もう一度だけ書かなければならない。「紅の豚」とは何か、ということについて。いままで書いてきたことはすべて正しかったと思っている。「紅」はコミュニズム=共同体主義の象徴であること、「豚」は最後には殺されること、そして「豚」という言葉をもう一つのカテゴリーで考えるべきこと、それらのすべてを統合して、それらを超克する存在、それが「紅の豚」なのだ、ということをあらためて呈示しなければならない。
豚が人間の顔に戻るのは豚の側にその主体的な条件があるのではない。見る側に、見る側の状況にあるのだ。豚が人間の顔をしているところを見たのは、フィオとカーチスである。この二人に共通した状況とは何か。二人ともある行為をした後に人間の顔をした豚を見たのだ。そしてその顔は、このブログを読んでくださっている方なら、誰もが知っている人間の顔である。そう、世界中の読者の方が知っている。あるいは宮崎駿の作品を継続的に追いかけてきた方なら、私より先にとっくに気がついていたかもしれない。
フィオは言う。「あたし、マルコ・パゴット大尉のことたくさん知ってるの。父が同じ部隊だったでしょ。大尉が嵐の海に降りて敵のパイロットを助けた時の話、大好きで何度も聞いたわ」___マルコ・パゴット___嵐の海に下りて敵のパイロットを助ける___これだけでヒントは十分だろう。さらにいえば、マルコは意識を失い、いったん「雲の平原」の上に昇る。だが、昇天した飛行艇の群れには加わらず、再び気がつくと海面すれすれを漂っていたのだ。
だが、それでも、私にはわからない。何ゆえにポルコは再び地上に現れて、そして再び去ったのか。
どなたかわかる方がいたら、教えてください。投稿お待ちしています。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
蛇足 修理が終わった飛行艇を運河から空中に離陸させる場面、ポルコでもフィオでもない第三の声が二回入るのだが、これってルール違反ではないか?いや、そのことをバラしてしまう私がルール違反?
2013年9月14日土曜日
2013年9月13日金曜日
さらば「紅の豚」よ___戦争がノスタルジーで語られるとき
「紅の豚」にはまだいくつもの重要な謎が残されている。でも、謎解きはこれくらいにして、そろそろ「紅の豚」とお別れしなければならない。まだ若かったが、私はあるとき「I shall not live by Chadler alone」とチャンドラーに別れをつげた。宮崎駿にも同じことを言わなければならない。「人は宮崎駿のみにて生くるにあらず」と。
1992年という絶妙なタイミングでこの映画は公開された。バブル、と今は呼ばれる日々が終わり、日本人はかすかな不安を感じながらも、まさか今のような時代が来るとは夢にも思っていなかった。戦争は遠い日の出来事であり、語り伝えられる「歴史」となっていた。「自己実現」という言葉が流行り、人は無限の自己拡大がなされるかのような錯覚に陥っていた。
だから、「挫折」を語リ、ノスタルジーにひたることができたのだ。エンディングに流れる加藤登紀子の「時には昔の話をしようか」のように。ここに語られる「昔の話」は60年安保の昔であり、70年全共闘の昔だろう。「揺れていた時代の熱い風にふかれて」「嵐のように毎日が燃えていた」___過ぎ去ってしまった政治の季節。「過去」となった「戦争ごっこの日々」を。そして、そのさなかにあったかもしれないし、たんなる願望だったかもしれない恋の残像にもう一度胸をうずかせたのだ。
だが、エンディングとともに流れる映像は(たぶん)第1次大戦の時のスケッチである。「ごっこ」ではないほんものの戦争の現実だ。けれど、加藤登紀子の思い入れたっぷりな歌声とともに流れると、それも「アニメの中」の現実で、「青春の思い出のひとコマ」のように感じられてしまう。戦闘員でない一般市民をまきこんで何百万もの人間が死んだ戦争なのに。そして、その後、もっと多くの人間がもっと残酷に殺されていった戦争があったのに。いや、いま、この地球上で人間は理不尽に殺され続けているのに。
戦争は、大空を縦横無尽にかけめぐる飛行艇乗りの間だけで行われるものではない。戦争はロマンではない。冷徹な経済論理の支配下(もう一度言おう。ポルコの稼いだ大金を最後に手したのは誰だったか)、わけのわからない抽象的な理念や美しいスローガンで洗脳し、人間同士を殺し合わせるもっとも残酷なゲームなのだ。オープニングの画面に流れる字幕の効果音は機銃掃射の音である。タイトルの「紅の豚」は「血塗られた豚」だ。ラスト近く、ポルコとカーチスの死闘が終わって、ジーナが言う。「さぁ、お祭りは終わり。イタリア空軍がここに向かってるわ」_____映画が公開された1992年には聞こえなかった戦争の足音が、ひたひたと聞こえてくるような気がする。もう、戦争をノスタルジーで語っているときではない。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
1992年という絶妙なタイミングでこの映画は公開された。バブル、と今は呼ばれる日々が終わり、日本人はかすかな不安を感じながらも、まさか今のような時代が来るとは夢にも思っていなかった。戦争は遠い日の出来事であり、語り伝えられる「歴史」となっていた。「自己実現」という言葉が流行り、人は無限の自己拡大がなされるかのような錯覚に陥っていた。
