『ニューヨーカー短編集Ⅲ』に掲載されていた表題の小説を初めて読んだのはいまから40年以上も前だった。若かった私は、この小説をよくできた心理小説ないし風俗小説として読んでいたような気がする。唐突な結末が、でも何となく、納得できてしまうのが不思議だった。
物語は、男と女がベッドを共にしているところに、女の夫から電話がかかってくる。一緒にパーティにでかけた妻が家に戻らないので、居どころを知らないか、と聞いてきたのだ。電話を受けた男は、夫の話に適当に応答しながら、なんとかなだめて、女が帰ってくるのを待つように説得しつづける。弁護士らしい夫は、裁判に負けたこともあって、どん底の精神状態である。夫は、妻である女が男にだらしがないことを呪い、教養がないことをののしり、だが、そんな妻がいかに無邪気で魅力的な女であるか、いかに自分に献身的に尽くしてくれたことがあったかを語って、電話を切ろうとしない。最後に夫は、男の家に行って一杯飲ませてくれという。もちろん、夫に来られたくない男は、妻を家で待つように夫を説得して電話を切る。するとまもなく、また夫から電話がある。男と話し終わった直後に妻が帰ってきた、と言う。そして、ニューヨークという都会を離れて、二人の生活をやり直し、裁判の結果についても善後策を講じてみるつもりだと言うのだ。話し続ける夫をさえぎって電話を切った男は、放心状態で、落とした煙草を拾い上げようとした女をどなりつける。
表題は、作中、夫が妻である女に送った自作の詩「わが色はバラ色にして、白し、愛らしい口もと、わが眼は緑」の一部である。「あいつは緑色の眼なんかしちゃいない__あいつの眼は海の貝殻みたいだ」とある。夫にとって、妻である女は、愛することのすべてだった。だが、女から愛される望みは、少なくとも夫が女を愛するように愛されることは、ほとんど望めなかった。いや、まったく望めなかった。その望みのない望みに夫は賭けたのだ。信じられない妻を信じたのだ。不可能な愛を可能にしたのだ。まさに、「信仰と希望と愛、この三つのものは、いつまでも残る。その中で、最も大いなるものは愛である」(コリント人への手紙13章13節)である。
電話を受けた男は、女の夫の「信仰告白」に打ちのめされる。男とベッドをともにしているのは、「ジョーニイ」と呼ばれる女のぬけがらではないのか。真実の「ジョーニイ」は夫のもとにいるのではないか。男に残されたものは何があるだろう。優位な立場にたって、うまくやりぬいたと思っていた男は、じつは自分が決定的な敗者である、という事実に呆然とするのみだった。
この作品と、これより以前に発表された「バナナ魚には理想的な日」のシーモアの自殺を関連付けて考えてみようと思っています。まとまったものを書くには、もう少し時間が必要なようです。
今日もできの悪い読書感想文を読んでいただいて、ありがとうございます。
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