インターネットで『宗方姉妹』と検索すると、ほとんどすべて小津安二郎監督の映画がヒットする。大仏次郎の原作について書かれたものはほとんどない。一九五〇年に初版が出て、その後二社から文庫本も出ているのに、なぜかいまは忘れ去られた存在のようである。原作は一九四九年六月から十二月にかけて朝日新聞に連載された家庭小説で、連載終了から半年余りで映画が公開されている。連載と同時並行で映画が構想されていったのだろうか。だが、それにしては、原作と映画はかなり異なったものになっている。
大佛次郎の原作は、戦後日本の社会の様相を登場人物の行動と心理を通して描く群像小説である。満州国の高級官僚だった父親の宗方忠親、娘の節子、満里子、節子の夫三村亮助、忠親の年少の友人田村宏、田村の愛人の真下頼子が中心である。忠親は公職追放の身で癌に冒されている。満州で特権階級だった一家は何もかも失った。満州の原野を文明都市に変貌させる夢を描いていた技師の三村も失業している。生活のすべがない一家は、切り売りも底をついてしまったため、節子の友人の恵美子の斡旋で酒場を始める。
軌道に乗ったかのように見えた酒場だったが、美恵子が自分についていたお客を連れて別の場所で新たに酒場を始めてしまったため、水商売に不慣れな節子は途方に暮れる。
窮境にあった節子を救ったのは、忠親の友人で節子の初恋の相手だった田代宏だった。宏はパリに留学し、戦後は神戸で高級家具の製作、輸入販売を手掛けて成功していた。彼の提案で、節子は酒場を昼の間画廊にする。作品は宏と交流のある画家たちが提供してくれて、画廊は幸先良いスタートをきる。
画廊の仕事は、節子と宏を急速に接近させた。かつて、お互いに好意以上のものを感じながら口に出せなかった二人は
、十年の歳月を経て頻繁に会う機会を得る。上京した宏と節子がいつものように語らいながら歩いていたときに、節子の夫の三村と鉢合わせしてしまう。帽子を脱いで「やあ!」と大声で挨拶して通り過ぎた三村の態度を二人に対する侮辱と受け止めた節子と宏は宏の宿で結ばれそうになる。だが、京都にいる節子の父に今から報告に行こう、という宏の言葉に、節子ははっと、我に返ったかのように踏みとどまるのだ。そんなことをすれば、病に弱った父が死んでしまう、と。映画と違って原作では、節子は父が癌であることは知らされていないのだが。
「時が来たら、もう、僕らは離れない」「もっと、もっときれいにして待ちましょう」と宏は言って、節子の生活は何事もなかったかのように続いた。そして、数日後、三村の新しい仕事が決まった。勤めにでている節子に置手紙をして、三村は夜行で京都の忠親に報告に向かう。翌日、仕事仲間と飲んで、泥酔状態で帰った三村は忠親の住まいの二階で急死してしまう。
三村の死に対して自責の念を捨てきれない節子は、宏への思いを断ち切る手紙を書いて別れを告げる。書留速達で着いた手紙を読んだ宏が酒場で泣き崩れるのを、かつて愛人だった真下頼子が「可哀想に、苦労して。」と静かに見まもるところで原作は終わる。
『宗方姉妹』というタイトルだが、原作は姉妹を中心に、というよりそれぞれの登場人物を描き分けて、混乱した世相を写しだそうとしている。余命いくばくもないことを宣告された父の忠親は、人生を諦観しているが、自分より若い人間を死なせてしまったことに後ろめたさを感じている。娘の節子はしっかり者だが受動的な人間である。節子の妹の満里子は「忠親が満州に赴任して生まれたことにちなんで名づけられた」とあって、進取の気質に富んで積極的である。節子の夫の三村は、ここが映画ともっとも異なる部分だが、粗野ではあるが、情に厚く、貧乏はしているけれど面倒見のいい人間として描かれている。
節子が想いを寄せていた田代宏は、経済力は身につけたが、優柔不断なところがあって、結局は想いを成就させることができない。宏とフランスで知り合った真下頼子は、戦争未亡人だが父親から証券会社の経営を受け継いで、裕福で洗練された大人の女として描かれている。頼子は、宏のなかに節子への断ち切れない思いがあるのを知って、みずから身を引く。映画と違って、原作は頼子の内側に入り込んで、彼女の側から宏と節子、そして満里子を見ている。
宗方一家は落魄しているが、それでも「雨の漏らない」家に住むことができる中産階級である。生活に困って、お嬢さん育ちの節子が酒場を開くことになったが、そんな彼らを批判的に眺めながらも支える立場の人間として、丹波の山奥から上京してきた前島という青年が登場する。映画では節子の酒場のバーテンで元特攻ということになっているが、原作は普通の兵隊上がりで、運送会社に勤めている。上京するときに山椒魚を生け捕りにして持ってきたというエピソードがある。一杯飲み屋で知り合った三村の誘いで節子の家に住んで一家の下働きもしている。登場人物のなかで、まったくの庶民階級は彼一人だ。彼の目で見ると節子たちは遊んで暮らしているようなのである。
