2018年3月14日水曜日

小津安二郎『東京暮色』__母の背負う十字架

 最初に私は「これは父子家庭の物語である」と書いた。だが、同時に、これは「母の物語」である。母と子ではなくて、「母と女」の物語だ。あるいは「母と女の子」の物語である。主題を明瞭にするため、「母と男の子」の物語は慎重に排除されている。姉妹の兄の「和ちゃん」は谷川岳で死んだことになっている。

 テーマ音楽が流れて、高架の線路と巨大なトンネルが映し出される。「壽荘スグソコ」という矢印の看板が画面の右端に映る。車の入れない狭い通路の両側に、飲食店がひしめきあっている「。壽荘」はそのなかの二階にある。何組もの客が卓を囲んでいて、明子もその中にいる。店番をしていた亭主が店屋物の注文を取り次ぎに出ると、入れ違いのように着物姿に前掛けをかけた中年の女が階段を上ってきて、「いらっしゃい」と客に挨拶する。すると、明子の卓をのぞき込んでいた若い男が「ねぇ、おばさん、おばさんの捜していたの、この子だ」と明子を指す。軽くうなづいて「いらっしゃい」という女。不思議そうな顔をしながら明子もうなづく。まじまじと明子を見つめる女。女の視線は明子に釘付けである。

 若い男と卓を交代した明子に女は次々と家族の消息をたずねる。再会した喜びを抑えきれない様子である。いったん戻った亭主が再び出前の取次に外に行ったのをきっかけに、女は明子に座敷に上がるようにすすめ、明子も上がり框に腰かける。英文速記を習っているという明子に「あなたこんなとこちょいちょい来るの?」と聞いて、「ううん、時々」という返事に「そうね。その方がいいわね」と言う女。明子はその後、卓に呼び戻されるのだが、女は何か考え込んでいる様子である。

 女が出奔した母だったことがわかるのは、叔母の重子が明子に縁談をもって杉山家を訪れたときのことである。明子は不在である。縁談話のついでに、重子は偶然に大丸のエスカレーターで母と遇ったと報告する。母は「喜久子」という名であることも明かされる。「山崎さんね、アムールに抑留されている間に亡くなったんですって」と言うので、駆け落ちの相手は山崎という男らしい。「そのことを喜久子さん、腰越じゃない、ブラゴエ、そうブラゴヴェチェンスクよ。そこで風の便りに聞いて、それからナホトカに連れていかれたんですって。今ね、五反田で麻雀屋しているらしいのよ」という重子の言葉に、孝子は先に明子から聞いていた「麻雀屋のおばさん」が母であることを確信する。

 余談だが、「アムール」、「ブラゴヴェチェンスク」、「ナホトカ」という地名は、それぞれ「愛」、「受胎告知」、「発見、掘り出し物」という意味だそうである。喜久子の恋人は「アムール=愛」で抑留されて死に、喜久子はそれを「ブラゴヴェチェンスク=受胎告知で風の便りに聞き」、「ナホトカ=掘り出し物に連れていかれ」て今の亭主と知り合った、ということになる。

 再び高架とトンネルが映し出される。今回は昼で明るい画面である。近くに川があるのか、揺らめく水の影が映る。マスクをして黒っぽい外套を着た孝子が車から降りて壽荘にやってくる。麻雀の牌の音がする二階に上がって、部屋の中を見まわし、座敷の上がり框に腰かけて編み物をしている喜久子に向かって、マスクを外す。「お母さんですか」という孝子。編み物の手を止めて、見上げた喜久子と「孝子です」というやりとりがあって、喜久子は一瞬目を見張るが、次の瞬間喜びを爆発させる。「まぁまぁたかちゃん、さ、上がってちょうだいよ」と編みかけの毛糸を放り出してすすめる。孝子はためらっている。

 やっとのことで座敷に上がる孝子に喜久子は嬉しくて、「本当によく尋ねてきてくれたわねえ。あんたもお母さんになったんだってねえ。女の子だって?可愛いでしょう。ご主人どんな方?何してらっしゃるの?」と矢継ぎ早に話しかける。だが、孝子の表情は硬いままで「お母さん、あたし、お願いがあって来たんです」と切り出すのだ。「あきちゃんに、お母さんだってことおっしゃってほしくないんです」と必死の形相である。一瞬にして笑みが消え、凍り付く喜久子の顔。明子は母の記憶はすべて消えているという。。「お父さんがかわいそうです。そう、お思いになりません?」と孝子は言うのだ。絶句する喜久子に「じゃ、どうぞお願いします。帰ります」と言って、昂然と顎を上げ、足早に孝子は階段を降りていく。

 再び孝子が母のもとにやってくるのは、明子の死を告げるためである。紋付の喪服姿である。座敷で読み物をしていた喜久子の前に突然孝子が現れ、「お母さん」と呼びかける。目を上げた喜久子に孝子は、「あきちゃん死にました」と睨むようにして言う。「まぁ!どうして?いつ?」と驚く喜久子に向かって何も答えず、「お母さんのせいです」とだけ言って踵を返す。

 残された喜久子は店番を投げ出して、ふらふらと外に出て行く。路地に孝子の姿を追うかのような仕草をするが、孝子はいるはずもない。スカーフと外套姿の、死んだ明子と年恰好も同じような娘が一人すれ違う。喜久子が腰を落ち着けるのは「Bar  EDEN]と書かれた看板の向かいにある飲み屋である。盃を手に悄然とする喜久子。やがて喜久子を探して店に入ってきた亭主に北海道へ行くという。以前から「相馬」と言う亭主の知り合いに誘われていたのだ。

