岩手大学名誉教授の米地文夫氏に「宮沢賢治「月夜のでんしんばしら」とシベリア出兵」という論文がある。「啄木短歌・「カルメン」「戦争と平和」との関係を探る」と副題のついた精緻で素晴らしい論文である。米地氏は『注文の多い料理店』におさめられた作品中この「月夜のでんしんばしら」と「烏の北斗七星」について論文を書かれている。そのどちらも、これらの作品に深く影を落とす戦争とのかかわりを解析したものだが、私は賢治が唯一生前活字化した『注文の多い料理店』全体が、つねに戦時下にある当時の日本の状況を暗喩したものだと考えている。
例によって独断と偏見でいえば、『注文の多い料理店』という作品集は宮沢賢治の「ナインストーリーズ」であると思う。サリンジャーが太平洋戦争の真実を「ナインストーリーズ」で書いたように、賢治は、明治維新というグレートリセット以来日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そしてシベリア出兵と、戦争が日常であったといっても過言でない日本の状況を童話のかたちで書いたのではないか。といっても、日本の国土が戦場になったのではない。国土に根を下ろして生きていた日本の若者が徴兵されて、海外の戦場で戦わされたのだ。かしわの木が「九十八」本切られてその「足さき」が林の中に残ったように。
「かしわばやしの夜」は非常に不思議な作品で、難解である。冒頭からの数十行、平易な日本語で書かれている部分がすでにわからない。
「清作は、さあ日暮れだぞ、日暮れだぞと云いながら、稗の根もとにせっせと土をかけていました。
そのときはもう、銅(あかがね)づくりのお日さまが、南の山裾の群青いろをしたとこに落ちて、野はらはへんにさびしくなり、白樺の幹などもなにか粉を噴いているようでした。
いきなり、向こうの柏ばやしの方から、まるで調子はずれの途方もない変な声で、
「欝金しゃっぽのカンカラカンのカアン。」とどなるのがきこえました。
清作はびっくりして顔いろを変え、鍬を投げ捨てて、足音をたてないように、そっとそっちへ走って行きました。
ちょうどかしわばやしの前まで来たとき、清作はふいに、うしろからえり首をつかまれました。
びっくりして振りむいてみますと、赤いトルコ帽をかぶり、鼠いろのへんなだぶだぶの着ものを着て、靴をはいた無暗にせいの高い眼のするどい画かきが、ぷんぷん怒って立っていました。
「何というざまをしてあるくんだ。まるで這うようなあんばいだ。鼠のようだ。どうだ、弁解のことばがあるか。」
清作はもちろん弁解のことばなどはありませんでしたし、面倒臭くなったら喧嘩してやろうとおもって、いきなり空を向いて咽喉いっぱい、
「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」とどなりました。するとそのせ高の画かきは、にわかに清作の首すじを放して、まるで咆えるような声で笑いだしました。その音は林にこんこんひびいたのです。」
細かいことにこだわるようだが、清作が「さあ日暮れだぞ、日暮れだぞ」と独り言をいいながら農作業をしていた、と書かれていることにまず注目したい。「もう」日暮れだぞ、ではないのだ。「もう」日が落ちて農作業をやめるときがきた、というのではない。「さあ」日暮れになった、と自分に言いきかせている。日が暮れたら、何かが起こることを予期しているのである。
そして突然、「欝金しゃっぽのカンカラカンのカアン」というどなり声が聞こえる。「清作はびっくりして顔いろを変え」とあるので、この声は清作には予期せぬものであったようだ。声に驚いた清作は、逃げるのではなく、「鍬をなげすてて、足音をたてないように、そっとそっちへ走っていきました」と書かれているが、「そっと走る」のは忍者ならぬふつうの人間には難しい。案の定、清作は赤いトルコ帽をかぶった男に見つかり、その「鼠のよう」なあるき方を「何というざまをしてあるくんだ」と非難される。不思議なのは「弁解のことばはあるか」と男にいわれて「もちろん弁解のことばなどはありませんでしたし、面倒臭くなったら喧嘩してやろうとおもい」清作も「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン」とどなることである。
いったい清作と赤いトルコ帽をかぶった画かきとはどういう関係なのか。「欝金しゃっぽのカンカラカンのカアン」という声を聴いて清作が顔いろを変えたのはなぜか。そもそも「欝金しゃっぽ」とは何か。清作は欝金いろの帽子をかぶっているのか。それとも清作の髪が欝金いろなのか。あるいは「欝金しゃっぽのカンカラカンのカアン」とは何かの合言葉なのか。私にとって、「欝こんしゃっぽ」は謎のはじまりであり、最後まで解けない謎だった。
清作が「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン」とどなり返すと、画かきはにわかに機嫌がよくなって「咆えるような声で笑いだし」その声は「林にこんこんひびいた」とある。「せいの高い」「眼のするどい」画かきとは何者か。
