2018年10月26日金曜日

山口誓子 「つきぬけて天上の紺曼珠沙華」__満洲国を巡る随想の一間奏曲

 山口誓子という人の俳句は私にとって難解である。

 冷し馬潮北さすさびしさに

という句もいまもってわからない。標題の句は、「つきぬけるように澄み切った青空」、「真っ赤な曼珠沙華がすっくと立った様子」など、嘱目の光景を詠んだ句であるという解釈が多いようである。そうだろうか。

 この句については、山口誓子自身が『自句自解』という本のなかで「つきぬけて天上の紺」まで一気に読む、としているそうである。だが、これは、実際に発声してみると難しいのだ。「つきぬけて」と「てんじょうのこん」は「つきぬけテ」「テんじょうのこん」と「テ」の音が重なる。舌を上の歯茎に打ちつける「テ」の音を続けるのは、生理的につらいものがある。それなのに、作者は間隙なく読んで欲しいと言っている。非常に切迫した衝動、とでもいうべきものを感じる。

  この句の謎はもうひとつ「つきぬける」主体は何か、という問題である。何がどこからどこへ「つきぬける」のか。ほとんどの評者が「曼珠沙華」がすっくと立っている様を「つきぬけて」と描写したものとする。倒置法の句として解釈しているのだ。そうすると、「つきぬける」のは「曼珠沙華」ということになる。だが、「つきぬけて天上の紺」まで一気に読めば、「曼珠沙華」は「天井の紺」に開いた花ということになるのではないか。「つきぬけて」の主体ではないだろう。

 「つきぬけて」の主体を特定する前に、「曼珠沙華」について考えてみたい。「天井の紺」に開いた花であれば、「曼珠沙華」は実景の「ヒガンバナ」ではないだろう。それは、『法華経』にあるという

 是時下雨 曼荼羅華 摩訶曼荼羅華 曼珠沙華 摩訶曼珠沙華

の「曼珠沙華」だと思われる。釈迦が菩薩に大乗の法を説いたとき、天上に「曼荼羅華(蓮の花だそうである)」と「曼珠沙華」が開いたという。仏教の素養がまったくない私にはこれ以上の深遠な教えはわからないが、「曼珠沙華」は実景ではなく、イメージであると思われるのだ。

 以上の推論が正しければ、「つきぬけて」の主体は「私」であろう。現実日常の世界から「天上」世界につきぬけるのである。無論それはイメージの世界、もしくは「狂想」である。何が作者を、現実世界から天上へ、仏教の言葉でいえば此岸から彼岸へ、というのだろうか、つきぬけさせたのか。これもまた私にとっては、たぶん、いつまでも解決できない謎なのだろうが。

 くだくだしい解説を試みてきたが、この句は一気呵成に詠みあげた乾坤一擲とでもいうべき力にみちている。主観客観を超越する魔力といってもよいかもしれない。

 昭和十六年(一九四一年)に詠まれたこの句は、私が満洲国のことを調べているときに「満洲=曼珠」のつながりで思い出したものである。満洲国の建国のイデオロギーとして法華経は重要な役目を果たしたと思われるので、この句に詠まれた「曼珠沙華」も「満洲」とどこかでつながっているかもしれない。だが、そんな小賢しい謎解きはどうでもよくて、「俳句」という短詩が、日本語の可能性を極限まで追求して、つねに文学の前衛でありつづけたということ、そしてそのことの素晴らしさを確認しておきたいと思う。
 
 今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。
   

2 件のコメント:

  1. 興味深く拝読しました。感性が素敵です。

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  2. 拙い文章に再度のコメントありがとうございます。
    状況=時代に切り込む文学の力、ということを考えています。
    時代に生きた作者の息づかいが聞こえてくるまで接近して文を書ければ、など叶わぬ夢を追っています。


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