「日中戦争と紀子三部作の謎」について、いつまで経ってもいっこうに解きほぐせないので、つい考えるのが億劫になってしまう。それで、大した進展はないのだが、少しだけ、また独断と偏見を書いてみたい。「紀子三部作」の一作目の『晩春』(一九四九年公開)と、小津の遺作となった『秋刀魚の味』(一九六一年公開)の比較である。
『秋刀魚の味』は、晩春』の焼き直しといわれても仕方がないほど、同じプロットから成り立っていることは誰でもわかるだろう。寡夫となった父が娘を嫁にやるまでの経緯をきめ細やかに淡々と描いた作品である。ラスト近く、花嫁衣裳の娘が父に挨拶して家を出ていくシーンも共通している。
ただ、微妙に違うのは、『晩春』の紀子が、白黒の映画なので黒く見える地色の花嫁衣裳に身を包み、どこか恨めしそうに、もっといえば、屠殺場に引かれていく行く牛のようなたたずまいの後ろ姿を見せるのに対し、『秋刀魚の味』の路子は、美しく輝く白無垢の衣装で、あっけらかんと、明るく家を出ていくことである。『晩春』の紀子は、纏綿たる情緒をただよわせ、どこまでも「女」だったが、『秋刀魚の味』の路子は、どこか無機質で、人形のように可愛いのだ。
ストーリーは『晩春』のほうがはるかに単純である。父を慕う紀子の執着をいかに断ち切って嫁にやるか、ほぼこれに尽きるといってよい。紀子の恋人に擬せられる服部という父の助手とか、父の再婚相手として紹介されるという未亡人の三輪夫人が登場するが、メインはあくまで紀子と父の葛藤である。
『秋刀魚の味』は、前回のブログでも書いたが、冒頭主人公の平山と友人の河合とのやり取りから、初老の平山の隠された情動がひそかに暗示される。娘のような若い女と再婚した同窓生も登場する。同時に、早くに妻をなくし、娘を妻替わりに使って嫁にやりそびれた教師と娘の無残な老後も描かれる。『秋刀魚の味』はいくつかの主題がからみあって展開される。
平山の次の世代も登場する。『晩春』の紀子は一人娘だったが、『秋刀魚の味』の平山家には、路子の兄、弟がいる。弟はまだ学生のようだが、兄は社会人で、結婚して団地住まいのサラリーマンである。冷蔵庫を買うといって、父に金を無心するが、実はほしいのはゴルフのセットである。マクレガーというアメリカ製のセットが欲しいのだが、中古でもサラリーマンの給料ではとても買えないのだ。いや、妻と共稼ぎの所帯だが、冷蔵庫も高値の花だったのである。
『晩春』の紀子に結婚を決意させたものは、父と三輪夫人の再婚話だったが、『秋刀魚の味』の路子は、兄の部下の男に失恋したためである。この男は計算高くて調子のいい軽薄な人間として描かれているので、路子がこんな男を好きだったというのが、ちょっと不思議なのだが。
という風に『秋刀魚の味』は、まさに高度成長期にさしかかった日本の風俗を軽やかにすくい上げていく。抑制の効いたカラーの画面も上品で美しい。そんな中、ある種唐突に、戦時中平山の部下だった坂本という男が登場する。いまはラーメン屋を営んで生計をたてているかつての恩師のもとに、同窓生一同から募った寸志を届けに行った平山は、店に入ってきた男に声をかけられる。平山は軍艦「朝風」(実在の駆逐艦である)の艦長で、男はその部下だったというのだ。自動車の修理工場をしているという坂本に連れられて、平山は彼のなじみのバーに行くと、そこに流れていたのは「軍艦マーチ」だった。
「軍艦マーチ」はこのバーの名物らしく、坂本が音頭をとって、レコードに合わせて敬礼しながら店内を行進するシーンがある。坂本は平山に「艦長もやってくださいよ」と敬礼させ、お風呂から帰ってきたという店のママも一緒に敬礼する。
思うに、『秋刀魚の味』のテーマは「軍艦マーチ」に収斂されていく、といってよいのではないか。赤い横線の入った煙突が煙を吐く冒頭のシーン(おそらく川崎の工場地帯だと思われる)、いまから見るとおもちゃ箱のようなコンクリートの団地、長男夫婦に象徴される消費経済への転換、など世相を描き、人情の機微も描きながら、ラスト近く再び軍艦マーチが流れる。
路子の結婚式を終えた平山は、仲人をつとめた河合の家でかなりの酩酊状態になりながら、坂本に案内されたバーに足を運ぶ。そこには、平山の亡き妻に似ているというママがいて、「今日はどちらのお帰り?お葬式ですか?」と聞いた後、「かけましょうか、あれ」と軍艦マーチのレコードをかけるのだ。サラリーマン風の男が二人隣のツールに座っていて、音楽が流れると、「大本営発表!」「帝国陸軍は今暁五時三十分南鳥島東方海上において」「負けました」「そうです。負けました」とかけあいでアナウンサーの真似をしている。平山は無言である。
平山の遅い帰宅を待っていた長男夫婦も帰って、家には次男と平山の二人だけになる。平山は台所の椅子に座って軍艦マーチを口ずさんでいる。「浮かべる城ぞたのみなる・・・」もう寝ろよ、と次男は気遣うが、平山は、「やぁ、ひとりぼっちか・・・浮かべるその城日の本の・・・」とつぶやいた後、立ち上がって階段の前にたたずむ。しばらく上を見上げている。カメラだけが主の去った路子の部屋を映して回る。
やがて平山はもう一度台所に戻って、やかんから水を飲む。軍艦マーチの音楽がテーマミュージックにかぶりながら変わって「終」の文字がでる。やかんの水が末期の水に見えてくるような終わり方である。
世紀を超えたいま、この時点から振り返ると、「六十年代」は日本が劇的に変わっていった時代だった、と思う。以前にも書いたが、小津安二郎の映画は、政治にかかわらないという点で、きわめて政治的である。日本中を政治の季節に巻き込んだ「六十年安保」を経て、時代は確実に、そして劇的に変わっていったのだ。「小津安二郎の日本」__あるいは「小津安二郎と日本」は終わったのである。
余談だが、この映画には「海」の映像がない。『晩春』、『麦秋』、『東京物語』の紀子三部作はもちろん、その他の映画にも海の映像はほとんどといっていいくらい登場する。だが、「軍艦マーチ」が主旋律となるこの映画に海の映像はないのだ。「海」の映像と訣別しなければならない何かがあったのだろうか。
『秋刀魚の味』について何ほどのものが書けたのか、という忸怩たる思いがあるのですが、ひとまずこれで区切りを付けたいと思います。また紀子三部作に戻る予定です。今日も不出来な感想文を読んでくださって、ありがとうございます。
2018年12月19日水曜日
2018年12月5日水曜日
宮沢賢治『フランドン農学校の豚』__父と子そして国家
前回『フランドン農学校の豚』について、救済をもたらさない受難物語として読んでみた。概ねそれでいいと思うのだが、もう少し書いてみたい。この作品に限らないのだが、賢治の作品、とくに散文の中には、ときに周到に隠されているのだが、「父と子」のテーマが存在するのである。
フランドン農学校の校長と豚の関係は、たんに擬人化された飼育者と家畜のそれにとどまらないものがあるように思う。豚と言葉を交わしコミュニケーションをとるのは、校長だけである。どこにも救いのない死に至る豚だが、校長とのやりとりには、微かな甘えの気配が漂うのだ。校長もまた、豚に対して決然とした態度をとれないでいる。
校長は、印を押させるための死亡承諾書を持って来ながら、豚の様子があまりに陰気だったので、承諾書をそのまま持ち帰ってしまう。再びやってきた校長が意を決して切り出すと、豚は「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」と泣き叫ぶ。犬/猫にも劣る恩知らず、と罵りながらも、校長はやはり印を押させることができない。豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってますよう、わあ」と、すねて大泣きする。ここには哀歓をともにする感情の交流が間違いなくあるのだ。
だが、豚は「農学校で飼育されている食肉用家畜」である以上、殺戮されることを運命として引き受けなければならない。校長と感情の交流があるといっても、校長は最終的に豚に死を宣告する役割がある。殺戮を実行するのは冷徹なテクノクラートだが、「死亡承諾書」に印を押させることは、校長にしかできないのである。
ところで、「死亡承諾書」なるものは何を意味するのか。豚が殺される前の月、その国の王が「家畜/撲殺同意調印法」を布告した、と書かれている。『フランドン農学校の豚』を、たんなる受難物語として読み過ごすことができないのは、「家畜/撲殺同意調印法」の意味がわからないからである。なぜ家畜を殺すのに家畜の同意を得る必要があるのか。それを法律で定める必要があるのか。___というより、賢治がこの作品の中に、唐突に国王と法律を持ち出すことの意味がわからないのである。
「死亡承諾書」が存在しなくても、殺される豚と農学校の校長との物語は成り立っただろう。死を強制せざるを得ない父と最後にはそれを受け入れざるを得ない子との物語である。だが、その強制の背後に「法律」が存在して、「国」の「王」がいる、となると、これは「父と子」のプロットを包み込む、さらに大きな枠組みが用意されていることになる。
いったい、賢治の「童話」と称されるものは、実はかなり複雑な影を帯びているものが多い。有名な『注文の多い料理店』という作品も、例によって独断と偏見の持ち主の私は、「富国強兵」のスローガンのもと、「イギリス風の紳士」然と西洋化した(させられた)日本が、言葉巧みに操られて、最後は丸裸になって滅亡させられてしまうところだった、というお話だと考えている。賢治は、最後に死んだはずの犬が「山猫軒」を襲って二人の「イギリス風の紳士」を助けてくれることにしているが、この結末にはかなりの無理があるように思われる。
『フランドン農学校』という作品は、賢治の晩年、と言っても三十代のことだろうが、に書かれたようである。晩年に近づくほど、詩、散文ともに、賢治の作品は、実生活の影が濃く、苦渋に満ちたものが多くなってくる。『フランドン学校の豚』は、擬人法、というより、人間社会を豚に擬えて書いた、という意味で「擬豚法」とでも呼ぶべき方法で描いた、苦渋に満ちた傑作であると思う。
もっと丁寧に「父と子」と「国家」について掘り下げなければならないのですが、体力、気力ともに十分ではないので、もう少し時間が欲しいと思っています。今日も不出来な感想文を読んでくださってありがとうございます。
フランドン農学校の校長と豚の関係は、たんに擬人化された飼育者と家畜のそれにとどまらないものがあるように思う。豚と言葉を交わしコミュニケーションをとるのは、校長だけである。どこにも救いのない死に至る豚だが、校長とのやりとりには、微かな甘えの気配が漂うのだ。校長もまた、豚に対して決然とした態度をとれないでいる。
校長は、印を押させるための死亡承諾書を持って来ながら、豚の様子があまりに陰気だったので、承諾書をそのまま持ち帰ってしまう。再びやってきた校長が意を決して切り出すと、豚は「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」と泣き叫ぶ。犬/猫にも劣る恩知らず、と罵りながらも、校長はやはり印を押させることができない。豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってますよう、わあ」と、すねて大泣きする。ここには哀歓をともにする感情の交流が間違いなくあるのだ。
だが、豚は「農学校で飼育されている食肉用家畜」である以上、殺戮されることを運命として引き受けなければならない。校長と感情の交流があるといっても、校長は最終的に豚に死を宣告する役割がある。殺戮を実行するのは冷徹なテクノクラートだが、「死亡承諾書」に印を押させることは、校長にしかできないのである。
ところで、「死亡承諾書」なるものは何を意味するのか。豚が殺される前の月、その国の王が「家畜/撲殺同意調印法」を布告した、と書かれている。『フランドン農学校の豚』を、たんなる受難物語として読み過ごすことができないのは、「家畜/撲殺同意調印法」の意味がわからないからである。なぜ家畜を殺すのに家畜の同意を得る必要があるのか。それを法律で定める必要があるのか。___というより、賢治がこの作品の中に、唐突に国王と法律を持ち出すことの意味がわからないのである。
「死亡承諾書」が存在しなくても、殺される豚と農学校の校長との物語は成り立っただろう。死を強制せざるを得ない父と最後にはそれを受け入れざるを得ない子との物語である。だが、その強制の背後に「法律」が存在して、「国」の「王」がいる、となると、これは「父と子」のプロットを包み込む、さらに大きな枠組みが用意されていることになる。
いったい、賢治の「童話」と称されるものは、実はかなり複雑な影を帯びているものが多い。有名な『注文の多い料理店』という作品も、例によって独断と偏見の持ち主の私は、「富国強兵」のスローガンのもと、「イギリス風の紳士」然と西洋化した(させられた)日本が、言葉巧みに操られて、最後は丸裸になって滅亡させられてしまうところだった、というお話だと考えている。賢治は、最後に死んだはずの犬が「山猫軒」を襲って二人の「イギリス風の紳士」を助けてくれることにしているが、この結末にはかなりの無理があるように思われる。
『フランドン農学校』という作品は、賢治の晩年、と言っても三十代のことだろうが、に書かれたようである。晩年に近づくほど、詩、散文ともに、賢治の作品は、実生活の影が濃く、苦渋に満ちたものが多くなってくる。『フランドン学校の豚』は、擬人法、というより、人間社会を豚に擬えて書いた、という意味で「擬豚法」とでも呼ぶべき方法で描いた、苦渋に満ちた傑作であると思う。
もっと丁寧に「父と子」と「国家」について掘り下げなければならないのですが、体力、気力ともに十分ではないので、もう少し時間が欲しいと思っています。今日も不出来な感想文を読んでくださってありがとうございます。
2018年11月28日水曜日
宮沢賢治『フランドン農学校の豚』__絶望の果ては何か
異様な作品である。賢治の死後に原稿が発見されたそうで、作品の冒頭部分が欠落している。『フランドン農学校』で飼育されている豚が屠られるまでの数日間を、豚の内面に入って描いた小説である。「童話」というにはあまりにも残酷で、「寓話」と呼ぶには描写がリアル過ぎる。
この豚は人間の言葉を理解し、話す。当然に、人間と同じ感情をもつ。同時に豚なので、金石でなければ、あたえられるものは何でもたべて上等な脂肪や肉にする。触媒として、白金と同じだ、といわれてよろこぶ。豚は白金の値も知っていて、自分の目方もわかっているので、素早く自分の値打ちを計算して幸福感にひたったりする。
豚の運命が暗転していくのは、あたえられた餌のなかに歯磨楊枝が混じっていたときからである。ここまでは三人称の叙述だったのだが、ここで突如として語り手が語り始める。少し長いがその部分を引用したい。
それから二三日たって、そのフランドンの豚は、どさりと上から落ちて来た一かたまりのたべ物から、(大学生諸君、意志を鞏固にもち給え。いいかな。)たべ物の中から、一寸細長い白いもので、さきにみじかい毛を植えた、ごく率直に云うならば、ラクダ印の歯磨楊枝、それを見たのだ。どうもいやな説教で、折角洗礼を受けた、大学生諸君にすまないが少しこらえてくれ給え。
つまり、この作品は語り手(誰かわからないが)が、複数の大学生に向かって語っているのである。しかも、その「大学生諸君」は「折角洗礼を受けた」とあるので、キリスト教の学生なのだ。
飼育が進んでいく豚を怜悧な目で観察していくのは畜産学校の教師である。教師と助手は毎日豚の様子を見に来るが、豚と言葉を交わすことはない。直覚で豚は彼らの冷酷さを感じて恐怖する。豚と言葉を交わしコミュニケーションをとるのは、農学校の校長だけである。
校長は豚から「死亡承諾書」を取るためにやってくる。その国の王が前月「家畜撲殺調印法」という法律を布告したので、家畜を殺すものはその家畜から「死亡承諾書」を取って判を押させることになったからである。ところが、校長は豚に「死亡承諾書」のことを切り出せなかった。気分がふさぐという豚とにらみ合ったままで、しばらく立っていたが、「とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまわらんでね。」という言葉を残して行ってしまう。
豚は「承諾書]という言葉を畜産学の教師と助手の会話から聞いてしまう。豚は「承諾書」という言葉に不安と恐怖を覚えて煩悶する。さらに寄宿舎の生徒がやって来て、屠った豚の料理の話をする。彼らが小屋を出て行った後に、校長が再びやって来る。そして、今回は飼育されたことのありがたさを豚に説いて、「死亡承諾書」に判を押させようとする。「死亡承諾書」にはこう書いてある。
死亡承諾書、私/儀永永御恩顧の次第に有候儘、御都合により、何時にても死亡/仕るべく候年月日フランドン畜舎内、ヨークシャイア、フランドン農学校長/殿
校長は「ほんの小さなたのみだが」というが、読めば恐ろしい事が書いてある。「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」と、泣いて叫ぶ豚に、校長は「いやかい。それでは仕方がない。お前もあんまり恩知らずだ。犬/猫にさえ劣ったやつだ。」と怒って出て行ってしまう。校長はまたしてもしくじったのだ。
次の日また畜産の担任が助手を連れてやって来る。校長と違って畜産学の教師は冷酷な実務家だ。悲嘆にくれてやせ衰えた豚を運動させて腹を空かせようとする。教師は「む茶くちゃにたたいたり走らしたりしちゃいけないぞ」と指示するのだが、助手は丁寧な言葉使いでいたぶりながら、鞭をくれて豚に散歩させる。登場人物のなかで、この助手が最も残酷で嗜虐的な人間として描かれている。
三日経っても痩せる一方で回復しない豚を見て、畜産の教師は肥育器を使うことにする。豚を縛りつけて喉に管を通し、強制給餌をするのだ。縛りつける前に死亡承諾書に判
を押させなければならないので、あわてて校長がやって来る。今度ばかりは校長の剣幕におびえて、豚は承諾書に判を押してしまう。
それから豚は縛りつけられて喉に管を通され、胃の中まで餌を送り込まれる。七日間ひたすら餌を送りこまれて、息をするのも苦しいくらい太った豚は「もういいようだ。丁度いい。・・・丁度あしたがいいだろう」という教師の言葉を聞いて、自分があす死亡することを知る。それから助手と小使いがやって来る。助手に鞭打たれて体を洗われた豚は、小使いのもつブラシが豚の毛でできているのを見て、泣きわめく。
寒さと空腹と恐怖のなかで一夜を明かした豚は、また助手に鞭打たれ、畜舎から外に出され、殺される。「はあはあ頬をふくらませて、ぐたっぐたっと歩き出す」豚を鉄槌を持って殺したのは、畜産の教師である。生徒らにもう一度体を洗われた豚の喉を刺したのは助手だった。
作者みずから最後に「一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。」と書かずにいられないほど、この作品は残酷である。みずからの死に何の意味も見いだせないばかりか、不安が恐怖へ、恐怖が絶望に変わって、絶望の中で、誰にも愛されず豚は殺されるのだ。なおかつ、殺された豚は、生徒たちが待っていたような晩餐の糧となったわけでもなさそうである。「からだを八つに分解されて、厩舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩/
漬けられた。」とあるのだ。
ところで「フランドン農学校」とはどこにあるのだろう。フィクションなのだから、固有の地名にこだわる必要はないのかもしれないが、「フランドン」から「フランダース」_『フランダースの犬』を連想するのは突拍子もないことではないだろう。賢治の時代に日本に紹介されていたかどうかわからないのだが、『フランダースの犬』は一八七一年に書かれているので、その可能性がないとはいえないと思う。
『フランダースの犬』という小説は書かれたイギリスよりも日本で愛読されたようで、最後に、教会のルーベンスの絵の前で死ぬ少年と犬の話として有名である。月光の中で、キリストの十字架を描いたルーベンスの絵を見て死んでいく少年の姿に涙しながらも、ひとすじのカタルシスをもたらす「フランダースの犬」にくらべて、「フランドン農学校の豚」はあまりにも暗い。というか、『フランダースの犬』の宗教的法悦を真っ向否定するために『フランドン農学校の豚』は書かれたのではないかとさえ思われる。
前述の「折角洗礼を受けた、大学生諸君」に「どうもいやな説教ですまないが」という叙述から、この作品がキリスト教と深い関連があると推察するのは間違っていないと思う。十字架に掛けられるイエスの受難、それによる救済の福音と、無残に、無意味に死んでいく豚の絶望を対比させたかったのではないか。最後に作者はこう結ぶ。
さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。
(「二十四日の銀の月」は十二月二十四日キリスト生誕の前夜である)
ことわっておくが、私は、賢治がキリスト教を否定したかったのだというつもりはない。ただ、徹底して無残な、孤独の死を描きたかったのだろうと思う。ここには『なめとこ山の熊』の予定調和もない。無常が、観念でなく実在しているだけだ。そして、一個の豚の無残な死を書き留めることによって、この世で誰にも愛されず絶望の果てに死んでいった豚への愛を語ったのだろうと思われる。もちろんそれが、何の救いになるわけでもないのだけれど。
「小津安二郎と日中戦争」について書くといいながら、また寄り道してしまいました。弁解になるのですが、それほど小津の映画は手ごわいのです。今日も不出来な読書ノートを読んでくださって、ありがとうございます。
この豚は人間の言葉を理解し、話す。当然に、人間と同じ感情をもつ。同時に豚なので、金石でなければ、あたえられるものは何でもたべて上等な脂肪や肉にする。触媒として、白金と同じだ、といわれてよろこぶ。豚は白金の値も知っていて、自分の目方もわかっているので、素早く自分の値打ちを計算して幸福感にひたったりする。
豚の運命が暗転していくのは、あたえられた餌のなかに歯磨楊枝が混じっていたときからである。ここまでは三人称の叙述だったのだが、ここで突如として語り手が語り始める。少し長いがその部分を引用したい。
それから二三日たって、そのフランドンの豚は、どさりと上から落ちて来た一かたまりのたべ物から、(大学生諸君、意志を鞏固にもち給え。いいかな。)たべ物の中から、一寸細長い白いもので、さきにみじかい毛を植えた、ごく率直に云うならば、ラクダ印の歯磨楊枝、それを見たのだ。どうもいやな説教で、折角洗礼を受けた、大学生諸君にすまないが少しこらえてくれ給え。
つまり、この作品は語り手(誰かわからないが)が、複数の大学生に向かって語っているのである。しかも、その「大学生諸君」は「折角洗礼を受けた」とあるので、キリスト教の学生なのだ。
飼育が進んでいく豚を怜悧な目で観察していくのは畜産学校の教師である。教師と助手は毎日豚の様子を見に来るが、豚と言葉を交わすことはない。直覚で豚は彼らの冷酷さを感じて恐怖する。豚と言葉を交わしコミュニケーションをとるのは、農学校の校長だけである。
校長は豚から「死亡承諾書」を取るためにやってくる。その国の王が前月「家畜撲殺調印法」という法律を布告したので、家畜を殺すものはその家畜から「死亡承諾書」を取って判を押させることになったからである。ところが、校長は豚に「死亡承諾書」のことを切り出せなかった。気分がふさぐという豚とにらみ合ったままで、しばらく立っていたが、「とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまわらんでね。」という言葉を残して行ってしまう。
豚は「承諾書]という言葉を畜産学の教師と助手の会話から聞いてしまう。豚は「承諾書」という言葉に不安と恐怖を覚えて煩悶する。さらに寄宿舎の生徒がやって来て、屠った豚の料理の話をする。彼らが小屋を出て行った後に、校長が再びやって来る。そして、今回は飼育されたことのありがたさを豚に説いて、「死亡承諾書」に判を押させようとする。「死亡承諾書」にはこう書いてある。
死亡承諾書、私/儀永永御恩顧の次第に有候儘、御都合により、何時にても死亡/仕るべく候年月日フランドン畜舎内、ヨークシャイア、フランドン農学校長/殿
校長は「ほんの小さなたのみだが」というが、読めば恐ろしい事が書いてある。「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」と、泣いて叫ぶ豚に、校長は「いやかい。それでは仕方がない。お前もあんまり恩知らずだ。犬/猫にさえ劣ったやつだ。」と怒って出て行ってしまう。校長はまたしてもしくじったのだ。
次の日また畜産の担任が助手を連れてやって来る。校長と違って畜産学の教師は冷酷な実務家だ。悲嘆にくれてやせ衰えた豚を運動させて腹を空かせようとする。教師は「む茶くちゃにたたいたり走らしたりしちゃいけないぞ」と指示するのだが、助手は丁寧な言葉使いでいたぶりながら、鞭をくれて豚に散歩させる。登場人物のなかで、この助手が最も残酷で嗜虐的な人間として描かれている。
三日経っても痩せる一方で回復しない豚を見て、畜産の教師は肥育器を使うことにする。豚を縛りつけて喉に管を通し、強制給餌をするのだ。縛りつける前に死亡承諾書に判
を押させなければならないので、あわてて校長がやって来る。今度ばかりは校長の剣幕におびえて、豚は承諾書に判を押してしまう。
それから豚は縛りつけられて喉に管を通され、胃の中まで餌を送り込まれる。七日間ひたすら餌を送りこまれて、息をするのも苦しいくらい太った豚は「もういいようだ。丁度いい。・・・丁度あしたがいいだろう」という教師の言葉を聞いて、自分があす死亡することを知る。それから助手と小使いがやって来る。助手に鞭打たれて体を洗われた豚は、小使いのもつブラシが豚の毛でできているのを見て、泣きわめく。
寒さと空腹と恐怖のなかで一夜を明かした豚は、また助手に鞭打たれ、畜舎から外に出され、殺される。「はあはあ頬をふくらませて、ぐたっぐたっと歩き出す」豚を鉄槌を持って殺したのは、畜産の教師である。生徒らにもう一度体を洗われた豚の喉を刺したのは助手だった。
作者みずから最後に「一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。」と書かずにいられないほど、この作品は残酷である。みずからの死に何の意味も見いだせないばかりか、不安が恐怖へ、恐怖が絶望に変わって、絶望の中で、誰にも愛されず豚は殺されるのだ。なおかつ、殺された豚は、生徒たちが待っていたような晩餐の糧となったわけでもなさそうである。「からだを八つに分解されて、厩舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩/
漬けられた。」とあるのだ。
ところで「フランドン農学校」とはどこにあるのだろう。フィクションなのだから、固有の地名にこだわる必要はないのかもしれないが、「フランドン」から「フランダース」_『フランダースの犬』を連想するのは突拍子もないことではないだろう。賢治の時代に日本に紹介されていたかどうかわからないのだが、『フランダースの犬』は一八七一年に書かれているので、その可能性がないとはいえないと思う。
『フランダースの犬』という小説は書かれたイギリスよりも日本で愛読されたようで、最後に、教会のルーベンスの絵の前で死ぬ少年と犬の話として有名である。月光の中で、キリストの十字架を描いたルーベンスの絵を見て死んでいく少年の姿に涙しながらも、ひとすじのカタルシスをもたらす「フランダースの犬」にくらべて、「フランドン農学校の豚」はあまりにも暗い。というか、『フランダースの犬』の宗教的法悦を真っ向否定するために『フランドン農学校の豚』は書かれたのではないかとさえ思われる。
