2013年9月13日金曜日

さらば「紅の豚」よ___戦争がノスタルジーで語られるとき

 「紅の豚」にはまだいくつもの重要な謎が残されている。でも、謎解きはこれくらいにして、そろそろ「紅の豚」とお別れしなければならない。まだ若かったが、私はあるとき「I shall not live by Chadler alone」とチャンドラーに別れをつげた。宮崎駿にも同じことを言わなければならない。「人は宮崎駿のみにて生くるにあらず」と。

 1992年という絶妙なタイミングでこの映画は公開された。バブル、と今は呼ばれる日々が終わり、日本人はかすかな不安を感じながらも、まさか今のような時代が来るとは夢にも思っていなかった。戦争は遠い日の出来事であり、語り伝えられる「歴史」となっていた。「自己実現」という言葉が流行り、人は無限の自己拡大がなされるかのような錯覚に陥っていた。

 だから、「挫折」を語リ、ノスタルジーにひたることができたのだ。エンディングに流れる加藤登紀子の「時には昔の話をしようか」のように。ここに語られる「昔の話」は60年安保の昔であり、70年全共闘の昔だろう。「揺れていた時代の熱い風にふかれて」「嵐のように毎日が燃えていた」___過ぎ去ってしまった政治の季節。「過去」となった「戦争ごっこの日々」を。そして、そのさなかにあったかもしれないし、たんなる願望だったかもしれない恋の残像にもう一度胸をうずかせたのだ。

 だが、エンディングとともに流れる映像は(たぶん)第1次大戦の時のスケッチである。「ごっこ」ではないほんものの戦争の現実だ。けれど、加藤登紀子の思い入れたっぷりな歌声とともに流れると、それも「アニメの中」の現実で、「青春の思い出のひとコマ」のように感じられてしまう。戦闘員でない一般市民をまきこんで何百万もの人間が死んだ戦争なのに。そして、その後、もっと多くの人間がもっと残酷に殺されていった戦争があったのに。いや、いま、この地球上で人間は理不尽に殺され続けているのに。

 戦争は、大空を縦横無尽にかけめぐる飛行艇乗りの間だけで行われるものではない。戦争はロマンではない。冷徹な経済論理の支配下(もう一度言おう。ポルコの稼いだ大金を最後に手したのは誰だったか)、わけのわからない抽象的な理念や美しいスローガンで洗脳し、人間同士を殺し合わせるもっとも残酷なゲームなのだ。オープニングの画面に流れる字幕の効果音は機銃掃射の音である。タイトルの「紅の豚」は「血塗られた豚」だ。ラスト近く、ポルコとカーチスの死闘が終わって、ジーナが言う。「さぁ、お祭りは終わり。イタリア空軍がここに向かってるわ」_____映画が公開された1992年には聞こえなかった戦争の足音が、ひたひたと聞こえてくるような気がする。もう、戦争をノスタルジーで語っているときではない。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

0 件のコメント:

コメントを投稿