もう一回「タラントのたとえ」について考えてみたい。このたとえが、無自覚に「資本の増殖と能力崇拝」を肯定している、という田川健三の指摘は、もちろん正しいだろう。だが、マタイによる福音書の記者が、この記事をイエスの十字架の記事の直前に置いたのは、あくまで「たとえ」として「たとえられるもの」を示したかったからだ。その「たとえられるもの」とはなにか。
5タラントンをもとに5タラントン儲けるのは、以前書いたように、投資ではなく投機だ。2タラントンも然り。では、なぜ主人は「投機」した者を顕彰したのか。僕たちは「商売」をして儲けた、とあるので、厳密な意味では「投機」といえないかもしれないが、5タラントンで5タラントン儲けることができるのは、かなり「ボロい」_投機的な商売だ。日本人は、「投機」は嫌いな人が多いが、サクセスストーリーは好きな人が多いので、この話に違和感を感じる人は少ないのかもしれない。熱心に商売に励んで、ご主人に褒められる、それがどこがおかしい?といわれそうだ。
やはり、おかしいと思う。たとえ話とはいえ、5タラントンという資金の巨大さ、「蒔かない所から刈り取る」という苛斂誅求、「何もしなかった」_無為にたいする罰としての放逐、すべて「異常」である。このたとえ話は「異常」を「正常」として語っているのだ。主人から財産を預かったら、何も言われなくても、「早速」出て行って商売をして2倍にしなければならない。苛斂誅求の主人を恐れて、ひたすら「保存」していてはいけない。財産は増やさなければいけない。とにかく、現状維持ではだめなのだ。なすべきことは、即その場で、自己を「投企」することなのだ。無為は許されない。
「それぞれの力に応じて」与えられた財産=タラントン=たまものを、全身全霊で有効に使うこと、それが日々私たちに要求されているのだとしたら、そんな厳しい要求に私たちはどうやってこたえればいいのだろう。
イエスは私たちに「救い」をもたらしにきたのだろうか?
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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