だから、「挫折」を語リ、ノスタルジーにひたることができたのだ。エンディングに流れる加藤登紀子の「時には昔の話をしようか」のように。ここに語られる「昔の話」は60年安保の昔であり、70年全共闘の昔だろう。「揺れていた時代の熱い風にふかれて」「嵐のように毎日が燃えていた」___過ぎ去ってしまった政治の季節。「過去」となった「戦争ごっこの日々」を。そして、そのさなかにあったかもしれないし、たんなる願望だったかもしれない恋の残像にもう一度胸をうずかせたのだ。
だが、エンディングとともに流れる映像は(たぶん)第1次大戦の時のスケッチである。「ごっこ」ではないほんものの戦争の現実だ。けれど、加藤登紀子の思い入れたっぷりな歌声とともに流れると、それも「アニメの中」の現実で、「青春の思い出のひとコマ」のように感じられてしまう。戦闘員でない一般市民をまきこんで何百万もの人間が死んだ戦争なのに。そして、その後、もっと多くの人間がもっと残酷に殺されていった戦争があったのに。いや、いま、この地球上で人間は理不尽に殺され続けているのに。
戦争は、大空を縦横無尽にかけめぐる飛行艇乗りの間だけで行われるものではない。戦争はロマンではない。冷徹な経済論理の支配下(もう一度言おう。ポルコの稼いだ大金を最後に手したのは誰だったか)、わけのわからない抽象的な理念や美しいスローガンで洗脳し、人間同士を殺し合わせるもっとも残酷なゲームなのだ。オープニングの画面に流れる字幕の効果音は機銃掃射の音である。タイトルの「紅の豚」は「血塗られた豚」だ。ラスト近く、ポルコとカーチスの死闘が終わって、ジーナが言う。「さぁ、お祭りは終わり。イタリア空軍がここに向かってるわ」_____映画が公開された1992年には聞こえなかった戦争の足音が、ひたひたと聞こえてくるような気がする。もう、戦争をノスタルジーで語っているときではない。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年9月9日月曜日
「紅の豚」__「紅の」「豚」とは何か
どなたかがブログで「紅の豚」の「紅」は共産主義の「赤」であると書いていた。私も同意見である。「共産主義」というなかば化石のようになってしまった言葉を「コミュニズム=共同体主義」と訳したらどうだろう。映画の中でくり返しジーナが歌う「さくらんぼの実る頃」というシャンソンはパリ・コミューンに参加した銅工職人が作詞したものだそうだ。短かったコミューンとそれに続く「血の一週間」を悼んで多くの歌手が歌っている。もちろんふつうの人たちも。
少し長くなるが、歌詞を紹介しよう。もちろん私はフランス語も出来ないので日本語に訳したものである。
さくらんぼの実る頃 さくらんぼの季節を歌い
ナイチンゲールやマネツグミが みな陽気にさえずる頃
女たちの心は狂喜にあふれ
恋人たちの心は陽光にみたされる
私たちがさくらんぼの季節を歌えば
鳥たちも一層上手にさえずり始める
でもさくらんぼの季節はとても短い
片方無くしたさくらんぼの耳飾
夢の中でそれを探しに行く
愛のさくらんぼはどちらも同じ衣をまとい
滴る血となり葉の上に落ちる
でもさくらんぼの季節はとても短い
夢の中で摘む珊瑚の耳飾
いつも私はさくらんぼの実る頃を愛する
あのときから私は心を切り裂いた傷を秘めている
「紅」は共産主義の「赤」であると同時に、さくらんぼの「紅」であり、「滴る血」の「紅」なのだ。生と死との両義性に満ちている。
上記のブログ作者の方は「豚」について、抑圧とたたかう理想に燃えたエネルギーをもつ存在としてとらえている。私は、それについては同意できない。猪は「猪突猛進」という言葉が示すように、一直線のエネルギーを持つ物かもしれないが、豚は「人間に飼いならされた猪」であり「最後は人間に食べられるために」存在するのだ。豚は十分肥え太らせてから、殺すのだ。恐ろしいことである。ポルコが稼いだ大金を最後に手にしたのは誰だったか?
「豚」については、このような食用家畜としての意味とはまた別のカテゴリーでも考えなければならない言葉であると思っている。ジーナを大統領夫人にするというカーチスに彼女はこうこたえるのだ。「ここではあなたのお国より、人生がもうちょっと複雑なの」___人生は両義性に満ちている。
宮崎駿は素晴らしいアーティストだ。
だが、美しい薔薇には棘がある。
不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
少し長くなるが、歌詞を紹介しよう。もちろん私はフランス語も出来ないので日本語に訳したものである。
さくらんぼの実る頃 さくらんぼの季節を歌い
ナイチンゲールやマネツグミが みな陽気にさえずる頃
女たちの心は狂喜にあふれ
恋人たちの心は陽光にみたされる
私たちがさくらんぼの季節を歌えば
鳥たちも一層上手にさえずり始める
でもさくらんぼの季節はとても短い
片方無くしたさくらんぼの耳飾
夢の中でそれを探しに行く
愛のさくらんぼはどちらも同じ衣をまとい
滴る血となり葉の上に落ちる
でもさくらんぼの季節はとても短い
夢の中で摘む珊瑚の耳飾
いつも私はさくらんぼの実る頃を愛する
あのときから私は心を切り裂いた傷を秘めている
「紅」は共産主義の「赤」であると同時に、さくらんぼの「紅」であり、「滴る血」の「紅」なのだ。生と死との両義性に満ちている。
上記のブログ作者の方は「豚」について、抑圧とたたかう理想に燃えたエネルギーをもつ存在としてとらえている。私は、それについては同意できない。猪は「猪突猛進」という言葉が示すように、一直線のエネルギーを持つ物かもしれないが、豚は「人間に飼いならされた猪」であり「最後は人間に食べられるために」存在するのだ。豚は十分肥え太らせてから、殺すのだ。恐ろしいことである。ポルコが稼いだ大金を最後に手にしたのは誰だったか?
