この小説の中で、私がどうしても了解できないものが二つある。一つは「ヨナ書」の取り上げ方で、もう一つは「悔い改めと終末」の内容である。もっとも根本的なことが納得できないでいる。
以前も書いたが、「ヨナ書」の主題は赦す神、愛の神である。ヨナは「アミッタイの子』と書かれているので預言者の一族であろう。彼は悪をなす都市ニネベに悔い改めを説きに行くよう神に命じられたが、その命に背き、神から逃れようとして、タルシシという町に向かう船に乗る。嵐が来て、そのわざわいが自分のせいだとされたヨナはみずからを海に投げ入れさせ、波風を静める。すると、神は大きな魚の腹にヨナを呑み込ませ、ヨナの悔い改めの祈りにこたえて、かれを吐き出させる。ヨナはニネベに行き、神の怒りを伝える。ニネベの人々は王から奴隷まで一人のこらず悔い改め、正しい生活をする。神はニネベの町の悔い改めを見て、彼らを滅ぼすのをやめる。
ところがヨナは神がニネベの町を赦したことに憤る。彼は「死んだ方がいい」と言って、ニネベの町のはずれに小屋を建て、なりゆきを見まもろうとする。彼が暑さに苦しむのを見た神は、一晩でとうごまの木を生やして小屋を覆うが、また一晩で虫をわかせて木を枯らしてしまう。そして、とうごまの木を惜しむヨナに、ニネベの町を惜しむ神の意志を述べるのである。
ヨナは、神に背いてタルシシに逃れようとしたみずからの過ちに気づき、悔い改めて海に投げ入れられたから、神から大きな魚を与えられ、その腹の中で嵐をやり過ごすことが出来たのである。ところが、ニネベの人々がヨナの言葉で悔い改め、悪の道から外れると、そのことで神に憤る。その怒りは理不尽であるということを、神はとうごまの木をもって知らしめたのである。ここには人間の悔い改めと神の赦しがどのように行われたかということが具体的に記されている。
繰り返すが、悔い改めとは行為である。ヨナがみずから望んで嵐の海に投げ入れられたように。そして大きな魚の腹の中で、誓いをたてたように。またニネベの人々が(獣までも)荒布をまとい、断食して狂暴な行いをやめたように。その行いを神は嘉するのである。そのように「ヨナ書」には書かれている。
ところが『宙返り』が取り上げる「ヨナ書」では、赦す神、思い直す神に対して「抗議するヨナ」にだけ焦点があてられる。「抗議するヨナとして登場する育雄は、少年の時、神の「ヤレ!」と言う声を聞き、彼に同性愛を強いたシュミット氏を火掻き棒で殴り、半身不随の身にする。そして、再び「ヤレ!」という声を聞いたように思って、シュミット氏を殺してしまう。未成年だった育雄は巧妙にふるまって罪に問われなかったが、それからずっと「ヤレ!」という神の声にこだわっている。再び「ヤレ!」と言わない神に抗議する「よな」が育雄なのである。
しかし、これは非常に手の込んだ主題のすり替えではないだろうか。ヨナは、あまりにも重い使命から何とか逃れようと神に背いたが、背いたことを悔い改めた。そして、命を懸けてニネベに行き、神の言葉を伝えた。それ故、彼が神に抗議するのは、人間の限界を示すものだろう。だが、「よな」と書かれる育雄は、殺人を犯した人間なのである。「ヨナ」と「よな」を相通じる存在として取り上げるのは無理である。「よな」にもう一度「ヤレ!」と言ったのは神でなく、踊り子(ダンサー)なのだ。
「悔い改め」と「終末」の内容についても、私には理解できない。「このままではこの惑星がたちゆかない」あるいは「この後百年もつとは思われない」と言う言葉が何回も繰り返されるが、それはどのような事象を指していうのだろうか。自然の荒廃なのか、はたまた人間倫理の退廃なのだろうか。「終末を早める」ために、原発の事故を誘発する、という発想にいたっては、ナンセンスを通り越して、無気味である。この小説が発表された12年後の現実に何が起こったか。「終末を早める」ために事故が誘発されたのではなく、「事故が終末を早めた」可能性は大いにあるのだから。師匠(パトロン)が「大きな瞑想」の中で見る「終末」が、人々は生きてはいるが、生産活動がまったく行われなくなった中都市の様子であるというのも暗示的である。
「悔い改め」と言う言葉が何を指すのかが、またわからない。作中「静かな女たち」の祈りの生活と「急進派」の社会への働きかけが描かれるが、それらは「悔い改めの行為」だろうか。というより、作者はそれらを「悔い改めの行為」と考えているのだろうか。『宙返り』には、キリスト教の用語、概念が頻繁に引用される。「「悔い改め」はいうまでもなくその中心的概念だが、そもそも何故悔い改めるのか。「終末」を迎えるから、裁きの場で神の国に入れるように悔い改めるのか、それとも、元来「罪ある存在」だから悔い改めるのか。そして「悔い改める」とは「何をどうする」ことなのか。
おそらく宗教の中心的概念とは、このように、あくまでも「概念」あるいは「ことば」であって、であるからこそ、そこにはいかようなものをも置くことができるのだろう。だから、個々の人間の具体的、個別的状況に対応して、「救済」の「ことば」を与えることができるのだろう。作中、自殺した母親の呪縛に苦しむ古賀医師に師匠(パトロン)がそうしたように。
作者は繰りかえし繰りかえし「終末」と「悔い改め」をもちだして神学論を展開する。だが、何回読んでも、私にはそれらが生活とかけ離れた形而上的、思弁的な観念論にしか受け取れない。それより、「宙返り」後の十年間、師匠(パトロン)と案内者(ガイド)は何をして食べていたのか、などと考えてしまう。二人で地獄をみつめあっていた、と書かれているが、成城という高級住宅街の一角に二棟の住居をかまえて生活をする費用はどこからでていたのだろうか。
この小説にはこのほかにも何重にも罠が仕掛けてあって、少しでも油断するとその罠にからめとられてしまいそうだ。いや、からめとられないでいることは不可能かもしれない。大江健三郎のやり方は、この小説に限らないのだが、あまりにもアンフェアである。作中の育雄や踊り子(ダンサー)がアンフェアなのではなく、作品自体の成り立ちがアンフェアなのである。
いうまでもないことだが、「アンフェア」は非難のことばではない。
いつまで経っても考えがまとまらず、堂々巡りのままで、不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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