この後画かきと清作は禅問答のような挨拶を交わす。清作の応答によろこんだ画かきは「おもしろいものを見せてやる」といって、林の中に入って行く。
林の中は清作にたいする悪意にみちていた。それもそのはずで、清作は林の中の柏の木を九十八本も切ってしまったからである。林の中には「しっかりとしたけらいの柏ども」にかこまれて、「大小とりまぜて十九本の手と、一本の太い脚とを持」った「柏の木大王」がいるが、大王は画かきと一緒にやってきた清作のことを「前科九十八犯」の前科者と呼ぶ。だが、清作は「おら正直だぞ」と臆するところがない。自分は山主の藤助に酒を二升買ってあるから、切る権利があるという。山主の藤助がたった二升の酒を受け取ったために、九十八本の柏の木はなんら抵抗するすべもなく切られてしまったのだ。
ところで、柏の木大王は、清作が柏の木を切った行為そのものにをとがめたのではないようである。山主の藤助に酒を買ったのに、なぜ自分には買わないのかと文句をいうのだ。
「そんならなぜおれには酒を買わんか。」「買ういわれがない。」「いや、ある、たくさんある。買え。」「買ういわれがない。」
柏の木大王と清作のこの問答は作品中三回繰り返される。柏の木大王にとって、林の柏の木の命は二升の酒と引き換えになるものなのだろうか。
林の中の険悪な空気は画かきのことばで一変する。
「おいおい、喧嘩はよせ。まん円い大将に笑われるぞ。」東の山脈の上に「大きなやさしい桃いろの月」がのぼったのだ。柏ばやしは、若い木も柏の木大王も
「かしわばやしの よろこびは
あなたのそらにかかるまま」
と月への讃歌をうたう。
ちょっと不思議なのは、柏の木大王が
「こよいあなたは ときいろの
むかしのきもの つけなさる
かしわばやしの このよいは
なつのおどりの だいさんや
やがてあなたは みずいろの
きょうのきものを つけなさる」
と、うす桃いろの月が「むかしのきもの」を着て出てきて、今晩「なつのおどりのだいさんや」に「みずいろの きょうのきもの」に着替える、といっていることである。「むかしのきもの」を着ている月に、若い柏の木たちも
「あんまりおなりが ちがうので
ついお見外れしてすみません」
と謝っている。うす桃いろあるいは水色の優美な衣装を着けた月を、画かきが「まん円い大将」と兵隊の位でよぶことにも微かな違和感を感じるのだが、いったい、月は何の表徴なのだろうか。
柏の木たちの月讃歌によろこんだ画かきは興に乗って「じぶんの文句でじぶんのふしで歌う」歌のコンクールをしようと言い始める。一等から九等まで画かきが書いたメタルをくれるという。白金、きんいろ、すいぎん、ニッケル、とたん、にせがね(?)、なまり、ぶりき、マッチ(?)とあって、最後は「あるやらないやらわからぬ」メタルだそうだが、「書いた」メタルって何のことだろうか。
画かきがまず、賞品のうたをうたい始めると、柏の木たちは柏の木大王を正面に環をつくる。月も水いろの着ものと取りかえ、あたりは浅い水底のようになる。月影に「赤いしゃっぽもゆらゆら燃えて見え」る画かきは、まっすぐ立ってスタンバイするのだが、最初の小さな柏の木が歌い始めると、なぜか、鉛筆が折れた、といって靴の中で削りはじめる。削り屑で酢をつくるというのだが、出ばなをくじかれてみんな一瞬しらけてしまう。
それでも、若い柏の木から順々に歌い始めると、画かきはその都度「わあ、うまいうまい」とほめて一等から順に評価を与える。だが、そのうたたるや
「うさぎのみみはながいけど
うまのみみよりながくない」
というようなナンセンス、というほどの意味もないようなうたである。きつねや猫、くるみ、さるのこしかけなど、林のなかの生きもののうたが続いて五等賞まで進む。
そして、六番目に出てきたのは、清作が林のなかに入ろうとしたとき、脚をつき出してつまずかせようとした若い柏の木で、
「うこんしゃっぽのカンカラカンのカアン
あかいしゃっぽのカンカラカンのカアン」
とうたう。いうまでもなく、林の入り口で画かきと清作がかわしたやりとりである。画かきはこれを「うまいうまい。すてきだ。わあわあ」とほめるが、清作は当然おもしろくない。
さらに続く三本の柏の木が、清作が葡萄酒を密造しようとして失敗したことを暴露する。清作の怒りは頂点に達するが、画かきにつかまれて身動きがとれない。柏の木たちももう言うべきことを言いつくしたのか、みんなしんとしてしまう。うんといいメタルを出すから、と画かきに促されて、柏の木がざわついたときに、ふくろうの軍団がやって来る。
「のろづきおほん、のろづきおほん、
おほん、おほん、
ごぎのごぎのおほん
おほんおほん」
と奇妙な鳴き声のふくろうの集団が、柏の木のあちこちにとまる。清作と会ったばかりの画かきが「野はらには小さく切った影法師がばら播きですね」と言ったのはこの光景だったのかもしれない。その中から、立派な金モールをつけて眼のくまがまっ赤な年寄のふくろうの大将が、柏の木大王の前に出ていう。ふくろうたちはいま「飛び方と握み裂き術の大試験」を終えたところで、「たえなるしらべ」が聞こえてきたのでまかり出てきた。ついては、これから柏の木たちと連合で大乱舞会をやろうと。そして、梟の大将みずからうたい始める。
