洗礼を受けたクリスチャンではないのに、讃美歌を歌うのが好きだ。中学、高校と6年間クリスチャンスクールに通って、毎日毎日礼拝の度に讃美歌を歌う生活をしてきた。説教とお祈りはほぼすべて忘れてしまったけれど、讃美歌はほとんど覚えている。旋律があるということは、記憶の維持に絶大な効果があるのだろう。そういえば、「主の祈り」は覚えているが、これは文語体で覚えさせられたからだろう。文語はいうまでもなく話し言葉ではないので、意味よりも音声で記憶する部分が大きいのだと思われる。
讃美歌も一人で歌うより何人かの人と、できればコーラスで歌うほうが好きだ。だから、先日ホームや教会や近隣の方たちとクリスマスの讃美歌を歌うことができて、ほんとうに幸せだった。無心に旋律そのものが導く感情に身をゆだねていると、魂が洗われていくような気がした。生きる勇気がわいてくるようにも思えた。
けれども、同時に私の中のどこかで「お前は歌うな」という中野重治の詩の一節が聞こえてくる。歌うな、「語れ」。何を?・・・・・・
十数年前、私は「平安女流文学における散文成立の一考察_蜻蛉日記の歌の別れを中心に」という論文を書いた。当代一の和歌の名手といわれた作者道綱母が、なぜ、散文を書いたか、書かなければならなかったか、そして書かれた散文が到達した地点はどのようなものであったか、をテキストに即して通時的に考察したものである。いま、私は、道綱母でなく私自身が、なぜ「歌わずに」書き続けなければならないのかを自問している。
まだ書かなければならないことはたくさんあるのですが、というより何も書けていないのですが、もうすぐ日付が変わってしまうので、続きはまたにします。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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