2014年3月19日水曜日

三島由紀夫『金閣寺』___「父」と「子」そして「母」の「家庭小説」___「非政治」という政治性

 水上勉の『金閣炎上』を読んでふたたび『金閣寺』を考えている。学者でも評論家でもなく小説読みビギナーとして、まず思うことは、なぜ三島由紀夫はこのように実像とかけはなれた人物を描きだしたのか、ということである。三島の『金閣寺』に登場する主人公「私」(溝口)、母、そして金閣和尚の道詮の人間像は水上勉『金閣炎上』の林養賢、母の志満子、慈海和尚とあまりにも異なっている。とくに林養賢と母の志満子は、『金閣寺』の中ではひたすら醜く、母の志満子は作中固有名詞すらあたえられず、養賢(「私」)は偏執的精神異常者の外貌をもつ。彼ら母子の人格の復権は、水上勉が『金閣炎上』を著わすまで二十年待たなければならなかった。三島が同じようなモデル小説『宴のあと』を書いたときは、モデルとされた有田八郎氏が社会的地位も高く、経済的にも知的にも充分な能力があったため、世に言う「プライバシー裁判」を起された。だが、『金閣寺』のモデルとなった林母子はなんら社会的地位のない庶民で、作品が世に出たときにはすでに死んでおり、遺族もまたもう事件に触れてほしくないという判断だったのだろう。死人に口なし、である。

 醜く狷介不羈で自尊心の塊りに描かれた主人公「私」(溝口)はいうまでもなく作者三島の自画像だろう。同じく障碍を負いながらそれを逆手にとって道徳的反逆者を標榜する柏木、この二人と正反対で悪意ということを知らないアポロンのような青年として登場し、あっけなく自殺してしまう鶴川、これらも同様に三島の自画像だと思われる。私見では、『金閣寺』には主人公「私」と、「母」、そして道詮老師の三人しか登場しない。冒頭登場して恋人に撃ち殺される有為子は女=母の象徴である。柏木に捨てられる美しい女たちは生き残った有為子だ。最後に「私」を性の世界にみちびくまり子は、反転した「母」だと思われる。そして道詮老師は、あっけなく死んでしまった「私」の「父」に代わる『父』であり、富と権力をほしいままにする存在である。要するにこの小説は、「父」と「母」と「子」の三者が複雑にからみあう「家庭小説」なのではないか。だとすれば、ここにあるのはどす黒い近親憎悪だろう。

 いまその近親憎悪の様相を精緻に分析するつもりはない。問題にしたいのは、「父」「母」「子」という三者に介入してくる他者の不在ということである。「家庭小説」の中に「社会」がないのだ。金閣放火はあくまでも「私」と『父』道詮老師の関係の破綻を契機に、「私」が生きるために行われる。

 「私」と老師の関係が緊張を余儀なくされるのは、進駐軍兵士の子を孕んだ娼婦の腹を「私」が踏んで女を流産させた出来事が契機となる。ここになんらかの政治的寓意をうけとることも可能かもしれないが、このエピソードから読み取るべきは、女の腹を踏むよう米兵に強制された「私」が、その行為にひそかな快感を覚え、それに気づきながら知らないふりをした老師のなかに「私」が自分と同質のものが存在するのをさとった、ということである。「私」は隠微な背徳の喜び老師と共有したと感じたのだ。「老師は、私の感じた中核、その甘美さの中核を知っていた!」

 関係が決定的に破綻にいたるのは、「私」が偶然に、あるいは物語的には必然に、和尚が女連れでハイヤーに乗り込むのを見てしまった事件から始まる。雑踏のなかをひとりで歩いていた「私」は芸妓と連れ立って歩いていた老師を見つけ、とっさに自分が見られたことを危惧した。だが、なぜかぼろぼろの風体をした黒い尨犬のあとを追ううちに再び老師と出会ってしまう。動顚した「私」は、発すべき言葉を出せないままに、和尚に向かって笑いかけてしまう。そして老師は「馬鹿者!わしをつける気か」と叱咤したのである。

 この事件の後、「私」はあの日の出会いがなかったかのような老師の無言に耐えられなくなっていく。ついに「私」は老師の連れていた芸妓の写真を買い、それを新聞の間に挟んで老師に届ける。脅迫ともみえる行為をなした「私」の心理を作者はこう説明している。
 「自室に坐って、学校へ行くまでのその間、鼓動のいよいよ高まるのに任せながら、私はこうまで希望を以て何事かを待ったことはない。老師の憎しみを期待してやった仕業であるのに、私の心は人間と人間とが理解し合う劇的な熱情に溢れた場面をさえ夢みていた。」