「豚」については、このような食用家畜としての意味とはまた別のカテゴリーでも考えなければならない言葉であると思っている。ジーナを大統領夫人にするというカーチスに彼女はこうこたえるのだ。「ここではあなたのお国より、人生がもうちょっと複雑なの」___人生は両義性に満ちている。
宮崎駿は素晴らしいアーティストだ。
だが、美しい薔薇には棘がある。
不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
「紅の豚」の謎その3__豚が人間になるとき__「人生は生きるに値する」
宮崎駿は引退宣言にあたって「人生は生きるに値する」と言ったそうだ。
「生きるに値する」_____含蓄の深いことばだ。真意はどこにある?
「紅の豚」の半ば近く、ポルコとともに野宿したフィオが彼の人間の顔を垣間見てしまう場面がある。ポルコが薬莢を点検しているときに見えた横顔は人間のものだった。
その後、ポルコはフィオに戦争の体験を語る。壮絶な空中戦で敵味方ともに彼以外がみな死んでいったときのことを。多くの戦闘機が上へ上へと昇って行き、美しい銀河の帯の中に入って行った。いや銀河そのものが昇天した戦闘機の群れなのだ。そしてポルコは気がつけば一人で海上すれすれを漂っていた。
この話を聞いたフィオは言う。「神様がまだ来るな、って言ったのね」。それに対してポルコはこう答える。「俺には、そうして一人で飛んでろ、って言われた気がしたがね」。すると、フィオはこう叫ぶのだ。「そんなはずはないわ!ポルコはいい人だもの!」
最後のフィオの反応は、自然な流れの中で発せられた言葉のようだが、どこかひっかかるものがある。「そうして一人で飛んでいる」ことは「いい人のやることではない!」とフィオは言っているのだ。なぜ?賞金稼ぎだから?それとも?
ラストもう一度ポルコは人間の顔を今度はカーチスに見せる。イタリア空軍を空賊の逃げた方向と別の方向へ誘導しようと誘いかけたときだ。薬莢を点検している時と戦闘行為の意志を示した時、ポルコは人間の顔に戻る。
エンディング、加藤登紀子の歌声が流れる。画面左側に白黒のデッサンが次々に現れる。多くは戦闘機が描かれている。大空を飛ぶ戦闘機もあれば、墜落して木にかかった戦闘機、戦闘機の前に立つ豚人間、戦闘機の描かれていない絵もある。人間の兵隊が多数入り乱れて戦う白兵戦、捕虜になった兵隊たち、塹壕を築く市民、そう、これらはフィオの言う「その後何回も起こった戦争」の現実なのだ。
「人生は生きるに値する」_____含蓄の深いことばである。
「生きるに値する」_____含蓄の深いことばだ。真意はどこにある?
「紅の豚」の半ば近く、ポルコとともに野宿したフィオが彼の人間の顔を垣間見てしまう場面がある。ポルコが薬莢を点検しているときに見えた横顔は人間のものだった。
その後、ポルコはフィオに戦争の体験を語る。壮絶な空中戦で敵味方ともに彼以外がみな死んでいったときのことを。多くの戦闘機が上へ上へと昇って行き、美しい銀河の帯の中に入って行った。いや銀河そのものが昇天した戦闘機の群れなのだ。そしてポルコは気がつけば一人で海上すれすれを漂っていた。
この話を聞いたフィオは言う。「神様がまだ来るな、って言ったのね」。それに対してポルコはこう答える。「俺には、そうして一人で飛んでろ、って言われた気がしたがね」。すると、フィオはこう叫ぶのだ。「そんなはずはないわ!ポルコはいい人だもの!」
最後のフィオの反応は、自然な流れの中で発せられた言葉のようだが、どこかひっかかるものがある。「そうして一人で飛んでいる」ことは「いい人のやることではない!」とフィオは言っているのだ。なぜ?賞金稼ぎだから?それとも?
