昨日に続いて、聖書のなかの「ぶどう園の農夫のたとえ」と「ぶどう園の労働者のたとえ」について考えてみようと思ったのですが、もう少し後にします。今日は萬葉集の中から、男の恋歌をいくつか紹介します。
「しるしなき恋をもするか 夕されば ひとの手まきて 寝なむ子ゆゑに」巻十一 作者不詳
こんな実るあてのない思いに身を焦がすとは。夜ともなれば、ほかの男の腕の中で寝る女のために___人妻への恋をうたったもので「恋をもするか」の「か」にやるせない思いがこもっている。だが「作者不詳」とあるので、個人の独白というより、民謡のように集団に膾炙した歌なのだろう。空想の世界では、不倫は人に甘美な感情を呼び起こさせる。現実の不倫は、苦くみじめな思いに満ちたものだろうけれど。
「ちりひぢの数にもあらぬわれ故に 思ひ侘ぶらむ妹が かなしさ」巻十五 中臣宅守
ものの数にも入らないような自分のために、うちのめされている恋人が愛おしい。___ こちらは作者名が記されていて、歌の成立事情もある程度わかっている。宅守は、狭野茅上娘子(さのちがみのおとめ)との結婚問題が罪に問われて、越前の国に流された。この歌は、二人の間で交わされた「宅守相聞」六三首の一首である。一般には、茅上娘子の情熱的な歌群の方が有名である。宅守の歌はその情熱をうけとめるには、いくらか力が足りないような印象を受ける。「こんなダメな男に惚れたお前は可愛いが・・・・」なんて、他人事みたいに言っていていいの!という感じがする。
「ますらをと思へる吾や みづくきの 水城の上に 涙のごはむ」巻六 大伴旅人
立派な男と自負していた俺なのに。別れのときに、こんな所で涙を拭う始末だとは。___旅人は家持の父。九州大宰府の帥として五年間在任し、任期を終えて都に帰るときの歌。愛人だったと思われる遊行女児島が、水城まで旅人を送り、別れを惜しんで詠んだ歌への返歌である。旅人はこの時すでに六十歳を超えていて、病を得ていた。そうでなくても、児島とは永遠の別れになるだろう。万感の思いが込み上げてくるのを抑えられなかった。不覚の涙、しかし、颯爽とした「ますらを振り」の歌である。
こうしてみると、女の恋歌が、技巧をこらしていても、相手への直接的な「訴へ」であるのにたいして、男の恋歌はどこか客観的で反省的である。弱々しく見えるのは、最後まで理性といわれるものを捨てきれないためかもしれない。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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