2014年11月27日木曜日

大江健三郎『取り替え子』__フリーダ・カーロとモーリス・センダック(その2)

 『取り替え子』の最終章は「終章 モーリス・センダックの絵本」となっている。作品全体のエピローグのようでもあり、『取り替え子』という小説を絵に見立てて、それをおさめる額縁のような役割を果たしているようでもある。モーリス・センダックの数ある絵本の中、"Outside  Over  There"(『まどのそとのそのまたむこう』)をほぼまるごと紹介して、妻の千樫の語りで文脈をすすめていく。

 わたくしごとになるが、モーリス・センダックの絵本は遥か昔の若い母親だったときに「こぐまのくまくん」シリーズをいくつか買って、子どもに読み聞かせた。子どもたちが喜ぶから、というより、たぶん、自分がそれらの絵本を読むのが楽しかったからだろう。必ずしもcomfortable___いごこちよい、とでも訳せばよいだろうか_な絵ではないけれど、登場人物の表情やストーリーの流れに、微妙な翳がさすことがあって、それが魅力だった。いまネット上でセンダックを検索すると、あまり頑健とは思われない、むしろ非常に繊細な外見の写真と、ブルックリンのゲットーに育ったという彼の生い立ちがでてきて、それから、晩年に五十年間連れ添ったパートナーの精神科医に先立たれた後同性愛だったことを公表した、とあって、なんとなく納得してしまった。作品理解に余計なことかもしれないけれど。

 私は「こぐまのくまくん」シリーズしか知らないのだが、"Outside  Over  There"を含めて、モーリス・センダックの世界に共通するのは、「いつも不在な父」ではないだろうか。"Outside  Over  There"では、「パパが航海に出ただけで」「ママは深い憂愁と放心に捉えられてしまった」と書かれていて、そのママのことを、千樫は「私のお母様」と考えていた、とある。「私のお母様」の夫=千樫(と兄の塙吾良)の父は早くに亡くなって不在であり、さらにいえば、古義人も同様だった。センダックの世界と『取り替え子』の世界は「不在の父」という共通項が隠されている。

 父が不在である、ということは、子どもと残された母親との関係に何ほどかの翳を落とすと思われる。物語に即していえば、"Outside  Over  There"の赤んぼうは、頑健な男親がいたら、やすやすと盗まれることはなかっただろう。そして、まだ少女のアイダが、母親になり代わって___そのことはアイダが母親の黄色い雨外套を着ることに象徴されている__赤んぼうを取り戻しに窓から飛び出す危険を冒す必要もなかった。少女のアイダは、赤んぼうと同じような子どもであることが許されていない。大人の、むしろ父親の代わりでもあるかのごとく、彼女の妹を「きたならしいゴブリン」の手から救い出す闘いをしなければならない。そして千樫は、そのようなアイダと自分を同一視するのである。

 ところで"Outside  Over  There"とはどのような世界なのだろうか。それについては、モーリス・センダック自身がセミナーで、そこからの帰還が決してたやすいものではないと語っている、と書かれている。『取替え子』の作品世界に即して考えれば、それが古義人と吾良が少年のときに経験したアレであり、作中「外側のあの向こう」と書かれている時間、空間の出来事なのだろう。それはモーリス・センダックが描いている世界より、もっとずっと複雑な「こと」なのではないだろうか。『取替え子』の最後で、作者は吾良の残した二つのシナリオ、というかたちでそれを示唆しているが、その二つのシナリオが真相をあきらかにするものだとは思われない。しかし、果敢な千樫は、"Outside  Over  there"のアイダのように、いやアイダよりもっと勇敢にアレに立ち向かい、これから生まれてくる者が「外側のあの向こう」に連れ去られないように、出発するのである。

 作品の」中心、核となる部分になかなか到達できず、私自身が「欠説法」で書いているような有様になってしまいました。「アレ」と何やらいかがわしい響きを持つ事柄の真相にいたる道のりについては、もう少し考えを整理してから書きたいと思います。書けるかどうか、自信はないのですが。

 今日も未整理な覚書を読んでくださってありがとうございます。

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