄想に襲われるときがある。でも、サリンジャーが『ライ麦畑で捕まえて』と『ナインストーリーズ』で日米戦争の真実を書いたように、「紀子三部作」は日中戦争の真実を告げようとしているように思えてならない。
その根拠となるのは、『晩春』で、紀子が叔母の家を訪れて、「プーちゃん」が部屋に閉じ込められているのをからかうシーンである。プーちゃんは「バットをエナメルで赤く塗って、それが乾かない」ので閉じ込められているのだ。「なんだプー、泣いたくせに」とからかう紀子にプーちゃんは「うるさい、紀子、あっちいけ!紀子、ゴム糊、!」と怒って追い掛け回す。
「プーちゃん」とは何か。子どものあだ名として「プーちゃん」は、今なら違和感なく聞こえるが、昭和二十四年(一九四九年)に「プー」という音が名前の最初に来ることがあっただろうか。
ここでまた、独断と偏見と妄想にかられた私は「プーちゃん」=「溥儀」説を、一人敢然と唱えたい。満洲国の皇帝となった「溥儀」は「プーイー」なのである。『晩春』の冒頭、紀子は茶会の席で、叔母に「プーちゃんに穿かせるために、叔父様の縞のズボンを半分に切ってほしい」と頼まれる。「でも、叔父様のズボンをプーちゃんが穿いたらおかしくないかしら」と紀子は言うのだが、「かまやしないのよ。ちょっとの間だから」と、叔母から風呂敷包みを渡されるシーンがある。戦後の物のないときだから、そんなこともあるだろう、と流してしまう場面だが、何となくひっかかるものがある。
「叔父様の縞のズボン」が何かの暗喩だとしたら?ひょっとして、それが清国の領土だとしたら?半分に切ったものが満洲国の領土だったら?紀子と叔母は茶会の席で満洲国の傀儡皇帝に「プーちゃん」を据える算段をしているのではないか?
プーちゃんが部屋に閉じ込められているとき、外では子ども達が野球の試合をしている。ちょっと不思議なのは戦後間もない昭和二十四年に、両チームともユニフォームを着て試合をしているのだ。なかには着ていない子もいて、裸足だったりするのだが。そして、ユニフォームを着ていない子が走者一掃のクリーンヒットを飛ばすのである。さて、この野球の試合は誰と誰が戦っているのでしょう。日本と中国?あるいは国民党と共産党?クリーンヒットはどちらが打ったのだろうか?「赤いエナメル」は共産主義を匂わせるのだが。
いったん妄想にかられると、とめどもない疑問が沸いてきて、手術後は日中戦争に関する資料を読みあさっています。そして、いかに私(たち世代)が近現代史を知らされていないかということを痛感しています。「紀子三部作」に戻っていえば、「紀子、ゴム糊!」という言葉を投げつけられる「紀子」は何と何をくっつけたのだろう、そもそも「紀子」とは何か、という根本的な疑問に、いっこう解決の目途がつきません。
それにしても、不思議なのは、中国、そして朝鮮の革命を志す人たちはほとんど日本に留学していることです。たんに留学しているだけでなく、活動の拠点を日本に作り、人的、経済的に多大な援助を受けています。それが、どうして戦うことになったのか。そのターニングポイントが一九二〇年代にあったように思われるのですが。
今日も粗雑な走り書きを最後まで読んでくださってありがとうございます。
なので、前回はメモでしたが、今回はメモ以下です。
標題の仮説のもとに、ずっと考え続けているのだが、どうしても、読み解けない。小津の「オズ」は「オズの魔法使い」の「オズ」ではなかろうか、などと突拍子もない妄想に襲われるときがある。でも、サリンジャーが『ライ麦畑で捕まえて』と『ナインストーリーズ』で日米戦争の真実を書いたように、「紀子三部作」は日中戦争の真実を告げようとしているように思えてならない。
その根拠となるのは、『晩春』で、紀子が叔母の家を訪れて、「プーちゃん」が部屋に閉じ込められているのをからかうシーンである。プーちゃんは「バットをエナメルで赤く塗って、それが乾かない」ので閉じ込められているのだ。「なんだプー、泣いたくせに」とからかう紀子にプーちゃんは「うるさい、紀子、あっちいけ!紀子、ゴム糊、!」と怒って追い掛け回す。
「プーちゃん」とは何か。子どものあだ名として「プーちゃん」は、今なら違和感なく聞こえるが、昭和二十四年(一九四九年)に「プー」という音が名前の最初に来ることがあっただろうか。
ここでまた、独断と偏見と妄想にかられた私は「プーちゃん」=「溥儀」説を、一人敢然と唱えたい。満洲国の皇帝となった「溥儀」は「プーイー」なのである。『晩春』の冒頭、紀子は茶会の席で、叔母に「プーちゃんに穿かせるために、叔父様の縞のズボンを半分に切ってほしい」と頼まれる。「でも、叔父様のズボンをプーちゃんが穿いたらおかしくないかしら」と紀子は言うのだが、「かまやしないのよ。ちょっとの間だから」と、叔母から風呂敷包みを渡されるシーンがある。戦後の物のないときだから、そんなこともあるだろう、と流してしまう場面だが、何となくひっかかるものがある。
「叔父様の縞のズボン」が何かの暗喩だとしたら?ひょっとして、それが清国の領土だとしたら?半分に切ったものが満洲国の領土だったら?紀子と叔母は茶会の席で満洲国の傀儡皇帝に「プーちゃん」を据える算段をしているのではないか?
プーちゃんが部屋に閉じ込められているとき、外では子ども達が野球の試合をしている。ちょっと不思議なのは戦後間もない昭和二十四年に、両チームともユニフォームを着て試合をしているのだ。なかには着ていない子もいて、裸足だったりするのだが。そして、ユニフォームを着ていない子が走者一掃のクリーンヒットを飛ばすのである。さて、この野球の試合は誰と誰が戦っているのでしょう。日本と中国?あるいは国民党と共産党?クリーンヒットはどちらが打ったのだろうか?「赤いエナメル」は共産主義を匂わせるのだが。
いったん妄想にかられると、とめどもない疑問が沸いてきて、手術後は日中戦争に関する資料を読みあさっています。そして、いかに私(たち世代)が近現代史を知らされていないかということを痛感しています。「紀子三部作」に戻っていえば、「紀子、ゴム糊!」という言葉を投げつけられる「紀子」は何と何をくっつけたのだろう、そもそも「紀子」とは何か、という根本的な疑問に、いっこう解決の目途がつきません。
それにしても、不思議なのは、中国、そして朝鮮の革命を志す人たちはほとんど日本に留学していることです。たんに留学しているだけでなく、活動の拠点を日本に作り、人的、経済的に多大な援助を受けています。それが、どうして戦うことになったのか。そのターニングポイントが一九二〇年代にあったように思われるのですが。
今日も粗雑な走り書きを最後まで読んでくださってありがとうございます。
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