以前夫が勤めていた会社は、十数名の社員全員が同じ給料だった。ボーナスも同額だった。たった10万円だったけれど。素晴らしい社長だった。のんだくれで、夫の入社後2年も経たないうちに死んでしまったので、たんに面倒だから、全員一律の給料にしたのか、人間の評価など人間にはできるはずもない、というような深い考えがあってそうしたのか、今となっては確かめるすべもないが。
それで、いよいよマタイによる福音書20章の「ぶどう園の労働者のたとえ」について考えてみたい。といっても、今日は時間がないので、このたとえのあらすじの紹介です。
ぶどう園の主人が、自分のぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明け前に出て行って、何人かの労働者を1デナリオンの約束で雇い、次に9時ごろまた広場に出て行って何人か雇い、12時、午後3時、最後に夕方5時になっても仕事に就けないで広場に立っている人々がいたので、雇った。さて、賃金を払うことになって、主人は監督に「最後に来た労働者から始めて、最初に来た者まで順に、賃金を払うように」と指示する。ところが、最初に雇われた人たちが、最後に雇われた人たちと自分たちの賃金が同じであることで、主人に不平を言う。「最後に来た連中はたった1時間しか働かないのに、1日中暑い中を働いたわたしたちと同じとは」。これに対して主人は「友よ」と呼びかけ、こう言うのだ。「あなたに不当なことはしていない。わたしは、あなたと1デナリオンの約束をした。わたしは最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ」
マタイはこの記事を「天の国は次のようにたとえられる」と書き始めているが、これは「たとえられる」のではなく「天の国は次のようになっている」と記すのが正しいだろう。これは「たとえ」ではない。自分の肉体労働しか売るものがない労働者にとって、働くことができない、ということは死に直結する。遊び呆けて広場にいたのではないのだ。働くことができないから、お腹を空かせて立っていたのだ。夕方5時になって、今日誰も雇ってくれなかったら、一晩中みじめに夜を明かさなければならない。だから主人は、最後に雇った者から先に賃金を払うように、監督に命じたのだ。これで、朝から働いていた者も夕方やっと働けた者も、平等に明日を迎えることができる。これが神の国でなくて、なんであろうか。
あらすじの紹介で、私の言いたいこともほぼ尽くしたと思うのですが、できれば後日「ぶどう園の農夫のたとえ」についても、考えてみたいと思います。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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