2012年1月1日日曜日

移りゆく時見るごとに___閑散とした年の暮れに

今まで何もしなかったわけではないのだが、それでも今日は最低限の歳末の家事をしていたら、この時間になってしまった。夕方、買い物にでかけて、人出があまりに少ないことに驚いた。昨日もそうだった。風もなく、冬晴れの暖かい日なのに、新年を迎える緊張感もざわめきもない年の暮れだった。
 
 いったいいつからこの国は、こんなに活気のない平板な国になってしまったのだろう。街に人があふれ、終電まで駅のプラットホームが混雑していたバブルのころはもちろん、それ以前のまだ日本が豊かとはいえない六十年代でも、こんなに寒々とした年の暮れはなかった。でも、そう感じるのは、もしかしたら、たんに私が年を取ったからなのかもしれない。いつの時代でも、時間の推移は、人間に悲哀の感情をもたらすのかもしれない。

 「移りゆく時見るごとに、心いたく 昔の人し 思ほゆるかも」
これは、私のもう一つの青春の文学だった万葉集巻二十におさめられている大伴家持の歌。ただし、これは年の暮れに詠んだものではない。「天平勝宝九年六月二三日」と記されているので、真夏の盛りの歌である。しかも「大監物三形王の家で酒宴したときの歌」とあるのだが、およそ宴のどよめきなど無縁である。主に対する儀礼的なことほぎもない。きわめて個人的な感慨を吐露しているだけだ。それがかえって千年以上の時を経てなお共感を呼ぶのだが。

 だが、家持は懐古の情にひたっているだけではいられない。斜陽とはいえ、古代の名門大伴家の族長として、端正な新年のことほぎの歌も残している。
「新しき年のはじめの初春の、今日降る雪の、いや頻け 吉言(よごと)」
そして、これが万葉集最後の歌として記録されているものである。

 新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

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