前述の「折角洗礼を受けた、大学生諸君」に「どうもいやな説教ですまないが」という叙述から、この作品がキリスト教と深い関連があると推察するのは間違っていないと思う。十字架に掛けられるイエスの受難、それによる救済の福音と、無残に、無意味に死んでいく豚の絶望を対比させたかったのではないか。最後に作者はこう結ぶ。
さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。
(「二十四日の銀の月」は十二月二十四日キリスト生誕の前夜である)
ことわっておくが、私は、賢治がキリスト教を否定したかったのだというつもりはない。ただ、徹底して無残な、孤独の死を描きたかったのだろうと思う。ここには『なめとこ山の熊』の予定調和もない。無常が、観念でなく実在しているだけだ。そして、一個の豚の無残な死を書き留めることによって、この世で誰にも愛されず絶望の果てに死んでいった豚への愛を語ったのだろうと思われる。もちろんそれが、何の救いになるわけでもないのだけれど。
「小津安二郎と日中戦争」について書くといいながら、また寄り道してしまいました。弁解になるのですが、それほど小津の映画は手ごわいのです。今日も不出来な読書ノートを読んでくださって、ありがとうございます。
2018年10月26日金曜日
山口誓子 「つきぬけて天上の紺曼珠沙華」__満洲国を巡る随想の一間奏曲
山口誓子という人の俳句は私にとって難解である。
冷し馬潮北さすさびしさに
という句もいまもってわからない。標題の句は、「つきぬけるように澄み切った青空」、「真っ赤な曼珠沙華がすっくと立った様子」など、嘱目の光景を詠んだ句であるという解釈が多いようである。そうだろうか。
この句については、山口誓子自身が『自句自解』という本のなかで「つきぬけて天上の紺」まで一気に読む、としているそうである。だが、これは、実際に発声してみると難しいのだ。「つきぬけて」と「てんじょうのこん」は「つきぬけテ」「テんじょうのこん」と「テ」の音が重なる。舌を上の歯茎に打ちつける「テ」の音を続けるのは、生理的につらいものがある。それなのに、作者は間隙なく読んで欲しいと言っている。非常に切迫した衝動、とでもいうべきものを感じる。
この句の謎はもうひとつ「つきぬける」主体は何か、という問題である。何がどこからどこへ「つきぬける」のか。ほとんどの評者が「曼珠沙華」がすっくと立っている様を「つきぬけて」と描写したものとする。倒置法の句として解釈しているのだ。そうすると、「つきぬける」のは「曼珠沙華」ということになる。だが、「つきぬけて天上の紺」まで一気に読めば、「曼珠沙華」は「天井の紺」に開いた花ということになるのではないか。「つきぬけて」の主体ではないだろう。
「つきぬけて」の主体を特定する前に、「曼珠沙華」について考えてみたい。「天井の紺」に開いた花であれば、「曼珠沙華」は実景の「ヒガンバナ」ではないだろう。それは、『法華経』にあるという
是時下雨 曼荼羅華 摩訶曼荼羅華 曼珠沙華 摩訶曼珠沙華
の「曼珠沙華」だと思われる。釈迦が菩薩に大乗の法を説いたとき、天上に「曼荼羅華(蓮の花だそうである)」と「曼珠沙華」が開いたという。仏教の素養がまったくない私にはこれ以上の深遠な教えはわからないが、「曼珠沙華」は実景ではなく、イメージであると思われるのだ。
以上の推論が正しければ、「つきぬけて」の主体は「私」であろう。現実日常の世界から「天上」世界につきぬけるのである。無論それはイメージの世界、もしくは「狂想」である。何が作者を、現実世界から天上へ、仏教の言葉でいえば此岸から彼岸へ、というのだろうか、つきぬけさせたのか。これもまた私にとっては、たぶん、いつまでも解決できない謎なのだろうが。
くだくだしい解説を試みてきたが、この句は一気呵成に詠みあげた乾坤一擲とでもいうべき力にみちている。主観客観を超越する魔力といってもよいかもしれない。
昭和十六年(一九四一年)に詠まれたこの句は、私が満洲国のことを調べているときに「満洲=曼珠」のつながりで思い出したものである。満洲国の建国のイデオロギーとして法華経は重要な役目を果たしたと思われるので、この句に詠まれた「曼珠沙華」も「満洲」とどこかでつながっているかもしれない。だが、そんな小賢しい謎解きはどうでもよくて、「俳句」という短詩が、日本語の可能性を極限まで追求して、つねに文学の前衛でありつづけたということ、そしてそのことの素晴らしさを確認しておきたいと思う。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。
冷し馬潮北さすさびしさに
という句もいまもってわからない。標題の句は、「つきぬけるように澄み切った青空」、「真っ赤な曼珠沙華がすっくと立った様子」など、嘱目の光景を詠んだ句であるという解釈が多いようである。そうだろうか。
この句については、山口誓子自身が『自句自解』という本のなかで「つきぬけて天上の紺」まで一気に読む、としているそうである。だが、これは、実際に発声してみると難しいのだ。「つきぬけて」と「てんじょうのこん」は「つきぬけテ」「テんじょうのこん」と「テ」の音が重なる。舌を上の歯茎に打ちつける「テ」の音を続けるのは、生理的につらいものがある。それなのに、作者は間隙なく読んで欲しいと言っている。非常に切迫した衝動、とでもいうべきものを感じる。
この句の謎はもうひとつ「つきぬける」主体は何か、という問題である。何がどこからどこへ「つきぬける」のか。ほとんどの評者が「曼珠沙華」がすっくと立っている様を「つきぬけて」と描写したものとする。倒置法の句として解釈しているのだ。そうすると、「つきぬける」のは「曼珠沙華」ということになる。だが、「つきぬけて天上の紺」まで一気に読めば、「曼珠沙華」は「天井の紺」に開いた花ということになるのではないか。「つきぬけて」の主体ではないだろう。
「つきぬけて」の主体を特定する前に、「曼珠沙華」について考えてみたい。「天井の紺」に開いた花であれば、「曼珠沙華」は実景の「ヒガンバナ」ではないだろう。それは、『法華経』にあるという
是時下雨 曼荼羅華 摩訶曼荼羅華 曼珠沙華 摩訶曼珠沙華
の「曼珠沙華」だと思われる。釈迦が菩薩に大乗の法を説いたとき、天上に「曼荼羅華(蓮の花だそうである)」と「曼珠沙華」が開いたという。仏教の素養がまったくない私にはこれ以上の深遠な教えはわからないが、「曼珠沙華」は実景ではなく、イメージであると思われるのだ。
以上の推論が正しければ、「つきぬけて」の主体は「私」であろう。現実日常の世界から「天上」世界につきぬけるのである。無論それはイメージの世界、もしくは「狂想」である。何が作者を、現実世界から天上へ、仏教の言葉でいえば此岸から彼岸へ、というのだろうか、つきぬけさせたのか。これもまた私にとっては、たぶん、いつまでも解決できない謎なのだろうが。
くだくだしい解説を試みてきたが、この句は一気呵成に詠みあげた乾坤一擲とでもいうべき力にみちている。主観客観を超越する魔力といってもよいかもしれない。
昭和十六年(一九四一年)に詠まれたこの句は、私が満洲国のことを調べているときに「満洲=曼珠」のつながりで思い出したものである。満洲国の建国のイデオロギーとして法華経は重要な役目を果たしたと思われるので、この句に詠まれた「曼珠沙華」も「満洲」とどこかでつながっているかもしれない。だが、そんな小賢しい謎解きはどうでもよくて、「俳句」という短詩が、日本語の可能性を極限まで追求して、つねに文学の前衛でありつづけたということ、そしてそのことの素晴らしさを確認しておきたいと思う。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。
2018年10月15日月曜日
小津安二郎と日中戦争__「紀子三部作」の謎
8月の終わりに腰椎の手術をして、パソコンの前に長く座っていることができません。
なので、前回はメモでしたが、今回はメモ以下です。
標題の仮説のもとに、ずっと考え続けているのだが、どうしても、読み解けない。小津の「オズ」は「オズの魔法使い」の「オズ」ではなかろうか、などと突拍子もない妄想に襲われるときがある。でも、サリンジャーが『ライ麦畑で捕まえて』と『ナインストーリーズ』で日米戦争の真実を書いたように、「紀子三部作」は日中戦争の真実を告げようとしているように思えてならない。
その根拠となるのは、『晩春』で、紀子が叔母の家を訪れて、「プーちゃん」が部屋に閉じ込められているのをからかうシーンである。プーちゃんは「バットをエナメルで赤く塗って、それが乾かない」ので閉じ込められているのだ。「なんだプー、泣いたくせに」とからかう紀子にプーちゃんは「うるさい、紀子、あっちいけ!紀子、ゴム糊、!」と怒って追い掛け回す。
「プーちゃん」とは何か。子どものあだ名として「プーちゃん」は、今なら違和感なく聞こえるが、昭和二十四年(一九四九年)に「プー」という音が名前の最初に来ることがあっただろうか。
ここでまた、独断と偏見と妄想にかられた私は「プーちゃん」=「溥儀」説を、一人敢然と唱えたい。満洲国の皇帝となった「溥儀」は「プーイー」なのである。『晩春』の冒頭、紀子は茶会の席で、叔母に「プーちゃんに穿かせるために、叔父様の縞のズボンを半分に切ってほしい」と頼まれる。「でも、叔父様のズボンをプーちゃんが穿いたらおかしくないかしら」と紀子は言うのだが、「かまやしないのよ。ちょっとの間だから」と、叔母から風呂敷包みを渡されるシーンがある。戦後の物のないときだから、そんなこともあるだろう、と流してしまう場面だが、何となくひっかかるものがある。
「叔父様の縞のズボン」が何かの暗喩だとしたら?ひょっとして、それが清国の領土だとしたら?半分に切ったものが満洲国の領土だったら?紀子と叔母は茶会の席で満洲国の傀儡皇帝に「プーちゃん」を据える算段をしているのではないか?
プーちゃんが部屋に閉じ込められているとき、外では子ども達が野球の試合をしている。ちょっと不思議なのは戦後間もない昭和二十四年に、両チームともユニフォームを着て試合をしているのだ。なかには着ていない子もいて、裸足だったりするのだが。そして、ユニフォームを着ていない子が走者一掃のクリーンヒットを飛ばすのである。さて、この野球の試合は誰と誰が戦っているのでしょう。日本と中国?あるいは国民党と共産党?クリーンヒットはどちらが打ったのだろうか?「赤いエナメル」は共産主義を匂わせるのだが。
いったん妄想にかられると、とめどもない疑問が沸いてきて、手術後は日中戦争に関する資料を読みあさっています。そして、いかに私(たち世代)が近現代史を知らされていないかということを痛感しています。「紀子三部作」に戻っていえば、「紀子、ゴム糊!」という言葉を投げつけられる「紀子」は何と何をくっつけたのだろう、そもそも「紀子」とは何か、という根本的な疑問に、いっこう解決の目途がつきません。
それにしても、不思議なのは、中国、そして朝鮮の革命を志す人たちはほとんど日本に留学していることです。たんに留学しているだけでなく、活動の拠点を日本に作り、人的、経済的に多大な援助を受けています。それが、どうして戦うことになったのか。そのターニングポイントが一九二〇年代にあったように思われるのですが。
今日も粗雑な走り書きを最後まで読んでくださってありがとうございます。
なので、前回はメモでしたが、今回はメモ以下です。
標題の仮説のもとに、ずっと考え続けているのだが、どうしても、読み解けない。小津の「オズ」は「オズの魔法使い」の「オズ」ではなかろうか、などと突拍子もない妄想に襲われるときがある。でも、サリンジャーが『ライ麦畑で捕まえて』と『ナインストーリーズ』で日米戦争の真実を書いたように、「紀子三部作」は日中戦争の真実を告げようとしているように思えてならない。
その根拠となるのは、『晩春』で、紀子が叔母の家を訪れて、「プーちゃん」が部屋に閉じ込められているのをからかうシーンである。プーちゃんは「バットをエナメルで赤く塗って、それが乾かない」ので閉じ込められているのだ。「なんだプー、泣いたくせに」とからかう紀子にプーちゃんは「うるさい、紀子、あっちいけ!紀子、ゴム糊、!」と怒って追い掛け回す。
「プーちゃん」とは何か。子どものあだ名として「プーちゃん」は、今なら違和感なく聞こえるが、昭和二十四年(一九四九年)に「プー」という音が名前の最初に来ることがあっただろうか。
ここでまた、独断と偏見と妄想にかられた私は「プーちゃん」=「溥儀」説を、一人敢然と唱えたい。満洲国の皇帝となった「溥儀」は「プーイー」なのである。『晩春』の冒頭、紀子は茶会の席で、叔母に「プーちゃんに穿かせるために、叔父様の縞のズボンを半分に切ってほしい」と頼まれる。「でも、叔父様のズボンをプーちゃんが穿いたらおかしくないかしら」と紀子は言うのだが、「かまやしないのよ。ちょっとの間だから」と、叔母から風呂敷包みを渡されるシーンがある。戦後の物のないときだから、そんなこともあるだろう、と流してしまう場面だが、何となくひっかかるものがある。
「叔父様の縞のズボン」が何かの暗喩だとしたら?ひょっとして、それが清国の領土だとしたら?半分に切ったものが満洲国の領土だったら?紀子と叔母は茶会の席で満洲国の傀儡皇帝に「プーちゃん」を据える算段をしているのではないか?
プーちゃんが部屋に閉じ込められているとき、外では子ども達が野球の試合をしている。ちょっと不思議なのは戦後間もない昭和二十四年に、両チームともユニフォームを着て試合をしているのだ。なかには着ていない子もいて、裸足だったりするのだが。そして、ユニフォームを着ていない子が走者一掃のクリーンヒットを飛ばすのである。さて、この野球の試合は誰と誰が戦っているのでしょう。日本と中国?あるいは国民党と共産党?クリーンヒットはどちらが打ったのだろうか?「赤いエナメル」は共産主義を匂わせるのだが。
いったん妄想にかられると、とめどもない疑問が沸いてきて、手術後は日中戦争に関する資料を読みあさっています。そして、いかに私(たち世代)が近現代史を知らされていないかということを痛感しています。「紀子三部作」に戻っていえば、「紀子、ゴム糊!」という言葉を投げつけられる「紀子」は何と何をくっつけたのだろう、そもそも「紀子」とは何か、という根本的な疑問に、いっこう解決の目途がつきません。
それにしても、不思議なのは、中国、そして朝鮮の革命を志す人たちはほとんど日本に留学していることです。たんに留学しているだけでなく、活動の拠点を日本に作り、人的、経済的に多大な援助を受けています。それが、どうして戦うことになったのか。そのターニングポイントが一九二〇年代にあったように思われるのですが。
今日も粗雑な走り書きを最後まで読んでくださってありがとうございます。
2018年8月16日木曜日
小津安二郎『東京物語』__死の予告__「私をさびしい草原に埋めないで」
今回はメモです。
『東京物語』で使われる曲は四つある。最初と最後はアメリカの曲で、間に挿まれて日本の歌謡曲が二曲歌われる。この二つは戦争中のもので、周吉ととみが熱海の宿で眠れない一夜を過ごす原因となる。曲は「湯の町エレジー」と「煌めく星座」で、とくに後者は延々と二番の歌詞まですべてアコーデオンの伴奏つきで三木たかしという歌手が歌っている。
「煌めく星座」は一九四〇年高峰秀子主演の『秀子の応援団長』という映画の主題歌でハワイ帰りの灰田勝彦が歌い、レコードとなっている。これについても書きたいことが少しあるのだが、いまは最初に幸一の長男実が口笛でメロディを吹く「私をさびしい草原に埋めないで」をとりあげてみたい。
東京の幸一の家についた周吉ととみを、日曜日に幸一が東京見物に連れていこうとする。実と勇も一緒である。幸一にいわれて実が二階の周吉夫婦の様子を見に階段を上がっていく。そのときに実が吹いている口笛が「私をさびしい草原に埋めないで」なのだ。「私をさびしい草原に埋めないで」というより西部劇『駅馬車』のメロディーとして記憶されている方も多いだろう。軽快なリズムとテンポのこの曲が「私を海原に投げ込まないで」という海賊の歌として数百年も歌い継がれてきたことを知る人は少ないのではないか。
「私をさびしい草原に埋めないで」という歌は前述の海賊たちの間で歌われてきたものが、開拓時代のカウボーイたちによって歌い継がれてきたもののようである。「駅馬車」の主題歌とはテンポとリズムの異なるものが、ユーチューブで検索されるが、何とも乾いた、虚無の風が吹き抜けるような感じがする。
ほんの数小節口笛で吹かれるこの曲にこだわるのは、ラスト近く、紀子が周吉からとみの懐中時計を渡されて泣き崩れるシーンとかぶさって流れるのが、フォスターの「主は冷たい土の中に」(日本では「夕べの鐘」という題で歌詞が付けられているものもあるようだが)という曲で、最初と最後で見事に起承転結が合うからである。「主は冷たい土の中に」は黒人奴隷が主人の死を悲しんで、主人を偲ぶ歌である。フォークソングのようだが、フォスターが作曲したものだ。
明るく、軽快に死を予告する。そして、「死」は実行される。もし、これを確信犯としてやっているなら、何という残酷なことだろう。
『東京物語』の謎は深まるばかりである。
『晩春』の「プーちゃん」についても書きたいことがあるのですが、「クーさん」との整合性がいまいちなので、もう少し時間が欲しいと思っています。
とりとめもない妄想を最後まで読んでくださってありがとうございました。
『東京物語』で使われる曲は四つある。最初と最後はアメリカの曲で、間に挿まれて日本の歌謡曲が二曲歌われる。この二つは戦争中のもので、周吉ととみが熱海の宿で眠れない一夜を過ごす原因となる。曲は「湯の町エレジー」と「煌めく星座」で、とくに後者は延々と二番の歌詞まですべてアコーデオンの伴奏つきで三木たかしという歌手が歌っている。
「煌めく星座」は一九四〇年高峰秀子主演の『秀子の応援団長』という映画の主題歌でハワイ帰りの灰田勝彦が歌い、レコードとなっている。これについても書きたいことが少しあるのだが、いまは最初に幸一の長男実が口笛でメロディを吹く「私をさびしい草原に埋めないで」をとりあげてみたい。
東京の幸一の家についた周吉ととみを、日曜日に幸一が東京見物に連れていこうとする。実と勇も一緒である。幸一にいわれて実が二階の周吉夫婦の様子を見に階段を上がっていく。そのときに実が吹いている口笛が「私をさびしい草原に埋めないで」なのだ。「私をさびしい草原に埋めないで」というより西部劇『駅馬車』のメロディーとして記憶されている方も多いだろう。軽快なリズムとテンポのこの曲が「私を海原に投げ込まないで」という海賊の歌として数百年も歌い継がれてきたことを知る人は少ないのではないか。
「私をさびしい草原に埋めないで」という歌は前述の海賊たちの間で歌われてきたものが、開拓時代のカウボーイたちによって歌い継がれてきたもののようである。「駅馬車」の主題歌とはテンポとリズムの異なるものが、ユーチューブで検索されるが、何とも乾いた、虚無の風が吹き抜けるような感じがする。
ほんの数小節口笛で吹かれるこの曲にこだわるのは、ラスト近く、紀子が周吉からとみの懐中時計を渡されて泣き崩れるシーンとかぶさって流れるのが、フォスターの「主は冷たい土の中に」(日本では「夕べの鐘」という題で歌詞が付けられているものもあるようだが)という曲で、最初と最後で見事に起承転結が合うからである。「主は冷たい土の中に」は黒人奴隷が主人の死を悲しんで、主人を偲ぶ歌である。フォークソングのようだが、フォスターが作曲したものだ。
明るく、軽快に死を予告する。そして、「死」は実行される。もし、これを確信犯としてやっているなら、何という残酷なことだろう。
『東京物語』の謎は深まるばかりである。
『晩春』の「プーちゃん」についても書きたいことがあるのですが、「クーさん」との整合性がいまいちなので、もう少し時間が欲しいと思っています。
とりとめもない妄想を最後まで読んでくださってありがとうございました。
2018年8月2日木曜日
小津安二郎『東京物語』__時空の揺らぎと「物語」の嘘
『東京物語』を見ていて、どうしても気になることのひとつに、尾道_東京間の所要時間はいくらなのか、という極めて初歩的で単純な疑問がある。
冒頭周吉ととみが旅行鞄に荷物を詰めている。次女の京子が小学校に出勤する前に弁当とお茶を用意して二人に渡している。ところが、二人はすぐ出発するのではなく、「昼からの汽車で」東京に行くのだと言う。弁当とお茶はどこで、いつ食べるのだろう。暑い盛りに腐ってしまわないだろうか。まず、ここでかすかな疑問が生まれる。
周吉は京子に、学校が忙しければホームにこなくていい、と言うが京子は「五時間目は体育だから」大丈夫だと言う。ということは、周吉ととみが乗る汽車は、午後一時から二時の間に尾道を出発することになる。大阪には(午後)六時に着くから敬三がホームに来ているだろう、とも周吉が言っている。ところが、二人が東京に到着する時刻は明らかにされないのである。
尾道の家で隣家の主婦と会話した後、すぐ六本の煙突が煙を吐くシーン、続いて「ほりきり」と書いた看板が立つ小さな駅のホームのシーンになる。周吉ととみの車中の様子は映像化されないのである。「内科小児科平山医院 スグ此ノ土手ノ下」と書かれた看板が映り、その後中年の女性が箒で室内を掃いているシーンになる。この家の主婦の平山文子である。「ただいま」と男の子が学校から帰ってくる。文子の長男実である。その後、文子の夫で周吉ととみの長男平山幸一が、二人を連れて家に入ってくる。幸一の妹(周吉ととみの長女)志げも一緒である。これは何時頃の出来事なのだろうか。
「今、テストなんだぞ」と言う実(中学生)が帰宅するのはどんなに早くてもお昼すぎ、あるいはお昼間際だろう。とすると、東京駅には何時に着いたのだろうか。
周吉ととみが尾道に帰るときの所要時間は確定されている。夜「九時三〇分」発の急行で翌日「午後一時半」には尾道に着くのだから、ととみが言っている。つまり東京→尾道間は十六時間である。
東京→尾道間も尾道→東京間もほぼ同じ所要時間とすれば、「お昼すぎに尾道を出発」すれば翌朝五時過ぎ遅くとも六時には東京駅に着くはずである。その時刻に着けば、「だいぶん、自動車で遠いかった」ととみは言うが、幸一の自宅兼医院がある「ほりきり」駅近くまで車で走っても、お昼近くまでかかることはないだろう。ということは東京駅には十時過ぎに到着したことになり、尾道→東京は東京→尾道に比べ、はるかに時間がかかるということになる。そういうことがあるだろうか。
ところで、「ほりきり」と看板がかかった駅は実は東武伊勢崎線の「堀切」駅ではないそうである。何となく不吉な感じのする音響とともに、六本の煙突(千住発電所のお化け煙突と呼ばれていたものらしい)が立っているシーンの後、「ほりきり」と書かれた看板が立つホームが遠景で映される。続いて、モンペ姿の若い娘が二人汗を拭きながら談笑しているシーンになる。かたわらに大きな籠が置かれているので、行商をしているのだろう。二人が立っている前に「うしだ」「〇ねがふち」と両隣の駅名が書かれた看板が立っている。いかにも「堀切」駅のホームのようである。
だが、これは京成押上線の「八広」と言う駅で撮影されたものだそうだ。実際の堀切駅は、線路が道路より下にあるので、この映像のようにトラックが線路と同じ高さで走ることはあり得ない。また、この映像では踏切がホームの手前に映っているが、堀切駅の近くには踏み切りはない。「うしだ」「〇ねがふち」と両隣の駅名を書いた看板は、よく見ると電車の進行方向と直角に立っている。これでは電車の中から駅名が見づらい。つまりこの看板はニセモノなのである。
なぜ、小津は八広駅を「ほりきり」駅にしたかったのか。「ほりきり」にこだわる理由があるのだろうか。たんに平山医院の場所を荒川の土手の下にしたかったのなら、「ほりきり」駅のホームを映さなくてもよかったのに、と思う。
事実に見えるように映像化して、その中に嘘を混ぜる。何となく違和感はあるものの、さらっと見逃してしまいそうな嘘である。なぜ、こんな手のこんだことをするのか。
大江健三郎が『憂い顔の童子』の中で、母親の言葉としていっているように「本当のことをいうのは、ウソに力をあたえるため」なら、逆に「嘘を言うのは、本当のことに力をあたえるため」という論理は成り立つだろうか。
『東京物語』の「本当のこと」は何だろう。『東京物語』の嘘は、注意深く検証すれば嘘であることが証明されるが、「本当のこと」は容易に姿を現してくれないような気がする。一見分かりやすい人情劇_酷薄な娘と役立たずの息子を演じる杉村春子と山村總は名演技だと思う_の向こうにある本当の「物語」は何か。私たちはもう一度「東京」の「物語」あるいは「物語」の「東京」について考えなければならない。
非常に即物的でありながら極めて抽象的な論を展開してしまいました。「東京物語」の「本当のこと」について書くにはもう少し時間がかりそうです。書けるかどうかわかりませんが、何とか言葉にしたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
冒頭周吉ととみが旅行鞄に荷物を詰めている。次女の京子が小学校に出勤する前に弁当とお茶を用意して二人に渡している。ところが、二人はすぐ出発するのではなく、「昼からの汽車で」東京に行くのだと言う。弁当とお茶はどこで、いつ食べるのだろう。暑い盛りに腐ってしまわないだろうか。まず、ここでかすかな疑問が生まれる。
周吉は京子に、学校が忙しければホームにこなくていい、と言うが京子は「五時間目は体育だから」大丈夫だと言う。ということは、周吉ととみが乗る汽車は、午後一時から二時の間に尾道を出発することになる。大阪には(午後)六時に着くから敬三がホームに来ているだろう、とも周吉が言っている。ところが、二人が東京に到着する時刻は明らかにされないのである。
尾道の家で隣家の主婦と会話した後、すぐ六本の煙突が煙を吐くシーン、続いて「ほりきり」と書いた看板が立つ小さな駅のホームのシーンになる。周吉ととみの車中の様子は映像化されないのである。「内科小児科平山医院 スグ此ノ土手ノ下」と書かれた看板が映り、その後中年の女性が箒で室内を掃いているシーンになる。この家の主婦の平山文子である。「ただいま」と男の子が学校から帰ってくる。文子の長男実である。その後、文子の夫で周吉ととみの長男平山幸一が、二人を連れて家に入ってくる。幸一の妹(周吉ととみの長女)志げも一緒である。これは何時頃の出来事なのだろうか。
「今、テストなんだぞ」と言う実(中学生)が帰宅するのはどんなに早くてもお昼すぎ、あるいはお昼間際だろう。とすると、東京駅には何時に着いたのだろうか。
周吉ととみが尾道に帰るときの所要時間は確定されている。夜「九時三〇分」発の急行で翌日「午後一時半」には尾道に着くのだから、ととみが言っている。つまり東京→尾道間は十六時間である。
東京→尾道間も尾道→東京間もほぼ同じ所要時間とすれば、「お昼すぎに尾道を出発」すれば翌朝五時過ぎ遅くとも六時には東京駅に着くはずである。その時刻に着けば、「だいぶん、自動車で遠いかった」ととみは言うが、幸一の自宅兼医院がある「ほりきり」駅近くまで車で走っても、お昼近くまでかかることはないだろう。ということは東京駅には十時過ぎに到着したことになり、尾道→東京は東京→尾道に比べ、はるかに時間がかかるということになる。そういうことがあるだろうか。