ラストもう一度ポルコは人間の顔を今度はカーチスに見せる。イタリア空軍を空賊の逃げた方向と別の方向へ誘導しようと誘いかけたときだ。薬莢を点検している時と戦闘行為の意志を示した時、ポルコは人間の顔に戻る。
エンディング、加藤登紀子の歌声が流れる。画面左側に白黒のデッサンが次々に現れる。多くは戦闘機が描かれている。大空を飛ぶ戦闘機もあれば、墜落して木にかかった戦闘機、戦闘機の前に立つ豚人間、戦闘機の描かれていない絵もある。人間の兵隊が多数入り乱れて戦う白兵戦、捕虜になった兵隊たち、塹壕を築く市民、そう、これらはフィオの言う「その後何回も起こった戦争」の現実なのだ。
「人生は生きるに値する」_____含蓄の深いことばである。
紅の豚」の謎その2___前回の訂正と補筆
前回フェラーリンとポルコが会った映画館で上映されていたアニメについて、間違ったストーリーを書いてしまったので訂正したい。
「主人公の女の人が蛇に巻きつかれているシーンを見ていたポルコが『ひでぇ映画だな』と言っている」と書いたが、DVDで見直してみたら、ポルコは、豚らしきキャラクターが女の人を拉致して(?)乗せていた飛行機が墜落するのを見て「ひでぇ映画だな」と言っているのだ。蛇はその前に2機の飛行機を追いかけようとして、自分で自分の首を絞めて悶絶している。その後、飛行機から降りた豚キャラと主人公の恋人らしき鼠キャラ(?)が決闘して豚キャラが負けるのだ。最後に恋人同士が抱擁し合ってめでたしめでたし、となるのである。それをみたフェラーリンが「いい映画じゃないか」と言うのだ。
いうまでもなくこの映画はこれから起こるポルコとカーチスの決闘の予型である。でも結末が映画と逆のようであるが、もしかしたらそうでもない?自分で自分の首を絞める蛇って何?そこまで考えるのは考え過ぎ?
もうひとつ、根本的な疑問は、冒頭ポルコに電話してきた依頼者は誰か、ということである。「契約14条の第3項を該当させる」という依頼者にポルコは「第4項だな」と応答しているので、両者の関係は継続的なものだろう。電話の声はフェラーリンに似ているようでもあり、そうでもないようでもある。最後にポルコがカーチスに「イタリア空軍を別の方向に誘導しよう」と素顔をさらして誘ったのはなぜだろう。カーチスの飛行艇のマークが矢がささったハートであることと、ジーナのコードネームが「ハートのG」であることは無関係なのか?
「ジーナさんの賭けがどうなったかは私たちだけの秘密」というフィオのナレーションで映画は終わる。そのとき、上空からジーナの別荘が映されるのだが、ドアが開いたままの室内には人気がなく、なんとなく荒廃した雰囲気が漂う。ジーナとポルコはほんとうに結ばれたのだろうか。
「もののけ姫」以降の作品に比べて、情緒的にはすんなり受けいれられるのですが、やはり一筋縄ではいかない作品のようです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「主人公の女の人が蛇に巻きつかれているシーンを見ていたポルコが『ひでぇ映画だな』と言っている」と書いたが、DVDで見直してみたら、ポルコは、豚らしきキャラクターが女の人を拉致して(?)乗せていた飛行機が墜落するのを見て「ひでぇ映画だな」と言っているのだ。蛇はその前に2機の飛行機を追いかけようとして、自分で自分の首を絞めて悶絶している。その後、飛行機から降りた豚キャラと主人公の恋人らしき鼠キャラ(?)が決闘して豚キャラが負けるのだ。最後に恋人同士が抱擁し合ってめでたしめでたし、となるのである。それをみたフェラーリンが「いい映画じゃないか」と言うのだ。
いうまでもなくこの映画はこれから起こるポルコとカーチスの決闘の予型である。でも結末が映画と逆のようであるが、もしかしたらそうでもない?自分で自分の首を絞める蛇って何?そこまで考えるのは考え過ぎ?
もうひとつ、根本的な疑問は、冒頭ポルコに電話してきた依頼者は誰か、ということである。「契約14条の第3項を該当させる」という依頼者にポルコは「第4項だな」と応答しているので、両者の関係は継続的なものだろう。電話の声はフェラーリンに似ているようでもあり、そうでもないようでもある。最後にポルコがカーチスに「イタリア空軍を別の方向に誘導しよう」と素顔をさらして誘ったのはなぜだろう。カーチスの飛行艇のマークが矢がささったハートであることと、ジーナのコードネームが「ハートのG」であることは無関係なのか?
