『東京暮色』は徹底したリアリズムの映画でありながら、同時に完璧なドラマである。
冒頭周吉がガラス格子の杉山家の玄関を入ると、三和土と廊下の間が障子戸で仕切られている。障子戸の真ん中にガラスがはめ込まれていて、玄関から入ってきた人間は家の内部(と同時にそれは観客の視線でもある)からガラスの枠を通して覗かれることになる。ガラスの枠は廊下の左右にある部屋と廊下を仕切る障子にもはめこまれているので、庄吉が玄関を開けると、ガラス越しに周吉の顔が三面映りだされる。非常に手の込んだ仕掛けである。そうまでして、この徹底的にリアルな映画が「お芝居」で、登場人物は「役者」なのだ、と強調したかったのだろうか。
さて、「ただいま」と帰宅した周吉を「お帰りなさい。お寒かったでしょ」と娘の孝子が出迎える。孝子は夫の沼田との折り合いが悪くて、赤んぼうの道子を連れてこの家に戻ってきたばかりなのだが、いそいそと周吉の着替えを手伝う姿は、ずっとこの家にいて主婦をやってきた女のたたずまいである。孝子がいることを予期していなかった周吉は沼田のことをあれこれ話すが、孝子は話題にしたくない様子である。そんな二人の間に、妹の明子が「お姉さん、お床敷いてあるわよ」と割って入る。何気なく見過ごしてしまうのだが、ここは意味深長な場面である。
このとき初めて周吉は「お前、帰らないのかい?」と孝子に問いかけ、孝子と沼田の関係のただならぬことに気づくのだが、より注目すべきは、いつもより早く帰宅した明子が、周吉より先に孝子から事情を聞いていたのではないかということである。孝子がどこまで話したかはわからないが、道子ともども少なくとも今日は夫の元に戻らないことを、その時点で明子は知っていたのだ。姉妹の間に何らかの「女同志の会話」が成立していたと考えるのが自然だろう。その際に、ずいぶん飛躍したことをいうようだが、孝子は明子の体の変化にまったく気づかないということがあるだろうか。
周吉は沼田の家を訪れて、孝子と沼田の間に何があったのかを聞き出そうとする。本箱と本だけが目立つ寒々としたな部屋で、周吉と沼田が向き合うのだが、沼田は孝子の夫というより父の周吉の年齢に近いように見える。孝子との関係を問われているのに、とうとうと空疎で抽象的な愛情論を述べ立てる沼田は、なんとも軽薄でいやみな男として描かれる。夫に会ったことを周吉から聞いた孝子が「お父さん、気持ち悪くなさらならなかった?」というほどである。
降り出した雪のなか傘もささずに帰宅した周吉を「お困りになったでしょ」と孝子が出迎える。着物に割烹着の主婦のたたずまいである。「沼田に会って来たよ」と切りだす周吉に、孝子の態度が急に変わる。取り合いたくないのだ。着替えもせずに背広姿のまま炬燵に手を突っ込んで、周吉は「お父さん、なんだかお前にすまないような気がしてね」というのである。孝子はふっと涙をこらえているようなバツの悪そうな表情をする。
この後の周吉の言葉に私は耳を疑ってしまった。「こんなんだったら、佐藤なんかのほうが良かったかもしれないよ。お前も嫌いじゃないらしかったし」と言うのである。「佐藤なんかのほうがよかった」__「佐藤がよかった」のではない。「佐藤なんか」「のほう」がよかった、のである。沼田以外に「佐藤」という候補者がいて、いまとなってはそちらのほうがよかった、と言っているのではない。たいして(周吉の)意に沿うわけではないが、こんなことなら他にもいる候補者のなかで「佐藤なんか」のほうがよかった、と言っているのだ。この瞬間孝子の表情は凍り付く。だが、すぐに「いいのよお父さん。もういいの」と孝子はとりなすように言って、伏し目がちにややはにかんだ甘やかな若い女の顔になる。だが、周吉はさらに「だけど、お前に無理にすすめて」と続けるのである。
この場面から読み取れるのは、孝子は、「佐藤なんか」のほうが、少なくとも沼田よりは好きだった、ということ、それを、どんな事情があるのか、周吉が「無理にすすめて」沼田を孝子の夫に選んだ、ということである。周吉と沼田、そして「佐藤」の関係はよくわからないが、大学の先輩と後輩の関係だろうか。その結果、「無理にすすめられて」結婚した沼田と孝子はどちらも不幸になっている。その原因は直接にも間接にも周吉にあるのだ。温厚で朴訥に見える周吉が、なぜ孝子に意に沿わぬ結婚を強いたのか。
