最初の稿で、杉山周吉の家の玄関前にイチジクの鉢植えがある、としたのだが、イチジクではなくヤツデだったようである。イチジクは落葉樹なので、雪の降る季節に葉を茂らせているわけはない。「千客万来」をもたらすとされるヤツデはよく玄関前に植えられるそうなので、ヤツデの木があるるのはとくに珍しいことではなかったようだ。いまはほとんど見かけないが。
『東京暮色』については、もう書くのを終わりにしようと思ったのだが、どうしてもやり残したような気がしてならない。プロットを追いかけての感想はもうお終いにして、少し、独断と偏見に満ちた妄想を書いてみたい。
小津安二郎は、私にとって、謎に満ちた作家である。戦後の作品のほとんどが、大きな事件も起こらず、淡々とした日常生活の機微をこまやかに描いたように見えながら、どこかに微妙な違和感をもたらすシーンが存在する。でも、最後は観客が期待した通りの結末になって、それなりのカタルシスがあるのだが、『東京暮色』には、激情的なドラマがあって、救いがない。救われないことへの絶望もない。まったくの「純文学」で、観客が見終わって得られるものは諦念でしかない。『東京暮色』の前作『早春』も同じように「純文学」だが、こちらはまだいくばくかの希望に近いものを感じることができる。ほんものの「希望」といえるかどうかあやしいのだけれど。
救いがない、と感じるのは、線路に跳び込んだ明子が「死にたくない」「もう一度やり直したい」と言いながら死んでいったことにあるのではない。孝子に拒絶された母の喜久子が室蘭に行ってしまうことでもない。「相馬さん」に誘われて、喜久子が連れ合いと一緒に室蘭に行くことは、むしろ、かすかな救いだろう。救われないのは、愛することのできない夫のもとへ戻っていく孝子であり、それを容認する父の周吉である。とりわけ周吉が明子の遺影に向かってお経のようなものをつぶやくシーンには慄然とするものがあった。
堅実な銀行マンであり、温厚で子煩悩な家庭人として描かれる周吉は一見非の打ちどころがない。だが、その周吉が「無理にすすめて」孝子に不幸な結婚をさせたのである。二歳の子を連れて孝子が家に戻ってくると、「こんなんだったら、佐藤なんかのほうが良かった」と平然といってのける。深夜喫茶で恋人を待っていて警察に補導された明子に「そんな子はお父さんの子じゃない」と言い放つ。周吉役を演じる笠智衆の演技にめくらましされてしまうが、周吉の根底にあるのは冷徹なエゴイズムである。明子を死に追いやったのは、直接には「憲ちゃん」という恋人の不実だが、その深層にあって、しかもトリガーとなったものは、周吉の「そんな子はお父さんの子じゃない」と言う言葉だろう。
ドラマを展開させていくのは三人の女たちの行動で、とりわけ孝子の両義的な存在の描き方は見事である。だが、見終わって、最後に残るのはドラマが始まる前と同じ生活に戻っていく周吉の変わらない日常なのだ。女たちの葛藤が鮮明に描かれれば描かれるほど、葛藤の枠の外にあるかのような周吉の孤独な姿が浮き彫りになってくる。一枚の絵が二通りに見えるだまし絵のようだ。
この映画は『エデンの東』を下敷きにしているといわれる。いくらかプロットに共通するものはあるかもしれない。だが、むしろよりラディカルに「楽園追放」のモチーフが潜んでいるのではないか。喜久子が明子と話をするために入った居酒屋は「Bar EDEN」という看板の店の前にあった。雑司ヶ谷の坂の向こうに浮かび上がる十字架のように見える電柱、周吉の家の玄関にかかる「森永牛乳」(エンゼルマークの暗示?)、喜久子と連れ合いを室蘭に誘う「相馬」_「相馬愛蔵」という有名なキリスト教の牧師を連想させる_などキリスト教もしくはヘブライズムを示唆する要素がさりげなく配置されている。冷徹なエゴイストとして描かれる周吉は、雑司ヶ谷の家の家長、父であり、同時に大文字の「父」_FATHERではなかったか。
もう少し原節子の演じる孝子の両義性、というより小津の映画における彼女の存在の両義性について書きたいのですが、それはまた別の機会にして、『東京暮色』はこれでお終いにしたいと思います。最後まで不出来な感想文につきあってくださって、ありがとうございました。
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