「ジーナさんの賭けがどうなったかは私たちだけの秘密」というフィオのナレーションで映画は終わる。そのとき、上空からジーナの別荘が映されるのだが、ドアが開いたままの室内には人気がなく、なんとなく荒廃した雰囲気が漂う。ジーナとポルコはほんとうに結ばれたのだろうか。
「もののけ姫」以降の作品に比べて、情緒的にはすんなり受けいれられるのですが、やはり一筋縄ではいかない作品のようです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年9月8日日曜日
「紅の豚」の謎___いくつかの小さな疑問
テレビはめったに見ないのだが、「ジブリの呪い」など賑やかなので、「金曜ロードショー」の「紅の豚」を見てしまった。あらすじは紹介するまでもないだろう。空と海と男と女の冒険とロマンの物語である。ハラハラドキドキの空中戦あり、胸キュンの少女の片思いあり、サービス満点のエンターテインメントとして申し分のない作品である。美しい色彩とレトロな雰囲気も気持ちよく見る者を酔わせてくれる。
だから見終わって「おもしろかった~!」ですんでしまいそうで、実際すんでしまったのだが、なぜ「紅の」「豚」なのか、という疑問が残った。いや、正確に言えば、最初から「紅の」「豚」の解は持っていたのだが、ストーリー全体との整合性がいまひとつ満足のいくものではなかった。ジグゾーパズルのすべてがピタッと合わないのだ。それで、重箱の隅をつつくような作業だが、いくつかのちょっと不思議な場面を書き出してみることで、パズルをもう一度組み立ててみたい。
冒頭ポルコが昼寝をしているシーン。「1929」の年号が書かれている雑誌を顔にかぶせている。その雑誌は「CINEMA」というタイトルなのだ。この映画のもう一人の主人公カーチスというアメリカ人(祖母がイタリア人というクォーター)は物語の後にアメリカに渡って映画俳優になったことが語られる。そのこととこの冒頭のシーンは関係があるのだろうか。それからカーチスが主演した映画のタイトルは「THE TRIPLE LOVE」となっていて、これもなんだか思わせぶりである。
おなじく冒頭で小さなテーブルの上に食べかけのりんごが置かれている。これが不思議なことに灰色?のりんごなのである。半分以上食べられていて、しかも彩色するのを忘れたのかと思うような色なのでいかにもまずまずしい。ところが、次にまたりんごが登場するシーンがある。ポルコが賞金を手に入れて、カーチスとの一騎打ちのため飛行艇を修理に出すフライトに飛び立つときだ。なぜか今度は真っ赤なおいしそうなりんごがまるごとテーブルの上に残っているのである。
カーチスの飛行艇に「ガラガラ蛇」が描かれているのはなぜだろう。物語の中盤でポルコが戦友フェラーリンと映画館で会うのだが、そのとき上映されていたアニメにも蛇が出ていた。主人公の女の人が蛇に巻きつかれているシーンを見ていたポルコが「ひでぇ映画だな」と言っている。最後は蛇が撃退されて、主人公の男女の抱擁で終わり、フェラーリンが「いい映画だったじゃないか」というのだが。
一番ミステリアスに描かれているが、一番分かりやすいのがジーナで、暗号解読をするシーンがあるので、そういう人間なのだろう。経営するホテルではいつも紫の服を着て金の大きな丸いイヤリングをつけているが、昼間の別荘(これがなぜかちょっとした要塞のようで、カーチスは塀をよじ登ってドアにたどり付く)では白い服で青いすらりとしたイヤリングだ。だが、暗号解読のシーンではネイビーみたいな服装でズボンを穿いている。彼女の飛行艇の「G」はジーナの「G」なのだろうが。しかし彼女が愛した男はどうしてみんな死んでしまうのだろう。「一人は戦争で、一人は大西洋で、もう一人はアジアで」死んだというのは不吉だ。その彼女がポルコを「愛するか」どうか「賭け」をしている、というセリフも不思議だ。「愛される」かどうかなら不思議ではないが。
ピッコロ社の主人もちょっと不思議なのは、どう見てもイタリア人には見えないことだ。極端に小さな体に眼鏡はむしろ日本人の典型ではないか。孫の天才少女フィオは生き生きと行動的でしかもナイーヴな女の子だが、空賊たちとの交渉の後、心を落ち着かせるために「あたし、泳いでくる!」というのは唐突だ。「泳ぐ」といえば、最初にポルコが救出した「バカンス中の女学生」という「15人」の少女が服を脱いで大海原で泳ぎだすシーンがあって、しかもそれが5~6歳の幼女にしかみえないのもおかしい。
まだまだ不思議が見つかるかもしれないが、最後の結末の不思議を書いておこう。大人になったフィオが「ジーナさんはますますきれいになって」と語るのだが、彼女の経営するホテルアドリアーノの店内に彼女の姿は見えないのである。ホテルの裏に赤い飛行艇らしき物が見えるので、ジーナとポルコは結婚したのだ、という結末がネット上でよく語られるのだが、果たしてそうだろうか。
さて「紅の」「豚」とは何か。・・・やはり書かないでおこう。「ポルコ」が「紅の」にあたるそうだが(イタリア語は全然わかりません。だからポルコが読む新聞の見出しも分からない。残念!)ジーナは彼を「マルコ」と呼んでいる。「マルコ」はマーク、マルクス、マルス、マースだろう。それから、「豚」といえばサリンジャーの「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」にも「美しい豚の描き方」について書かれている。この後、宮崎駿自身も「千と千尋の神隠し」で主人公の少女の両親を「豚」に変えるのだけれども。そう、「青」といえば、カーチスがいつも青い服を着ているのも何か意味があるのか、とおもってしまうのだが、際限もなくなりそうなので、このくらいにしておこう。
