太っちょのオバサマはキリストである。これはサリンジャーの『フラニーとゾーイ』の「ゾーイ」で最後にゾーイが明かす秘密だ。といっても、今日のテーマはサリンジャー論ではない。私はサリンジャーのよい読者ではない。ただ自意識の牢獄で苦闘するフラニーに、最後にゾーイが投げかけることば「そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。・・・・よく聴いてくれよ___この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみには分からんだろうか?・・・・ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」(野崎孝訳)の意味が長い間わからなくて、ずっとやりのこした宿題を抱えているような感覚を心のどこかにもっていたのだ。
わかった、と思えたのは、深沢の小説を読み直すようになってからだった。今日取り上げる「揺れる家」は、サリンジャーの「フラニー」が出版されたのと同じ1955年_昭和30年に執筆され、「ゾーイ」が出版されたのと同じ1957年_昭和32年に発表された作品である。荷物を運搬する舟の上で生活する一家四人の出来事が庄吉という少年の語りで語られる。庄吉一家は庄吉の祖父「おじい」と母親「母あちゃん」、「吉」と呼ばれる父親「父うちゃん」、と戸籍すら定かでない少年「庄吉」が舟の中の狭い二畳間に住んでいる。庄吉は実は「おじい」とおじいが養女に迎えた「母あちゃん」の間に生まれた子で、「父うちゃん」はその事実をごまかすためにおじいが探してきた婿なのだった。「杓子くらいしかない小さい顔で頭はとんがり帽子のように尖っって瓢箪みたい」な「よりによった醜男で頭の足りない」父うちゃんはおじいだけでなく母あちゃんからも無視され、辛い目に合っている。だが父うちゃんは庄吉にはいつもやさしく、面倒をみてくれるのだった。
ある夜、暗闇のなかでおじいと母親、父ちゃんの三人の無言の格闘劇が繰り広げられる。母あちゃんを巡って、三人とも一歩もゆずらぬ肉のせめぎ合いがあったのだ。翌朝、おじいが父うちゃんをたたきのめして、舟から追い出してしまう。事件はその後、母あちゃんの両親の介入で収まるかに見えたのだが、父うちゃんが行方不明になり、クリスマスの朝、おじいが警察に連行されるという展開になる。誰もが、父うちゃんはおじいに川に突き落とされて死んでしまったと思ったのだが、正月になって、庄吉はすれちがった肥舟の上に立っている父うちゃんを見つける。幽霊かと思った父うちゃんはじつは生きている人間だと知った庄吉は、見えなくなった父うちゃんに向かって、舟からころげおちそうになるくらい大きく手を振った。
「フラニーとゾーイ」と偶然にも同じ年に発表された深沢の「揺れる家」は、サリンジャーが精緻な自我の分析と宗教批判を展開してようやく最後に用意した救済を、なんの衒いもなくまっすぐに呈示している。父うちゃんこそ「太っちょのオバサマ」だ。なんの力もなくて、なにもできなくて、けれど、庄吉にとっては父うちゃんはキリストだった。物語の最初に、父うちゃんが流れてきた板切れを拾って、玩具にするために、庄吉の背中に投げてくれる場面がある。血がつながっていなくても、自分が辛い目にあっていても、父うちゃんは庄吉を愛してくれたし、庄吉も父うちゃんが好きだった。キリストは教会の中で聖書を読み讃美歌を歌うときにいるのではない。街の中に、家の中に、どこにでもいるのだ。だれもがキリストになれるし、ならなければいけない。いや、すでにキリストなのだ。この後「楢山節考」のおりんに具現化される深沢のキリストは、この小説の中では、おりんのように美化され理想化された形でなく、現実のどこにでもいそうな能なしの姿でぽんと現れた。救いは天からくるのではなく、私たちのうちにあるのだ。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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