ところで、「ほりきり」と看板がかかった駅は実は東武伊勢崎線の「堀切」駅ではないそうである。何となく不吉な感じのする音響とともに、六本の煙突(千住発電所のお化け煙突と呼ばれていたものらしい)が立っているシーンの後、「ほりきり」と書かれた看板が立つホームが遠景で映される。続いて、モンペ姿の若い娘が二人汗を拭きながら談笑しているシーンになる。かたわらに大きな籠が置かれているので、行商をしているのだろう。二人が立っている前に「うしだ」「〇ねがふち」と両隣の駅名が書かれた看板が立っている。いかにも「堀切」駅のホームのようである。
だが、これは京成押上線の「八広」と言う駅で撮影されたものだそうだ。実際の堀切駅は、線路が道路より下にあるので、この映像のようにトラックが線路と同じ高さで走ることはあり得ない。また、この映像では踏切がホームの手前に映っているが、堀切駅の近くには踏み切りはない。「うしだ」「〇ねがふち」と両隣の駅名を書いた看板は、よく見ると電車の進行方向と直角に立っている。これでは電車の中から駅名が見づらい。つまりこの看板はニセモノなのである。
なぜ、小津は八広駅を「ほりきり」駅にしたかったのか。「ほりきり」にこだわる理由があるのだろうか。たんに平山医院の場所を荒川の土手の下にしたかったのなら、「ほりきり」駅のホームを映さなくてもよかったのに、と思う。
事実に見えるように映像化して、その中に嘘を混ぜる。何となく違和感はあるものの、さらっと見逃してしまいそうな嘘である。なぜ、こんな手のこんだことをするのか。
大江健三郎が『憂い顔の童子』の中で、母親の言葉としていっているように「本当のことをいうのは、ウソに力をあたえるため」なら、逆に「嘘を言うのは、本当のことに力をあたえるため」という論理は成り立つだろうか。
『東京物語』の「本当のこと」は何だろう。『東京物語』の嘘は、注意深く検証すれば嘘であることが証明されるが、「本当のこと」は容易に姿を現してくれないような気がする。一見分かりやすい人情劇_酷薄な娘と役立たずの息子を演じる杉村春子と山村總は名演技だと思う_の向こうにある本当の「物語」は何か。私たちはもう一度「東京」の「物語」あるいは「物語」の「東京」について考えなければならない。
非常に即物的でありながら極めて抽象的な論を展開してしまいました。「東京物語」の「本当のこと」について書くにはもう少し時間がかりそうです。書けるかどうかわかりませんが、何とか言葉にしたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2018年7月25日水曜日
小津安二郎『東京物語』__「主は冷たい土の中に」__紀子に渡された時間
生と死、家族のあり方を描いた傑作として評価が定まっている作品である。尾道から老夫婦(妻が六八歳、夫はそれよりいくらか年上か)が上京する。長男と長女の家に滞在するが、それぞれの生活の都合があって、結局義理の娘(亡くなった次男の嫁)の世話になる。帰りの列車の中で具合が悪くなった妻は尾道に帰ると急死してしまう。「ハハキトク」の電報で子供たちが尾道に集まるが、葬式が終わるとその日のうちに帰っていく。最後に残った次男の嫁も、尾道の小学校で教師をしている次女と東京での再会を約束して帰京する。
プロットの展開といい、登場人物の性格描写と言い、リアリティに満ちていて、これもまた不自然なところなどどこにもないように見える。何となく次男の嫁_紀子の献身ぶりが浮き立ってしまうようなところがあるのだけれど、その素晴らしい日本語、というか東京山の手の上流階級風のことばと物腰、表情に納得してしまう。
しかし、それでもやはり、この映画はおかしいのである。今日、映画はDVDその他で繰り返し見ることができる。時には、映像を中断して、停止画像を検証することもできる。そのような操作をして「おかしさ」を発見することは、観客として邪道かもしれないが、小津もまた確信犯的アンフェアだといわざるを得ない。
熱海の宿で眠れぬ夜を過ごして、東京に帰った周吉ととみの夫婦は、泊まろうと思っていた長女の家を追い出されてしまう。とみは紀子のアパートに泊めてもらう。時計の鐘が十二時を告げている。アパートの部屋で、紀子に肩を揉んでもらうとみ。とみの表情はほんとうに柔和で幸せそうだが、紀子のそれはニュートラルである。とみに向かい合う時は十分に笑みをたたえているが、そうでないときは、はっとするほど冷酷な表情をする。それがまた、慄然とする美しさなのである。
まだ若いのだから、と再婚をすすめるとみに「もう、若かありませんわ」と自嘲気味に答える紀子。その目はなまめかしい、というか妖しいというか、複雑な色を帯びていて、夫を亡くした後の紀子の生活が葛藤に満ちたものであったことをうかがわせるようだ。「それじゃぁ、いいとこがありましたら」と受け流す紀子に、さらに「苦労をかけた・・」と言いつのるとみ。行く末を案じるとみに紀子は「あたし齢取らないことに決めてますから」と冗談とも本気ともわからないことをいう。「ええ人じゃのう、あんた」と、とみは俯いて涙ぐむのだが、紀子はどこか突き放した口調で「じゃ、おやすみなさい」と切り上げ、電灯を消す。とみの背中を見る紀子の視線は獲物をうかがう動物のような冷酷さである。
カメラはさらに、仰向けになった紀子の横顔を映す。目を見開いて、上を見上げる紀子は何事か考えている様子である。二度瞬きをして、かすかに喉もとを動かし、何か飲み込むようである。とみと紀子の間にはひそかに張り巡らされた緊張の糸が存在するのだ。薊を意匠した紀子の浴衣も無気味である。棘だった葉の模様が蝙蝠のように見える。
とみの危篤を兄嫁から職場の電話で知らされた紀子の表情もまた、ぞっとするものがある。受話器を置いて自分の机まで歩いていく紀子。タイプライターの音が続く。俯いているが、その表情は険しい。覚悟を決めたような気配も感じられる。机に向かって鉛筆を回転させながら、何事か考えているようだが、不貞腐れたようにも見える顔つきである。これが、あのアパートで慄然とするまでの美しさを見せた紀子と同一人物かと思うほど不細工に映っている。
そして、この直後、この映画で最も不思議な映像が挿入される。電動ドリルで穴を開ける音とともに、画面いっぱいに組まれた鉄骨が映し出される。鉄骨の向こうにビルの壁が見える。回天窓の大きさと形から、オフィス街のビルだと思われる。画面が切り替わって、鉄骨の組まれた上に空が広がる。自動車のクラクションの音も聞こえる。
この画面が、とみの死、そして紀子の運命と何の関係があるのか。
ラスト近く、出勤する京子を東京での再会を約束した紀子が見送る。この間二、三分のシーンだが、京子と紀子が会話する座敷の外側に鶏頭の花がぼんやりと映っている。鶏頭の花は座敷の両側に植えられている。周吉ととみの出発時にはなかった鶏頭の花が、とみの葬儀のあたりから頻繁に映されるが、無気味である。そういえば、冒頭、出勤前の京子と周吉夫婦のやり取りのシーンで、座敷の向こうに蛸の干したものがぶら下がっている。これもまた気持ちのよいものではない。人間の頭蓋骨のように見える。
画面の不思議といえば、周吉ととみが紀子のアパートで食事をする場面がある。隣の部屋の若い主婦から酒を借りてきた紀子が周吉に酒をすすめ、出前の丼を取る。配達された丼にとみが箸をつけた途端、背後のガラスがひび割れているのである。周吉が盃を干したときには気が付かなかったが、とみがものを食べた瞬間にひび割れて、テープのようなもので補修されたガラスになるのだ。そもそもこの映画にはひび割れたガラスがあちこち出現する。長男の開業する医院の薬棚のガラスもひびだらけである。
ラストはやはり紀子と周吉の対決になる。出勤する京子が玄関を出ると、紀子は踵を返して手早く部屋を片付け、周吉に「わたくし、今日お昼からの汽車で」と、帰京する旨を告げる。周吉に対しては、紀子は「わたくし」という自称で話すのだ。紀子の行為に謝意を述べる周吉に、紀子は「何にもおかまいできませんで」と返し、「ありがとう」と周吉があらためて礼を言うと「いいえ・・・」とバツが悪そうに俯く。
亡くなる前に紀子のアパートでとみが言ったのと同じことばを周吉も繰り返す。良縁があったら再婚してほしい、亡くなった息子のことは忘れてもらって構わない、と。さらに、周吉は、とみが紀子のことをこんなに、良い人はいないと褒めていたことを伝える。すると紀子は「お義母さま、わたくしのことを買いかぶっていらしたんですわ」と答え、「わたくし、ずるいんです。お義父様やお義母様が思ってらっしゃるほど、そういつもいつも省二さんのことばかり考えているわけじゃありません」と言う。
「ええんじゃよ、忘れてくれて」と周吉が言うと、紀子は「でも、この頃思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです」と答え、堰を切ったように言葉を重ねるのだ。この場面、カメラは、なぜか周吉の後ろ姿の向こうに紀子をとらえる。行く末の不安と未来に起こるかもしれない出来事への期待を必死に訴える紀子の表情は、無言の周吉の背中越しに見えるのだ。
「心の片隅で何かを待ってるんです。ずるいんです」と言う紀子に、周吉は「ずるうはない」と答える。「いいえ、ずるいんです。そういうことお義母様には申し上げられなかったんです」と紀子が返して、ここからカメラはまた紀子を近くでとらえる。周吉が「やっぱりあんたはええ人じゃよ。正直で」がと言うと紀子は「とんでもない」と顔をそむけて泣く。
涙をこらえている風情の紀子に、周吉はとみの形見の懐中時計を差し出す。このシーンにも鶏頭の花が映っている。ちょうど紀子の齢くらいからとみが持っていたという時計を紀子に、と言う周吉の言葉に紀子は涙をたたえた目で「すみません」とうつむく。そして、紀子の幸せを祈る、と周吉が続けると、紀子は手で顔を覆って泣き崩れる。
この後「主は冷たい土の中に」の曲が流れる。小学生の合唱のようである。小学校の校舎、バケツをもった子供たちが歩いている廊下、京子が算数を教えている教室が映される。教室の窓から外を見る京子。紀子の乗る汽車が轟音とともに疾走して行くシーンが危険なほどの近さで映される。
汽車の中で、懐中時計を見る取り出して、蓋を開け確かめる紀子。髪型を変え、ブラウスも変えて、周吉と対話していたときとは別人のようである。ニュートラルな表情だが、最後に何事か決意したような気配になる。汽笛が鳴る。
以上、「紀子物語」をざっとトレースしてみたが、これが『東京物語』の中でどのような役割を果たすのか、いまの私には解が見つけられないのである。紀子の行動については、まだあといくつか触れたい箇所もあるのだが、長くなるのでまた次の機会にしたい。もっとも根本的なのは、「堀切」という駅名が明示された荒川の土手下を中心とする場所が、なぜ「東京物語」の舞台に選ばれたのか、という疑問である。それは『東京物語』の構造にかかわる核心の問題なのだろうが。
ラストちかくの紀子と周吉の対決について、もう少し二人の心理の襞に立ち入って書かなければならないのですが、これ以上冗長な文章を続けるのも憚られるので、これもまた次の機会にしたいと思います。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
プロットの展開といい、登場人物の性格描写と言い、リアリティに満ちていて、これもまた不自然なところなどどこにもないように見える。何となく次男の嫁_紀子の献身ぶりが浮き立ってしまうようなところがあるのだけれど、その素晴らしい日本語、というか東京山の手の上流階級風のことばと物腰、表情に納得してしまう。
しかし、それでもやはり、この映画はおかしいのである。今日、映画はDVDその他で繰り返し見ることができる。時には、映像を中断して、停止画像を検証することもできる。そのような操作をして「おかしさ」を発見することは、観客として邪道かもしれないが、小津もまた確信犯的アンフェアだといわざるを得ない。
熱海の宿で眠れぬ夜を過ごして、東京に帰った周吉ととみの夫婦は、泊まろうと思っていた長女の家を追い出されてしまう。とみは紀子のアパートに泊めてもらう。時計の鐘が十二時を告げている。アパートの部屋で、紀子に肩を揉んでもらうとみ。とみの表情はほんとうに柔和で幸せそうだが、紀子のそれはニュートラルである。とみに向かい合う時は十分に笑みをたたえているが、そうでないときは、はっとするほど冷酷な表情をする。それがまた、慄然とする美しさなのである。
まだ若いのだから、と再婚をすすめるとみに「もう、若かありませんわ」と自嘲気味に答える紀子。その目はなまめかしい、というか妖しいというか、複雑な色を帯びていて、夫を亡くした後の紀子の生活が葛藤に満ちたものであったことをうかがわせるようだ。「それじゃぁ、いいとこがありましたら」と受け流す紀子に、さらに「苦労をかけた・・」と言いつのるとみ。行く末を案じるとみに紀子は「あたし齢取らないことに決めてますから」と冗談とも本気ともわからないことをいう。「ええ人じゃのう、あんた」と、とみは俯いて涙ぐむのだが、紀子はどこか突き放した口調で「じゃ、おやすみなさい」と切り上げ、電灯を消す。とみの背中を見る紀子の視線は獲物をうかがう動物のような冷酷さである。
カメラはさらに、仰向けになった紀子の横顔を映す。目を見開いて、上を見上げる紀子は何事か考えている様子である。二度瞬きをして、かすかに喉もとを動かし、何か飲み込むようである。とみと紀子の間にはひそかに張り巡らされた緊張の糸が存在するのだ。薊を意匠した紀子の浴衣も無気味である。棘だった葉の模様が蝙蝠のように見える。
とみの危篤を兄嫁から職場の電話で知らされた紀子の表情もまた、ぞっとするものがある。受話器を置いて自分の机まで歩いていく紀子。タイプライターの音が続く。俯いているが、その表情は険しい。覚悟を決めたような気配も感じられる。机に向かって鉛筆を回転させながら、何事か考えているようだが、不貞腐れたようにも見える顔つきである。これが、あのアパートで慄然とするまでの美しさを見せた紀子と同一人物かと思うほど不細工に映っている。
そして、この直後、この映画で最も不思議な映像が挿入される。電動ドリルで穴を開ける音とともに、画面いっぱいに組まれた鉄骨が映し出される。鉄骨の向こうにビルの壁が見える。回天窓の大きさと形から、オフィス街のビルだと思われる。画面が切り替わって、鉄骨の組まれた上に空が広がる。自動車のクラクションの音も聞こえる。
この画面が、とみの死、そして紀子の運命と何の関係があるのか。
ラスト近く、出勤する京子を東京での再会を約束した紀子が見送る。この間二、三分のシーンだが、京子と紀子が会話する座敷の外側に鶏頭の花がぼんやりと映っている。鶏頭の花は座敷の両側に植えられている。周吉ととみの出発時にはなかった鶏頭の花が、とみの葬儀のあたりから頻繁に映されるが、無気味である。そういえば、冒頭、出勤前の京子と周吉夫婦のやり取りのシーンで、座敷の向こうに蛸の干したものがぶら下がっている。これもまた気持ちのよいものではない。人間の頭蓋骨のように見える。
画面の不思議といえば、周吉ととみが紀子のアパートで食事をする場面がある。隣の部屋の若い主婦から酒を借りてきた紀子が周吉に酒をすすめ、出前の丼を取る。配達された丼にとみが箸をつけた途端、背後のガラスがひび割れているのである。周吉が盃を干したときには気が付かなかったが、とみがものを食べた瞬間にひび割れて、テープのようなもので補修されたガラスになるのだ。そもそもこの映画にはひび割れたガラスがあちこち出現する。長男の開業する医院の薬棚のガラスもひびだらけである。
ラストはやはり紀子と周吉の対決になる。出勤する京子が玄関を出ると、紀子は踵を返して手早く部屋を片付け、周吉に「わたくし、今日お昼からの汽車で」と、帰京する旨を告げる。周吉に対しては、紀子は「わたくし」という自称で話すのだ。紀子の行為に謝意を述べる周吉に、紀子は「何にもおかまいできませんで」と返し、「ありがとう」と周吉があらためて礼を言うと「いいえ・・・」とバツが悪そうに俯く。
亡くなる前に紀子のアパートでとみが言ったのと同じことばを周吉も繰り返す。良縁があったら再婚してほしい、亡くなった息子のことは忘れてもらって構わない、と。さらに、周吉は、とみが紀子のことをこんなに、良い人はいないと褒めていたことを伝える。すると紀子は「お義母さま、わたくしのことを買いかぶっていらしたんですわ」と答え、「わたくし、ずるいんです。お義父様やお義母様が思ってらっしゃるほど、そういつもいつも省二さんのことばかり考えているわけじゃありません」と言う。
「ええんじゃよ、忘れてくれて」と周吉が言うと、紀子は「でも、この頃思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです」と答え、堰を切ったように言葉を重ねるのだ。この場面、カメラは、なぜか周吉の後ろ姿の向こうに紀子をとらえる。行く末の不安と未来に起こるかもしれない出来事への期待を必死に訴える紀子の表情は、無言の周吉の背中越しに見えるのだ。
「心の片隅で何かを待ってるんです。ずるいんです」と言う紀子に、周吉は「ずるうはない」と答える。「いいえ、ずるいんです。そういうことお義母様には申し上げられなかったんです」と紀子が返して、ここからカメラはまた紀子を近くでとらえる。周吉が「やっぱりあんたはええ人じゃよ。正直で」がと言うと紀子は「とんでもない」と顔をそむけて泣く。
涙をこらえている風情の紀子に、周吉はとみの形見の懐中時計を差し出す。このシーンにも鶏頭の花が映っている。ちょうど紀子の齢くらいからとみが持っていたという時計を紀子に、と言う周吉の言葉に紀子は涙をたたえた目で「すみません」とうつむく。そして、紀子の幸せを祈る、と周吉が続けると、紀子は手で顔を覆って泣き崩れる。
この後「主は冷たい土の中に」の曲が流れる。小学生の合唱のようである。小学校の校舎、バケツをもった子供たちが歩いている廊下、京子が算数を教えている教室が映される。教室の窓から外を見る京子。紀子の乗る汽車が轟音とともに疾走して行くシーンが危険なほどの近さで映される。
汽車の中で、懐中時計を見る取り出して、蓋を開け確かめる紀子。髪型を変え、ブラウスも変えて、周吉と対話していたときとは別人のようである。ニュートラルな表情だが、最後に何事か決意したような気配になる。汽笛が鳴る。
以上、「紀子物語」をざっとトレースしてみたが、これが『東京物語』の中でどのような役割を果たすのか、いまの私には解が見つけられないのである。紀子の行動については、まだあといくつか触れたい箇所もあるのだが、長くなるのでまた次の機会にしたい。もっとも根本的なのは、「堀切」という駅名が明示された荒川の土手下を中心とする場所が、なぜ「東京物語」の舞台に選ばれたのか、という疑問である。それは『東京物語』の構造にかかわる核心の問題なのだろうが。
ラストちかくの紀子と周吉の対決について、もう少し二人の心理の襞に立ち入って書かなければならないのですが、これ以上冗長な文章を続けるのも憚られるので、これもまた次の機会にしたいと思います。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2018年7月9日月曜日
小津安二郎『晩春』の謎__Z、コカコーラ、三つの林檎
前回「紀子と周吉の永劫回帰」の最後に、「Z」はなかった、と書いたが、実は最後に「Z」が登場するのである。紀子と周吉の婚前旅行の旅館で二人が帰り支度をしている。紀子がストッキングをぐるりと束ねて仕舞っている。周吉は旅先に持参した本を鞄に入れている。最後に周吉が手に取ったのが「Also Sprach Zarathustra_ツァラトゥストラはかく語りき 」である。ここに大文字の「Z」がの登場する。
周吉が「Also Sprach Zaratuustra」をいったん手に取って確かめるような動作をしながら、「(これからは)佐竹君に可愛がって貰うんだよ」と言う。すると、しばらく無言のままだった紀子は「あたし、このままお父さんと一緒にいたいの。どこにも行きたくないの」と本心を吐露し始める。お嫁に行ったってこれ以上楽しいことがあるとは思えない。お父さんが好きなの。お父さん、奥さんお貰いになったっていいのよ。このままそばにいさせて。お願い。・・・と紀子は周吉のそばににじり寄っていく気配を見せる。これはもう、父を慕う娘の情、という範疇のものではない。
これに対して、周吉は、「人間の歴史の順序」などという言葉を用いて紀子を説得しようとする。大演説を打つのである。理路整然と結婚と幸せについて語るのだが、どうも紀子の気持ちに届いているようには思えない。それでも、紀子は涙をこらえながら、「わがまま言ってすみません」とあやまる。一応は諦めたように見えるのだが。
さて、「Z」とは何か。たんに「終止符」の記号だろうか。それともZarathustraの頭文字の意を含むのだろうか。あるいは、Z計画、Z旗・・・これは関係ないか。
紀子と周吉の婚前旅行では、浴衣姿の二人が枕を並べて横たわるシーンの壺のショットが有名である。この壺の意味については様々な解釈がなされているようだが、私が知りたいのは、壺に描かれている模様である。なんだかよく分からないのだが、あまり気持ちのいいものではない。何となく『お茶漬けの味』の小暮美千代が着ている浴衣の模様に似ているような気がする。
浴衣の模様といえば、このシーンの紀子の浴衣の模様はアヤメであって、明らかに蛇のメタファーであることはいうまでもない。こんな説明はまさに「蛇足」だが。
『晩春』は紀子と周吉の物語であると同時に紀子と服部の物語でもある。周吉(曾宮家と)服部の物語、といってもいいかもしれない。冒頭「Z」をめぐって周吉と服部が会話するのだが、もう一つ「リンシャンカイホウ」なる麻雀用語が二人の会話の中に出てくる。「嶺上開花」と書くらしいが、麻雀に疎い私には何の事かよくわからない。要するに「この前の麻雀は僕が(周吉ではなくて)トップだった」と服部は言っているのである。?
映画の前半に、紀子と服部が自転車で由比ガ浜の海沿いの道路を行く場面がある。二台の自転車を並走させて二人は楽しそうにサイクリングをしている。二台の自転車と乗っている二人を、カメラは後ろから、前から、斜め後方から追っていく。二人の上半身もアップで映される。ちょっと不思議なのは、道路標識が英語で書かれていることである。矢印の標識の上に大きなコカコーラの瓶が描かれた看板を通り過ぎ、砂浜に自転車をとめて、二人は海の近くに歩いていく。コカコーラが昭和二十四年の日本に存在していたことも驚きだが、道路標識も英語で書かれていることも意外だった。これは鎌倉だけのことだったのだろうか。
海の見える場所で寄り添うように二人は腰を下ろす。二人の会話は紀子が唐突に「じゃ、あたしはどっちだとお思いになる?」と服部に聞くところから始まる。「あなたは焼きもちなんか焼く人じゃないでしょう」と服部は答えるのだが、紀子は「ところがあたし、焼きもち焼きなの。あたしがお沢庵切るとつながっているんですもの」と言う。まるで禅問答のようだが、つながったお沢庵というモチーフはもう一度、二人が「BALBOA」という喫茶店で会う場面でも繰り返される。
つながったお沢庵は蛇腹を連想させ、まさに蛇なのだが、ここでは、語り合う二人の姿が、どう見ても恋人同士であることに注目したい。紀子と服部の関係は真正の大人の関係ではないだろうか。サイクリングから帰ってきて、上機嫌で「花」をハミングしている紀子の白いソックスの足の裏が汚れているのも、どうしても気になるのだが。紀子はどこをソックスで歩いたのだろう。
余談だが、「服部」という苗字を調べていくといろいろ面白いことがわかる。服部家の跡継ぎは代々「半蔵」を名乗る習わしがあって、皇居の「半蔵門」も「服部半蔵」に由来するのだとか。これもまた蛇足だけれど。
紀子の結婚式当日の曾宮家にも服部がいる。まるで紀子の親族のような顔をして礼服を着て周吉と並んで椅子に座っている。「佐竹熊太郎」という紀子の花婿の姿は最後まで画面に現れることはない。二階の自分の部屋で花嫁衣裳に身を包み、涙をこらえて周吉に挨拶する紀子と、紀子の手を取って介添えしながら部屋を出て行く周吉の後ろ姿が映される。紀子が登場する画面はこれが最後である。
この後は、式を終えた周吉とアヤが割烹「多喜川」で盃を傾けるシーンがあって、ここでも少しおかしいことがある。周吉がアヤを「のりちゃん」とか「スーちゃん」とか呼んでいて、アヤも何も言わずにそれに受け答えしているのだ。? 最後には「きっと(家に)来ておくれよ、アヤちゃん」と言うのだけれど。
ラスト近く、手伝いの女も帰って、家の中に唯一人になった周吉が礼服の上着だけ脱いだ姿で、椅子に座る。テーブルの上に林檎が三つ置かれている。周吉がそのうちの一つを取り上げ、ナイフで皮を剥き始める。くるくるくるくるナイフが回って林檎の皮が剥けていく。ほとんど剥き終わったところで、ナイフが手から落ちて、がっくりとうな垂れる周吉。
この後映像は波立つ海面に切り替わって終わるのだが、三つの林檎と海はどんな関係があるのか。なぜ林檎は三つなのか。誰が置いたのか。何のために。
『晩春』はこの上なくシンプルなストーリーなのに、いつまでも、どうしても解けない謎に満ちています。ぴんとはりつめた緊張感の漂う画面は一つの手抜きも許されないジグソーパズルで組み合わされているかのようです。分解して、組み合わせて、また分解して・・・終わりのない作業の繰り返しなので、ひとまずこれで切り上げようと思います。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
周吉が「Also Sprach Zaratuustra」をいったん手に取って確かめるような動作をしながら、「(これからは)佐竹君に可愛がって貰うんだよ」と言う。すると、しばらく無言のままだった紀子は「あたし、このままお父さんと一緒にいたいの。どこにも行きたくないの」と本心を吐露し始める。お嫁に行ったってこれ以上楽しいことがあるとは思えない。お父さんが好きなの。お父さん、奥さんお貰いになったっていいのよ。このままそばにいさせて。お願い。・・・と紀子は周吉のそばににじり寄っていく気配を見せる。これはもう、父を慕う娘の情、という範疇のものではない。
これに対して、周吉は、「人間の歴史の順序」などという言葉を用いて紀子を説得しようとする。大演説を打つのである。理路整然と結婚と幸せについて語るのだが、どうも紀子の気持ちに届いているようには思えない。それでも、紀子は涙をこらえながら、「わがまま言ってすみません」とあやまる。一応は諦めたように見えるのだが。
さて、「Z」とは何か。たんに「終止符」の記号だろうか。それともZarathustraの頭文字の意を含むのだろうか。あるいは、Z計画、Z旗・・・これは関係ないか。
紀子と周吉の婚前旅行では、浴衣姿の二人が枕を並べて横たわるシーンの壺のショットが有名である。この壺の意味については様々な解釈がなされているようだが、私が知りたいのは、壺に描かれている模様である。なんだかよく分からないのだが、あまり気持ちのいいものではない。何となく『お茶漬けの味』の小暮美千代が着ている浴衣の模様に似ているような気がする。
浴衣の模様といえば、このシーンの紀子の浴衣の模様はアヤメであって、明らかに蛇のメタファーであることはいうまでもない。こんな説明はまさに「蛇足」だが。
『晩春』は紀子と周吉の物語であると同時に紀子と服部の物語でもある。周吉(曾宮家と)服部の物語、といってもいいかもしれない。冒頭「Z」をめぐって周吉と服部が会話するのだが、もう一つ「リンシャンカイホウ」なる麻雀用語が二人の会話の中に出てくる。「嶺上開花」と書くらしいが、麻雀に疎い私には何の事かよくわからない。要するに「この前の麻雀は僕が(周吉ではなくて)トップだった」と服部は言っているのである。?