『同時代ゲーム』の読みが遅々として進まないので、また寄り道してしまいました。乱雑な走り書きの文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
だから見終わって「おもしろかった~!」ですんでしまいそうで、実際すんでしまったのだが、なぜ「紅の」「豚」なのか、という疑問が残った。いや、正確に言えば、最初から「紅の」「豚」の解は持っていたのだが、ストーリー全体との整合性がいまひとつ満足のいくものではなかった。ジグゾーパズルのすべてがピタッと合わないのだ。それで、重箱の隅をつつくような作業だが、いくつかのちょっと不思議な場面を書き出してみることで、パズルをもう一度組み立ててみたい。
冒頭ポルコが昼寝をしているシーン。「1929」の年号が書かれている雑誌を顔にかぶせている。その雑誌は「CINEMA」というタイトルなのだ。この映画のもう一人の主人公カーチスというアメリカ人(祖母がイタリア人というクォーター)は物語の後にアメリカに渡って映画俳優になったことが語られる。そのこととこの冒頭のシーンは関係があるのだろうか。それからカーチスが主演した映画のタイトルは「THE TRIPLE LOVE」となっていて、これもなんだか思わせぶりである。
おなじく冒頭で小さなテーブルの上に食べかけのりんごが置かれている。これが不思議なことに灰色?のりんごなのである。半分以上食べられていて、しかも彩色するのを忘れたのかと思うような色なのでいかにもまずまずしい。ところが、次にまたりんごが登場するシーンがある。ポルコが賞金を手に入れて、カーチスとの一騎打ちのため飛行艇を修理に出すフライトに飛び立つときだ。なぜか今度は真っ赤なおいしそうなりんごがまるごとテーブルの上に残っているのである。
カーチスの飛行艇に「ガラガラ蛇」が描かれているのはなぜだろう。物語の中盤でポルコが戦友フェラーリンと映画館で会うのだが、そのとき上映されていたアニメにも蛇が出ていた。主人公の女の人が蛇に巻きつかれているシーンを見ていたポルコが「ひでぇ映画だな」と言っている。最後は蛇が撃退されて、主人公の男女の抱擁で終わり、フェラーリンが「いい映画だったじゃないか」というのだが。
一番ミステリアスに描かれているが、一番分かりやすいのがジーナで、暗号解読をするシーンがあるので、そういう人間なのだろう。経営するホテルではいつも紫の服を着て金の大きな丸いイヤリングをつけているが、昼間の別荘(これがなぜかちょっとした要塞のようで、カーチスは塀をよじ登ってドアにたどり付く)では白い服で青いすらりとしたイヤリングだ。だが、暗号解読のシーンではネイビーみたいな服装でズボンを穿いている。彼女の飛行艇の「G」はジーナの「G」なのだろうが。しかし彼女が愛した男はどうしてみんな死んでしまうのだろう。「一人は戦争で、一人は大西洋で、もう一人はアジアで」死んだというのは不吉だ。その彼女がポルコを「愛するか」どうか「賭け」をしている、というセリフも不思議だ。「愛される」かどうかなら不思議ではないが。
ピッコロ社の主人もちょっと不思議なのは、どう見てもイタリア人には見えないことだ。極端に小さな体に眼鏡はむしろ日本人の典型ではないか。孫の天才少女フィオは生き生きと行動的でしかもナイーヴな女の子だが、空賊たちとの交渉の後、心を落ち着かせるために「あたし、泳いでくる!」というのは唐突だ。「泳ぐ」といえば、最初にポルコが救出した「バカンス中の女学生」という「15人」の少女が服を脱いで大海原で泳ぎだすシーンがあって、しかもそれが5~6歳の幼女にしかみえないのもおかしい。
まだまだ不思議が見つかるかもしれないが、最後の結末の不思議を書いておこう。大人になったフィオが「ジーナさんはますますきれいになって」と語るのだが、彼女の経営するホテルアドリアーノの店内に彼女の姿は見えないのである。ホテルの裏に赤い飛行艇らしき物が見えるので、ジーナとポルコは結婚したのだ、という結末がネット上でよく語られるのだが、果たしてそうだろうか。
さて「紅の」「豚」とは何か。・・・やはり書かないでおこう。「ポルコ」が「紅の」にあたるそうだが(イタリア語は全然わかりません。だからポルコが読む新聞の見出しも分からない。残念!)ジーナは彼を「マルコ」と呼んでいる。「マルコ」はマーク、マルクス、マルス、マースだろう。それから、「豚」といえばサリンジャーの「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」にも「美しい豚の描き方」について書かれている。この後、宮崎駿自身も「千と千尋の神隠し」で主人公の少女の両親を「豚」に変えるのだけれども。そう、「青」といえば、カーチスがいつも青い服を着ているのも何か意味があるのか、とおもってしまうのだが、際限もなくなりそうなので、このくらいにしておこう。
『同時代ゲーム』の読みが遅々として進まないので、また寄り道してしまいました。乱雑な走り書きの文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年9月1日日曜日
「香具山は畝傍をゝしと耳梨と」続々続々折口学再考___「つま争い伝承」?
