2011年12月29日木曜日

D・Hローレンス『チャタレイ夫人の恋人』___矮小化されてしまった人類再生の希望

今日は、ハードボイルドよりもっとハードなイギリスの作家D.Hローレンスです。

 最初にローレンスの作品に触れたのは、30歳を過ぎて始めた大学の通信教育の教材だった。ローレンスの自伝ともいえる『息子と恋人』から抜粋した文章がイギリス文学の教材として使用されていた。いわゆる「チャタレイ裁判」がいまほど風化していない時代だったから、これを選択した教授の見識にあらためて敬意を表したい。テキストの文章は、ダイナミックで、しかも流麗という印象があった。もちろん、つねに辞書を引きながら悪戦苦闘して読み進んだのだが。

 比較的短い生涯に、驚くほど多作だったローレンスが、死の2年前に完成させた作品が『チャタレイ夫人の恋人』である。この作品のテーマが、その性描写をめぐって「猥褻か否か」という問題に矮小化され、矛盾を顕在化させていた資本主義への批判とその超克、というおそらく死を予感しつつあったローレンスが最も訴えたかった核心の部分が、いまだ議論の対象になっていないことを、ずっと憂えている。というより、憤っている。権力はいつも核心に触れられることを避けるために、問題を矮小化する。俗情におもねるのは、そのために最も有効な手段である。

 作品の主題は冒頭にあきらかである。作者は、直截すぎるほど直截に、こう書きだす。「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受け入れたがらないのである。大災害はすでに襲来した」(伊藤整訳)

 産業資本家で貴族の夫が戦争で不能になり、若くして寡婦のような生活を強いられていた主人公の女性が、領地の森番の男を愛し、彼の子どもをみごもり、決然と二人の生活を確立しようと歩き出す、というストーリーは、あまりにも図式的である、といわれてもしかたがないかもしれない。しかし、どの人物も、けっしてステロタイプの操り人形ではなく、生き生きと個性的である。敵役の夫クリフォドさえも。随所に挿入されるみずみずしい自然描写もすばらしく、かなりの長編小説であるにもかかわらず、読み始めたら一気に読了してしまう。読了して誰もがローレンスがこの小説にこめたメッセージを受け取るはずなのだ。人間を抹殺する現代文明への批判と、性愛によるその超克と人類の再生、という希望のメッセージを。

 ここに冒頭書き出しの文章に続く部分を転記するので、興味をもたれた方は、どうか作品全部を読み通していただきたい。そしてローレンスによって提起された問題がいまだなに一つ解決されていないばかりでなく、隠蔽されつづけていることについて考えていただきたいと思う。

 「われわれは廃墟のまっただなかにあって、新しいささやかな棲息地を作り、新しいささやかな希望をいだこうとしている。それはかなり困難な仕事である。未来に向かって進むなだらかな道は一つもない。しかしわれわれは、遠まわりをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害がふりかかろうともわれわれは生きなければならないのだ」 
 
 今日も最後まで読んでくださって、ほんとうにありがとうございます。

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