映画の前半に、紀子と服部が自転車で由比ガ浜の海沿いの道路を行く場面がある。二台の自転車を並走させて二人は楽しそうにサイクリングをしている。二台の自転車と乗っている二人を、カメラは後ろから、前から、斜め後方から追っていく。二人の上半身もアップで映される。ちょっと不思議なのは、道路標識が英語で書かれていることである。矢印の標識の上に大きなコカコーラの瓶が描かれた看板を通り過ぎ、砂浜に自転車をとめて、二人は海の近くに歩いていく。コカコーラが昭和二十四年の日本に存在していたことも驚きだが、道路標識も英語で書かれていることも意外だった。これは鎌倉だけのことだったのだろうか。
海の見える場所で寄り添うように二人は腰を下ろす。二人の会話は紀子が唐突に「じゃ、あたしはどっちだとお思いになる?」と服部に聞くところから始まる。「あなたは焼きもちなんか焼く人じゃないでしょう」と服部は答えるのだが、紀子は「ところがあたし、焼きもち焼きなの。あたしがお沢庵切るとつながっているんですもの」と言う。まるで禅問答のようだが、つながったお沢庵というモチーフはもう一度、二人が「BALBOA」という喫茶店で会う場面でも繰り返される。
つながったお沢庵は蛇腹を連想させ、まさに蛇なのだが、ここでは、語り合う二人の姿が、どう見ても恋人同士であることに注目したい。紀子と服部の関係は真正の大人の関係ではないだろうか。サイクリングから帰ってきて、上機嫌で「花」をハミングしている紀子の白いソックスの足の裏が汚れているのも、どうしても気になるのだが。紀子はどこをソックスで歩いたのだろう。
余談だが、「服部」という苗字を調べていくといろいろ面白いことがわかる。服部家の跡継ぎは代々「半蔵」を名乗る習わしがあって、皇居の「半蔵門」も「服部半蔵」に由来するのだとか。これもまた蛇足だけれど。
紀子の結婚式当日の曾宮家にも服部がいる。まるで紀子の親族のような顔をして礼服を着て周吉と並んで椅子に座っている。「佐竹熊太郎」という紀子の花婿の姿は最後まで画面に現れることはない。二階の自分の部屋で花嫁衣裳に身を包み、涙をこらえて周吉に挨拶する紀子と、紀子の手を取って介添えしながら部屋を出て行く周吉の後ろ姿が映される。紀子が登場する画面はこれが最後である。
この後は、式を終えた周吉とアヤが割烹「多喜川」で盃を傾けるシーンがあって、ここでも少しおかしいことがある。周吉がアヤを「のりちゃん」とか「スーちゃん」とか呼んでいて、アヤも何も言わずにそれに受け答えしているのだ。? 最後には「きっと(家に)来ておくれよ、アヤちゃん」と言うのだけれど。
ラスト近く、手伝いの女も帰って、家の中に唯一人になった周吉が礼服の上着だけ脱いだ姿で、椅子に座る。テーブルの上に林檎が三つ置かれている。周吉がそのうちの一つを取り上げ、ナイフで皮を剥き始める。くるくるくるくるナイフが回って林檎の皮が剥けていく。ほとんど剥き終わったところで、ナイフが手から落ちて、がっくりとうな垂れる周吉。
この後映像は波立つ海面に切り替わって終わるのだが、三つの林檎と海はどんな関係があるのか。なぜ林檎は三つなのか。誰が置いたのか。何のために。
『晩春』はこの上なくシンプルなストーリーなのに、いつまでも、どうしても解けない謎に満ちています。ぴんとはりつめた緊張感の漂う画面は一つの手抜きも許されないジグソーパズルで組み合わされているかのようです。分解して、組み合わせて、また分解して・・・終わりのない作業の繰り返しなので、ひとまずこれで切り上げようと思います。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2018年6月26日火曜日
小津安二郎『晩春』の謎__紀子と周吉の永劫回帰あるいは安珍清姫を巡る幻想__蛇というモチーフ
『晩春』は原節子が演じる「紀子三部作」の第一作である。あまりにも有名な作品なので、改めてストーリーを紹介する必要もないだろう。父と二人暮らしで婚期を逸しかけている娘がようやく結婚する物語である。娘を思う父は、自分が再婚すると偽って、娘を結婚に追いやる。言ってみればそれだけの話で、シンプルなことこの上ない。父を慕う娘と娘を思う父との繊細微妙な心理の動きがきめ細やかに映像化されている。プロットの展開といい、映像の流れといい、どこにも不自然なところはないように見える。
なので、これから書くことは、すべて私の独断と偏見に満ちた妄想かもしれない。
この映画のテーマは「永劫回帰」であり、隠されたモチーフは「蛇」である。
一分の隙もなく組み立てられた完璧な作品に対して、その一部を切り取って分析するのはどう見ても下品な行為のように思われるので、具体的な場面を取り上げるのは最小限にしたい。上記の「永劫回帰」と「蛇」の暗示は、まず、映画の導入部に登場する。
「北鎌倉」の駅を映した映像は、一転、寺の境内でお茶会が行われているシーンになる。着物姿の紀子が登場する。席に座った紀子に叔母のまさが話しかける。夫の縞のズボンを切り取って息子の半ズボンにしてほしい、と頼むのである。風呂敷に包んだものをその場で紀子に渡す。この後、周吉がまさの家で紀子の結婚について話すシーンがあるが、部屋の中に縞のシャツがハンガーに掛かっている。まさの夫は一度も画面に登場することはないが、縞模様が好みらしい。
お茶会の席に「三輪夫人」が登場するのも蛇を意識させる。まさと挨拶を交わす中年の女性の名前は後に明かされるのだが。ついでに言えば、この時紀子が着ている着物は鉄扇の模様である。あまり見かけない模様で花びらだけ描いているが、鉄扇はつる性の植物である。T.Sエリオットの「バーント・ノートン」という詩の中にも「身を屈め、からみつく」両義的な存在として登場する。
この他にも蛇を暗示する映像は枚挙にいとまがない。洗濯物干しに紀子のストッキングが吊るされている。「多喜川」という割烹に周吉が忘れた手袋を紀子が家に持って帰ってひらひらとかざすシーン。「多喜川」は「瀧川」なのだろうが。ストッキングも手袋も抜け殻のイメージである。京都の旅館で帰り支度をしている紀子が、ストッキングを2枚重ねてぐるっと裏返して一つにまとめるシーンもある。「蝦蟇口」を拾ったから紀子が縁談を承諾するだろうと言ってまさが縁起をかつぐシーン。曾宮家の玄関脇の部屋に置かれ、頻繁に画面の隅に登場するミシン。ボビン窯の形が似ていることから名づけられたと言われるその名もずばり「蛇の目」である。
蛇のモチーフが最も象徴的かつ重層的に用いられているのが、能「杜若」の舞台シーンである。延々六分ほど「杜若」の謡と舞が繰り広げられる。ここは原節子の眼の演技が有名であるが、謡と舞の舞台そのものにも注目してみたい。「杜若」は一幕もので短いが、伊勢物語の解説書のような内容で、かなり複雑である。『晩春』では後半部分が映像化されている。
植ゑおきしむかしの宿の杜若 色ばかりこそむかしなりけれ 色ばかりこそ昔なりけれ
色ばかりこそ 昔男の名を留めて 花橘の匂いうつる 菖蒲の鬘の 色はいずれ
似たりや似たり 杜若花菖蒲
こずゑに鳴くは 蝉のからころもの
袖白妙の 卯の花の雪の 夜も白々と 明くる東雲のあさ紫の
杜若の 花も悟りの心開けて すはや今こそ草木国土 すはや今こそ草木国土
縁語、懸詞を多用した技巧的な文句が続くので、文字に起こしても意味が分かりにくい。舞台上では朗々と謡われるので、なおさらなのだが、繰り返される「あやめ」「から衣」は蛇の隠語であったり脱皮のメタファーである。「卯の花」_ウツギも茎が中空であることから命名されたそうである。これも脱皮のイメージにつながるのだろうか。
シテの杜若の精は薄紫の衣裳をつけて演じることが多いようだが、この映画ではさらにその上に薄く透けて見えるものを重ねている。これは脱皮前の蛇のイメージとするのはあまりに強引だろうか。
シテの舞の映像は「花も悟りの心開けて」の部分で終わり、「すはや今こそ草木国土」以下は謡の音声だけで、画像は大きく梢を広げた松の木に変わる。もう一度「すはや今こそ草木国土」と繰り返される。杜若のシーンはここで終わり、「悉皆成仏の御法を得てこそ 失せにけれ」の結びの部分は音声も映像も映画の中には存在しない。悉皆成仏は成らなかったのである。
悉皆成仏は、蛇の寓意がさらに「安珍清姫」の伝承に具体化されなければ、成らなかった。安珍清姫の伝承は『大日本国法華経験記』『今昔物語』にその原形があるといわれる。熊野に参詣に来た僧安珍に宿を貸した清姫が恋慕し、逃げる安珍を追って蛇となって日高川を渡り、さらに道成寺の鐘の中に逃げ込んだ安珍を、清姫が口から吐いた炎で焼き殺してしまう話である。『大日本国経験記』『今昔物語』とも女は「紀伊の国牟婁の女」と記述されている。
女は「紀」子である。安珍清姫はともに蛇界に転生するが、道成寺の住持の唱える法華経の功徳で成仏する。住持の夢に現れた二人は熊野権現と観世音菩薩の姿であった。紀子のお見合いの相手が「佐竹熊太郎」というのも「熊野」を連想させたかったものと思われる。それでもまだ「成仏」は成らなかったように思われるのだが、
永劫回帰のテーマのについても書きたいが、すでにかなりの長文となってしまったので、また回を改めたい。ヒントをひとつ。冒頭大学教授の父とその助手が「リスト」という名前のスペルに「Z」があるとかないとか言っている。結論は、「z」はない、のである。それからラスト近く、周吉と紀子が京都を訪れて帰りの支度をしているとき、周吉が最後に旅行鞄に入れた本の題名は何だったろうか。
下品な謎解きはしたくない、などと言いながら、どう見ても上品とは言えない文章になってしまいました。謎解きのさらに奥にあるものが、まだ掴めていないのです。紀子_蛇_? 「叔父様の縞のズボンを半分に切って」履かされる勝義が、バットをエナメルで赤く塗ってしまって乾かないために、野球の試合に参加できない、というエピソードは何を意味するのか。その試合のシーンで、バッターボックスに立っている子だけがユニフォームを着ていないのはなぜか、など、(おそらく)どうでもいいことばかり気になってしまうのも、病膏肓なのかもしれません。
今日も未整理な文章を読んでくださってありがとうございました。
なので、これから書くことは、すべて私の独断と偏見に満ちた妄想かもしれない。
この映画のテーマは「永劫回帰」であり、隠されたモチーフは「蛇」である。
一分の隙もなく組み立てられた完璧な作品に対して、その一部を切り取って分析するのはどう見ても下品な行為のように思われるので、具体的な場面を取り上げるのは最小限にしたい。上記の「永劫回帰」と「蛇」の暗示は、まず、映画の導入部に登場する。
「北鎌倉」の駅を映した映像は、一転、寺の境内でお茶会が行われているシーンになる。着物姿の紀子が登場する。席に座った紀子に叔母のまさが話しかける。夫の縞のズボンを切り取って息子の半ズボンにしてほしい、と頼むのである。風呂敷に包んだものをその場で紀子に渡す。この後、周吉がまさの家で紀子の結婚について話すシーンがあるが、部屋の中に縞のシャツがハンガーに掛かっている。まさの夫は一度も画面に登場することはないが、縞模様が好みらしい。
お茶会の席に「三輪夫人」が登場するのも蛇を意識させる。まさと挨拶を交わす中年の女性の名前は後に明かされるのだが。ついでに言えば、この時紀子が着ている着物は鉄扇の模様である。あまり見かけない模様で花びらだけ描いているが、鉄扇はつる性の植物である。T.Sエリオットの「バーント・ノートン」という詩の中にも「身を屈め、からみつく」両義的な存在として登場する。
この他にも蛇を暗示する映像は枚挙にいとまがない。洗濯物干しに紀子のストッキングが吊るされている。「多喜川」という割烹に周吉が忘れた手袋を紀子が家に持って帰ってひらひらとかざすシーン。「多喜川」は「瀧川」なのだろうが。ストッキングも手袋も抜け殻のイメージである。京都の旅館で帰り支度をしている紀子が、ストッキングを2枚重ねてぐるっと裏返して一つにまとめるシーンもある。「蝦蟇口」を拾ったから紀子が縁談を承諾するだろうと言ってまさが縁起をかつぐシーン。曾宮家の玄関脇の部屋に置かれ、頻繁に画面の隅に登場するミシン。ボビン窯の形が似ていることから名づけられたと言われるその名もずばり「蛇の目」である。
蛇のモチーフが最も象徴的かつ重層的に用いられているのが、能「杜若」の舞台シーンである。延々六分ほど「杜若」の謡と舞が繰り広げられる。ここは原節子の眼の演技が有名であるが、謡と舞の舞台そのものにも注目してみたい。「杜若」は一幕もので短いが、伊勢物語の解説書のような内容で、かなり複雑である。『晩春』では後半部分が映像化されている。
植ゑおきしむかしの宿の杜若 色ばかりこそむかしなりけれ 色ばかりこそ昔なりけれ
色ばかりこそ 昔男の名を留めて 花橘の匂いうつる 菖蒲の鬘の 色はいずれ
似たりや似たり 杜若花菖蒲
こずゑに鳴くは 蝉のからころもの
袖白妙の 卯の花の雪の 夜も白々と 明くる東雲のあさ紫の
杜若の 花も悟りの心開けて すはや今こそ草木国土 すはや今こそ草木国土
縁語、懸詞を多用した技巧的な文句が続くので、文字に起こしても意味が分かりにくい。舞台上では朗々と謡われるので、なおさらなのだが、繰り返される「あやめ」「から衣」は蛇の隠語であったり脱皮のメタファーである。「卯の花」_ウツギも茎が中空であることから命名されたそうである。これも脱皮のイメージにつながるのだろうか。
シテの杜若の精は薄紫の衣裳をつけて演じることが多いようだが、この映画ではさらにその上に薄く透けて見えるものを重ねている。これは脱皮前の蛇のイメージとするのはあまりに強引だろうか。
シテの舞の映像は「花も悟りの心開けて」の部分で終わり、「すはや今こそ草木国土」以下は謡の音声だけで、画像は大きく梢を広げた松の木に変わる。もう一度「すはや今こそ草木国土」と繰り返される。杜若のシーンはここで終わり、「悉皆成仏の御法を得てこそ 失せにけれ」の結びの部分は音声も映像も映画の中には存在しない。悉皆成仏は成らなかったのである。
悉皆成仏は、蛇の寓意がさらに「安珍清姫」の伝承に具体化されなければ、成らなかった。安珍清姫の伝承は『大日本国法華経験記』『今昔物語』にその原形があるといわれる。熊野に参詣に来た僧安珍に宿を貸した清姫が恋慕し、逃げる安珍を追って蛇となって日高川を渡り、さらに道成寺の鐘の中に逃げ込んだ安珍を、清姫が口から吐いた炎で焼き殺してしまう話である。『大日本国経験記』『今昔物語』とも女は「紀伊の国牟婁の女」と記述されている。
女は「紀」子である。安珍清姫はともに蛇界に転生するが、道成寺の住持の唱える法華経の功徳で成仏する。住持の夢に現れた二人は熊野権現と観世音菩薩の姿であった。紀子のお見合いの相手が「佐竹熊太郎」というのも「熊野」を連想させたかったものと思われる。それでもまだ「成仏」は成らなかったように思われるのだが、
永劫回帰のテーマのについても書きたいが、すでにかなりの長文となってしまったので、また回を改めたい。ヒントをひとつ。冒頭大学教授の父とその助手が「リスト」という名前のスペルに「Z」があるとかないとか言っている。結論は、「z」はない、のである。それからラスト近く、周吉と紀子が京都を訪れて帰りの支度をしているとき、周吉が最後に旅行鞄に入れた本の題名は何だったろうか。
下品な謎解きはしたくない、などと言いながら、どう見ても上品とは言えない文章になってしまいました。謎解きのさらに奥にあるものが、まだ掴めていないのです。紀子_蛇_? 「叔父様の縞のズボンを半分に切って」履かされる勝義が、バットをエナメルで赤く塗ってしまって乾かないために、野球の試合に参加できない、というエピソードは何を意味するのか。その試合のシーンで、バッターボックスに立っている子だけがユニフォームを着ていないのはなぜか、など、(おそらく)どうでもいいことばかり気になってしまうのも、病膏肓なのかもしれません。
今日も未整理な文章を読んでくださってありがとうございました。
2018年6月10日日曜日
小津安二郎『麦秋』の謎__不思議な家族とその解体__一粒の麦地に落ちて死なずんば
『麦秋』は日本の家族の解体していく様を描いた小津安二郎監督の記念碑的な作品、という評価が定まっているようである。きっと、そうなのだろう。けれど、見終わってどうしても腑に落ちないものが残ってしまう。親子三世代で暮らしている一家が、その中の娘が結婚することで、なぜ両親が家を出ていかなければならないのか。そもそも、三世代が住んでいる家は誰のものなのか。
テーマ音楽とともに流れたクレジットが終わると、波うち際に一匹の犬が登場して画面を横切っていく。犬が画面の右側に消えても、波が寄せては返す砂浜が映る。画面の左側にに遠近三つの入り江のようなものが映っている。冒頭のこのシーンは何を意味するのだろうか。
次に映しだされるのは、軒先に吊るされた鳥かごである。小鳥が一羽入っている。カナリアだということが後半明かされる。鳥かごは軒先だけでなく、家の中のあちこちに置かれている。座敷のなかで鳥の餌を摺っている老人が登場する。「埴生の宿_(ホーム・・スウィート・ホーム)」の音楽が流れる。小学生くらいの男の子が「おじいちゃん、ご飯」と呼びに来る。間宮周吉と孫の実である。
食卓で給仕をしているのが周吉の娘の紀子で、実の弟の勇もいる。こちらはまだ学校に上がる前の歳である。すでに食事をすませて外出の支度をしているのが周吉の息子で紀子の兄の康一、大学病院の医師である。周吉のご飯を給仕に食卓に座ったのは康一の妻の史子、最後に味噌汁の入った大鍋をもって来たのが周吉の妻の志げという順番で、これが間宮家の紹介となっている導入部である。
外出着に前掛けという姿で給仕をしていた紀子も出勤していく。周吉は原稿の入った封筒を投函するように紀子に頼んでいるので、何かものを書いているのだろうか。紀子は丸の内(あるいは大手町?)の大手商社に勤めている。佐竹宗一郎という専務の秘書である。重役室でタイプを打っている紀子の上半身と指先が映され、次いで佐竹が部屋に入ってくる。佐竹と紀子が仕事の打ち合わせの会話を済ませた後に、ドアをノックして着物姿の若い女が現れる。佐竹が行きつけの料亭の娘で紀子の女学校の友人田村アヤである。紀子とアヤを前にして、「売れ残りが二人」と佐竹が軽口をたたくところなどから、三人はかなり親しい間柄のようである。
北鎌倉の間宮家に「やまとのおじいさま」がやってくる。間宮周吉の兄の茂吉である。終戦の翌年以来の上京である。耳が遠い茂吉との会話は常に一方通行である。彼が繰り返す言葉は「紀子さん、いくつになんなすった?」と「もう嫁にいかにゃ」であり、「若いものがなかなかようやりおる。年寄りがいつまでも邪魔してることない」である。紀子の結婚と一家の別離は「大和のおじいさま」の指示通りになったのである。
二八歳になった紀子に二つの縁談が持ち込まれるが、彼女は結局康一の部下の矢部謙吉という男との結婚を決意する。矢部は妻に先立たれ小さな女の子をかかえて、母親と一緒に間宮家の近くに住んでいる。謙吉は康一の紹介で秋田の病院に赴任することが決まる。紀子が間宮家からの餞別を届けに矢部の家を訪れた際に、謙吉の母親から恐る恐る謙吉との結婚を打診されると、彼女はあっさり「私のようなものでよかったら」と承諾してしまう。謙吉の母親は狂喜するが、不思議なことに謙吉はあまり嬉しくないようである。
紀子が謙吉との結婚を決意したのは、謙吉が消息不明(たぶん戦死している)の兄省二の手紙を持っているからである。恋愛感情があると思えない紀子と謙吉をつなぐのは麦の穂の入った省二の手紙なのだ。
麦の穂が入った手紙には何が書かれていたのだろう。ニコライ堂が見える喫茶店の窓際の席で謙吉と紀子が会話するシーンがある。この映画の「不思議」を読み解く上で大変重要な場面だと思うので、なるべく忠実に二人のセリフを再現してみたい。
__昔学生時分よく省二君ときたんですよ、ここへ。で、いつもここに座ったんですよ。やっぱり、あの額がかかってた。
額を見上げる紀子
__早いもんだなぁ。
____そうねぇ。よく喧嘩もしたけど、あたし省(二)兄さんとても好きだった。
__あ、省二君の手紙があるんです。徐州戦の時、向こうから軍事郵便で来て、中に麦の穂が入っていたんです。
紀子の表情が一変する。
__その時分、ちょうどぼくは『麦と兵隊』読んでて・・・
__その手紙いただけない?
__あげますよ。あげようと思ってたんだ。
__ちょうだい。
徐州会戦は日本軍と中国(国民革命)軍との間で一九三八年四月七日から六月七日にかけて行われ、日本は南北から攻め、五月一九日に徐州を占領したが、国民革命軍を撃滅させることはできなかった。少し不思議なのは、『麦と兵隊』は徐州戦に従軍した日野葦平が、その経験をドキュメンタリーのようなかたちで、一九三八年八月に発表している。謙吉のもとに「徐州戦の時、軍事郵便で来た」手紙というのはいつ書かれ、いつ謙吉のもとに届いたのだろうか。そのとき謙吉はどこにいたのだろう。軍事郵便なので、配達に相当の日数を要するものだったとは思うが、「その時分、ちょうど僕は『麦と兵隊』読んでて・・・」という謙吉の言葉と時間的な整合性がもうひとつ納得できないのである。
紀子と謙吉の会話からわかることは、兄の省二は少なくとも徐州会戦のときは生存していた、ということ、そして、中身の検閲される軍事郵便で送る手紙に麦の穂を同封してきた、ということである。手紙の内容でなく、麦の穂が入っていたことが紀子にとって重要だったのだ。
麦の穂は、いうまでもなく日野葦平の『麦と兵隊』の舞台となる徐州一帯の麦畑を連想させるが、手紙の中にわざわざ麦の穂を入れてきたということは、麦の穂それ自体が、書かれている内容よりもはるかに強いメッセージだろう。「一粒の麦、地に落ちて死なずんば」である。十字架の死を前に、イエスが弟子に語った有名なことばである。
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。__ヨハネによる福音書12章24節
戦地の省二が、目前にある死にどのような意味付けをしていたのか、麦の穂は確実なメッセージとなって、謙吉に、そして紀子に省二の思いを伝えたのである。喫茶店の窓際の席で、かつて省二と謙吉が、いまは紀子と謙吉が見ているニコライ堂の正式名称は東京復活大聖堂である。麦の穂は復活のキリストの象徴であり、正教会の信徒を意味するものでもある。
この映画の中には麦の穂からつくられる食べ物がいくつも登場する。最も印象的なのは、紀子が謙吉との結婚を承諾してくれて狂喜する謙吉の母が、「あたしもうすっかり安心しちゃった」と泣き笑いしながら、「紀子さん、パン食べない?餡パン」と誘う場面である。なぜ、唐突に餡パンなのか?節子は笑ってことわるのだが。また、間宮家に子供たちが集まってレールを並べて遊んでいるところに、紀子が大量のサンドイッチを持ってくるシーンもある。敗戦後六年しか経っていないのに、なんという贅沢なふるまいか、と驚いてしまう。
間宮周吉と志げの夫婦がサンドイッチを食べるシーンもある。昼下がり、博物館の庭で二人並んで座って話しながらサンドイッチを食べている。周吉は「今が一番いい時だ」と言う。「まだこれからだって」と言う志げに周吉は「欲を言ったらきりがないよ」と諭す。結末の別離を暗示するような場面である。糸の切れた風船が空高く舞い上がっているのを二人が眺めている。「今日はいい日曜日だった」と周吉が曜日を特定するのは何か意味があるのだろうか。それから、些細なことだけれど、周吉の履いている靴が古びてみすぼらしいのはなぜだろうか。
パンとレールといえば、八本しかレールを持っていないからもっとほしい、32ゲージ(のもの)だよ、と父親におねだりしていた実が、レールだと思っていたお土産がパンだと知って、腹を立ててパンを蹴るシーンがある。実が父親に見つかって、もみあっているうちに、勇が隙を見てもう一回蹴ると、あっけなくパンが二つに割れてしまう。ずいぶん長いパンもあるものだな、と思って見ていたが、パンがそんなに簡単に割れるものだろうか?カメラはアップで半分に割れたパンをとらえて強調しているのだが、なんだかこれも不思議である。
「九百円もした」(今の金額に換算すると1万円以上)豪勢なショートケーキを深夜に紀子と史子、それに後から謙吉も加わって食べるシーンもある。これが不思議なのは、矯めつ眇めつ、散々迷って紀子が切り分けたケーキを三人で食べているところに、実が寝ぼけて入ってくる。すると、三人ともいっせいにケーキをテーブルの下に隠してしまう。絶対に食べさせないぞ、という意気込みである。
パンとケーキだけでなく、この映画にはものを食べるシーンが多い。冒頭の導入の部分も間宮家の朝食の光景だったが、ラスト近くにもすき焼き鍋のようなものを囲んで一家が食事をする場面がある。紀子の結婚が決まった祝賀の宴のようだが、一家の別離の宴のようでもある。鍋を直火に当てるためか、食卓の上でなく床に直接食器が置かれている。気がつくと、家中から鳥かごが取り払われ、カナリアがいなくなっている。
食事が終わって、みんながくつろいでいるとき、周吉が口火を切って一家の回想を始める。「このうちに来てからだって足かけ十六年になるものねぇ」と周吉が言うと志げが「紀ちゃんが小学校を出た春でしたからねぇ」と続ける。康一が煙草を指にはさんで、「こんなところにちょこんとリボンなんかつけて、よく『雨降りお月さん』なんか歌ってましたよ」と言う。
何でもない会話のようだが、ここは重要な情報がもたらされる場面である。十六年前周吉と志げはどこに住んでいたのか?紀子は周吉や志げと一緒にこの家に移り住んだのか?それとも、もともとこの家にいたのか?この家は十六年前は誰のものだったのだろう?大学を出て間もない康一に、こんなに立派な家を建てる甲斐性があったとは思えないのだけれど。
それから、小学校を出た女の子、つまり中学生になる少女が『雨降りお月さん』という童謡をよく歌う、というのもちょっと違和感がある。この映画に出てくるいくつかの固有名詞は、それぞれ重要な意味を潜めていると思われる。『麦と兵隊』は言うまでもないが、「妻の死後本ばかり読んでいる」と母親のたみにいわれる謙吉が「いま四巻目の半分まで読んだ」という『チボー家の人々』、「省二がスマトラに行く前に(省二や謙吉と一緒に)みんなで行った」とアヤが言う「城ヶ島」、紀子のお見合い相手だった真鍋(?)という男の出身地の「善通寺」、導入とラスト近く流れる『埴生の宿』など、いずれも代替可能なものではなく、それらをつなぐキーワードが隠されているような気がしてならない。
それにしても不思議な家族である。息子の康一が医師であることは明らかだが、父親の周吉は何をしている人なのだろう。机に向かって脇に分厚い本を置きながらものを書いているシーンがあって、冒頭でも紀子に原稿の入った封筒を渡していたが、物書きなのだろうか。
ラストは「やまと」の光景である。麦畑が手前にあって、その向こうにこんもりとした山が見え、山の麓に家並みが見える。画面が三回切り替わって、藁ぶきの屋根、そして「やまとのおじいさま」が煙管をふかしている座敷が映される。整然としたというか閑散としたというか、その座敷の続きに囲炉裏が切ってあり、志げが大きな急須でお茶を入れて周吉に渡す。「おい、ちょいと見てご覧、お嫁さんが行くよ」と周吉が言うと、麦畑の中を花嫁行列が通り過ぎていく画面に代わる。一行は八人で、よく晴れた日のようだが、花嫁に黒っぽい傘がさしかけられている。
「どんなところに片付くんでしょうねぇ」と志げが言う。花嫁行列を眺める二人の後ろ姿をカメラがとらえる。別離の宴からそんなに時間は経っていないと思われるのに、周吉の背中は丸くなり、志げはモンペを履いて粗末な帯を締めている。「みんな離れ離れになったけど、しかしまぁ、私たちはいい方だよ。欲をいっちゃぁ切りがないよ」と周吉が言うと志げも「えぇ、いろんなことがあって…長い間、ほんとうに幸せでした」とこたえる。志げはお茶をすすり、遠くを眺めるような目をしている。その表情はしずかに諦めの色をたたえている。
画面はもう一度麦畑を映す。遠くに家並みが見え、手前に麦の穂が揺れている。テーマ音楽が最高潮に達し、エンディングとなる。タイトルの「麦秋」そのものだが、不思議なことに、手前に揺れる麦のかたちが人間の、それも兵隊のように見え、大勢の兵隊が手を振っているように見えてしまうのだ。
ほんとうに不思議な映画だと思うが、一番不思議なのは、紀子が上司の佐竹と盃を交わすシーンかもしれない。アヤの母親の経営する料亭で、一人で酒を飲んでいた佐竹の部屋を訪れた紀子が佐竹の飲んでいた盃を受け取って、彼がついでくれた酒を飲む。後ろ姿のすべてが紀子の女を表現しているのだが、紀子とはいったい何なのか。
『秋刀魚の味』の続きを書こうと思っていたのですが、『麦秋』の魅惑的な謎にはまってしまいました。もっと集中しなければいけないのですが、力不足を痛感しています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
テーマ音楽とともに流れたクレジットが終わると、波うち際に一匹の犬が登場して画面を横切っていく。犬が画面の右側に消えても、波が寄せては返す砂浜が映る。画面の左側にに遠近三つの入り江のようなものが映っている。冒頭のこのシーンは何を意味するのだろうか。
次に映しだされるのは、軒先に吊るされた鳥かごである。小鳥が一羽入っている。カナリアだということが後半明かされる。鳥かごは軒先だけでなく、家の中のあちこちに置かれている。座敷のなかで鳥の餌を摺っている老人が登場する。「埴生の宿_(ホーム・・スウィート・ホーム)」の音楽が流れる。小学生くらいの男の子が「おじいちゃん、ご飯」と呼びに来る。間宮周吉と孫の実である。
食卓で給仕をしているのが周吉の娘の紀子で、実の弟の勇もいる。こちらはまだ学校に上がる前の歳である。すでに食事をすませて外出の支度をしているのが周吉の息子で紀子の兄の康一、大学病院の医師である。周吉のご飯を給仕に食卓に座ったのは康一の妻の史子、最後に味噌汁の入った大鍋をもって来たのが周吉の妻の志げという順番で、これが間宮家の紹介となっている導入部である。
外出着に前掛けという姿で給仕をしていた紀子も出勤していく。周吉は原稿の入った封筒を投函するように紀子に頼んでいるので、何かものを書いているのだろうか。紀子は丸の内(あるいは大手町?)の大手商社に勤めている。佐竹宗一郎という専務の秘書である。重役室でタイプを打っている紀子の上半身と指先が映され、次いで佐竹が部屋に入ってくる。佐竹と紀子が仕事の打ち合わせの会話を済ませた後に、ドアをノックして着物姿の若い女が現れる。佐竹が行きつけの料亭の娘で紀子の女学校の友人田村アヤである。紀子とアヤを前にして、「売れ残りが二人」と佐竹が軽口をたたくところなどから、三人はかなり親しい間柄のようである。
北鎌倉の間宮家に「やまとのおじいさま」がやってくる。間宮周吉の兄の茂吉である。終戦の翌年以来の上京である。耳が遠い茂吉との会話は常に一方通行である。彼が繰り返す言葉は「紀子さん、いくつになんなすった?」と「もう嫁にいかにゃ」であり、「若いものがなかなかようやりおる。年寄りがいつまでも邪魔してることない」である。紀子の結婚と一家の別離は「大和のおじいさま」の指示通りになったのである。
二八歳になった紀子に二つの縁談が持ち込まれるが、彼女は結局康一の部下の矢部謙吉という男との結婚を決意する。矢部は妻に先立たれ小さな女の子をかかえて、母親と一緒に間宮家の近くに住んでいる。謙吉は康一の紹介で秋田の病院に赴任することが決まる。紀子が間宮家からの餞別を届けに矢部の家を訪れた際に、謙吉の母親から恐る恐る謙吉との結婚を打診されると、彼女はあっさり「私のようなものでよかったら」と承諾してしまう。謙吉の母親は狂喜するが、不思議なことに謙吉はあまり嬉しくないようである。
紀子が謙吉との結婚を決意したのは、謙吉が消息不明(たぶん戦死している)の兄省二の手紙を持っているからである。恋愛感情があると思えない紀子と謙吉をつなぐのは麦の穂の入った省二の手紙なのだ。
麦の穂が入った手紙には何が書かれていたのだろう。ニコライ堂が見える喫茶店の窓際の席で謙吉と紀子が会話するシーンがある。この映画の「不思議」を読み解く上で大変重要な場面だと思うので、なるべく忠実に二人のセリフを再現してみたい。
