深夜つれあいとユーチューブをネットサーフィンしていたら、「認知症の第一人者が認知症になった」というドキュメンタリーに出会った。タイトルにある通り「痴呆症」と呼ばれていたものを「認知症」と名づけた文字通りの第一人者が、その症状を発症してから、一年余りの生活に取材して映像化した作品である。一時間に満たない番組をつくるために、どれほどの映像、というか情報を切り捨てたのだろう。過不足なく、抑制のきいた映像が流れるのだが、それでいて、取材する側とされる側ドキュメンタリーにかかわる人それぞれの思い、息づかいが伝わってくるような気がした。
この番組は相当な反響をよんだものらしく、ネットで標題のタイトルを探したら、たくさんの感想が寄せられていた。いま現在身内の方を介護している人、介護の経験はないが、これから起こりうるかもしれない事態として自らの老後を考えている人などのいくつかのコメントを読んだが、それらがじつに達意の文章で、エッセイとはこうやって書くものだ、と感心かつ同感しながら読んでいた。
具体的な事柄についての感想は、ご本人とご家族の方たちのプライヴァシーにかかわり、微妙な問題を含む場合もあるかと思うので、さし控えたい。それで、私が印象的だったふたつの場面について考えてみたい。
ひとつは、認知症になった先生が、介護施設に招かれて「私はキリスト教の信仰に出会って……」、と話し始めた場面だが、その後話の続きがカットされてしまった。帰宅後、終始先生に付き添ってサポートしている長女の方が「キリスト教の話はしない方がいい」と父親に言っている場面があるので、おそらくその判断を優先したのだと思われる。介護施設のお年寄りを前に、先生がどんな話をしたのか、どうしてキリスト教の話はしない方がいいと判断したのかわからないのだが、私はその話を聞いてみたかった。先生はいつキリスト教に出会ったのか。認知症を自覚する前なのか、それとも後なのか。また、先生の出会ったキリスト教とはどんなキリスト教なのか。というより、先生はキリスト教の何に出会ったのか。
もうひとつは、番組の最後に近い場面で、長女の方が「お父さん、私が誰かわかる?」と聞くと、先生が「わからん」と答えるくだりである。その前に先生はインタビューーに答えて、自分が見ている景色はと以前と変わらない、と言っているので、長女の方も以前と同じ存在として認識していると思われる。姿、かたち、年齢、声等々、それとして認識しているのだが、「みずこか?」と奥さんの名を呼び、「わからん…」とつぶやく。目の前にいる人間が妻なのか娘なのか、それとも他の誰かなのか、わからない。存在は認めても、自分との関係性が抜け落ちている。これは絶対の孤独である。
認知症も様々なかたちがあるようだが、門外漢で経験が乏しい私には、詳しいことがわからない。ただ、このドキュメンタリーを見て思うことは、老いるとは、この方も言われるように、「自分の中にあるものをひとつひとつ失っていくこと」なのだ、という当たり前のことであり、それを受け入れていく過程なのだ、ということである。そして、それはそんなに悪いことでもないし、悲しむことでもないような気がする。
他者との関係性が欠落していくことは、他者との関係を結ぶための「顔_仮面_ペルソナ」が剥ぎ取られていく過程である。「人間」から「ひと」になっていく。person からindividual になっていくのだ。もうこれ以上分けられない存在、究極絶対の個。
もちろん、これは、私の想像の世界の中で理念としてのみ成り立つ図式かもしれない。現実はもっと複雑で情念に満ちた世界があるのだろう。だが、「キリスト教の信仰に出会った」という先生の言葉を聞いたとき、私もその信仰に出会ったような気がしたのである。というか、もし私がキリストに出会うことがあるとしたら、そういう絶対の孤独、究極の個に近づくときだろう、と思うのだ。
折口信夫の続きを書かなければならないのですが、相変わらず悪戦苦闘しています。それで、というわけでもないのですが、ちょっと折口の呪縛から逃れたくもあって、寄り道してしまいました。不出来な作文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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