前回、これは父子家庭の物語である、と書いた。父周吉と孝子、明子の姉妹の物語である。そのうち、周吉と孝子の父子関係は冒頭のシーンから映像が雄弁に物語っている。不在の母の役割を長女の孝子が担ってきたのである。あるときは周吉の妻のように、周吉に寄り添って。孝子が着物姿で登場する時は齢の離れた夫婦のように見える。一方、明子と周吉の関係はどうだったのだろう。
周吉が沼田に会いに行った夜、周吉より少し遅れて明子が帰ってくる。玄関で雪を払いながら入ってきた明子がそのまま二階に上がって行こうとするのを、周吉が「おい!」と呼び止めるが、明子は立ったまま「なあに」と面白くなさそうな顔でこたえる。周吉が「お前、叔母さんに金借りに行ったってね。なんでお父さんに言わなかったんだ」と問い詰めるが、明子は「もういいの。もう済んじゃったんだから」とその場を離れようとする。金の使い道をきかれても「友達が困っていたから」とうそをつく。被っていたスカーフは脱いでいるが、外套を着たままの姿で、これも背広姿の周吉との間には、最初から険悪な空気が漂っている。
次に周吉と明子が相対するのは、憲ちゃんを待って深夜喫茶にいた明子が警察に補導され、周吉に内緒で孝子が引き取りに行った晩である。警察からの再度の電話で事情を知った周吉が明子を問い詰める。この場面の周吉は、これ以外では見せることのない冷酷で厳しい顔つきである。明子はしようことなく周吉の前に座るが、下を向いて黙っている。「うちには、警察なんかに呼ばれるものはいないはずだ」と言う周吉。何を問い詰められても黙っているだけの明子に、周吉はついに「なぜ黙っているんだ。そんなやつはお父さんの子じゃない」と言い放つ。「お父さん、そんな」と孝子が周吉を押しとどめて、やっと明子は解放される。この間、明子はスカーフを被り、外套も着たままである。
明子を二階にやって、周吉と孝子が話し合う場面がある。「どうしてあんな風になったか。困ったもんだ」と周吉がつぶやく。それに対して、孝子が「あきちゃんもさびしいのよ、きっと」と答えるのだが、このとき一瞬孝子の口もとに微笑のようなものが浮かぶ。この後、周吉は、明子にはさびしい思いをさせないように、ときには孝子がひがむのではないかと思うくらい可愛がって育ててきた、と述懐し「いやぁ、子供を育てるってのは難しいもんだ」と嘆く。すると、微笑のようなものが、周吉の言葉を聞き終わった孝子の口もとに再び漂うのだ。口もとだけでなく、目もかすかに笑っているように見える。
これは私の錯覚なのか?「お父さん、お休みになって」と孝子が促して、周吉が隣の部屋に去った後、カメラがしばらく無言の孝子の表情をとらえるのだが、これが何ともいえず、おそろしいのである。一人になった孝子は、やはり微かに笑みを含んだような表情で数秒間じっとしている。それから何かを決意したようにコートを脱ぎ始める。この間ずっと視線は斜め下に向けられている。蛇のような視線である。
このとき孝子が見ていたものは何か、という疑問はいつまでも解決できない問題として私の中に残っている。というより、孝子とはいったい、どういう存在なのだろう。このドラマの中で、孝子はまだ明子の妊娠には気づいていない、という設定になっている。あるいは、最後まで、孝子も周吉も知らなかった、ということかもしれない。この時の孝子が見つめていたものは、妹の妊娠、あるいは酒に溺れる夫との生活、などの具体的な生活の苦悩ではなく、もっとたんてきに地獄そのものかもしれない。沈黙と不動の数秒間は、みずからが地獄の中で生きていることを確認している時間だったのではないか。
ラスト、夫との生活に戻ることを告げる孝子に、周吉が「お前、向こうへ帰って、沼田とうまくやっていけるのかい」と言う。孝子は「やっていきたいと思います。やっていけなくても、やっていかなきゃならないと思います」と答える。孝子は、地獄が日常である生活を生きることを宣言したのである。
孝子の地獄とこの映画のテーマについては、後半姉妹の母がプロットの展開に介入してくる部分も含めて、もっと追いかけなければならないのですが、すでにかなりの長文になってしまったので、ここでいったん切り上げたいと思います。周吉の家をとりまく十字架に見える電柱とイチジクの木と森永牛乳(エンゼルマーク)の木箱についても、できれば、次回で考えてみたいと思っています。できるかどうか、自信はないのですが。
不出来な長文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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