__昔学生時分よく省二君ときたんですよ、ここへ。で、いつもここに座ったんですよ。やっぱり、あの額がかかってた。
額を見上げる紀子
__早いもんだなぁ。
____そうねぇ。よく喧嘩もしたけど、あたし省(二)兄さんとても好きだった。
__あ、省二君の手紙があるんです。徐州戦の時、向こうから軍事郵便で来て、中に麦の穂が入っていたんです。
紀子の表情が一変する。
__その時分、ちょうどぼくは『麦と兵隊』読んでて・・・
__その手紙いただけない?
__あげますよ。あげようと思ってたんだ。
__ちょうだい。
徐州会戦は日本軍と中国(国民革命)軍との間で一九三八年四月七日から六月七日にかけて行われ、日本は南北から攻め、五月一九日に徐州を占領したが、国民革命軍を撃滅させることはできなかった。少し不思議なのは、『麦と兵隊』は徐州戦に従軍した日野葦平が、その経験をドキュメンタリーのようなかたちで、一九三八年八月に発表している。謙吉のもとに「徐州戦の時、軍事郵便で来た」手紙というのはいつ書かれ、いつ謙吉のもとに届いたのだろうか。そのとき謙吉はどこにいたのだろう。軍事郵便なので、配達に相当の日数を要するものだったとは思うが、「その時分、ちょうど僕は『麦と兵隊』読んでて・・・」という謙吉の言葉と時間的な整合性がもうひとつ納得できないのである。
紀子と謙吉の会話からわかることは、兄の省二は少なくとも徐州会戦のときは生存していた、ということ、そして、中身の検閲される軍事郵便で送る手紙に麦の穂を同封してきた、ということである。手紙の内容でなく、麦の穂が入っていたことが紀子にとって重要だったのだ。
麦の穂は、いうまでもなく日野葦平の『麦と兵隊』の舞台となる徐州一帯の麦畑を連想させるが、手紙の中にわざわざ麦の穂を入れてきたということは、麦の穂それ自体が、書かれている内容よりもはるかに強いメッセージだろう。「一粒の麦、地に落ちて死なずんば」である。十字架の死を前に、イエスが弟子に語った有名なことばである。
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。__ヨハネによる福音書12章24節
戦地の省二が、目前にある死にどのような意味付けをしていたのか、麦の穂は確実なメッセージとなって、謙吉に、そして紀子に省二の思いを伝えたのである。喫茶店の窓際の席で、かつて省二と謙吉が、いまは紀子と謙吉が見ているニコライ堂の正式名称は東京復活大聖堂である。麦の穂は復活のキリストの象徴であり、正教会の信徒を意味するものでもある。
この映画の中には麦の穂からつくられる食べ物がいくつも登場する。最も印象的なのは、紀子が謙吉との結婚を承諾してくれて狂喜する謙吉の母が、「あたしもうすっかり安心しちゃった」と泣き笑いしながら、「紀子さん、パン食べない?餡パン」と誘う場面である。なぜ、唐突に餡パンなのか?節子は笑ってことわるのだが。また、間宮家に子供たちが集まってレールを並べて遊んでいるところに、紀子が大量のサンドイッチを持ってくるシーンもある。敗戦後六年しか経っていないのに、なんという贅沢なふるまいか、と驚いてしまう。
間宮周吉と志げの夫婦がサンドイッチを食べるシーンもある。昼下がり、博物館の庭で二人並んで座って話しながらサンドイッチを食べている。周吉は「今が一番いい時だ」と言う。「まだこれからだって」と言う志げに周吉は「欲を言ったらきりがないよ」と諭す。結末の別離を暗示するような場面である。糸の切れた風船が空高く舞い上がっているのを二人が眺めている。「今日はいい日曜日だった」と周吉が曜日を特定するのは何か意味があるのだろうか。それから、些細なことだけれど、周吉の履いている靴が古びてみすぼらしいのはなぜだろうか。
パンとレールといえば、八本しかレールを持っていないからもっとほしい、32ゲージ(のもの)だよ、と父親におねだりしていた実が、レールだと思っていたお土産がパンだと知って、腹を立ててパンを蹴るシーンがある。実が父親に見つかって、もみあっているうちに、勇が隙を見てもう一回蹴ると、あっけなくパンが二つに割れてしまう。ずいぶん長いパンもあるものだな、と思って見ていたが、パンがそんなに簡単に割れるものだろうか?カメラはアップで半分に割れたパンをとらえて強調しているのだが、なんだかこれも不思議である。
「九百円もした」(今の金額に換算すると1万円以上)豪勢なショートケーキを深夜に紀子と史子、それに後から謙吉も加わって食べるシーンもある。これが不思議なのは、矯めつ眇めつ、散々迷って紀子が切り分けたケーキを三人で食べているところに、実が寝ぼけて入ってくる。すると、三人ともいっせいにケーキをテーブルの下に隠してしまう。絶対に食べさせないぞ、という意気込みである。
パンとケーキだけでなく、この映画にはものを食べるシーンが多い。冒頭の導入の部分も間宮家の朝食の光景だったが、ラスト近くにもすき焼き鍋のようなものを囲んで一家が食事をする場面がある。紀子の結婚が決まった祝賀の宴のようだが、一家の別離の宴のようでもある。鍋を直火に当てるためか、食卓の上でなく床に直接食器が置かれている。気がつくと、家中から鳥かごが取り払われ、カナリアがいなくなっている。
食事が終わって、みんながくつろいでいるとき、周吉が口火を切って一家の回想を始める。「このうちに来てからだって足かけ十六年になるものねぇ」と周吉が言うと志げが「紀ちゃんが小学校を出た春でしたからねぇ」と続ける。康一が煙草を指にはさんで、「こんなところにちょこんとリボンなんかつけて、よく『雨降りお月さん』なんか歌ってましたよ」と言う。
何でもない会話のようだが、ここは重要な情報がもたらされる場面である。十六年前周吉と志げはどこに住んでいたのか?紀子は周吉や志げと一緒にこの家に移り住んだのか?それとも、もともとこの家にいたのか?この家は十六年前は誰のものだったのだろう?大学を出て間もない康一に、こんなに立派な家を建てる甲斐性があったとは思えないのだけれど。
それから、小学校を出た女の子、つまり中学生になる少女が『雨降りお月さん』という童謡をよく歌う、というのもちょっと違和感がある。この映画に出てくるいくつかの固有名詞は、それぞれ重要な意味を潜めていると思われる。『麦と兵隊』は言うまでもないが、「妻の死後本ばかり読んでいる」と母親のたみにいわれる謙吉が「いま四巻目の半分まで読んだ」という『チボー家の人々』、「省二がスマトラに行く前に(省二や謙吉と一緒に)みんなで行った」とアヤが言う「城ヶ島」、紀子のお見合い相手だった真鍋(?)という男の出身地の「善通寺」、導入とラスト近く流れる『埴生の宿』など、いずれも代替可能なものではなく、それらをつなぐキーワードが隠されているような気がしてならない。
それにしても不思議な家族である。息子の康一が医師であることは明らかだが、父親の周吉は何をしている人なのだろう。机に向かって脇に分厚い本を置きながらものを書いているシーンがあって、冒頭でも紀子に原稿の入った封筒を渡していたが、物書きなのだろうか。
ラストは「やまと」の光景である。麦畑が手前にあって、その向こうにこんもりとした山が見え、山の麓に家並みが見える。画面が三回切り替わって、藁ぶきの屋根、そして「やまとのおじいさま」が煙管をふかしている座敷が映される。整然としたというか閑散としたというか、その座敷の続きに囲炉裏が切ってあり、志げが大きな急須でお茶を入れて周吉に渡す。「おい、ちょいと見てご覧、お嫁さんが行くよ」と周吉が言うと、麦畑の中を花嫁行列が通り過ぎていく画面に代わる。一行は八人で、よく晴れた日のようだが、花嫁に黒っぽい傘がさしかけられている。
「どんなところに片付くんでしょうねぇ」と志げが言う。花嫁行列を眺める二人の後ろ姿をカメラがとらえる。別離の宴からそんなに時間は経っていないと思われるのに、周吉の背中は丸くなり、志げはモンペを履いて粗末な帯を締めている。「みんな離れ離れになったけど、しかしまぁ、私たちはいい方だよ。欲をいっちゃぁ切りがないよ」と周吉が言うと志げも「えぇ、いろんなことがあって…長い間、ほんとうに幸せでした」とこたえる。志げはお茶をすすり、遠くを眺めるような目をしている。その表情はしずかに諦めの色をたたえている。
画面はもう一度麦畑を映す。遠くに家並みが見え、手前に麦の穂が揺れている。テーマ音楽が最高潮に達し、エンディングとなる。タイトルの「麦秋」そのものだが、不思議なことに、手前に揺れる麦のかたちが人間の、それも兵隊のように見え、大勢の兵隊が手を振っているように見えてしまうのだ。
ほんとうに不思議な映画だと思うが、一番不思議なのは、紀子が上司の佐竹と盃を交わすシーンかもしれない。アヤの母親の経営する料亭で、一人で酒を飲んでいた佐竹の部屋を訪れた紀子が佐竹の飲んでいた盃を受け取って、彼がついでくれた酒を飲む。後ろ姿のすべてが紀子の女を表現しているのだが、紀子とはいったい何なのか。
『秋刀魚の味』の続きを書こうと思っていたのですが、『麦秋』の魅惑的な謎にはまってしまいました。もっと集中しなければいけないのですが、力不足を痛感しています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2018年5月14日月曜日
大佛次郎と小津安二郎の『宗方姉妹』__消された「戦争」
インターネットで『宗方姉妹』と検索すると、ほとんどすべて小津安二郎監督の映画がヒットする。大仏次郎の原作について書かれたものはほとんどない。一九五〇年に初版が出て、その後二社から文庫本も出ているのに、なぜかいまは忘れ去られた存在のようである。原作は一九四九年六月から十二月にかけて朝日新聞に連載された家庭小説で、連載終了から半年余りで映画が公開されている。連載と同時並行で映画が構想されていったのだろうか。だが、それにしては、原作と映画はかなり異なったものになっている。
大佛次郎の原作は、戦後日本の社会の様相を登場人物の行動と心理を通して描く群像小説である。満州国の高級官僚だった父親の宗方忠親、娘の節子、満里子、節子の夫三村亮助、忠親の年少の友人田村宏、田村の愛人の真下頼子が中心である。忠親は公職追放の身で癌に冒されている。満州で特権階級だった一家は何もかも失った。満州の原野を文明都市に変貌させる夢を描いていた技師の三村も失業している。生活のすべがない一家は、切り売りも底をついてしまったため、節子の友人の恵美子の斡旋で酒場を始める。
軌道に乗ったかのように見えた酒場だったが、美恵子が自分についていたお客を連れて別の場所で新たに酒場を始めてしまったため、水商売に不慣れな節子は途方に暮れる。 窮境にあった節子を救ったのは、忠親の友人で節子の初恋の相手だった田代宏だった。宏はパリに留学し、戦後は神戸で高級家具の製作、輸入販売を手掛けて成功していた。彼の提案で、節子は酒場を昼の間画廊にする。作品は宏と交流のある画家たちが提供してくれて、画廊は幸先良いスタートをきる。
画廊の仕事は、節子と宏を急速に接近させた。かつて、お互いに好意以上のものを感じながら口に出せなかった二人は 、十年の歳月を経て頻繁に会う機会を得る。上京した宏と節子がいつものように語らいながら歩いていたときに、節子の夫の三村と鉢合わせしてしまう。帽子を脱いで「やあ!」と大声で挨拶して通り過ぎた三村の態度を二人に対する侮辱と受け止めた節子と宏は宏の宿で結ばれそうになる。だが、京都にいる節子の父に今から報告に行こう、という宏の言葉に、節子ははっと、我に返ったかのように踏みとどまるのだ。そんなことをすれば、病に弱った父が死んでしまう、と。映画と違って原作では、節子は父が癌であることは知らされていないのだが。
「時が来たら、もう、僕らは離れない」「もっと、もっときれいにして待ちましょう」と宏は言って、節子の生活は何事もなかったかのように続いた。そして、数日後、三村の新しい仕事が決まった。勤めにでている節子に置手紙をして、三村は夜行で京都の忠親に報告に向かう。翌日、仕事仲間と飲んで、泥酔状態で帰った三村は忠親の住まいの二階で急死してしまう。
三村の死に対して自責の念を捨てきれない節子は、宏への思いを断ち切る手紙を書いて別れを告げる。書留速達で着いた手紙を読んだ宏が酒場で泣き崩れるのを、かつて愛人だった真下頼子が「可哀想に、苦労して。」と静かに見まもるところで原作は終わる。
『宗方姉妹』というタイトルだが、原作は姉妹を中心に、というよりそれぞれの登場人物を描き分けて、混乱した世相を写しだそうとしている。余命いくばくもないことを宣告された父の忠親は、人生を諦観しているが、自分より若い人間を死なせてしまったことに後ろめたさを感じている。娘の節子はしっかり者だが受動的な人間である。節子の妹の満里子は「忠親が満州に赴任して生まれたことにちなんで名づけられた」とあって、進取の気質に富んで積極的である。節子の夫の三村は、ここが映画ともっとも異なる部分だが、粗野ではあるが、情に厚く、貧乏はしているけれど面倒見のいい人間として描かれている。
節子が想いを寄せていた田代宏は、経済力は身につけたが、優柔不断なところがあって、結局は想いを成就させることができない。宏とフランスで知り合った真下頼子は、戦争未亡人だが父親から証券会社の経営を受け継いで、裕福で洗練された大人の女として描かれている。頼子は、宏のなかに節子への断ち切れない思いがあるのを知って、みずから身を引く。映画と違って、原作は頼子の内側に入り込んで、彼女の側から宏と節子、そして満里子を見ている。
宗方一家は落魄しているが、それでも「雨の漏らない」家に住むことができる中産階級である。生活に困って、お嬢さん育ちの節子が酒場を開くことになったが、そんな彼らを批判的に眺めながらも支える立場の人間として、丹波の山奥から上京してきた前島という青年が登場する。映画では節子の酒場のバーテンで元特攻ということになっているが、原作は普通の兵隊上がりで、運送会社に勤めている。上京するときに山椒魚を生け捕りにして持ってきたというエピソードがある。一杯飲み屋で知り合った三村の誘いで節子の家に住んで一家の下働きもしている。登場人物のなかで、まったくの庶民階級は彼一人だ。彼の目で見ると節子たちは遊んで暮らしているようなのである。
「生活ったら、お嬢さん」と前島は満里子にいう。「もっと、自分で汗をかくことでしょう。東京のひとは、まだ、それをごまかしているように見えるのかね。それで、わしなんかにはあぶなつかしく見えるのかね。」と前島は批判するのだが、そうじて作者は宗方一族に寄り添ってストーリーを展開していく。生活に困るといっても、萬里子はバレーのレッスンに通ったり、姉妹は関西と東京を行ったり来たりして、お寺巡りをする余裕がある。敗戦後四年しか経っていないのに、庶民から見れば夢のような暮らしができるのだ。
この他、原作には、戦時中諜報の仕事をしていて、いまは人の秘密を嗅ぎまわることをメシの種にしている平岩哲三という男も登場するのだが、映画は完全に省略している。平岩の存在だけでなく、小津安二郎の『宗方姉妹』に戦争の影はまったくない。登場人物の原作と比べてかなりデフォルメされた性格と行動が織りなす愛憎の世界に焦点を絞って、プロットも一部改ざんしながら思い切って単純化している。
焦点となるのは、節子と三村の夫婦関係である。映画の中の三村は、たんにアルコールで人格を崩壊された狂人として描かれている。節子の若いころの日記を読んでから、宏と節子の関係を疑い始め、宏に急場を救ってもらった節子を打擲する場面がある。それまで、何をいわれても気丈に耐え献身的に三村に尽くしてきた節子が七回も打たれて、覚悟を決めなおす場面がハイライトである。ところが、原作では打擲する場面などまったくないのである。日記を見るというプロットもない。「女房は、どんなによく出来た女でも、亭主にとっては俗世間の代表だよ」と前島に向かって自嘲気味に述懐しながらも、三村は自省的かつ自制的な人間として描かれている。
映画のなかで三村を一方的に嫌う満里子と三村の関係も原作ではもっと微妙である。満里子は節子と三村が暮らす家を出て、独立して間借り生活を始めるのだが、ある夕方三村が無料で借りている事務所を訪れる。満里子はなりふり構わず職を探そうとしない三村を非難する。その後、話の成り行きで、満里子は自分が宏に求婚して振られたことを三村に打ち明ける。黙って聞いていた三村は「君の、その話には、節子は何も、かかり合いなかったのか?」と尋ねる。三村はすべてを了解したのだ。満里子は、三村に節子と別れるよう言いに来たのだ。別れる理由は、三村が失業していて経済力がないからではなく、節子と宏が心の奥底でかたくむすばれているからだということを。
大佛次郎の原作が、登場人物一人ひとりの心理のひだを丁寧に描いて物語を進めていくのに対して、小津の映画は一言でいって通俗的なのである。妻の日記を見て嫉妬にかられる夫とけなげに耐えて夫に尽くす妻の姿がグロテスクなまでに強調して描かれる。新しい人生を踏み出そうとしない姉を批判する妹の満里子の姿もピエロのようにデフォルメされている。余談だが、宏のもとを訪れたり、頼子に会いに行ったりするときの満里子の服装は、なぜかいつも野暮ったくてみっともない。節子や頼子がいつも身についた洗練された身支度で登場するのと対照的である。
節子と愛し合う宏の存在があまりに受動的であることも映画の印象を平板なものにしている。戦後の混乱期を上手に乗り切って成功した実業家なのに、節子との関係を一歩踏み出すことができない。原作でもそれは同様なのだが、映画ではより一層意志薄弱な人間として造型されている。際立つのは酒に溺れた三村が人格を崩壊させ、自滅していくさまである。そこには何ら人間的葛藤は描かれない。ただ自滅のための自滅があるだけである。夫に献身的に尽くす節子も「夫婦だから」尽くすというだけだ。
ラスト三村と「十四年ぶり」に薬師寺を訪れた節子は「三村の影を引きずったままあなたと一緒になれば、きっとあなたを不幸にする」といって宏に別れを告げる。その後、節子は喫茶店で待っていた満里子とともに「御所を通っていきましょうか」と歩き出すのだが、二人の後ろ姿は何とも軽やかで楽し気でさえある。いったい、この映画は何を撮りたかったのか?
忘れられた感のある大佛次郎の原作だが、いま読み直すと、当時の生活の様相や人間の心情、息遣いまでまざまざと浮かび上がってくる。オーソドックスな「小説_novel」を読む醍醐味を味わうことができる。それに比べて、小津の映画は、実は、はるかに辛口である。「家庭劇」という枠組みをきっちり守って、人物の歴史、背景を一切描かない。登場人物は画面のなかで与えられる性格、役割を正確に演じることだけが要求されている。「戦争があったから」こうなった、ああなった、という「解釈」は存在しないのである。________大佛次郎の「『宗方姉妹』と小津安二郎の映画と、はたして、どちらが「反戦」なのだろうか。
ちょっと寄り道のつもりがだいぶ時間をとってしまいました。集中力を保てなくなったなぁ、とつくづく思うこの頃です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
大佛次郎の原作は、戦後日本の社会の様相を登場人物の行動と心理を通して描く群像小説である。満州国の高級官僚だった父親の宗方忠親、娘の節子、満里子、節子の夫三村亮助、忠親の年少の友人田村宏、田村の愛人の真下頼子が中心である。忠親は公職追放の身で癌に冒されている。満州で特権階級だった一家は何もかも失った。満州の原野を文明都市に変貌させる夢を描いていた技師の三村も失業している。生活のすべがない一家は、切り売りも底をついてしまったため、節子の友人の恵美子の斡旋で酒場を始める。
軌道に乗ったかのように見えた酒場だったが、美恵子が自分についていたお客を連れて別の場所で新たに酒場を始めてしまったため、水商売に不慣れな節子は途方に暮れる。 窮境にあった節子を救ったのは、忠親の友人で節子の初恋の相手だった田代宏だった。宏はパリに留学し、戦後は神戸で高級家具の製作、輸入販売を手掛けて成功していた。彼の提案で、節子は酒場を昼の間画廊にする。作品は宏と交流のある画家たちが提供してくれて、画廊は幸先良いスタートをきる。
画廊の仕事は、節子と宏を急速に接近させた。かつて、お互いに好意以上のものを感じながら口に出せなかった二人は 、十年の歳月を経て頻繁に会う機会を得る。上京した宏と節子がいつものように語らいながら歩いていたときに、節子の夫の三村と鉢合わせしてしまう。帽子を脱いで「やあ!」と大声で挨拶して通り過ぎた三村の態度を二人に対する侮辱と受け止めた節子と宏は宏の宿で結ばれそうになる。だが、京都にいる節子の父に今から報告に行こう、という宏の言葉に、節子ははっと、我に返ったかのように踏みとどまるのだ。そんなことをすれば、病に弱った父が死んでしまう、と。映画と違って原作では、節子は父が癌であることは知らされていないのだが。
「時が来たら、もう、僕らは離れない」「もっと、もっときれいにして待ちましょう」と宏は言って、節子の生活は何事もなかったかのように続いた。そして、数日後、三村の新しい仕事が決まった。勤めにでている節子に置手紙をして、三村は夜行で京都の忠親に報告に向かう。翌日、仕事仲間と飲んで、泥酔状態で帰った三村は忠親の住まいの二階で急死してしまう。
三村の死に対して自責の念を捨てきれない節子は、宏への思いを断ち切る手紙を書いて別れを告げる。書留速達で着いた手紙を読んだ宏が酒場で泣き崩れるのを、かつて愛人だった真下頼子が「可哀想に、苦労して。」と静かに見まもるところで原作は終わる。
『宗方姉妹』というタイトルだが、原作は姉妹を中心に、というよりそれぞれの登場人物を描き分けて、混乱した世相を写しだそうとしている。余命いくばくもないことを宣告された父の忠親は、人生を諦観しているが、自分より若い人間を死なせてしまったことに後ろめたさを感じている。娘の節子はしっかり者だが受動的な人間である。節子の妹の満里子は「忠親が満州に赴任して生まれたことにちなんで名づけられた」とあって、進取の気質に富んで積極的である。節子の夫の三村は、ここが映画ともっとも異なる部分だが、粗野ではあるが、情に厚く、貧乏はしているけれど面倒見のいい人間として描かれている。
節子が想いを寄せていた田代宏は、経済力は身につけたが、優柔不断なところがあって、結局は想いを成就させることができない。宏とフランスで知り合った真下頼子は、戦争未亡人だが父親から証券会社の経営を受け継いで、裕福で洗練された大人の女として描かれている。頼子は、宏のなかに節子への断ち切れない思いがあるのを知って、みずから身を引く。映画と違って、原作は頼子の内側に入り込んで、彼女の側から宏と節子、そして満里子を見ている。
宗方一家は落魄しているが、それでも「雨の漏らない」家に住むことができる中産階級である。生活に困って、お嬢さん育ちの節子が酒場を開くことになったが、そんな彼らを批判的に眺めながらも支える立場の人間として、丹波の山奥から上京してきた前島という青年が登場する。映画では節子の酒場のバーテンで元特攻ということになっているが、原作は普通の兵隊上がりで、運送会社に勤めている。上京するときに山椒魚を生け捕りにして持ってきたというエピソードがある。一杯飲み屋で知り合った三村の誘いで節子の家に住んで一家の下働きもしている。登場人物のなかで、まったくの庶民階級は彼一人だ。彼の目で見ると節子たちは遊んで暮らしているようなのである。
「生活ったら、お嬢さん」と前島は満里子にいう。「もっと、自分で汗をかくことでしょう。東京のひとは、まだ、それをごまかしているように見えるのかね。それで、わしなんかにはあぶなつかしく見えるのかね。」と前島は批判するのだが、そうじて作者は宗方一族に寄り添ってストーリーを展開していく。生活に困るといっても、萬里子はバレーのレッスンに通ったり、姉妹は関西と東京を行ったり来たりして、お寺巡りをする余裕がある。敗戦後四年しか経っていないのに、庶民から見れば夢のような暮らしができるのだ。
この他、原作には、戦時中諜報の仕事をしていて、いまは人の秘密を嗅ぎまわることをメシの種にしている平岩哲三という男も登場するのだが、映画は完全に省略している。平岩の存在だけでなく、小津安二郎の『宗方姉妹』に戦争の影はまったくない。登場人物の原作と比べてかなりデフォルメされた性格と行動が織りなす愛憎の世界に焦点を絞って、プロットも一部改ざんしながら思い切って単純化している。
焦点となるのは、節子と三村の夫婦関係である。映画の中の三村は、たんにアルコールで人格を崩壊された狂人として描かれている。節子の若いころの日記を読んでから、宏と節子の関係を疑い始め、宏に急場を救ってもらった節子を打擲する場面がある。それまで、何をいわれても気丈に耐え献身的に三村に尽くしてきた節子が七回も打たれて、覚悟を決めなおす場面がハイライトである。ところが、原作では打擲する場面などまったくないのである。日記を見るというプロットもない。「女房は、どんなによく出来た女でも、亭主にとっては俗世間の代表だよ」と前島に向かって自嘲気味に述懐しながらも、三村は自省的かつ自制的な人間として描かれている。
映画のなかで三村を一方的に嫌う満里子と三村の関係も原作ではもっと微妙である。満里子は節子と三村が暮らす家を出て、独立して間借り生活を始めるのだが、ある夕方三村が無料で借りている事務所を訪れる。満里子はなりふり構わず職を探そうとしない三村を非難する。その後、話の成り行きで、満里子は自分が宏に求婚して振られたことを三村に打ち明ける。黙って聞いていた三村は「君の、その話には、節子は何も、かかり合いなかったのか?」と尋ねる。三村はすべてを了解したのだ。満里子は、三村に節子と別れるよう言いに来たのだ。別れる理由は、三村が失業していて経済力がないからではなく、節子と宏が心の奥底でかたくむすばれているからだということを。
大佛次郎の原作が、登場人物一人ひとりの心理のひだを丁寧に描いて物語を進めていくのに対して、小津の映画は一言でいって通俗的なのである。妻の日記を見て嫉妬にかられる夫とけなげに耐えて夫に尽くす妻の姿がグロテスクなまでに強調して描かれる。新しい人生を踏み出そうとしない姉を批判する妹の満里子の姿もピエロのようにデフォルメされている。余談だが、宏のもとを訪れたり、頼子に会いに行ったりするときの満里子の服装は、なぜかいつも野暮ったくてみっともない。節子や頼子がいつも身についた洗練された身支度で登場するのと対照的である。
節子と愛し合う宏の存在があまりに受動的であることも映画の印象を平板なものにしている。戦後の混乱期を上手に乗り切って成功した実業家なのに、節子との関係を一歩踏み出すことができない。原作でもそれは同様なのだが、映画ではより一層意志薄弱な人間として造型されている。際立つのは酒に溺れた三村が人格を崩壊させ、自滅していくさまである。そこには何ら人間的葛藤は描かれない。ただ自滅のための自滅があるだけである。夫に献身的に尽くす節子も「夫婦だから」尽くすというだけだ。
ラスト三村と「十四年ぶり」に薬師寺を訪れた節子は「三村の影を引きずったままあなたと一緒になれば、きっとあなたを不幸にする」といって宏に別れを告げる。その後、節子は喫茶店で待っていた満里子とともに「御所を通っていきましょうか」と歩き出すのだが、二人の後ろ姿は何とも軽やかで楽し気でさえある。いったい、この映画は何を撮りたかったのか?
