昔田中小実昌の訳でチャンドラーを読んだことがある。ハヤカワミステリの『湖中の女』と『高い窓』だった。清水俊二さんの感傷的なようできちんと勘所を押さえた名訳を読み慣れていたので、田中小実昌の短く文節を区切って言葉をつなげていく訳になじめなかった。今でも、『湖中の女』と『高い窓』を読み返す気がしないのは、チャンドラーのせいではなく訳がしっくりこないからだと思う。推理小説は哲学書ではないのに、いちいち立ち止まって言葉を吟味していては、ストーリーを追うことができないのだ。
『アメン父』は田中小実昌の父「田中種助」(のち遵聖と改名)とイエスの物語である。種助の伝記ではない。書き出しはこうである。
「大きな机の上に、いくつか分けてつんであった。若いときの父に関するものなどだという。」物語は父が軍港呉の山腹に教会と住居を建てたところから始まる。父は「(神から)拝命された」どこの派にも属さない、十字架もない集会の牧師である。父と信者たちは、集会をする場所を「教会」と呼ばず、「中段」と呼んだ。その下に牧師をつとめる父の家があり、さらにその上にも建物があったからである。十字架がないのに、「集会でのわめいたりさけんだりの祈りには、ジュウジカジュウジカという言葉がよくきこえた。」とある。ずいぶん、ラディカルといえば聞こえがいいが、狂信的な感じがする。小実昌は「信仰はココロではない」と何度もくりかえしているが、そこまでいけば、「ココロではない」に決まっている。「言葉」でも「行い」でもないだろう。ただ「十字架」なのか。それでは、何も言っていないのと同じことのように思われるが。
誤解のないようにことわっておくのだが、これは「田中種助の物語」ではない。「種助とイエス(と小実昌自身の)の物語」なのだ。少なくとも、私はそう読んだ。「物語」について、マルグリット・デュラスの『愛人』の最初にこういう文章がある。
「私の人生の物語などというものは存在しない。そんなものは存在しない。物語をつくりあげるための中心などけっしてないのだ。道もないし、路線もない。ひろびろとした場所がいくつか、そこにはだれかがいたと思わされているけれど、それはちがう、だれもいなかったのだ。」
「だれもいなかった」けれど、語る「わたし」はいて、この後デュラスは「私の青春のごく小さな小さな部分の物語」を始める。小実昌は「道もないし、路線もない。ひろびろとした場所」の時間、空間を行きつ戻りつしながら、種助とイエスと、そして自分自身の物語を語るのだ。
種助とイエスの出会いは、時系列で整理すれば、明治四十一年種助がアメリカに移民として入国し、シアトルの農園で働いていたときのことだった。「朝五時から晩の九時半までノベツにはたらかなければならぬ」生活の中、明治四十五年ユニテリアンの久布白直勝牧師から洗礼を受ける。のち種助はユニテリアンを「理知信仰」としてこれからはなれる。帰国して大正十四年「はじめて天来の霊感に触れ」歓喜するが、時とともにこれを失い絶望する。だが、昭和二年五月一二日「この機においつめられるや、忽然として観照の光明に接し、生けるキリストの十字架解明の一大発見を与えられ」る。昭和三年一月に小倉市西南学院シオン教会を辞任し、八月十七日呉市に独立教会アサ(聖なるものに遵うの意_種助いわく)会を設立し、牧師となる。ふりかえると、種助の転機というべきものは三度あったが、そのつど信仰を深めた、といった単純なものではなかったようだ。むしろ、転機が訪れるたびに、混迷と絶望は深まっていったように思われる。
こうして時系列を整理しても、種助についてもイエスについても小実昌自身についても、何も語っていないことに気がつく。小実昌自身が周到に「物語ること」をさけているからだ。「人生の物語などいうものは存在しない」と書いていながら、臆面もなく何葉かの写真を小説に添えたデュラスにたいして、小実昌は、父の写っている何枚かの写真について、文中何度も言及しながら、一枚も載せない。信仰は因果律ではないし、いわんや物語でもないのだから、物語をつくってしまう要素はなるべく排除したのだろうか。それでも、『アメン父』は物語なのだと思う。すくなくとも、「物語」を「解体」した「小説」である。テーマは種助とイエス、ではなく、小実昌その人とイエスだ。
今日も出来の悪い読書感想文を読んでくださってありがとうございます。
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