額田王、柿本人麻呂といわゆる宮廷歌人の歌を取り上げてきた。今回は天智天皇御製と記載されている歌三首。
「香具山は 畝傍をゝしと、
耳梨と、あひ争ひき。
神代よりかくなるらし。
いにしへも然なれこそ。
うつそみも、つまを争ふらしき」 萬葉集巻一・一三
反歌
「香具山と 耳梨山と あひし時、立ちて 見に来し 印南国原」 萬葉集巻一・一四
「わたつみの豊旗雲に入日さし、今宵の月夜明らけくこそ」 萬葉集巻一・一五
大和三山のつま争いは有名な伝説だが、三山の雌雄は流動的である。多くは最も標高の高い(といっても199メートル)畝傍山を男性、耳梨と香具山を女性に見立てて解釈しているようだが、古代では母権制の名残で女山のほうが高い場合もあるようである。実際に登ってみると、香具山と耳梨山はあっという間に頂上に着いてしまう。高さはそんなに変わらないのだが、畝傍山はどこか神秘的な雰囲気が漂う妖しい山だった。
だから、というわけでもないのだが、私は畝傍山が女山のような気がする。「畝傍を をし(愛しまたは惜し)」と読みたい。「畝傍雄々し」でなく。原文は「畝傍男雄志」とあるので畝傍山が男山であるとするのが一般的のようだが。折口も「畝傍男々し」と訓んでいる。だが、長歌は「香具山は、畝傍をゝしと」と詠み手が香具山の側に立って詠んでいる。とすれば香具山は天智天皇に擬せられるのだから男山ということになるのではないか。いずれにしろ、香具山は大和三山の中の一つ、というより、「ひさかたの」「天の」と枕詞を冠して詠まれる特別な存在だった。
「大和には群山あれど、
とりよろふ天の香具山、登り立ち 国見をすれば、
国原は煙立ち立つ。海原は鷗立ち立つ。
うまし国ぞ。蜻蛉島大和の国は」 舒明天皇 萬葉集巻一・二
「春過ぎて 夏来たるらし。しろたへの衣乾したり。天の香具山」 持統天皇 萬葉集巻一・二八
「ひさかたの 天の香具山。このゆふべ、霞たなびく。春立つらしも」 人麻呂歌集 萬葉集巻十・
一八一二
香具山の説明が長くなってしまったが、雌雄いずれにしろ長歌は三山のうち二山が残りの一山をめぐって争った、という伝承を踏まえて「いにしへも然なれこそ。うつそみも、つまを争ふらしき」と詠んでいる。「つま争ひ」の歌である。それに対して反歌第一首「香具山と・・・」は三山のつま争いを仲裁に印南の国がやって来た、と長歌をうけた内容になっているが、必ずしも反歌としてしっくりあっていないようである。それでも、「あひし時」=「闘ひし時」または「戦ひし時」の意で、(つま)「争い」という共通項があることから、反歌として成り立たない、とまではいえない。だが、反歌第二首はどうだろうか。「わたつみの豊旗雲に入日さし・・・」とまったく異なる叙景歌が詠まれている。つま争いとは無関係なのだ。
そもそもこの長、反歌はどこで詠まれたのか。「香具山は・・・」と読み出している長歌はどうしても、香具山を眼前にして詠んでいる、と考えるのが自然だろう。だが、「いにしへも然なれこそ。うつそみも、つまを争ふらしき」という詠嘆を反復、強調すべき反歌は「・・・立ちて 見に来し 印南国原」と木に竹を接いだような歌で、抒情のかけらも感じられない。そして第三首は、「わたつみの・・・」と海上の光景を詠んで、「今宵の月夜明らけくこそ」と歌い上げる。香具山を眼前にして「わたつみの・・・」はあり得ないので、少なくとも第三首は、海上ないし海を眼前にして読んでいるとしか考えられない。つまりこの三首は、つま争いの枠組みで一つながりの組歌として成り立たせることは困難なのだ。
山本健吉氏は『万葉百歌』の中で、この三首は、六六一年正月、斉明天皇西征の時、印南の浦に泊り、宴を催した折のものではないか、と推測されている。おそらく、「そう読まれるべき」なのだと思う。萬葉集巻一は巻頭歌に雄略天皇「籠よ、み籠持ち・・・」を置くことから推測されるように、明確な意図をもって編纂されている。とすれば、この三首は、やはり、「つま争い」ではない一つながりの組歌として「読まれなければならない」。そしてその主眼は第三首「今宵の月夜明らけくこそ」にあると思われる。「明らけくこそ」は「清らけくこそ」「まさやかにこそ」など、異なる訓があるようだが、いずれも嘱目の光景を詠みながら、天気晴朗を願う歌である。同時に、その願望の先に何があるかはいうまでもない。軍旅である。そのことはまた、「つま争い」という伝承をもちだしたことの意味ももういちど考えなければならないことを示唆するものではないのか。
この三首が「つま争い」という伝承に偏って取り上げられることが多いのは、おそらく額田王が天智、天武の両天皇に仕えたという史実によるのだろう。
「あかねさす 紫野行き 標野行き、野守は見ずや。君が袖振る」 額田王 萬葉集巻一・二〇
「むらさきの にほへる妹を。憎くあらば、人妻ゆゑに、われ恋ひめやも」 天武天皇 萬葉集巻一・二一
の二首もゴシップ的関心の的になるのかもしれない。だが、この三首の長、反歌はそれと切り離して読まれるべきである。
萬葉集にこだわりはじめると、止め処がなくなりそうで、いつまでも大江健三郎やサリンジャーに戻れなくなりそうです。折口については、「折口信夫とキリスト教」とくに「貴種流離譚」というテーマで書きたいのですが、これは生半な覚悟では書けないので、だいぶ遠い先のことになりそうです。
そして、いつかは「権力小説としての源氏物語」を書きたいと思っています。日暮れて道遠し。
今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