忘れられた感のある大佛次郎の原作だが、いま読み直すと、当時の生活の様相や人間の心情、息遣いまでまざまざと浮かび上がってくる。オーソドックスな「小説_novel」を読む醍醐味を味わうことができる。それに比べて、小津の映画は、実は、はるかに辛口である。「家庭劇」という枠組みをきっちり守って、人物の歴史、背景を一切描かない。登場人物は画面のなかで与えられる性格、役割を正確に演じることだけが要求されている。「戦争があったから」こうなった、ああなった、という「解釈」は存在しないのである。________大佛次郎の「『宗方姉妹』と小津安二郎の映画と、はたして、どちらが「反戦」なのだろうか。
ちょっと寄り道のつもりがだいぶ時間をとってしまいました。集中力を保てなくなったなぁ、とつくづく思うこの頃です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2018年4月3日火曜日
小津安二郎『秋刀魚の味』___秋刀魚の味と「秋刀魚の歌」
小津安二郎の映画のタイトルは不思議なものが多い。『早春』という映画のタイトルがなぜ「早春」なのか、いまだにわからない。季節は真夏のようである。蚊取り線香が焚かれる画面から真夏の熱気が伝わってこないのが不思議だが。
『秋刀魚の味』も何故このタイトルなのか、ずっとわからなかった。そもそも『晩春』と同じ「父と娘」「娘の結婚」のテーマを繰り返す理由がわからなかった。いま、『晩春』の焼き直しのように見えるこの映画が『晩春』とどこが違うのか(表面的なプロットの違いでなく)検討する前に、『秋刀魚の味』というタイトルの意味するものについて、少しだけ考えてみたい。
映画の冒頭、煙突が5本映し出されて、舞台が工場地帯であることが示される。主人公の平山は丸の内近辺の大手会社ではなく、工場地帯で製造業を営む会社の役員という設定である。平山の役員室を友人の河合__こちらは丸の内の大手会社の役員のようである__という男が訪れる。挨拶もそこそこに、平山は河合に「奥さん怒ってなかったか、こないだ」と聞く。「怒ってない、怒ってない。おもしろがってたよ」と言う河合に「どうも、酒飲むとよけいなこと言いすぎるな」、と平山が返し「すぎる、すぎる、お互いにな」と河合が受ける、というやりとりがあって、これが何を意味するのか、ずっとわからなかった。河合の家で酒を飲んだ平山と河合の奥さんがどうしたというのか、この後の展開で触れられることはまったくないのである。
ところで、私くらいの年代以上の人は「秋刀魚の味」と言えば佐藤春夫の「秋刀魚の歌」を連想するのではないか。
あはれ
秋風よ
情〔こころ〕あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて
思ひにふける と。
私の記憶にあったのはこの部分までだった。秋の気配の立つ頃、一人食卓に向かって秋刀魚の味をかみしめる男の孤独の詩。しかし、この後、
さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は
小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝〔なれ〕こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒〔まどゐ〕を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証〔あかし〕せよ かの一ときの団欒ゆめに非〔あら〕ずと。
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。
さんま、さんま
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
と続くドラマがあるのだ。谷崎不在の谷崎家の食卓を、谷崎の妻千代、娘の鮎子、佐藤春夫の三人で囲んで、秋刀魚を食べる。その折の回想と、不遇の妻といたいけな幼女へ寄せる思いをうたった「秋刀魚の歌」は長く人口に膾炙したが、この「秋刀魚の歌」にちなんで、それと同じくらい有名になったのが、谷崎と佐藤の間のいわゆる「細君譲渡事件」である。千代をめぐる三人にどのような人情の機微があったか、いまとなっては私などにわかるはずもないが、当時二十代のはじめだった小津にとって、センセーショナルな出来事として記憶されたものと思われる。
平山と河合の妻との間に具体的な何かがあったとは思われないが、酒を飲んだ平山が酔った勢いで河合の妻に何らかの言葉をかけたのだろう。映画の冒頭、さりげなくかわされる平山と河合の会話から、温厚そうな初老の平山という男の内側にうごめく情動を、まず、うけとめなければならないのではないか。画面に河合の妻が登場するのは、平山が道子の縁談を頼みに河合の家を訪れたときが最初である。先に河合の家に来ていたもう一人の友人と河合が示し合わせて平山を担ごうとしたときに、二人の嘘を平山に教えに入ったのが河合の妻だった。このときの河合の妻は、典型的な上流婦人のたたずまいで、それ以外のなにものでもないのだが。
「秋刀魚の歌」と直接関係ないのかもしれないが、この映画には不思議なことがもう一つあって、平山と河合が同じ(ように見える)カーディガンを着ているのである。平山の娘の路子が思いを寄せていた男がすでに婚約していたことを告げるシーンの平山と、道子の縁談を頼みに河合の家を訪れたときの河合が、どうみてもまったく同じカーディガンを着ている。平山を演じる笠智衆と河合役の中村伸朗は体型が似ているので一つのカーディガンを着回ししたのかと思ってしまう。小津はどのような意図でこんな演出をしたのか?衣装の類似については、平山の娘路子と、軍艦マーチのレコードをかけるバーのマダムの服装についても指摘される方がいるようだが。
いつもながらの独断と偏見でいえば、『秋刀魚の味』は男の老醜を描いた作品ではないか。老醜とは、平山たちの中学校の漢文教師だった「ひょうたん」という綽名の男の落魄の姿をいうのではない。「ひょうたん」を二度にわたってなぶりものにする平山や河合をはじめとする、いまは功成り遂げた男たちの内面である。娘のように若い妻を娶った大学教授に平山が「この頃、お前が不潔に見えてきた」と言うシーンがある。「不潔」の意味するところは、けっこう複雑なものではないか。
『秋刀魚の味』は、小津安二郎の作品の中で、最初に観た映画でした。そのときの、いわば卒読の印象と『晩春』『麦秋』・・・・と小津作品をいくつか観てきた印象とは、微妙に変わってきたように思います。不思議なシーンがいくつもあって、それらを繋いでいくと、何か暗くて重いものに行きつきそうなのですが、形として存在するのは静謐、平穏な日常性です。静謐、平穏な日常性が、こんなに緊張感のある画面で語られるということの不可解が小津作品の魅力なのでしょう。もう少し、その不可解にかかわってみたいと思います。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
『秋刀魚の味』も何故このタイトルなのか、ずっとわからなかった。そもそも『晩春』と同じ「父と娘」「娘の結婚」のテーマを繰り返す理由がわからなかった。いま、『晩春』の焼き直しのように見えるこの映画が『晩春』とどこが違うのか(表面的なプロットの違いでなく)検討する前に、『秋刀魚の味』というタイトルの意味するものについて、少しだけ考えてみたい。
映画の冒頭、煙突が5本映し出されて、舞台が工場地帯であることが示される。主人公の平山は丸の内近辺の大手会社ではなく、工場地帯で製造業を営む会社の役員という設定である。平山の役員室を友人の河合__こちらは丸の内の大手会社の役員のようである__という男が訪れる。挨拶もそこそこに、平山は河合に「奥さん怒ってなかったか、こないだ」と聞く。「怒ってない、怒ってない。おもしろがってたよ」と言う河合に「どうも、酒飲むとよけいなこと言いすぎるな」、と平山が返し「すぎる、すぎる、お互いにな」と河合が受ける、というやりとりがあって、これが何を意味するのか、ずっとわからなかった。河合の家で酒を飲んだ平山と河合の奥さんがどうしたというのか、この後の展開で触れられることはまったくないのである。
ところで、私くらいの年代以上の人は「秋刀魚の味」と言えば佐藤春夫の「秋刀魚の歌」を連想するのではないか。
あはれ
秋風よ
情〔こころ〕あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて
思ひにふける と。
私の記憶にあったのはこの部分までだった。秋の気配の立つ頃、一人食卓に向かって秋刀魚の味をかみしめる男の孤独の詩。しかし、この後、
さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は
小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝〔なれ〕こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒〔まどゐ〕を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証〔あかし〕せよ かの一ときの団欒ゆめに非〔あら〕ずと。
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。
さんま、さんま
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
と続くドラマがあるのだ。谷崎不在の谷崎家の食卓を、谷崎の妻千代、娘の鮎子、佐藤春夫の三人で囲んで、秋刀魚を食べる。その折の回想と、不遇の妻といたいけな幼女へ寄せる思いをうたった「秋刀魚の歌」は長く人口に膾炙したが、この「秋刀魚の歌」にちなんで、それと同じくらい有名になったのが、谷崎と佐藤の間のいわゆる「細君譲渡事件」である。千代をめぐる三人にどのような人情の機微があったか、いまとなっては私などにわかるはずもないが、当時二十代のはじめだった小津にとって、センセーショナルな出来事として記憶されたものと思われる。
平山と河合の妻との間に具体的な何かがあったとは思われないが、酒を飲んだ平山が酔った勢いで河合の妻に何らかの言葉をかけたのだろう。映画の冒頭、さりげなくかわされる平山と河合の会話から、温厚そうな初老の平山という男の内側にうごめく情動を、まず、うけとめなければならないのではないか。画面に河合の妻が登場するのは、平山が道子の縁談を頼みに河合の家を訪れたときが最初である。先に河合の家に来ていたもう一人の友人と河合が示し合わせて平山を担ごうとしたときに、二人の嘘を平山に教えに入ったのが河合の妻だった。このときの河合の妻は、典型的な上流婦人のたたずまいで、それ以外のなにものでもないのだが。
「秋刀魚の歌」と直接関係ないのかもしれないが、この映画には不思議なことがもう一つあって、平山と河合が同じ(ように見える)カーディガンを着ているのである。平山の娘の路子が思いを寄せていた男がすでに婚約していたことを告げるシーンの平山と、道子の縁談を頼みに河合の家を訪れたときの河合が、どうみてもまったく同じカーディガンを着ている。平山を演じる笠智衆と河合役の中村伸朗は体型が似ているので一つのカーディガンを着回ししたのかと思ってしまう。小津はどのような意図でこんな演出をしたのか?衣装の類似については、平山の娘路子と、軍艦マーチのレコードをかけるバーのマダムの服装についても指摘される方がいるようだが。
いつもながらの独断と偏見でいえば、『秋刀魚の味』は男の老醜を描いた作品ではないか。老醜とは、平山たちの中学校の漢文教師だった「ひょうたん」という綽名の男の落魄の姿をいうのではない。「ひょうたん」を二度にわたってなぶりものにする平山や河合をはじめとする、いまは功成り遂げた男たちの内面である。娘のように若い妻を娶った大学教授に平山が「この頃、お前が不潔に見えてきた」と言うシーンがある。「不潔」の意味するところは、けっこう複雑なものではないか。
『秋刀魚の味』は、小津安二郎の作品の中で、最初に観た映画でした。そのときの、いわば卒読の印象と『晩春』『麦秋』・・・・と小津作品をいくつか観てきた印象とは、微妙に変わってきたように思います。不思議なシーンがいくつもあって、それらを繋いでいくと、何か暗くて重いものに行きつきそうなのですが、形として存在するのは静謐、平穏な日常性です。静謐、平穏な日常性が、こんなに緊張感のある画面で語られるということの不可解が小津作品の魅力なのでしょう。もう少し、その不可解にかかわってみたいと思います。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2018年3月24日土曜日
小津安二郎『東京暮色』__前稿の訂正と補筆__再び「父と子」について
最初の稿で、杉山周吉の家の玄関前にイチジクの鉢植えがある、としたのだが、イチジクではなくヤツデだったようである。イチジクは落葉樹なので、雪の降る季節に葉を茂らせているわけはない。「千客万来」をもたらすとされるヤツデはよく玄関前に植えられるそうなので、ヤツデの木があるるのはとくに珍しいことではなかったようだ。いまはほとんど見かけないが。
『東京暮色』については、もう書くのを終わりにしようと思ったのだが、どうしてもやり残したような気がしてならない。プロットを追いかけての感想はもうお終いにして、少し、独断と偏見に満ちた妄想を書いてみたい。
小津安二郎は、私にとって、謎に満ちた作家である。戦後の作品のほとんどが、大きな事件も起こらず、淡々とした日常生活の機微をこまやかに描いたように見えながら、どこかに微妙な違和感をもたらすシーンが存在する。でも、最後は観客が期待した通りの結末になって、それなりのカタルシスがあるのだが、『東京暮色』には、激情的なドラマがあって、救いがない。救われないことへの絶望もない。まったくの「純文学」で、観客が見終わって得られるものは諦念でしかない。『東京暮色』の前作『早春』も同じように「純文学」だが、こちらはまだいくばくかの希望に近いものを感じることができる。ほんものの「希望」といえるかどうかあやしいのだけれど。
救いがない、と感じるのは、線路に跳び込んだ明子が「死にたくない」「もう一度やり直したい」と言いながら死んでいったことにあるのではない。孝子に拒絶された母の喜久子が室蘭に行ってしまうことでもない。「相馬さん」に誘われて、喜久子が連れ合いと一緒に室蘭に行くことは、むしろ、かすかな救いだろう。救われないのは、愛することのできない夫のもとへ戻っていく孝子であり、それを容認する父の周吉である。とりわけ周吉が明子の遺影に向かってお経のようなものをつぶやくシーンには慄然とするものがあった。
堅実な銀行マンであり、温厚で子煩悩な家庭人として描かれる周吉は一見非の打ちどころがない。だが、その周吉が「無理にすすめて」孝子に不幸な結婚をさせたのである。二歳の子を連れて孝子が家に戻ってくると、「こんなんだったら、佐藤なんかのほうが良かった」と平然といってのける。深夜喫茶で恋人を待っていて警察に補導された明子に「そんな子はお父さんの子じゃない」と言い放つ。周吉役を演じる笠智衆の演技にめくらましされてしまうが、周吉の根底にあるのは冷徹なエゴイズムである。明子を死に追いやったのは、直接には「憲ちゃん」という恋人の不実だが、その深層にあって、しかもトリガーとなったものは、周吉の「そんな子はお父さんの子じゃない」と言う言葉だろう。
ドラマを展開させていくのは三人の女たちの行動で、とりわけ孝子の両義的な存在の描き方は見事である。だが、見終わって、最後に残るのはドラマが始まる前と同じ生活に戻っていく周吉の変わらない日常なのだ。女たちの葛藤が鮮明に描かれれば描かれるほど、葛藤の枠の外にあるかのような周吉の孤独な姿が浮き彫りになってくる。一枚の絵が二通りに見えるだまし絵のようだ。
この映画は『エデンの東』を下敷きにしているといわれる。いくらかプロットに共通するものはあるかもしれない。だが、むしろよりラディカルに「楽園追放」のモチーフが潜んでいるのではないか。喜久子が明子と話をするために入った居酒屋は「Bar EDEN」という看板の店の前にあった。雑司ヶ谷の坂の向こうに浮かび上がる十字架のように見える電柱、周吉の家の玄関にかかる「森永牛乳」(エンゼルマークの暗示?)、喜久子と連れ合いを室蘭に誘う「相馬」_「相馬愛蔵」という有名なキリスト教の牧師を連想させる_などキリスト教もしくはヘブライズムを示唆する要素がさりげなく配置されている。冷徹なエゴイストとして描かれる周吉は、雑司ヶ谷の家の家長、父であり、同時に大文字の「父」_FATHERではなかったか。
もう少し原節子の演じる孝子の両義性、というより小津の映画における彼女の存在の両義性について書きたいのですが、それはまた別の機会にして、『東京暮色』はこれでお終いにしたいと思います。最後まで不出来な感想文につきあってくださって、ありがとうございました。
『東京暮色』については、もう書くのを終わりにしようと思ったのだが、どうしてもやり残したような気がしてならない。プロットを追いかけての感想はもうお終いにして、少し、独断と偏見に満ちた妄想を書いてみたい。
小津安二郎は、私にとって、謎に満ちた作家である。戦後の作品のほとんどが、大きな事件も起こらず、淡々とした日常生活の機微をこまやかに描いたように見えながら、どこかに微妙な違和感をもたらすシーンが存在する。でも、最後は観客が期待した通りの結末になって、それなりのカタルシスがあるのだが、『東京暮色』には、激情的なドラマがあって、救いがない。救われないことへの絶望もない。まったくの「純文学」で、観客が見終わって得られるものは諦念でしかない。『東京暮色』の前作『早春』も同じように「純文学」だが、こちらはまだいくばくかの希望に近いものを感じることができる。ほんものの「希望」といえるかどうかあやしいのだけれど。
救いがない、と感じるのは、線路に跳び込んだ明子が「死にたくない」「もう一度やり直したい」と言いながら死んでいったことにあるのではない。孝子に拒絶された母の喜久子が室蘭に行ってしまうことでもない。「相馬さん」に誘われて、喜久子が連れ合いと一緒に室蘭に行くことは、むしろ、かすかな救いだろう。救われないのは、愛することのできない夫のもとへ戻っていく孝子であり、それを容認する父の周吉である。とりわけ周吉が明子の遺影に向かってお経のようなものをつぶやくシーンには慄然とするものがあった。
堅実な銀行マンであり、温厚で子煩悩な家庭人として描かれる周吉は一見非の打ちどころがない。だが、その周吉が「無理にすすめて」孝子に不幸な結婚をさせたのである。二歳の子を連れて孝子が家に戻ってくると、「こんなんだったら、佐藤なんかのほうが良かった」と平然といってのける。深夜喫茶で恋人を待っていて警察に補導された明子に「そんな子はお父さんの子じゃない」と言い放つ。周吉役を演じる笠智衆の演技にめくらましされてしまうが、周吉の根底にあるのは冷徹なエゴイズムである。明子を死に追いやったのは、直接には「憲ちゃん」という恋人の不実だが、その深層にあって、しかもトリガーとなったものは、周吉の「そんな子はお父さんの子じゃない」と言う言葉だろう。
ドラマを展開させていくのは三人の女たちの行動で、とりわけ孝子の両義的な存在の描き方は見事である。だが、見終わって、最後に残るのはドラマが始まる前と同じ生活に戻っていく周吉の変わらない日常なのだ。女たちの葛藤が鮮明に描かれれば描かれるほど、葛藤の枠の外にあるかのような周吉の孤独な姿が浮き彫りになってくる。一枚の絵が二通りに見えるだまし絵のようだ。
この映画は『エデンの東』を下敷きにしているといわれる。いくらかプロットに共通するものはあるかもしれない。だが、むしろよりラディカルに「楽園追放」のモチーフが潜んでいるのではないか。喜久子が明子と話をするために入った居酒屋は「Bar EDEN」という看板の店の前にあった。雑司ヶ谷の坂の向こうに浮かび上がる十字架のように見える電柱、周吉の家の玄関にかかる「森永牛乳」(エンゼルマークの暗示?)、喜久子と連れ合いを室蘭に誘う「相馬」_「相馬愛蔵」という有名なキリスト教の牧師を連想させる_などキリスト教もしくはヘブライズムを示唆する要素がさりげなく配置されている。冷徹なエゴイストとして描かれる周吉は、雑司ヶ谷の家の家長、父であり、同時に大文字の「父」_FATHERではなかったか。
もう少し原節子の演じる孝子の両義性、というより小津の映画における彼女の存在の両義性について書きたいのですが、それはまた別の機会にして、『東京暮色』はこれでお終いにしたいと思います。最後まで不出来な感想文につきあってくださって、ありがとうございました。
2018年3月14日水曜日
小津安二郎『東京暮色』__母の背負う十字架
最初に私は「これは父子家庭の物語である」と書いた。だが、同時に、これは「母の物語」である。母と子ではなくて、「母と女」の物語だ。あるいは「母と女の子」の物語である。主題を明瞭にするため、「母と男の子」の物語は慎重に排除されている。姉妹の兄の「和ちゃん」は谷川岳で死んだことになっている。
テーマ音楽が流れて、高架の線路と巨大なトンネルが映し出される。「壽荘スグソコ」という矢印の看板が画面の右端に映る。車の入れない狭い通路の両側に、飲食店がひしめきあっている「。壽荘」はそのなかの二階にある。何組もの客が卓を囲んでいて、明子もその中にいる。店番をしていた亭主が店屋物の注文を取り次ぎに出ると、入れ違いのように着物姿に前掛けをかけた中年の女が階段を上ってきて、「いらっしゃい」と客に挨拶する。すると、明子の卓をのぞき込んでいた若い男が「ねぇ、おばさん、おばさんの捜していたの、この子だ」と明子を指す。軽くうなづいて「いらっしゃい」という女。不思議そうな顔をしながら明子もうなづく。まじまじと明子を見つめる女。女の視線は明子に釘付けである。
若い男と卓を交代した明子に女は次々と家族の消息をたずねる。再会した喜びを抑えきれない様子である。いったん戻った亭主が再び出前の取次に外に行ったのをきっかけに、女は明子に座敷に上がるようにすすめ、明子も上がり框に腰かける。英文速記を習っているという明子に「あなたこんなとこちょいちょい来るの?」と聞いて、「ううん、時々」という返事に「そうね。その方がいいわね」と言う女。明子はその後、卓に呼び戻されるのだが、女は何か考え込んでいる様子である。
女が出奔した母だったことがわかるのは、叔母の重子が明子に縁談をもって杉山家を訪れたときのことである。明子は不在である。縁談話のついでに、重子は偶然に大丸のエスカレーターで母と遇ったと報告する。母は「喜久子」という名であることも明かされる。「山崎さんね、アムールに抑留されている間に亡くなったんですって」と言うので、駆け落ちの相手は山崎という男らしい。「そのことを喜久子さん、腰越じゃない、ブラゴエ、そうブラゴヴェチェンスクよ。そこで風の便りに聞いて、それからナホトカに連れていかれたんですって。今ね、五反田で麻雀屋しているらしいのよ」という重子の言葉に、孝子は先に明子から聞いていた「麻雀屋のおばさん」が母であることを確信する。
余談だが、「アムール」、「ブラゴヴェチェンスク」、「ナホトカ」という地名は、それぞれ「愛」、「受胎告知」、「発見、掘り出し物」という意味だそうである。喜久子の恋人は「アムール=愛」で抑留されて死に、喜久子はそれを「ブラゴヴェチェンスク=受胎告知で風の便りに聞き」、「ナホトカ=掘り出し物に連れていかれ」て今の亭主と知り合った、ということになる。
再び高架とトンネルが映し出される。今回は昼で明るい画面である。近くに川があるのか、揺らめく水の影が映る。マスクをして黒っぽい外套を着た孝子が車から降りて壽荘にやってくる。麻雀の牌の音がする二階に上がって、部屋の中を見まわし、座敷の上がり框に腰かけて編み物をしている喜久子に向かって、マスクを外す。「お母さんですか」という孝子。編み物の手を止めて、見上げた喜久子と「孝子です」というやりとりがあって、喜久子は一瞬目を見張るが、次の瞬間喜びを爆発させる。「まぁまぁたかちゃん、さ、上がってちょうだいよ」と編みかけの毛糸を放り出してすすめる。孝子はためらっている。
やっとのことで座敷に上がる孝子に喜久子は嬉しくて、「本当によく尋ねてきてくれたわねえ。あんたもお母さんになったんだってねえ。女の子だって?可愛いでしょう。ご主人どんな方?何してらっしゃるの?」と矢継ぎ早に話しかける。だが、孝子の表情は硬いままで「お母さん、あたし、お願いがあって来たんです」と切り出すのだ。「あきちゃんに、お母さんだってことおっしゃってほしくないんです」と必死の形相である。一瞬にして笑みが消え、凍り付く喜久子の顔。明子は母の記憶はすべて消えているという。。「お父さんがかわいそうです。そう、お思いになりません?」と孝子は言うのだ。絶句する喜久子に「じゃ、どうぞお願いします。帰ります」と言って、昂然と顎を上げ、足早に孝子は階段を降りていく。
再び孝子が母のもとにやってくるのは、明子の死を告げるためである。紋付の喪服姿である。座敷で読み物をしていた喜久子の前に突然孝子が現れ、「お母さん」と呼びかける。目を上げた喜久子に孝子は、「あきちゃん死にました」と睨むようにして言う。「まぁ!どうして?いつ?」と驚く喜久子に向かって何も答えず、「お母さんのせいです」とだけ言って踵を返す。
残された喜久子は店番を投げ出して、ふらふらと外に出て行く。路地に孝子の姿を追うかのような仕草をするが、孝子はいるはずもない。スカーフと外套姿の、死んだ明子と年恰好も同じような娘が一人すれ違う。喜久子が腰を落ち着けるのは「Bar EDEN]と書かれた看板の向かいにある飲み屋である。盃を手に悄然とする喜久子。やがて喜久子を探して店に入ってきた亭主に北海道へ行くという。以前から「相馬」と言う亭主の知り合いに誘われていたのだ。
最後に母子が対面するのは杉山家の玄関である。黒っぽいコートの着物姿の喜久子が花束を手に急坂を上がってくる。杉山家の玄関先に、なぜか、みすぼらしい犬がうろうろしている。家を探している喜久子に教えるように塀の中に入って行く。喜久子が玄関を入ると、三和土と廊下の仕切りの戸が開いていて、ガラスの枠がない。カメラが正面から喜久子の姿を映す。「ごめんください」と呼んで、玄関先に落ちていたガラガラを手に取って三和土に戻す。もう一度「ごめん下さい」と呼ぶと「はい」と小さな声がして、孝子が現れる。無言で廊下に座り込む孝子。喜久子が「さっきはどうも。電話で・・・・・・あたし、今晩九時半の汽車で北海道へたつの。これ、あきちゃんにお供えしたいと思って」と花束を目で示すが、孝子は黙ったままである。「いけないかしら」と言う喜久子。今度は「じゃ、これ」と花束を突き出すようにする。ようやく孝子は花束を受け取るが、やはり無言である。
「それじゃ、もう会えないかもわからないけど、いつまでも元気でね。じゃ、帰るわ。じゃ、さよなら」と喜久子は帰っていく。喜久子が玄関を出ると泣き崩れる孝子。黙っていたのは、泣くのを我慢していたのだ。
夜の上野駅。「12」とホームの番線を示す数字がある。さまざまな見送り客と乗客でごった返すホーム。なぜか明治大学の校歌を合唱する応援団もいる。喜久子はホームの人混みの中に孝子の姿をさがしている。最後は曇った汽車の窓を懐紙で拭いている。
最後まで母を許せない孝子の心には何があるのだろう。喜久子に向き合うときの孝子は、ほとんど能面のように無表情である。それに対して、喜久子は天真爛漫、と言っていいほど無邪気である。そして、可憐なのだ。「苦労したらしいわよ」と大丸で遇った重子が言うように、姦通が犯罪として罰せられた時代に、極寒の異国の地で駆け落ちした相手に死なれ、生き延びて日本に帰ってくるまでの体験は筆舌しがたいものがあっただろう。だが、いくらか生活の影はあるが、それでも、明子が「さぁ、いくつかしら。若く見えるけど。きれいな人よ」と孝子にいうような容姿なのである。素直に「女」であり、「母」なのだ。その「女」と「母」を孝子は許せなかったのだ。何故なら孝子もまた「女」であり「母」だからだ。