 最後に母子が対面するのは杉山家の玄関である。黒っぽいコートの着物姿の喜久子が花束を手に急坂を上がってくる。杉山家の玄関先に、なぜか、みすぼらしい犬がうろうろしている。家を探している喜久子に教えるように塀の中に入って行く。喜久子が玄関を入ると、三和土と廊下の仕切りの戸が開いていて、ガラスの枠がない。カメラが正面から喜久子の姿を映す。「ごめんください」と呼んで、玄関先に落ちていたガラガラを手に取って三和土に戻す。もう一度「ごめん下さい」と呼ぶと「はい」と小さな声がして、孝子が現れる。無言で廊下に座り込む孝子。喜久子が「さっきはどうも。電話で・・・・・・あたし、今晩九時半の汽車で北海道へたつの。これ、あきちゃんにお供えしたいと思って」と花束を目で示すが、孝子は黙ったままである。「いけないかしら」と言う喜久子。今度は「じゃ、これ」と花束を突き出すようにする。ようやく孝子は花束を受け取るが、やはり無言である。

 「それじゃ、もう会えないかもわからないけど、いつまでも元気でね。じゃ、帰るわ。じゃ、さよなら」と喜久子は帰っていく。喜久子が玄関を出ると泣き崩れる孝子。黙っていたのは、泣くのを我慢していたのだ。

 夜の上野駅。「12」とホームの番線を示す数字がある。さまざまな見送り客と乗客でごった返すホーム。なぜか明治大学の校歌を合唱する応援団もいる。喜久子はホームの人混みの中に孝子の姿をさがしている。最後は曇った汽車の窓を懐紙で拭いている。

 最後まで母を許せない孝子の心には何があるのだろう。喜久子に向き合うときの孝子は、ほとんど能面のように無表情である。それに対して、喜久子は天真爛漫、と言っていいほど無邪気である。そして、可憐なのだ。「苦労したらしいわよ」と大丸で遇った重子が言うように、姦通が犯罪として罰せられた時代に、極寒の異国の地で駆け落ちした相手に死なれ、生き延びて日本に帰ってくるまでの体験は筆舌しがたいものがあっただろう。だが、いくらか生活の影はあるが、それでも、明子が「さぁ、いくつかしら。若く見えるけど。きれいな人よ」と孝子にいうような容姿なのである。素直に「女」であり、「母」なのだ。その「女」と「母」を孝子は許せなかったのだ。何故なら孝子もまた「女」であり「母」だからだ。

 明子と喜久子のかかわりは、実は、孝子よりはるかに自然な親子の情に満ちている。麻雀屋で最初に喜久子から声をかけられたとき、明子は素直に応じて、上がり框に腰かけ、喜久子の質問に答えている。帰宅して孝子に「あの人、お母さんじゃないかしら」と言っている。次に、明子は、孝子と口論して家を跳びだし、喜久子を「二人きりで話したい」と呼び出す。喜久子は驚きながらも明るい表情である。麻雀屋の近くの飲み屋の奥の部屋で向かい合って、明子に「おばさん、あたし、いったい誰の子なんです?」と聞かれて、喜久子はとっさに意味が分からない。「自分はずっと子供のことを忘れていなかったと話し出す。だが、明子の関心は自分の父親は誰か、ということなのだ。そのことに気がついた喜久子は憤慨する。

 「あんたがお父さんの子だっていうことは、お母さん、誰の前だって立派に言えるのよ。ねぇ、あきちゃん、そのことだけはお母さんを疑わないで。そのことだけは信じて」」と必死に潔白を証しようとする喜久子。女の意地である。明子は涙を浮かべて聞いている。わかってくれる?わかってくれるわね。・・・・ありがとう」という喜久子。だが、明子にとって、喜久子が潔白であるということは、周吉以外に父はいないという事実をつきつけられることなのだ。泣きじゃくる明子に喜久子は妊娠したのではないか、と尋ねる。娘の身を気遣う親心である。

 その瞬間明子は顔を上げ、「あたし、子供なんか生みません。一生子どもなんか生まない!」とたたきつけるように言う。もし生んだら、お母さんのように捨てて出ることはしない、思い切り可愛がってやる、と叫び「お母さん、嫌い!」という言葉を残して走り去っていく。直情と直情がぶつかり合って、明子は絶望の淵に追いやられる。喜久子に投げつけた「お母さん、嫌い!」という最後の言葉は、私には「お母さん、助けて!」という悲鳴のように聞こえる。明子が店から駆け出して行ったあと、喜久子はじっと座ったままである。後ろ姿に十字架を背負っているようだ。

 明子が死に、喜久子が室蘭に去り、孝子も夫の元に戻って、周吉は一人になる。春がきて、イチジクの枝が伸びてくる。「富沢さん」がまた家事をみるようになった。周吉が家を出て、十字架に見える電柱の立つ街へ坂を下りて行くところで映画は終わる。誰もさばかれない。誰もゆるされない。季節はまた巡ってくる。  

 周吉と孝子、周吉と明子の父と子の関係、孝子と明子の姉と妹の関係、それから周吉と喜久子、喜久子がなぜ家を出なければならなかったのか、などもっと考えてみたいことはあるのですが、それを文字にすることはこの映画の感想からはみだすような気がします。

 今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
 

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