「生活ったら、お嬢さん」と前島は満里子にいう。「もっと、自分で汗をかくことでしょう。東京のひとは、まだ、それをごまかしているように見えるのかね。それで、わしなんかにはあぶなつかしく見えるのかね。」と前島は批判するのだが、そうじて作者は宗方一族に寄り添ってストーリーを展開していく。生活に困るといっても、萬里子はバレーのレッスンに通ったり、姉妹は関西と東京を行ったり来たりして、お寺巡りをする余裕がある。敗戦後四年しか経っていないのに、庶民から見れば夢のような暮らしができるのだ。
この他、原作には、戦時中諜報の仕事をしていて、いまは人の秘密を嗅ぎまわることをメシの種にしている平岩哲三という男も登場するのだが、映画は完全に省略している。平岩の存在だけでなく、小津安二郎の『宗方姉妹』に戦争の影はまったくない。登場人物の原作と比べてかなりデフォルメされた性格と行動が織りなす愛憎の世界に焦点を絞って、プロットも一部改ざんしながら思い切って単純化している。
焦点となるのは、節子と三村の夫婦関係である。映画の中の三村は、たんにアルコールで人格を崩壊された狂人として描かれている。節子の若いころの日記を読んでから、宏と節子の関係を疑い始め、宏に急場を救ってもらった節子を打擲する場面がある。それまで、何をいわれても気丈に耐え献身的に三村に尽くしてきた節子が七回も打たれて、覚悟を決めなおす場面がハイライトである。ところが、原作では打擲する場面などまったくないのである。日記を見るというプロットもない。「女房は、どんなによく出来た女でも、亭主にとっては俗世間の代表だよ」と前島に向かって自嘲気味に述懐しながらも、三村は自省的かつ自制的な人間として描かれている。
映画のなかで三村を一方的に嫌う満里子と三村の関係も原作ではもっと微妙である。満里子は節子と三村が暮らす家を出て、独立して間借り生活を始めるのだが、ある夕方三村が無料で借りている事務所を訪れる。満里子はなりふり構わず職を探そうとしない三村を非難する。その後、話の成り行きで、満里子は自分が宏に求婚して振られたことを三村に打ち明ける。黙って聞いていた三村は「君の、その話には、節子は何も、かかり合いなかったのか?」と尋ねる。三村はすべてを了解したのだ。満里子は、三村に節子と別れるよう言いに来たのだ。別れる理由は、三村が失業していて経済力がないからではなく、節子と宏が心の奥底でかたくむすばれているからだということを。
大佛次郎の原作が、登場人物一人ひとりの心理のひだを丁寧に描いて物語を進めていくのに対して、小津の映画は一言でいって通俗的なのである。妻の日記を見て嫉妬にかられる夫とけなげに耐えて夫に尽くす妻の姿がグロテスクなまでに強調して描かれる。新しい人生を踏み出そうとしない姉を批判する妹の満里子の姿もピエロのようにデフォルメされている。余談だが、宏のもとを訪れたり、頼子に会いに行ったりするときの満里子の服装は、なぜかいつも野暮ったくてみっともない。節子や頼子がいつも身についた洗練された身支度で登場するのと対照的である。
節子と愛し合う宏の存在があまりに受動的であることも映画の印象を平板なものにしている。戦後の混乱期を上手に乗り切って成功した実業家なのに、節子との関係を一歩踏み出すことができない。原作でもそれは同様なのだが、映画ではより一層意志薄弱な人間として造型されている。際立つのは酒に溺れた三村が人格を崩壊させ、自滅していくさまである。そこには何ら人間的葛藤は描かれない。ただ自滅のための自滅があるだけである。夫に献身的に尽くす節子も「夫婦だから」尽くすというだけだ。
ラスト三村と「十四年ぶり」に薬師寺を訪れた節子は「三村の影を引きずったままあなたと一緒になれば、きっとあなたを不幸にする」といって宏に別れを告げる。その後、節子は喫茶店で待っていた満里子とともに「御所を通っていきましょうか」と歩き出すのだが、二人の後ろ姿は何とも軽やかで楽し気でさえある。いったい、この映画は何を撮りたかったのか?
忘れられた感のある大佛次郎の原作だが、いま読み直すと、当時の生活の様相や人間の心情、息遣いまでまざまざと浮かび上がってくる。オーソドックスな「小説_novel」を読む醍醐味を味わうことができる。それに比べて、小津の映画は、実は、はるかに辛口である。「家庭劇」という枠組みをきっちり守って、人物の歴史、背景を一切描かない。登場人物は画面のなかで与えられる性格、役割を正確に演じることだけが要求されている。「戦争があったから」こうなった、ああなった、という「解釈」は存在しないのである。________大佛次郎の「『宗方姉妹』と小津安二郎の映画と、はたして、どちらが「反戦」なのだろうか。
ちょっと寄り道のつもりがだいぶ時間をとってしまいました。集中力を保てなくなったなぁ、とつくづく思うこの頃です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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