明子と喜久子のかかわりは、実は、孝子よりはるかに自然な親子の情に満ちている。麻雀屋で最初に喜久子から声をかけられたとき、明子は素直に応じて、上がり框に腰かけ、喜久子の質問に答えている。帰宅して孝子に「あの人、お母さんじゃないかしら」と言っている。次に、明子は、孝子と口論して家を跳びだし、喜久子を「二人きりで話したい」と呼び出す。喜久子は驚きながらも明るい表情である。麻雀屋の近くの飲み屋の奥の部屋で向かい合って、明子に「おばさん、あたし、いったい誰の子なんです?」と聞かれて、喜久子はとっさに意味が分からない。「自分はずっと子供のことを忘れていなかったと話し出す。だが、明子の関心は自分の父親は誰か、ということなのだ。そのことに気がついた喜久子は憤慨する。
「あんたがお父さんの子だっていうことは、お母さん、誰の前だって立派に言えるのよ。ねぇ、あきちゃん、そのことだけはお母さんを疑わないで。そのことだけは信じて」」と必死に潔白を証しようとする喜久子。女の意地である。明子は涙を浮かべて聞いている。わかってくれる?わかってくれるわね。・・・・ありがとう」という喜久子。だが、明子にとって、喜久子が潔白であるということは、周吉以外に父はいないという事実をつきつけられることなのだ。泣きじゃくる明子に喜久子は妊娠したのではないか、と尋ねる。娘の身を気遣う親心である。
その瞬間明子は顔を上げ、「あたし、子供なんか生みません。一生子どもなんか生まない!」とたたきつけるように言う。もし生んだら、お母さんのように捨てて出ることはしない、思い切り可愛がってやる、と叫び「お母さん、嫌い!」という言葉を残して走り去っていく。直情と直情がぶつかり合って、明子は絶望の淵に追いやられる。喜久子に投げつけた「お母さん、嫌い!」という最後の言葉は、私には「お母さん、助けて!」という悲鳴のように聞こえる。明子が店から駆け出して行ったあと、喜久子はじっと座ったままである。後ろ姿に十字架を背負っているようだ。
明子が死に、喜久子が室蘭に去り、孝子も夫の元に戻って、周吉は一人になる。春がきて、イチジクの枝が伸びてくる。「富沢さん」がまた家事をみるようになった。周吉が家を出て、十字架に見える電柱の立つ街へ坂を下りて行くところで映画は終わる。誰もさばかれない。誰もゆるされない。季節はまた巡ってくる。
周吉と孝子、周吉と明子の父と子の関係、孝子と明子の姉と妹の関係、それから周吉と喜久子、喜久子がなぜ家を出なければならなかったのか、などもっと考えてみたいことはあるのですが、それを文字にすることはこの映画の感想からはみだすような気がします。
今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
テーマ音楽が流れて、高架の線路と巨大なトンネルが映し出される。「壽荘スグソコ」という矢印の看板が画面の右端に映る。車の入れない狭い通路の両側に、飲食店がひしめきあっている「。壽荘」はそのなかの二階にある。何組もの客が卓を囲んでいて、明子もその中にいる。店番をしていた亭主が店屋物の注文を取り次ぎに出ると、入れ違いのように着物姿に前掛けをかけた中年の女が階段を上ってきて、「いらっしゃい」と客に挨拶する。すると、明子の卓をのぞき込んでいた若い男が「ねぇ、おばさん、おばさんの捜していたの、この子だ」と明子を指す。軽くうなづいて「いらっしゃい」という女。不思議そうな顔をしながら明子もうなづく。まじまじと明子を見つめる女。女の視線は明子に釘付けである。
若い男と卓を交代した明子に女は次々と家族の消息をたずねる。再会した喜びを抑えきれない様子である。いったん戻った亭主が再び出前の取次に外に行ったのをきっかけに、女は明子に座敷に上がるようにすすめ、明子も上がり框に腰かける。英文速記を習っているという明子に「あなたこんなとこちょいちょい来るの?」と聞いて、「ううん、時々」という返事に「そうね。その方がいいわね」と言う女。明子はその後、卓に呼び戻されるのだが、女は何か考え込んでいる様子である。
女が出奔した母だったことがわかるのは、叔母の重子が明子に縁談をもって杉山家を訪れたときのことである。明子は不在である。縁談話のついでに、重子は偶然に大丸のエスカレーターで母と遇ったと報告する。母は「喜久子」という名であることも明かされる。「山崎さんね、アムールに抑留されている間に亡くなったんですって」と言うので、駆け落ちの相手は山崎という男らしい。「そのことを喜久子さん、腰越じゃない、ブラゴエ、そうブラゴヴェチェンスクよ。そこで風の便りに聞いて、それからナホトカに連れていかれたんですって。今ね、五反田で麻雀屋しているらしいのよ」という重子の言葉に、孝子は先に明子から聞いていた「麻雀屋のおばさん」が母であることを確信する。
余談だが、「アムール」、「ブラゴヴェチェンスク」、「ナホトカ」という地名は、それぞれ「愛」、「受胎告知」、「発見、掘り出し物」という意味だそうである。喜久子の恋人は「アムール=愛」で抑留されて死に、喜久子はそれを「ブラゴヴェチェンスク=受胎告知で風の便りに聞き」、「ナホトカ=掘り出し物に連れていかれ」て今の亭主と知り合った、ということになる。
再び高架とトンネルが映し出される。今回は昼で明るい画面である。近くに川があるのか、揺らめく水の影が映る。マスクをして黒っぽい外套を着た孝子が車から降りて壽荘にやってくる。麻雀の牌の音がする二階に上がって、部屋の中を見まわし、座敷の上がり框に腰かけて編み物をしている喜久子に向かって、マスクを外す。「お母さんですか」という孝子。編み物の手を止めて、見上げた喜久子と「孝子です」というやりとりがあって、喜久子は一瞬目を見張るが、次の瞬間喜びを爆発させる。「まぁまぁたかちゃん、さ、上がってちょうだいよ」と編みかけの毛糸を放り出してすすめる。孝子はためらっている。
やっとのことで座敷に上がる孝子に喜久子は嬉しくて、「本当によく尋ねてきてくれたわねえ。あんたもお母さんになったんだってねえ。女の子だって?可愛いでしょう。ご主人どんな方?何してらっしゃるの?」と矢継ぎ早に話しかける。だが、孝子の表情は硬いままで「お母さん、あたし、お願いがあって来たんです」と切り出すのだ。「あきちゃんに、お母さんだってことおっしゃってほしくないんです」と必死の形相である。一瞬にして笑みが消え、凍り付く喜久子の顔。明子は母の記憶はすべて消えているという。。「お父さんがかわいそうです。そう、お思いになりません?」と孝子は言うのだ。絶句する喜久子に「じゃ、どうぞお願いします。帰ります」と言って、昂然と顎を上げ、足早に孝子は階段を降りていく。
再び孝子が母のもとにやってくるのは、明子の死を告げるためである。紋付の喪服姿である。座敷で読み物をしていた喜久子の前に突然孝子が現れ、「お母さん」と呼びかける。目を上げた喜久子に孝子は、「あきちゃん死にました」と睨むようにして言う。「まぁ!どうして?いつ?」と驚く喜久子に向かって何も答えず、「お母さんのせいです」とだけ言って踵を返す。
残された喜久子は店番を投げ出して、ふらふらと外に出て行く。路地に孝子の姿を追うかのような仕草をするが、孝子はいるはずもない。スカーフと外套姿の、死んだ明子と年恰好も同じような娘が一人すれ違う。喜久子が腰を落ち着けるのは「Bar EDEN]と書かれた看板の向かいにある飲み屋である。盃を手に悄然とする喜久子。やがて喜久子を探して店に入ってきた亭主に北海道へ行くという。以前から「相馬」と言う亭主の知り合いに誘われていたのだ。
最後に母子が対面するのは杉山家の玄関である。黒っぽいコートの着物姿の喜久子が花束を手に急坂を上がってくる。杉山家の玄関先に、なぜか、みすぼらしい犬がうろうろしている。家を探している喜久子に教えるように塀の中に入って行く。喜久子が玄関を入ると、三和土と廊下の仕切りの戸が開いていて、ガラスの枠がない。カメラが正面から喜久子の姿を映す。「ごめんください」と呼んで、玄関先に落ちていたガラガラを手に取って三和土に戻す。もう一度「ごめん下さい」と呼ぶと「はい」と小さな声がして、孝子が現れる。無言で廊下に座り込む孝子。喜久子が「さっきはどうも。電話で・・・・・・あたし、今晩九時半の汽車で北海道へたつの。これ、あきちゃんにお供えしたいと思って」と花束を目で示すが、孝子は黙ったままである。「いけないかしら」と言う喜久子。今度は「じゃ、これ」と花束を突き出すようにする。ようやく孝子は花束を受け取るが、やはり無言である。
「それじゃ、もう会えないかもわからないけど、いつまでも元気でね。じゃ、帰るわ。じゃ、さよなら」と喜久子は帰っていく。喜久子が玄関を出ると泣き崩れる孝子。黙っていたのは、泣くのを我慢していたのだ。
夜の上野駅。「12」とホームの番線を示す数字がある。さまざまな見送り客と乗客でごった返すホーム。なぜか明治大学の校歌を合唱する応援団もいる。喜久子はホームの人混みの中に孝子の姿をさがしている。最後は曇った汽車の窓を懐紙で拭いている。
最後まで母を許せない孝子の心には何があるのだろう。喜久子に向き合うときの孝子は、ほとんど能面のように無表情である。それに対して、喜久子は天真爛漫、と言っていいほど無邪気である。そして、可憐なのだ。「苦労したらしいわよ」と大丸で遇った重子が言うように、姦通が犯罪として罰せられた時代に、極寒の異国の地で駆け落ちした相手に死なれ、生き延びて日本に帰ってくるまでの体験は筆舌しがたいものがあっただろう。だが、いくらか生活の影はあるが、それでも、明子が「さぁ、いくつかしら。若く見えるけど。きれいな人よ」と孝子にいうような容姿なのである。素直に「女」であり、「母」なのだ。その「女」と「母」を孝子は許せなかったのだ。何故なら孝子もまた「女」であり「母」だからだ。
明子と喜久子のかかわりは、実は、孝子よりはるかに自然な親子の情に満ちている。麻雀屋で最初に喜久子から声をかけられたとき、明子は素直に応じて、上がり框に腰かけ、喜久子の質問に答えている。帰宅して孝子に「あの人、お母さんじゃないかしら」と言っている。次に、明子は、孝子と口論して家を跳びだし、喜久子を「二人きりで話したい」と呼び出す。喜久子は驚きながらも明るい表情である。麻雀屋の近くの飲み屋の奥の部屋で向かい合って、明子に「おばさん、あたし、いったい誰の子なんです?」と聞かれて、喜久子はとっさに意味が分からない。「自分はずっと子供のことを忘れていなかったと話し出す。だが、明子の関心は自分の父親は誰か、ということなのだ。そのことに気がついた喜久子は憤慨する。
「あんたがお父さんの子だっていうことは、お母さん、誰の前だって立派に言えるのよ。ねぇ、あきちゃん、そのことだけはお母さんを疑わないで。そのことだけは信じて」」と必死に潔白を証しようとする喜久子。女の意地である。明子は涙を浮かべて聞いている。わかってくれる?わかってくれるわね。・・・・ありがとう」という喜久子。だが、明子にとって、喜久子が潔白であるということは、周吉以外に父はいないという事実をつきつけられることなのだ。泣きじゃくる明子に喜久子は妊娠したのではないか、と尋ねる。娘の身を気遣う親心である。
その瞬間明子は顔を上げ、「あたし、子供なんか生みません。一生子どもなんか生まない!」とたたきつけるように言う。もし生んだら、お母さんのように捨てて出ることはしない、思い切り可愛がってやる、と叫び「お母さん、嫌い!」という言葉を残して走り去っていく。直情と直情がぶつかり合って、明子は絶望の淵に追いやられる。喜久子に投げつけた「お母さん、嫌い!」という最後の言葉は、私には「お母さん、助けて!」という悲鳴のように聞こえる。明子が店から駆け出して行ったあと、喜久子はじっと座ったままである。後ろ姿に十字架を背負っているようだ。
明子が死に、喜久子が室蘭に去り、孝子も夫の元に戻って、周吉は一人になる。春がきて、イチジクの枝が伸びてくる。「富沢さん」がまた家事をみるようになった。周吉が家を出て、十字架に見える電柱の立つ街へ坂を下りて行くところで映画は終わる。誰もさばかれない。誰もゆるされない。季節はまた巡ってくる。
周吉と孝子、周吉と明子の父と子の関係、孝子と明子の姉と妹の関係、それから周吉と喜久子、喜久子がなぜ家を出なければならなかったのか、などもっと考えてみたいことはあるのですが、それを文字にすることはこの映画の感想からはみだすような気がします。
今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
2018年3月10日土曜日
小津安二郎『東京暮色』_____孝子の見ているものは何か
『東京暮色』は徹底したリアリズムの映画でありながら、同時に完璧なドラマである。
冒頭周吉がガラス格子の杉山家の玄関を入ると、三和土と廊下の間が障子戸で仕切られている。障子戸の真ん中にガラスがはめ込まれていて、玄関から入ってきた人間は家の内部(と同時にそれは観客の視線でもある)からガラスの枠を通して覗かれることになる。ガラスの枠は廊下の左右にある部屋と廊下を仕切る障子にもはめこまれているので、庄吉が玄関を開けると、ガラス越しに周吉の顔が三面映りだされる。非常に手の込んだ仕掛けである。そうまでして、この徹底的にリアルな映画が「お芝居」で、登場人物は「役者」なのだ、と強調したかったのだろうか。
さて、「ただいま」と帰宅した周吉を「お帰りなさい。お寒かったでしょ」と娘の孝子が出迎える。孝子は夫の沼田との折り合いが悪くて、赤んぼうの道子を連れてこの家に戻ってきたばかりなのだが、いそいそと周吉の着替えを手伝う姿は、ずっとこの家にいて主婦をやってきた女のたたずまいである。孝子がいることを予期していなかった周吉は沼田のことをあれこれ話すが、孝子は話題にしたくない様子である。そんな二人の間に、妹の明子が「お姉さん、お床敷いてあるわよ」と割って入る。何気なく見過ごしてしまうのだが、ここは意味深長な場面である。
このとき初めて周吉は「お前、帰らないのかい?」と孝子に問いかけ、孝子と沼田の関係のただならぬことに気づくのだが、より注目すべきは、いつもより早く帰宅した明子が、周吉より先に孝子から事情を聞いていたのではないかということである。孝子がどこまで話したかはわからないが、道子ともども少なくとも今日は夫の元に戻らないことを、その時点で明子は知っていたのだ。姉妹の間に何らかの「女同志の会話」が成立していたと考えるのが自然だろう。その際に、ずいぶん飛躍したことをいうようだが、孝子は明子の体の変化にまったく気づかないということがあるだろうか。
周吉は沼田の家を訪れて、孝子と沼田の間に何があったのかを聞き出そうとする。本箱と本だけが目立つ寒々としたな部屋で、周吉と沼田が向き合うのだが、沼田は孝子の夫というより父の周吉の年齢に近いように見える。孝子との関係を問われているのに、とうとうと空疎で抽象的な愛情論を述べ立てる沼田は、なんとも軽薄でいやみな男として描かれる。夫に会ったことを周吉から聞いた孝子が「お父さん、気持ち悪くなさらならなかった?」というほどである。
降り出した雪のなか傘もささずに帰宅した周吉を「お困りになったでしょ」と孝子が出迎える。着物に割烹着の主婦のたたずまいである。「沼田に会って来たよ」と切りだす周吉に、孝子の態度が急に変わる。取り合いたくないのだ。着替えもせずに背広姿のまま炬燵に手を突っ込んで、周吉は「お父さん、なんだかお前にすまないような気がしてね」というのである。孝子はふっと涙をこらえているようなバツの悪そうな表情をする。
この後の周吉の言葉に私は耳を疑ってしまった。「こんなんだったら、佐藤なんかのほうが良かったかもしれないよ。お前も嫌いじゃないらしかったし」と言うのである。「佐藤なんかのほうがよかった」__「佐藤がよかった」のではない。「佐藤なんか」「のほう」がよかった、のである。沼田以外に「佐藤」という候補者がいて、いまとなってはそちらのほうがよかった、と言っているのではない。たいして(周吉の)意に沿うわけではないが、こんなことなら他にもいる候補者のなかで「佐藤なんか」のほうがよかった、と言っているのだ。この瞬間孝子の表情は凍り付く。だが、すぐに「いいのよお父さん。もういいの」と孝子はとりなすように言って、伏し目がちにややはにかんだ甘やかな若い女の顔になる。だが、周吉はさらに「だけど、お前に無理にすすめて」と続けるのである。
この場面から読み取れるのは、孝子は、「佐藤なんか」のほうが、少なくとも沼田よりは好きだった、ということ、それを、どんな事情があるのか、周吉が「無理にすすめて」沼田を孝子の夫に選んだ、ということである。周吉と沼田、そして「佐藤」の関係はよくわからないが、大学の先輩と後輩の関係だろうか。その結果、「無理にすすめられて」結婚した沼田と孝子はどちらも不幸になっている。その原因は直接にも間接にも周吉にあるのだ。温厚で朴訥に見える周吉が、なぜ孝子に意に沿わぬ結婚を強いたのか。
前回、これは父子家庭の物語である、と書いた。父周吉と孝子、明子の姉妹の物語である。そのうち、周吉と孝子の父子関係は冒頭のシーンから映像が雄弁に物語っている。不在の母の役割を長女の孝子が担ってきたのである。あるときは周吉の妻のように、周吉に寄り添って。孝子が着物姿で登場する時は齢の離れた夫婦のように見える。一方、明子と周吉の関係はどうだったのだろう。
周吉が沼田に会いに行った夜、周吉より少し遅れて明子が帰ってくる。玄関で雪を払いながら入ってきた明子がそのまま二階に上がって行こうとするのを、周吉が「おい!」と呼び止めるが、明子は立ったまま「なあに」と面白くなさそうな顔でこたえる。周吉が「お前、叔母さんに金借りに行ったってね。なんでお父さんに言わなかったんだ」と問い詰めるが、明子は「もういいの。もう済んじゃったんだから」とその場を離れようとする。金の使い道をきかれても「友達が困っていたから」とうそをつく。被っていたスカーフは脱いでいるが、外套を着たままの姿で、これも背広姿の周吉との間には、最初から険悪な空気が漂っている。
次に周吉と明子が相対するのは、憲ちゃんを待って深夜喫茶にいた明子が警察に補導され、周吉に内緒で孝子が引き取りに行った晩である。警察からの再度の電話で事情を知った周吉が明子を問い詰める。この場面の周吉は、これ以外では見せることのない冷酷で厳しい顔つきである。明子はしようことなく周吉の前に座るが、下を向いて黙っている。「うちには、警察なんかに呼ばれるものはいないはずだ」と言う周吉。何を問い詰められても黙っているだけの明子に、周吉はついに「なぜ黙っているんだ。そんなやつはお父さんの子じゃない」と言い放つ。「お父さん、そんな」と孝子が周吉を押しとどめて、やっと明子は解放される。この間、明子はスカーフを被り、外套も着たままである。
明子を二階にやって、周吉と孝子が話し合う場面がある。「どうしてあんな風になったか。困ったもんだ」と周吉がつぶやく。それに対して、孝子が「あきちゃんもさびしいのよ、きっと」と答えるのだが、このとき一瞬孝子の口もとに微笑のようなものが浮かぶ。この後、周吉は、明子にはさびしい思いをさせないように、ときには孝子がひがむのではないかと思うくらい可愛がって育ててきた、と述懐し「いやぁ、子供を育てるってのは難しいもんだ」と嘆く。すると、微笑のようなものが、周吉の言葉を聞き終わった孝子の口もとに再び漂うのだ。口もとだけでなく、目もかすかに笑っているように見える。
これは私の錯覚なのか?「お父さん、お休みになって」と孝子が促して、周吉が隣の部屋に去った後、カメラがしばらく無言の孝子の表情をとらえるのだが、これが何ともいえず、おそろしいのである。一人になった孝子は、やはり微かに笑みを含んだような表情で数秒間じっとしている。それから何かを決意したようにコートを脱ぎ始める。この間ずっと視線は斜め下に向けられている。蛇のような視線である。
このとき孝子が見ていたものは何か、という疑問はいつまでも解決できない問題として私の中に残っている。というより、孝子とはいったい、どういう存在なのだろう。このドラマの中で、孝子はまだ明子の妊娠には気づいていない、という設定になっている。あるいは、最後まで、孝子も周吉も知らなかった、ということかもしれない。この時の孝子が見つめていたものは、妹の妊娠、あるいは酒に溺れる夫との生活、などの具体的な生活の苦悩ではなく、もっとたんてきに地獄そのものかもしれない。沈黙と不動の数秒間は、みずからが地獄の中で生きていることを確認している時間だったのではないか。
ラスト、夫との生活に戻ることを告げる孝子に、周吉が「お前、向こうへ帰って、沼田とうまくやっていけるのかい」と言う。孝子は「やっていきたいと思います。やっていけなくても、やっていかなきゃならないと思います」と答える。孝子は、地獄が日常である生活を生きることを宣言したのである。
孝子の地獄とこの映画のテーマについては、後半姉妹の母がプロットの展開に介入してくる部分も含めて、もっと追いかけなければならないのですが、すでにかなりの長文になってしまったので、ここでいったん切り上げたいと思います。周吉の家をとりまく十字架に見える電柱とイチジクの木と森永牛乳(エンゼルマーク)の木箱についても、できれば、次回で考えてみたいと思っています。できるかどうか、自信はないのですが。
不出来な長文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
冒頭周吉がガラス格子の杉山家の玄関を入ると、三和土と廊下の間が障子戸で仕切られている。障子戸の真ん中にガラスがはめ込まれていて、玄関から入ってきた人間は家の内部(と同時にそれは観客の視線でもある)からガラスの枠を通して覗かれることになる。ガラスの枠は廊下の左右にある部屋と廊下を仕切る障子にもはめこまれているので、庄吉が玄関を開けると、ガラス越しに周吉の顔が三面映りだされる。非常に手の込んだ仕掛けである。そうまでして、この徹底的にリアルな映画が「お芝居」で、登場人物は「役者」なのだ、と強調したかったのだろうか。
さて、「ただいま」と帰宅した周吉を「お帰りなさい。お寒かったでしょ」と娘の孝子が出迎える。孝子は夫の沼田との折り合いが悪くて、赤んぼうの道子を連れてこの家に戻ってきたばかりなのだが、いそいそと周吉の着替えを手伝う姿は、ずっとこの家にいて主婦をやってきた女のたたずまいである。孝子がいることを予期していなかった周吉は沼田のことをあれこれ話すが、孝子は話題にしたくない様子である。そんな二人の間に、妹の明子が「お姉さん、お床敷いてあるわよ」と割って入る。何気なく見過ごしてしまうのだが、ここは意味深長な場面である。
このとき初めて周吉は「お前、帰らないのかい?」と孝子に問いかけ、孝子と沼田の関係のただならぬことに気づくのだが、より注目すべきは、いつもより早く帰宅した明子が、周吉より先に孝子から事情を聞いていたのではないかということである。孝子がどこまで話したかはわからないが、道子ともども少なくとも今日は夫の元に戻らないことを、その時点で明子は知っていたのだ。姉妹の間に何らかの「女同志の会話」が成立していたと考えるのが自然だろう。その際に、ずいぶん飛躍したことをいうようだが、孝子は明子の体の変化にまったく気づかないということがあるだろうか。
周吉は沼田の家を訪れて、孝子と沼田の間に何があったのかを聞き出そうとする。本箱と本だけが目立つ寒々としたな部屋で、周吉と沼田が向き合うのだが、沼田は孝子の夫というより父の周吉の年齢に近いように見える。孝子との関係を問われているのに、とうとうと空疎で抽象的な愛情論を述べ立てる沼田は、なんとも軽薄でいやみな男として描かれる。夫に会ったことを周吉から聞いた孝子が「お父さん、気持ち悪くなさらならなかった?」というほどである。
降り出した雪のなか傘もささずに帰宅した周吉を「お困りになったでしょ」と孝子が出迎える。着物に割烹着の主婦のたたずまいである。「沼田に会って来たよ」と切りだす周吉に、孝子の態度が急に変わる。取り合いたくないのだ。着替えもせずに背広姿のまま炬燵に手を突っ込んで、周吉は「お父さん、なんだかお前にすまないような気がしてね」というのである。孝子はふっと涙をこらえているようなバツの悪そうな表情をする。
この後の周吉の言葉に私は耳を疑ってしまった。「こんなんだったら、佐藤なんかのほうが良かったかもしれないよ。お前も嫌いじゃないらしかったし」と言うのである。「佐藤なんかのほうがよかった」__「佐藤がよかった」のではない。「佐藤なんか」「のほう」がよかった、のである。沼田以外に「佐藤」という候補者がいて、いまとなってはそちらのほうがよかった、と言っているのではない。たいして(周吉の)意に沿うわけではないが、こんなことなら他にもいる候補者のなかで「佐藤なんか」のほうがよかった、と言っているのだ。この瞬間孝子の表情は凍り付く。だが、すぐに「いいのよお父さん。もういいの」と孝子はとりなすように言って、伏し目がちにややはにかんだ甘やかな若い女の顔になる。だが、周吉はさらに「だけど、お前に無理にすすめて」と続けるのである。
この場面から読み取れるのは、孝子は、「佐藤なんか」のほうが、少なくとも沼田よりは好きだった、ということ、それを、どんな事情があるのか、周吉が「無理にすすめて」沼田を孝子の夫に選んだ、ということである。周吉と沼田、そして「佐藤」の関係はよくわからないが、大学の先輩と後輩の関係だろうか。その結果、「無理にすすめられて」結婚した沼田と孝子はどちらも不幸になっている。その原因は直接にも間接にも周吉にあるのだ。温厚で朴訥に見える周吉が、なぜ孝子に意に沿わぬ結婚を強いたのか。
前回、これは父子家庭の物語である、と書いた。父周吉と孝子、明子の姉妹の物語である。そのうち、周吉と孝子の父子関係は冒頭のシーンから映像が雄弁に物語っている。不在の母の役割を長女の孝子が担ってきたのである。あるときは周吉の妻のように、周吉に寄り添って。孝子が着物姿で登場する時は齢の離れた夫婦のように見える。一方、明子と周吉の関係はどうだったのだろう。
周吉が沼田に会いに行った夜、周吉より少し遅れて明子が帰ってくる。玄関で雪を払いながら入ってきた明子がそのまま二階に上がって行こうとするのを、周吉が「おい!」と呼び止めるが、明子は立ったまま「なあに」と面白くなさそうな顔でこたえる。周吉が「お前、叔母さんに金借りに行ったってね。なんでお父さんに言わなかったんだ」と問い詰めるが、明子は「もういいの。もう済んじゃったんだから」とその場を離れようとする。金の使い道をきかれても「友達が困っていたから」とうそをつく。被っていたスカーフは脱いでいるが、外套を着たままの姿で、これも背広姿の周吉との間には、最初から険悪な空気が漂っている。
次に周吉と明子が相対するのは、憲ちゃんを待って深夜喫茶にいた明子が警察に補導され、周吉に内緒で孝子が引き取りに行った晩である。警察からの再度の電話で事情を知った周吉が明子を問い詰める。この場面の周吉は、これ以外では見せることのない冷酷で厳しい顔つきである。明子はしようことなく周吉の前に座るが、下を向いて黙っている。「うちには、警察なんかに呼ばれるものはいないはずだ」と言う周吉。何を問い詰められても黙っているだけの明子に、周吉はついに「なぜ黙っているんだ。そんなやつはお父さんの子じゃない」と言い放つ。「お父さん、そんな」と孝子が周吉を押しとどめて、やっと明子は解放される。この間、明子はスカーフを被り、外套も着たままである。
