2011年12月28日水曜日

「もう、あげるものは何もないのだよ、レティシャ」____ハードボイルド文学論試論

昨日は魂を洗われるような童話だったけれど、今日はちょっと辛口の60年代ハードボイルドを取り上げてみたいと思います。今日も常体の文章でいきます。

私の青春の文学はアメリカのハードボイルドと呼ばれるミステリー小説だった。フランスやイギリスの作家のものも読んだけれど、なんてったって、お気に入りは、ハメット、チャンドラー、マクドナルドの御三家で、とりわけレイモンド・チャンドラーの作品が好きだった。「寝てはレイモンド、覚めてはチャンドラー」の毎日が続いた。でも、今日取り上げるのは、一番遅れて登場したロス・マクドナルドの最高傑作「さむけ」の衝撃的なラストのセリフ「もう、あげるものは何もないのだよ、レティシャ」

 推理小説のあらすじを、とくに結末を語るのはルール違反である。なので、くわしい説明はできないのだが、これは、主人公(というより作品のなかで、コマ回しの役割を果たす)の探偵リュウ・アーチャーが、息子と偽って生活を共にしてきた年下の恋人を拳銃で撃って殺してしまった富豪の老婦人にたいしてかけた言葉なのだ。恋人が少年のころから、彼を愛し、庇護し、生活を支え、そして彼から愛されてきた一人の女性が、恋人を独占するために殺人を重ね、最後には誤って恋人を殺してしまう。拳銃を手に、茫然と立ちすくむ老婦人に「もう、拳銃はいけない」とさとし、冒頭のセリフを投げかけて小説は幕を閉じる。

 「もっと、もっと、もっと」ほしがって、手に入れて、それでもほしがって、最後には、命までも奪って、恋人のすべてを手に入れたレティシャ。手に入れた瞬間に、彼女はすべてを失ったのだ。ロス・マクドナルドは、なんと愚かで、そしてなんと魅力的な主人公を造形したのだろう。この作品は1964年アメリカがベトナム戦争に介入し始めた頃に書かれている。製造業を中心とするアメリカ資本主義がまさに成熟期を迎える時代だ。だが、すでに、頽廃の影がしのびよっている。レティシャは、そんなアメリカを象徴するようだ。

 不況の30年代に芽生え、おそらくは50年代が絶頂期だったと思われるアメリカのハードボイルド小説は、勃興してきた資本主義へのアンチ・テーゼであるとする中田耕治氏の論がある。私もそう思う。そのことを、この「さむけ」を題材に考えてみようと思ったが、今日はこれまで。もう少し精読しないと書けないことが多すぎるので、愚娘に貸してあるテキストを返してもらいます。今日も、こんなまとまりのない文章を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

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