 当然のことながらこんな空想は実現するはずはなかった。老師は女の写真を紙に包み「私」が学校に行っている間に「私」の机の抽斗に入れておいたのである。写真は「私」から老師へ、老師から「私」へ、ひそかに届けられ、同じようにひそかに返還された。そして、老師が人目を忍ぶ行為を余儀なくされ、そのことが「私」への憎しみを産んだ、という思いは「私」のなかで「得体のしれない喜び」となった。「私」と老師は憎しみを媒介に結ばれたのである。

 この結びつきは老師の一方的な決別宣言で崩壊する。老師は「私」を金閣の後継にする意志がない、と言い渡したのである。その返答として「私」はまたしても別事を言う。老師が「私」のことを隈なく知るように、「私」も老師を知っている、と言ったのである。それは表面的にはハイヤーに女と一緒に乗り込んだことを指すが、より深層の次元では背徳の喜びを共有していることを示唆している。それに対する老師の答えは、「私」が老師を知っている、ということを否定するものではなく、知っていても何の益にもならぬ、というものだった。老師は現世のすべてを見捨てているのだった。背徳の喜びまでも。___「私」は出奔を考えた。自分のまわりにただよう「血色のよい温かみのある屍」の漂わす「無力」から遠ざかりたかったのだ。「無力」ではないが、「凡ての無力の根源である」金閣からも。

 柏木に旅費を用立ててもらった「私」は海に向かった。「西舞鶴」で列車を降り、河口沿いを歩いて荒涼とした晩秋の由良の浜に着いたのだった。そしてそれは「正しく裏日本の海だった!私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力の源泉だった。」と書かれる。海は「私」に親密だった。私は自足し、何ものにも脅かされず、ひとつの想念につつまれた。『金閣を焼かねばならぬ』

 想念を現実の行動に移すにはもうひとつの力がはたらかねばならない。「私」は逗留先の宿の女将に警察に不審者として通報されたことから居所が知れ、再び金閣に戻ったが、寺の門前に待っていたのは母だった。その母の醜く歪んだ顔を見下ろして、「私」は母から解放されたと感じる。

 「・・・・・・しかし今、母が母性的な悲嘆におそらくは半ば身を沈めているのを見ながら、突然私は自由になったと感じた。何故であるかは知れない。母がもう決して私を脅かすことはできないと感じたのである。」

 「私」を脅かしていたのは母だった、と書かれていることは興味深い。醜い母、どこまでも醜さが強調される母、その醜さの根源にあるものが「希望」だと書かれていることも。

 「湿った淡紅色の、たえず痒みを与える、この世の何ものにも負けない、汚れた皮膚に巣喰っている頑固な皮癬のような希望、不治の希望であった。」

 身をもち直すよう哀願する母の姿が、「私」の絆しを断ち切って、想念を現実の行動へと踏み出させたのである。

 この後「私」が束ねた藁に燐寸の火をつけ金閣を焼くにいたるまで、じつはかなり複雑な心理のあやが、とくに老師との間の微妙なそれが語られるのだが、長くなるのでいまはその部分を割愛したい。だが、放火決行の直前にたまたま金閣を訪れた生前の父の友であり、老師の友でもある禅海という禅僧との「私」の会話について、書いておきたい。禅海和尚は老師と正反対ともいえる豪放磊落、直情の人として描かれる。「私」は和尚に酌をしながら、自分がどう見えるかを問う。善良で平凡な学僧に見えるという和尚に、「私」は「私を見抜いて下さい」と言う。そして和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と判断を下す。この言葉が「私」を走りださせたのである。

 「私は完全に、残る隈なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になった。その空白をめがけて滲み入る水のように、行為の勇気が新鮮に湧き立った。」

 この最後の会話の部分は謎である。「私」と老師=『父』との葛藤に結末をつける行為に向けて、最後に背中を押した会話は禅問答のようである。「禅海」和尚もまた『父』なのか。

 そして最後、闇のなかに絢爛と輝く金閣を観照し、「私」は「弱法師」の俊徳丸の日想観を思う。ここにもまた、「父」と「子」がある。

 駆け足で、粗雑に筋書きを追った文章になってしまいました。ほんとうは、『金閣炎上』にある「東山工作」をまったく取り上げないこと、敗戦の日に道詮和尚が「南泉斬猫」の講話をしたことなど、三島がこの作品から「政治」「社会」を徹底的に遠ざけたことについて、もっと書きたかったのですが、それはまた別の機会にしたいと思います。「政治」を遠ざけるということ、そのことが完全に政治なのですが。

 今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。

0 件のコメント:

コメントを投稿