2018年12月19日水曜日

小津安二郎『秋刀魚の味』__軍艦マーチが奏でる「日本」の挽歌

 「日中戦争と紀子三部作の謎」について、いつまで経ってもいっこうに解きほぐせないので、つい考えるのが億劫になってしまう。それで、大した進展はないのだが、少しだけ、また独断と偏見を書いてみたい。「紀子三部作」の一作目の『晩春』(一九四九年公開)と、小津の遺作となった『秋刀魚の味』(一九六一年公開)の比較である。

 『秋刀魚の味』は、晩春』の焼き直しといわれても仕方がないほど、同じプロットから成り立っていることは誰でもわかるだろう。寡夫となった父が娘を嫁にやるまでの経緯をきめ細やかに淡々と描いた作品である。ラスト近く、花嫁衣裳の娘が父に挨拶して家を出ていくシーンも共通している。

 ただ、微妙に違うのは、『晩春』の紀子が、白黒の映画なので黒く見える地色の花嫁衣裳に身を包み、どこか恨めしそうに、もっといえば、屠殺場に引かれていく行く牛のようなたたずまいの後ろ姿を見せるのに対し、『秋刀魚の味』の路子は、美しく輝く白無垢の衣装で、あっけらかんと、明るく家を出ていくことである。『晩春』の紀子は、纏綿たる情緒をただよわせ、どこまでも「女」だったが、『秋刀魚の味』の路子は、どこか無機質で、人形のように可愛いのだ。

 ストーリーは『晩春』のほうがはるかに単純である。父を慕う紀子の執着をいかに断ち切って嫁にやるか、ほぼこれに尽きるといってよい。紀子の恋人に擬せられる服部という父の助手とか、父の再婚相手として紹介されるという未亡人の三輪夫人が登場するが、メインはあくまで紀子と父の葛藤である。

 『秋刀魚の味』は、前回のブログでも書いたが、冒頭主人公の平山と友人の河合とのやり取りから、初老の平山の隠された情動がひそかに暗示される。娘のような若い女と再婚した同窓生も登場する。同時に、早くに妻をなくし、娘を妻替わりに使って嫁にやりそびれた教師と娘の無残な老後も描かれる。『秋刀魚の味』はいくつかの主題がからみあって展開される。

 平山の次の世代も登場する。『晩春』の紀子は一人娘だったが、『秋刀魚の味』の平山家には、路子の兄、弟がいる。弟はまだ学生のようだが、兄は社会人で、結婚して団地住まいのサラリーマンである。冷蔵庫を買うといって、父に金を無心するが、実はほしいのはゴルフのセットである。マクレガーというアメリカ製のセットが欲しいのだが、中古でもサラリーマンの給料ではとても買えないのだ。いや、妻と共稼ぎの所帯だが、冷蔵庫も高値の花だったのである。

 『晩春』の紀子に結婚を決意させたものは、父と三輪夫人の再婚話だったが、『秋刀魚の味』の路子は、兄の部下の男に失恋したためである。この男は計算高くて調子のいい軽薄な人間として描かれているので、路子がこんな男を好きだったというのが、ちょっと不思議なのだが。

 という風に『秋刀魚の味』は、まさに高度成長期にさしかかった日本の風俗を軽やかにすくい上げていく。抑制の効いたカラーの画面も上品で美しい。そんな中、ある種唐突に、戦時中平山の部下だった坂本という男が登場する。いまはラーメン屋を営んで生計をたてているかつての恩師のもとに、同窓生一同から募った寸志を届けに行った平山は、店に入ってきた男に声をかけられる。平山は軍艦「朝風」(実在の駆逐艦である)の艦長で、男はその部下だったというのだ。自動車の修理工場をしているという坂本に連れられて、平山は彼のなじみのバーに行くと、そこに流れていたのは「軍艦マーチ」だった。

 「軍艦マーチ」はこのバーの名物らしく、坂本が音頭をとって、レコードに合わせて敬礼しながら店内を行進するシーンがある。坂本は平山に「艦長もやってくださいよ」と敬礼させ、お風呂から帰ってきたという店のママも一緒に敬礼する。

  思うに、『秋刀魚の味』のテーマは「軍艦マーチ」に収斂されていく、といってよいのではないか。赤い横線の入った煙突が煙を吐く冒頭のシーン(おそらく川崎の工場地帯だと思われる)、いまから見るとおもちゃ箱のようなコンクリートの団地、長男夫婦に象徴される消費経済への転換、など世相を描き、人情の機微も描きながら、ラスト近く再び軍艦マーチが流れる。

 路子の結婚式を終えた平山は、仲人をつとめた河合の家でかなりの酩酊状態になりながら、坂本に案内されたバーに足を運ぶ。そこには、平山の亡き妻に似ているというママがいて、「今日はどちらのお帰り?お葬式ですか?」と聞いた後、「かけましょうか、あれ」と軍艦マーチのレコードをかけるのだ。サラリーマン風の男が二人隣のツールに座っていて、音楽が流れると、「大本営発表!」「帝国陸軍は今暁五時三十分南鳥島東方海上において」「負けました」「そうです。負けました」とかけあいでアナウンサーの真似をしている。平山は無言である。

 平山の遅い帰宅を待っていた長男夫婦も帰って、家には次男と平山の二人だけになる。平山は台所の椅子に座って軍艦マーチを口ずさんでいる。「浮かべる城ぞたのみなる・・・」もう寝ろよ、と次男は気遣うが、平山は、「やぁ、ひとりぼっちか・・・浮かべるその城日の本の・・・」とつぶやいた後、立ち上がって階段の前にたたずむ。しばらく上を見上げている。カメラだけが主の去った路子の部屋を映して回る。

 やがて平山はもう一度台所に戻って、やかんから水を飲む。軍艦マーチの音楽がテーマミュージックにかぶりながら変わって「終」の文字がでる。やかんの水が末期の水に見えてくるような終わり方である。

 世紀を超えたいま、この時点から振り返ると、「六十年代」は日本が劇的に変わっていった時代だった、と思う。以前にも書いたが、小津安二郎の映画は、政治にかかわらないという点で、きわめて政治的である。日本中を政治の季節に巻き込んだ「六十年安保」を経て、時代は確実に、そして劇的に変わっていったのだ。「小津安二郎の日本」__あるいは「小津安二郎と日本」は終わったのである。

 余談だが、この映画には「海」の映像がない。『晩春』、『麦秋』、『東京物語』の紀子三部作はもちろん、その他の映画にも海の映像はほとんどといっていいくらい登場する。だが、「軍艦マーチ」が主旋律となるこの映画に海の映像はないのだ。「海」の映像と訣別しなければならない何かがあったのだろうか。

 『秋刀魚の味』について何ほどのものが書けたのか、という忸怩たる思いがあるのですが、ひとまずこれで区切りを付けたいと思います。また紀子三部作に戻る予定です。今日も不出来な感想文を読んでくださって、ありがとうございます。
 

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