「からすかんざえもんは
くろいあたまをくうらりくらり、
とんびとうざえもんは
あぶら一升でとううろりとろり、
そのくらやみはふくろうの
いさみにいさむもののふが
みみずをつかむときなるぞ
ねとりを襲うときなるぞ」
「黒砂糖のような甘ったるい声で」うたった、とあるがえげつない、不気味なうたである。他のふくろうたちも「ばかみたいに」
「のろづきおほん、
おほん、おほん、
ごぎのごぎおほん、
おほん、おほん、」
と、どなったのにたいして、さすがに柏の木大王は「きみたちのうたは下等じゃ」と眉をひそめる。そこで、副官のふくろうがとりなして、今度は上等のうたをやるから一緒におどろうと音頭を取る。
「おつきさんおつきさん まんまるまるるるん
おほしさんおほしさん ぴかりぴりるるん
かしわはかんかの かんからからららん
ふくろはのろづき おっほほほほほほん。」
副官のうたで、柏の木とふくろうは息を合わせて大乱舞会をやったのである。
大乱舞会は実にうまくいったのだが、月はすこし真珠のようにおぼろになった。これもまた、画かきと会ったばかりの清作が「お空はこれから銀のきな粉でまぶされます」と予言された事態かもしれない。そして、乱舞会の成功によろこんだ柏の木大王が
「雨はざあざあ ざっざざざざざあ
風はどうどう どっどどどどどう
あられぱらぱらぱらぱらったたあ
雨はざあざあ ざっざざざざざあ」
とうたうと、霧が矢のように林の中に降りてきたのである。急転直下の事態に、踊りの途中の柏の木たちは、化石したように硬直したままだが、画かきの姿はなく、赤い帽子だけがほうりだされている。まだ飛び方の未熟なふくろうがばたばた遁げていく音がした。
林を出た清作が空を見ると、月があったあたりはぼんやり明るく、黒い犬のような形の雲がかけて行き、林の向こうの沼森のあたりから「赤いしゃっぽんのカンカラカンのカアン。」と画かきが叫ぶ声がかすかにきこえる。
以上作中歌われる不思議な「うた」を中心にあらすじを追いかけてきたが、謎は深まるばかりで、いっこう解ける気配がない。そもそも、振出しに戻って、「清作」とは何か。鍬を持って農作業をしているので、農民なのだろうが、何故柏の木を九十八本も切ったのだろう。切った柏の木をどうするのか。山主の藤助がたった酒二升で伐採を許したのも解せない。また、野原にぶどうをとりに行った清作が「一等卒の服」を着ていた、とうたわれているが、清作は兵隊なのか。
柏の木大王は、清作を「前科九十八犯」と呼んで弾劾する。だが、その罪は清作が柏の木を伐採した行為そのものではない。清作が山主の藤助には酒を買いながら、大王には酒を買わなかったことを非難しているのだ。清作は買う「いわれがない」といい、大王は「(いわれは)ある。沢山ある。買え」と言って、この問答は三回繰り返される。どこまで行っても平行線のこの論争で、当の柏の木の命は議論の圏外である。
清作を林へいざなう画かきの正体は何か。清作が「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン」とどなると、「まるで咆えるような声で笑いだしました。その音は林にこんこんひびいたのです。」と書かれている。これは人間だろうか。「赤だの白だのぐちゃぐちゃついた汚ない絵の具箱」を持っているが、いったいどんな絵を描くのだろう。清作を林に連れて行った目的は何か。白日ならぬ月光の下で、清作の冒した密造酒づくりという罪を暴き、償わせようとしたのか。
この作品の前半は清作対柏の木の敵対関係がテーマだが、後半ふくろうが登場すると、清作も画かきも出る幕がなくなる。ふくろうの大将が
「そのくらやみはふくろうの、
いさみにいさむものふが
みみずをつかむときなるぞ
ねとりを襲うときなるぞ」
と宣言するように、ふくろうは森の殺戮者である。森の殺戮者と、神が宿る神聖な木ともいわれる柏の林が「大乱舞会」をくりひろげた、というのはどういうことなのか。そして、これが最も難問だが、この「大乱舞会」によろこんだ柏の木大王が「すぐ」
「雨はざあざあ ざっざざざざざあ……」とうたいだすと霧が「矢のように」降りて来て、饗宴が突然の終わりを迎えたのはなぜだろう。柏の木大王はふくろう軍団に友好的ではなかったのか。
最後に赤いシャッポを残して、画かきはいつ姿を消したのだろう。「赤いしゃっぽ」っていったい何だろう。「欝金しゃっぽ」も、そもそも帽子だろうか。_______とまたもや振出しに戻ってしまい、何ひとつ解決できないままである。
書いているうちに何か解き明かされるかもしれないとかすかな期待をかけていたのですが、やはり非力な自分を思い知らされました。探っても探っても真相は遠のいていくような気がします。それが賢治の作品の魅力なのかもしれませんが。不得要領な一文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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