「香具山は 畝傍をゝしと、
耳梨と、あひ争ひき。
神代よりかくなるらし。
いにしへも然なれこそ。
うつそみも、つまを争ふらしき」 萬葉集巻一・一三
反歌
「香具山と 耳梨山と あひし時、立ちて 見に来し 印南国原」 萬葉集巻一・一四
「わたつみの豊旗雲に入日さし、今宵の月夜明らけくこそ」 萬葉集巻一・一五
大和三山のつま争いは有名な伝説だが、三山の雌雄は流動的である。多くは最も標高の高い(といっても199メートル)畝傍山を男性、耳梨と香具山を女性に見立てて解釈しているようだが、古代では母権制の名残で女山のほうが高い場合もあるようである。実際に登ってみると、香具山と耳梨山はあっという間に頂上に着いてしまう。高さはそんなに変わらないのだが、畝傍山はどこか神秘的な雰囲気が漂う妖しい山だった。
だから、というわけでもないのだが、私は畝傍山が女山のような気がする。「畝傍を をし(愛しまたは惜し)」と読みたい。「畝傍雄々し」でなく。原文は「畝傍男雄志」とあるので畝傍山が男山であるとするのが一般的のようだが。折口も「畝傍男々し」と訓んでいる。だが、長歌は「香具山は、畝傍をゝしと」と詠み手が香具山の側に立って詠んでいる。とすれば香具山は天智天皇に擬せられるのだから男山ということになるのではないか。いずれにしろ、香具山は大和三山の中の一つ、というより、「ひさかたの」「天の」と枕詞を冠して詠まれる特別な存在だった。
「大和には群山あれど、
とりよろふ天の香具山、登り立ち 国見をすれば、
国原は煙立ち立つ。海原は鷗立ち立つ。
うまし国ぞ。蜻蛉島大和の国は」 舒明天皇 萬葉集巻一・二
「春過ぎて 夏来たるらし。しろたへの衣乾したり。天の香具山」 持統天皇 萬葉集巻一・二八
「ひさかたの 天の香具山。このゆふべ、霞たなびく。春立つらしも」 人麻呂歌集 萬葉集巻十・
一八一二
香具山の説明が長くなってしまったが、雌雄いずれにしろ長歌は三山のうち二山が残りの一山をめぐって争った、という伝承を踏まえて「いにしへも然なれこそ。うつそみも、つまを争ふらしき」と詠んでいる。「つま争ひ」の歌である。それに対して反歌第一首「香具山と・・・」は三山のつま争いを仲裁に印南の国がやって来た、と長歌をうけた内容になっているが、必ずしも反歌としてしっくりあっていないようである。それでも、「あひし時」=「闘ひし時」または「戦ひし時」の意で、(つま)「争い」という共通項があることから、反歌として成り立たない、とまではいえない。だが、反歌第二首はどうだろうか。「わたつみの豊旗雲に入日さし・・・」とまったく異なる叙景歌が詠まれている。つま争いとは無関係なのだ。
そもそもこの長、反歌はどこで詠まれたのか。「香具山は・・・」と読み出している長歌はどうしても、香具山を眼前にして詠んでいる、と考えるのが自然だろう。だが、「いにしへも然なれこそ。うつそみも、つまを争ふらしき」という詠嘆を反復、強調すべき反歌は「・・・立ちて 見に来し 印南国原」と木に竹を接いだような歌で、抒情のかけらも感じられない。そして第三首は、「わたつみの・・・」と海上の光景を詠んで、「今宵の月夜明らけくこそ」と歌い上げる。香具山を眼前にして「わたつみの・・・」はあり得ないので、少なくとも第三首は、海上ないし海を眼前にして読んでいるとしか考えられない。つまりこの三首は、つま争いの枠組みで一つながりの組歌として成り立たせることは困難なのだ。
山本健吉氏は『万葉百歌』の中で、この三首は、六六一年正月、斉明天皇西征の時、印南の浦に泊り、宴を催した折のものではないか、と推測されている。おそらく、「そう読まれるべき」なのだと思う。萬葉集巻一は巻頭歌に雄略天皇「籠よ、み籠持ち・・・」を置くことから推測されるように、明確な意図をもって編纂されている。とすれば、この三首は、やはり、「つま争い」ではない一つながりの組歌として「読まれなければならない」。そしてその主眼は第三首「今宵の月夜明らけくこそ」にあると思われる。「明らけくこそ」は「清らけくこそ」「まさやかにこそ」など、異なる訓があるようだが、いずれも嘱目の光景を詠みながら、天気晴朗を願う歌である。同時に、その願望の先に何があるかはいうまでもない。軍旅である。そのことはまた、「つま争い」という伝承をもちだしたことの意味ももういちど考えなければならないことを示唆するものではないのか。
この三首が「つま争い」という伝承に偏って取り上げられることが多いのは、おそらく額田王が天智、天武の両天皇に仕えたという史実によるのだろう。
「あかねさす 紫野行き 標野行き、野守は見ずや。君が袖振る」 額田王 萬葉集巻一・二〇
「むらさきの にほへる妹を。憎くあらば、人妻ゆゑに、われ恋ひめやも」 天武天皇 萬葉集巻一・二一
の二首もゴシップ的関心の的になるのかもしれない。だが、この三首の長、反歌はそれと切り離して読まれるべきである。
萬葉集にこだわりはじめると、止め処がなくなりそうで、いつまでも大江健三郎やサリンジャーに戻れなくなりそうです。折口については、「折口信夫とキリスト教」とくに「貴種流離譚」というテーマで書きたいのですが、これは生半な覚悟では書けないので、だいぶ遠い先のことになりそうです。
そして、いつかは「権力小説としての源氏物語」を書きたいと思っています。日暮れて道遠し。
今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。