小説後半の古義人の受けた暴力について考えていかなければならないのだが、どうしても集中できないでいる。それで、ちょっと閑話休題、作中取り上げられる二人の画家、フリーダ・カーロとモーリス・センダックのことを書いてみたい。
フリーダ・カーロはメキシコの女流画家で、たしか大江の『同時代ゲーム』でも名前が出てきたように思う。作品のほとんどが自画像で、美しい人だったようだが、六歳のとき小児麻痺にかかり、十八歳で恋人と一緒に乗っていたバスが路面電車と衝突、腹部をバスの手すりに貫徹されるという重傷を負う。一生肉体の痛みに苦しんだ人だった。私生活も波乱万丈で、何回も恋をして、何回も恋に破れた。(そのうちの一人がスターリンとの権力闘争に敗れて、メキシコに亡命してきたレフ・トロツキーだった)最初から無理な妊娠、出産をし、その結果三回流産した、とある。痛みは人間をかえってエネルギッシュにするのだろうか、と思ってしまうような人生である。
大江がこの小説で取り上げているのは「ヘンリー・フォード病院」と「ふたりのフリーダ」という絵である。作中、古義人は田亀に惑溺する自分を立て直そうとベルリン自由大学の客員教授としてベルリンに赴く。百日のQuarantine(隔離、交通遮断、検疫etc・・・など辞書の訳語がそのまま羅列されている)を終えて帰国し、時差ボケに悩む古義人は、彼の帰国を待ち構えていたかのように、郷里から送りつけられてきたスッポンを悪鬼のようになって殺戮せねばならなかった。無惨で無為な殺戮の後、彼は書斎でなじみの本に囲まれていることで安堵する。
不思議なのは、ここからで、彼は自分の頭蓋のなかに赤い心臓を透視し、それらの弁にこまかな血管がいくつもつながっていて、体外に出て書棚の書物に届いている、というのだ。そう透視することで安堵ともの悲しい失墜感を覚えた、という。そして、それがフリーダ・カーロの「ヘンリー・フォード病院」の絵と同じ構図だと思っていたのだ、とある。
ところが、「ヘンリー・フォード病院」という絵は、そういう構図ではない。古義人も自分の思い入れがまちがっていたことに気づくのだが、土台の枠組みに「ヘンリー・フォード病院」と書いてあるベッドに横たわった裸身の女性は、下腹のところで何本かの赤い紐を束ねて持っていて、その紐がなにやらわけのわからないもの(私がよくわからないだけかもしれないが)___胎児やカタツムリや旋盤機械や花束などらしい___につながっている。シーツに性器からのものらしい出血がはっきりと描かれているので、赤い紐は血管なのかもしれない。ベッドは空中に浮き上がっているように描かれ、遠景に工場らしきものがいくつか小さく描かれている。
「ヘンリー・フォード病院」は有名な作品なので、古義人が、というより大江健三郎が記憶違いをする筈はない、と思うのだが、何故このような取り上げ方をしたのだろうか。古義人は、というか大江は、フリーダ・カーロの「ふたりのフリーダ」という絵に言及して、それとの混乱をほのめかしているのだが。
「ふたりのフリーダ」は白いスペイン風(?)の衣裳を着た女性とメキシコの民族衣装(?)を着た女性がそれぞれの左手と右手をかさねて並んで座っている。メキシコ風の衣裳の女性のむきだしの心臓からスペイン風の衣裳の女性の衣服に覆われた心臓に、細い血管を通して、血液が送りこまれている。何とか出血を止めようとスペイン風の衣裳の女性はカンシを手にしている。これも有名な作品のようだが、ちょっと不思議なのは、作中「雲の密集するスクリーンの前に立つ『ふたりのフリーダ』の肖像」とあるが、どう見てもこれは坐像である。後ろに籐で編まれたような腰掛が見えるのだ。これも、たんに作者の記憶違いなのだろうか。
要するにフリーダ・カーロは、「頭蓋のなかに赤い心臓があって、そこから出る血管がもの_書物_とつながっている」ような絵は描いていないのだ。そのようなイメージは古義人自身の、普通の人にはなかなか理解できない感覚でしか見えない幻視なのである。フリーダ・カーロが生涯痛みに苦しみ、実際に体を切り刻まれながらも、なお情熱とエネルギーに満ちて創作を続けたのに対して、古義人は、古いなじみの本に囲まれて、それらと血脈を通じている、と思い込むことで余生を「死んでいる者のように穏やかに生きてゆけそうに感じた」のだ。だが、そのような彼を再び創作に追い込むモノを携えて、妻の千樫がやってくる。
モーリス・センダックについても書こうと思っていたのですが、思いのほか長くなってしまったので、続きはまたの機会にしたいと思います。今日も不出来な覚書を読んでくださってありがとうございます。
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