GDPの推移だの労働者の賃金の減少だの、いちいち数字をあげなくても、私たちの暮らしが年を追うごとに貧しくなっているのは、多くの人が共有する実感だろう。絶対的な窮乏ではない。まだ、何とか食べていくことはできるし、こどもを学校にやることもできる。でも、なんだか体のなかから生き血を抜かれているかのように、社会全体から活気が乏しくなっているのだ。先が見えない時代、ともよくいわれる。そうではないだろう。先は見えている。ベクトルは下だ。そして、まだ底には到達していない。簡単にいえば、もっと悪くなる、と多くの人は思っているが、その現実に向き合うのがつらいから「先が見えない」と言っているのだ。
それで、聖書のなかの有名な「山上の垂訓」を考えてみたい。この記事は、マタイによる福音書とルカによる福音書に記されている。イエスが山に入って、弟子たちに語ったとされる言葉である。マタイの記事では「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」となっているがルカは」端的に「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と記している。ここでは、より原典に近いといわれるルカの記事を中心に考えてみたい。
ルカは続けて次のように記す。「今、飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」貧しくて、飢えて、泣いている人々、どうしてそういう人々が幸せなのか。ここから、余剰を削ぎ落す、いわゆる清貧の思想の類を読み取ろうとするのはナンセンスである。イエスの時代も現代も、地球上には貧しくて、飢えて、泣いている人たちのほうが圧倒的に多いのだ。
この「・・・・人々は・・・・である。・・・・人々は・・・・である」という倫理学の教科書みたいな口語訳聖書から離れて、今は一般に使われていない文語訳を振り返ってみたい。、たしか「幸いなるかな、貧しき者、神の国は汝らのものなり」となっていたと思う。もう一つ、英語の聖書では、こうなっている。
Blessed are you poor, for yours is the kingdom of God.
Blessed are you that hunger now,for you shall be satisfied.
Biessed are you that weep now,for you shall laugh.
原典のギリシャ語はどうなっているかわからないのだが、おそらく口語訳よりは、文語訳、そして英語の聖書のほうに近いのではないか。Blessed are you ・・・はたんなる倒置ではない。「祝福はあなたがたにある!」という宣言なのだ。いま、目の前にいるあなたがたに!飢えて、泣いているあなたがたに!
for yours is the kingdom of God. なぜなら、あなた方のものなのだ、神の国は。
for you shall be satisfied .なぜなら、私があなたがたをお腹いっぱいにするのだ。
for you shall laugh. なぜなら、私があなたがたを笑えるようにするのだ。
shallは、話者が必然と考える未来について発語するときの助動詞である。目の前で、飢えて、泣いているあなた、私はあなたを祝福する、そしてあなたがたに神の国をもたらし、お腹いっぱい、笑えるように必ずする、という狂気のような強い意志を、語順の倒置と助動詞shallから読み取るべきなのだ。イエスは本気で行動しようとしたのだし、実際にしたのだ。そして、十字架にかかったのだ。
さて、ここで私は自問する。私は、祝福される者として、イエスとともに、イエスの側にいるのか?それとも、傍観者として、イエスを十字架につけた者と同じ側にいるのか?
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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