明子を二階にやって、周吉と孝子が話し合う場面がある。「どうしてあんな風になったか。困ったもんだ」と周吉がつぶやく。それに対して、孝子が「あきちゃんもさびしいのよ、きっと」と答えるのだが、このとき一瞬孝子の口もとに微笑のようなものが浮かぶ。この後、周吉は、明子にはさびしい思いをさせないように、ときには孝子がひがむのではないかと思うくらい可愛がって育ててきた、と述懐し「いやぁ、子供を育てるってのは難しいもんだ」と嘆く。すると、微笑のようなものが、周吉の言葉を聞き終わった孝子の口もとに再び漂うのだ。口もとだけでなく、目もかすかに笑っているように見える。
これは私の錯覚なのか?「お父さん、お休みになって」と孝子が促して、周吉が隣の部屋に去った後、カメラがしばらく無言の孝子の表情をとらえるのだが、これが何ともいえず、おそろしいのである。一人になった孝子は、やはり微かに笑みを含んだような表情で数秒間じっとしている。それから何かを決意したようにコートを脱ぎ始める。この間ずっと視線は斜め下に向けられている。蛇のような視線である。
このとき孝子が見ていたものは何か、という疑問はいつまでも解決できない問題として私の中に残っている。というより、孝子とはいったい、どういう存在なのだろう。このドラマの中で、孝子はまだ明子の妊娠には気づいていない、という設定になっている。あるいは、最後まで、孝子も周吉も知らなかった、ということかもしれない。この時の孝子が見つめていたものは、妹の妊娠、あるいは酒に溺れる夫との生活、などの具体的な生活の苦悩ではなく、もっとたんてきに地獄そのものかもしれない。沈黙と不動の数秒間は、みずからが地獄の中で生きていることを確認している時間だったのではないか。
ラスト、夫との生活に戻ることを告げる孝子に、周吉が「お前、向こうへ帰って、沼田とうまくやっていけるのかい」と言う。孝子は「やっていきたいと思います。やっていけなくても、やっていかなきゃならないと思います」と答える。孝子は、地獄が日常である生活を生きることを宣言したのである。
孝子の地獄とこの映画のテーマについては、後半姉妹の母がプロットの展開に介入してくる部分も含めて、もっと追いかけなければならないのですが、すでにかなりの長文になってしまったので、ここでいったん切り上げたいと思います。周吉の家をとりまく十字架に見える電柱とイチジクの木と森永牛乳(エンゼルマーク)の木箱についても、できれば、次回で考えてみたいと思っています。できるかどうか、自信はないのですが。
不出来な長文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2018年3月6日火曜日
小津安二郎『東京暮色』__緻密で隠微な心理劇の指し示すもの__明子を殺したのは誰か
映画館に出向いて映画を観たことはこの齢になるまで数えるほどしかないのに、無料トライアルでたまたま小津安二郎のビデオを見て、あまりの面白さに嵌まってしまった。観ることができたのは、主に戦後の作品である。『晩春』から『秋刀魚の味』まで、そのほとんどが「家族」をテーマにしている。「政治」や「社会」を介入させない、という点でそのこと自体逆に極めて「政治的」であるともいえると思う。今回は、一九五七年に封切られた『東京暮色』について書いてみたい。
小津の作品はどれを取ってみても無駄なシーンや不必要な台詞がないので、活字で紹介するのはなかなか難しいのだが、これは父子家庭の物語である。一家の母は、銀行員の父が京城に赴任中に関係を持った父の部下と出奔して不在である。残された子は三人いて、父親が男手一つで育ててきたが、和ちゃんと呼ばれる兄は「(昭和)二六年に山で遭難」して死んだ。母が出奔したとき三歳だった「明子」と姉(年齢はわからない)の「孝子」が登場する。季節は冬である。
姉の孝子は学者の夫との折り合いが良くなくて、二歳の女の子(「道子」という名である)を連れて、実家に戻っている。妹の明子は短大を卒業して英文速記を習っているが、「憲ちゃん」という男の学生の子をみごもっている。明子がみごもったのを知って、憲ちゃんは逃げ回っている。憲ちゃんの後を追って、不良学生らがたむろする麻雀屋に行くと、麻雀屋の女将が明子に話しかけてくる。明子が小さいときに近所に住んでいたというのだが、明子はその女が自分の母親である、と気づく。
その後、明子は、やっと(偶然に)会えた憲ちゃんに窮状を訴えるが、誠意のある対応をしてもらえない。約束した喫茶店に現れない憲ちゃんを深夜まで待っていた明子は警察に補導されてしまう。孝子に引き取られて帰宅した明子だったが、警察からの電話で事情を知った父に叱責されて、「(そんな子は)お父さんの子ではない」とまで言われてしまう。
絶望の中で明子は堕胎手術を受ける。費用は父の友人の妻に工面してもらったらしい。そんな明子に父の妹が縁談を持ち込んでくる。その折に、父の妹から出奔した母親(喜久子という名であると明かされる)が東京にいると聞いた孝子は、明子に話しかけてきた麻雀屋の女将が母親であると確信して、喜久子に会いに行く。そして、明子が訪ねてきても、母と名乗らないでくれ、と言う。
だが、明子は再び喜久子に会いに行って、問いただすのだ。自分は本当に父の子か、と。潔白を疑われた喜久子は血相を変えて、「お父さんの子じゃなければ、誰の子だと思ってるの」と明子の疑惑を否定する。一縷の望みを託した仮定も否定されて、明子は絶望する。
明子は、その後、またまた偶然に鉢合わせした憲ちゃんの口先だけの言葉に激怒して、彼に平手打ちを食わせ、踏切に飛び込んで電車にはねられる。深夜勤務の看護婦だけがあくびを噛み殺しながら宿直する病院で、父と孝子に看取られ、「死にたくない。もう一度やり直したい」と言いながら、明子は死んでいく。
喪服を着て麻雀屋を訪れた孝子から「あきちゃん死にました。お母さんのせいです」と告げられた喜久子は麻雀屋をたたんで、連れ合いとともに室蘭に行くことを決意する。青森行きの列車の出発時刻が迫る中、喜久子は必死でホームに孝子の姿を求めるが、彼女は来ない。孝子は父に夫のもとに帰って、もう一度やり直すという。彼女の言葉を聞いて、父は明子の遺影に向かって読経のようなものをくちずさむのだ。
以上、稚拙にプロットをたどってみたが、この映画のすばらしさがまったく伝わらないないのがもどかしい。一見、不実な男に弄ばれて身を持ち崩した女の死に至る物語のようだが、実は男の存在は家族の問題を炙り出す触媒の役割なのではないか。これは複雑で隠微な肉親の愛憎と葛藤の物語なのである。温厚で子煩悩の父親、妹思いの気丈な姉、世話好きのやり手実業家の叔母、血族の誰もが「いい人」なのだが、誰も明子を救えなかった。いや、彼らが明子を死に駆り立てたのだ。
映画の冒頭、「小松」という小料理屋に初老の男が入ってくる。主人公の父親杉山周吉である。飲み屋の店先に、たぶん当時は珍しかっただろう大型のオートバイが止まっている。店の中ではこのオートバイの持ち主らしい革ジャン(これも当時は貴重品だったと思われる)を着た男が一人で酒を飲んでいる。女将と周吉、それに先客の男をまじえたさりげない会話から、これ以降の物語の展開に必要な情報が過不足なく提示されていく。
女将と周吉は古いなじみで、家族ぐるみのつきあいのようである。女将は明子も孝子もよく知っているようだ。周吉は銀行員である。だが、どうも、ばりばり仕事をして出世していく、というタイプでもないらしい。「くにからこのわたを送ってきた」という話から、女将の郷里の志摩が話題になり、先客の男が真珠の養殖の話をする。先客の男が「深い海の底で育つ」という真珠の養殖は、この映画のテーマの何らかの寓意なのだろうか。
小料理屋の店内に孝子の夫(沼田という名である)の帽子が掛けてあったことから、周吉は孝子の夫が数日前酔ってこの店を訪れたことを知る。そして、帰宅すると、孝子が赤んぼうの道子を連れて戻ってきている。
ここまでわずか数分間の映像で、周吉と彼を取り巻く家族の不幸が暗示される。明るい飲み屋の店内と一変して、周吉の家のある雑司ヶ谷の坂道の暗いこと。周吉の家は、かなり急な坂道を上がったところにあるのだが、坂道の後ろに十字架のように見える電柱が立っている。家の玄関の前には、(このときは暗くてよくわからないのだが)鉢植えのイチジクの木と大きな壺が置かれ、森永牛乳の木箱が玄関のガラス戸に掛かっている。
これらの映像から、神話的、あるいは宗教的な寓意をよみとることはもちろん可能だが、それよりも徹底してリアルな、緻密に組み立てられた心理劇の伏線として受け取るべきだろう。この心理劇は、孝子を演じる原節子の怖ろしいまでの名演技にかかっているのだが、長くなるので、詳細はまた次回に書きたい。
一カ月間小津三昧で、その割にまとまったことも書けませんが、何とか出だしの部分まで漕ぎつけました。もう少し、怠けないで頑張りたいと思っています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
小津の作品はどれを取ってみても無駄なシーンや不必要な台詞がないので、活字で紹介するのはなかなか難しいのだが、これは父子家庭の物語である。一家の母は、銀行員の父が京城に赴任中に関係を持った父の部下と出奔して不在である。残された子は三人いて、父親が男手一つで育ててきたが、和ちゃんと呼ばれる兄は「(昭和)二六年に山で遭難」して死んだ。母が出奔したとき三歳だった「明子」と姉(年齢はわからない)の「孝子」が登場する。季節は冬である。
姉の孝子は学者の夫との折り合いが良くなくて、二歳の女の子(「道子」という名である)を連れて、実家に戻っている。妹の明子は短大を卒業して英文速記を習っているが、「憲ちゃん」という男の学生の子をみごもっている。明子がみごもったのを知って、憲ちゃんは逃げ回っている。憲ちゃんの後を追って、不良学生らがたむろする麻雀屋に行くと、麻雀屋の女将が明子に話しかけてくる。明子が小さいときに近所に住んでいたというのだが、明子はその女が自分の母親である、と気づく。
その後、明子は、やっと(偶然に)会えた憲ちゃんに窮状を訴えるが、誠意のある対応をしてもらえない。約束した喫茶店に現れない憲ちゃんを深夜まで待っていた明子は警察に補導されてしまう。孝子に引き取られて帰宅した明子だったが、警察からの電話で事情を知った父に叱責されて、「(そんな子は)お父さんの子ではない」とまで言われてしまう。
絶望の中で明子は堕胎手術を受ける。費用は父の友人の妻に工面してもらったらしい。そんな明子に父の妹が縁談を持ち込んでくる。その折に、父の妹から出奔した母親(喜久子という名であると明かされる)が東京にいると聞いた孝子は、明子に話しかけてきた麻雀屋の女将が母親であると確信して、喜久子に会いに行く。そして、明子が訪ねてきても、母と名乗らないでくれ、と言う。
だが、明子は再び喜久子に会いに行って、問いただすのだ。自分は本当に父の子か、と。潔白を疑われた喜久子は血相を変えて、「お父さんの子じゃなければ、誰の子だと思ってるの」と明子の疑惑を否定する。一縷の望みを託した仮定も否定されて、明子は絶望する。
明子は、その後、またまた偶然に鉢合わせした憲ちゃんの口先だけの言葉に激怒して、彼に平手打ちを食わせ、踏切に飛び込んで電車にはねられる。深夜勤務の看護婦だけがあくびを噛み殺しながら宿直する病院で、父と孝子に看取られ、「死にたくない。もう一度やり直したい」と言いながら、明子は死んでいく。
喪服を着て麻雀屋を訪れた孝子から「あきちゃん死にました。お母さんのせいです」と告げられた喜久子は麻雀屋をたたんで、連れ合いとともに室蘭に行くことを決意する。青森行きの列車の出発時刻が迫る中、喜久子は必死でホームに孝子の姿を求めるが、彼女は来ない。孝子は父に夫のもとに帰って、もう一度やり直すという。彼女の言葉を聞いて、父は明子の遺影に向かって読経のようなものをくちずさむのだ。
以上、稚拙にプロットをたどってみたが、この映画のすばらしさがまったく伝わらないないのがもどかしい。一見、不実な男に弄ばれて身を持ち崩した女の死に至る物語のようだが、実は男の存在は家族の問題を炙り出す触媒の役割なのではないか。これは複雑で隠微な肉親の愛憎と葛藤の物語なのである。温厚で子煩悩の父親、妹思いの気丈な姉、世話好きのやり手実業家の叔母、血族の誰もが「いい人」なのだが、誰も明子を救えなかった。いや、彼らが明子を死に駆り立てたのだ。
映画の冒頭、「小松」という小料理屋に初老の男が入ってくる。主人公の父親杉山周吉である。飲み屋の店先に、たぶん当時は珍しかっただろう大型のオートバイが止まっている。店の中ではこのオートバイの持ち主らしい革ジャン(これも当時は貴重品だったと思われる)を着た男が一人で酒を飲んでいる。女将と周吉、それに先客の男をまじえたさりげない会話から、これ以降の物語の展開に必要な情報が過不足なく提示されていく。
女将と周吉は古いなじみで、家族ぐるみのつきあいのようである。女将は明子も孝子もよく知っているようだ。周吉は銀行員である。だが、どうも、ばりばり仕事をして出世していく、というタイプでもないらしい。「くにからこのわたを送ってきた」という話から、女将の郷里の志摩が話題になり、先客の男が真珠の養殖の話をする。先客の男が「深い海の底で育つ」という真珠の養殖は、この映画のテーマの何らかの寓意なのだろうか。
小料理屋の店内に孝子の夫(沼田という名である)の帽子が掛けてあったことから、周吉は孝子の夫が数日前酔ってこの店を訪れたことを知る。そして、帰宅すると、孝子が赤んぼうの道子を連れて戻ってきている。
ここまでわずか数分間の映像で、周吉と彼を取り巻く家族の不幸が暗示される。明るい飲み屋の店内と一変して、周吉の家のある雑司ヶ谷の坂道の暗いこと。周吉の家は、かなり急な坂道を上がったところにあるのだが、坂道の後ろに十字架のように見える電柱が立っている。家の玄関の前には、(このときは暗くてよくわからないのだが)鉢植えのイチジクの木と大きな壺が置かれ、森永牛乳の木箱が玄関のガラス戸に掛かっている。
これらの映像から、神話的、あるいは宗教的な寓意をよみとることはもちろん可能だが、それよりも徹底してリアルな、緻密に組み立てられた心理劇の伏線として受け取るべきだろう。この心理劇は、孝子を演じる原節子の怖ろしいまでの名演技にかかっているのだが、長くなるので、詳細はまた次回に書きたい。
一カ月間小津三昧で、その割にまとまったことも書けませんが、何とか出だしの部分まで漕ぎつけました。もう少し、怠けないで頑張りたいと思っています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2018年1月1日月曜日
大江健三郎『晩年様式集』__私らは生き直すことができるか
非常に粗雑なたどり方ながら『晩年様式集』まで来てしまうと、ある種の到達感、というより虚脱感を覚えてしまって、何も書けないでいる。書くことはあって、むしろ、書かなければならないことは確実にあるのだが、作品論のかたちをとれないのだ。ひとえに私が怠惰なためである。この場を借りて、書かなければならないことをひとつだけ挙げておこう。『晩年様式集』の結びの部分にある
私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。
という詞章について、私はどうしても受け入れられないのだ。
敗戦の日、玉音放送の後、小学校の校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだ。それに対して作者の母親が述べた言葉が上記の詞章である。作者はこの言葉を『形見の歌』と名付けた詩集のなかの一編に引用し、その一編の結びの詞章ともしている。ことわっておくが、この詩は作者が七十歳のとき、つまり三・一一以前の詩である。生まれたばかりの初孫に一瞬自分の似姿を見た作者が、その子の生きてゆく歳月の過酷さを思い、老境にある自らの窮状をみつめつつも、最後にこう結ぶ。
否定性の確立とは、
なまなかの希望に対してはもとより、
いかなる絶望にも
同調せぬことだ・・・・・・
ここにいる一歳の 無垢なるものは、
すべてにおいて 新しく、
盛んに
手探りしている
私のなかで
母親の言葉が、
はじめて 謎でなくなる。
小さなものらに、老人は答えたい、
私は生き直すことができない。しかし
私らは生き直すことができる。
否定の確立が絶望の肯定ではない、という命題に異論はない。キルケゴールのいうように「絶望は罪である」だろう。だが、そのことと、この世に生を受けて間もない存在を登場させ、「私らは生き直すことができる。」と結んでいいのか。一連の詞章の流れから、この結句がすんなりとおさまってしまいそうなのが、危険である。
「私らは」の語感は複雑である。ささいなことにこだわるようだが、「ら」という接尾語は一般には相手にたいして自らを卑下するときに使われることが多いように思う。
憶良らはいまは罷からむ 子泣くらむ そもその母も吾を待つらむぞ
という万葉集の歌がある。現代語でも、謙遜というより卑下のニュアンスがつきまとう。それがある種の開き直りにつながり、そこから作中アサのいう「母には校長さんに対して覚悟を決めているところがあって」という態度につながるのだろう。
「大君の辺にこそ死なめ」と歌わせた校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだとき、作者の母親が「私は生き直すことができない」としながら「私らは生き直すことができる」と言ったのは母親の果敢な抵抗精神である。「私ら」には「私」が含まれるのだ。校長のような偉いさんはどうでも、庶民の「私」「ら」は生き直す、と。それに対して、『形見の歌』の「私ら」はどうだろう。七十歳の「私」は「盛んに手探りする」初孫_次世代に「私ら」の内容を託そうとしているのではないか。
話は少しそれるが、大江健三郎は伊丹十三の死をあつかった『取り換え子』の最後にも、ナイジェリアの作家ウオーレ・ショインカの戯曲『死と王の先導者』から
__もう死んでしまった者らのことは忘れよう。生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちにだけ向けておくれ。
という結びの台詞を引用している。ウオーレ・ショインカという作家は一九三四年生まれで一九八六年にノーベル文学賞を受賞している。だが、不思議なことに、ノーベル賞大好きの日本の出版界がショインカの作品を翻訳出版していないようなので、『死と王の先導者』について詳しく知ることはできない。(作中の訳は大江健三郎がつけたもので、「死んでしまった者ら」、「生きている者ら」の「ら」と「あなた方」の「方」、「まだ生まれて来ない者たち」の「たち」と複数形を使い分けていることにも注意してほしい)ウィキペディアによると、王に殉死するはずだった馬番が、英国人の行政官夫妻の善意で、儀式の際中に逮捕、監禁される。英国に留学中だった馬番の長男が帰国し後継者になるが、憤った民衆に殺されてしまう。馬番は女族長に罵倒され、汚辱の中に死ぬ、というあらすじのようである。上記の台詞は最後に女族長が投げかけた言葉である。
戯曲が発表されたのが一九五九年で、ナイジェリアが独立する前、ショインカは二五歳である。この後、ナイジェリアは長い内戦状態になるのだが、若きショインカは過去と訣別の宣言をしたのだ。この台詞を、大江健三郎は『取り換え子』の最後で、塙吾良の最後の恋人とされる浦シマの出産に立ち会うためドイツに出発する千樫にむけた餞の言葉として小説を結ぶ。吾良は死んだ。だが、その吾良が最後に愛した浦シマが、吾良の子ではないが、孕んでいる。千樫は吾良の妹として、また古義人の妻として、浦シマを支えるべく日本から出国する。
ストーリーの流れから、すんなり読めて納得してしまいそうになるのだが、私は最初から微かな、だが確実な違和感、もっといえば不快感を覚えていた。これは、ふつうの言葉でいえば、ご都合主義ということになるのではないか。ショインカの戯曲の女族長の台詞を、そのベクトルの向きを正反対にして、換骨奪胎して使ったのではないか。
「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」美しい言葉である。しかし、この言葉は死への誘惑__「私」の死と「私らの生」とを肯定する方向を向いていないか。「私」が生き直すことができないで、「私ら」は生き直すことができるのか。できる、という発想は「大君の辺にこそ死なめ」に再びつながらないといえるのか。少なくとも文学は、それがプロパガンダでないなら、「私は生き直すことができない」から出発し、その原点を離れることなく現実を撃つのではないだろうか。
大江健三郎という存在は何なのか。
大江健三郎という存在を考えるにあたって、一九六四年に発表された二つの小説『個人的な体験』と『日常生活の冒険』をとりあげてみたかったのですが、まだ力不足のようです。大江は『日常生活の冒険』の中で、早々に伊丹十三(作品中では斎木犀吉)を死なせてしまっています。一方『個人的な体験』では、障害をもった子の父親として現実生活を担う決意を宣言します。伊丹十三はその後魅力的なマルチタレント(ほんとうに才気あふれるという意味でのタレント)として活躍し、大江は職業作家としてつねに時代の第一人者となります。その意味で一九六四年という年とこの二つの作風のまったく異なる小説は重要だと思うのですが、いくらかでもまとまったことを書くにはもう少し時間がほしいと思っています。
今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。
私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。
という詞章について、私はどうしても受け入れられないのだ。
敗戦の日、玉音放送の後、小学校の校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだ。それに対して作者の母親が述べた言葉が上記の詞章である。作者はこの言葉を『形見の歌』と名付けた詩集のなかの一編に引用し、その一編の結びの詞章ともしている。ことわっておくが、この詩は作者が七十歳のとき、つまり三・一一以前の詩である。生まれたばかりの初孫に一瞬自分の似姿を見た作者が、その子の生きてゆく歳月の過酷さを思い、老境にある自らの窮状をみつめつつも、最後にこう結ぶ。
否定性の確立とは、
なまなかの希望に対してはもとより、
いかなる絶望にも
同調せぬことだ・・・・・・
ここにいる一歳の 無垢なるものは、
すべてにおいて 新しく、
盛んに
手探りしている
私のなかで
母親の言葉が、
はじめて 謎でなくなる。
小さなものらに、老人は答えたい、
私は生き直すことができない。しかし
私らは生き直すことができる。
否定の確立が絶望の肯定ではない、という命題に異論はない。キルケゴールのいうように「絶望は罪である」だろう。だが、そのことと、この世に生を受けて間もない存在を登場させ、「私らは生き直すことができる。」と結んでいいのか。一連の詞章の流れから、この結句がすんなりとおさまってしまいそうなのが、危険である。
「私らは」の語感は複雑である。ささいなことにこだわるようだが、「ら」という接尾語は一般には相手にたいして自らを卑下するときに使われることが多いように思う。
憶良らはいまは罷からむ 子泣くらむ そもその母も吾を待つらむぞ
という万葉集の歌がある。現代語でも、謙遜というより卑下のニュアンスがつきまとう。それがある種の開き直りにつながり、そこから作中アサのいう「母には校長さんに対して覚悟を決めているところがあって」という態度につながるのだろう。
「大君の辺にこそ死なめ」と歌わせた校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだとき、作者の母親が「私は生き直すことができない」としながら「私らは生き直すことができる」と言ったのは母親の果敢な抵抗精神である。「私ら」には「私」が含まれるのだ。校長のような偉いさんはどうでも、庶民の「私」「ら」は生き直す、と。それに対して、『形見の歌』の「私ら」はどうだろう。七十歳の「私」は「盛んに手探りする」初孫_次世代に「私ら」の内容を託そうとしているのではないか。
話は少しそれるが、大江健三郎は伊丹十三の死をあつかった『取り換え子』の最後にも、ナイジェリアの作家ウオーレ・ショインカの戯曲『死と王の先導者』から
__もう死んでしまった者らのことは忘れよう。生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちにだけ向けておくれ。
という結びの台詞を引用している。ウオーレ・ショインカという作家は一九三四年生まれで一九八六年にノーベル文学賞を受賞している。だが、不思議なことに、ノーベル賞大好きの日本の出版界がショインカの作品を翻訳出版していないようなので、『死と王の先導者』について詳しく知ることはできない。(作中の訳は大江健三郎がつけたもので、「死んでしまった者ら」、「生きている者ら」の「ら」と「あなた方」の「方」、「まだ生まれて来ない者たち」の「たち」と複数形を使い分けていることにも注意してほしい)ウィキペディアによると、王に殉死するはずだった馬番が、英国人の行政官夫妻の善意で、儀式の際中に逮捕、監禁される。英国に留学中だった馬番の長男が帰国し後継者になるが、憤った民衆に殺されてしまう。馬番は女族長に罵倒され、汚辱の中に死ぬ、というあらすじのようである。上記の台詞は最後に女族長が投げかけた言葉である。
戯曲が発表されたのが一九五九年で、ナイジェリアが独立する前、ショインカは二五歳である。この後、ナイジェリアは長い内戦状態になるのだが、若きショインカは過去と訣別の宣言をしたのだ。この台詞を、大江健三郎は『取り換え子』の最後で、塙吾良の最後の恋人とされる浦シマの出産に立ち会うためドイツに出発する千樫にむけた餞の言葉として小説を結ぶ。吾良は死んだ。だが、その吾良が最後に愛した浦シマが、吾良の子ではないが、孕んでいる。千樫は吾良の妹として、また古義人の妻として、浦シマを支えるべく日本から出国する。
ストーリーの流れから、すんなり読めて納得してしまいそうになるのだが、私は最初から微かな、だが確実な違和感、もっといえば不快感を覚えていた。これは、ふつうの言葉でいえば、ご都合主義ということになるのではないか。ショインカの戯曲の女族長の台詞を、そのベクトルの向きを正反対にして、換骨奪胎して使ったのではないか。
「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」美しい言葉である。しかし、この言葉は死への誘惑__「私」の死と「私らの生」とを肯定する方向を向いていないか。「私」が生き直すことができないで、「私ら」は生き直すことができるのか。できる、という発想は「大君の辺にこそ死なめ」に再びつながらないといえるのか。少なくとも文学は、それがプロパガンダでないなら、「私は生き直すことができない」から出発し、その原点を離れることなく現実を撃つのではないだろうか。
大江健三郎という存在は何なのか。
大江健三郎という存在を考えるにあたって、一九六四年に発表された二つの小説『個人的な体験』と『日常生活の冒険』をとりあげてみたかったのですが、まだ力不足のようです。大江は『日常生活の冒険』の中で、早々に伊丹十三(作品中では斎木犀吉)を死なせてしまっています。一方『個人的な体験』では、障害をもった子の父親として現実生活を担う決意を宣言します。伊丹十三はその後魅力的なマルチタレント(ほんとうに才気あふれるという意味でのタレント)として活躍し、大江は職業作家としてつねに時代の第一人者となります。その意味で一九六四年という年とこの二つの作風のまったく異なる小説は重要だと思うのですが、いくらかでもまとまったことを書くにはもう少し時間がほしいと思っています。
今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。