2014年3月6日木曜日

水上勉『金閣炎上』____母と子への鎮魂歌

 三島由紀夫が『金閣寺』を書くために、膨大な資料から何を切り取って何を捨てたか、あるいは改変したかを知りたくて、水上勉の『金閣炎上』を読んでみた。『金閣炎上』は三島の『金閣寺』より二十年以上後に出版されたものだが、犯人の林養賢と事件に関して丹念な取材を積み重ねたもので、第一次資料として参考になるのではないかと考えたからである。

 裁判の記録や犯人の青年の周辺の人物への聞きこみなど、事実の経過をたどるための資料として読むことを考えていたのだが、読み始めていくらも経たないうちに、三島の『金閣寺』とはまったく違ったおもしろさに夢中になってしまった。こんなに小説がおもしろいものだということに、人生の後半になってやっと気がついたのである。三島の『金閣寺』が、絵画にたとえて端正な屏風絵だとしたら、水上勉の『金閣炎上』は荒削りなデッサンあるいは油絵のように思われる。立体的な画面から厳しい裏日本の風土と昂然と生きて無残に死んでいった孤独な母と子の姿が浮かび上がってくる。

 金閣寺放火犯の林養賢は若狭湾に突き出た京都府成生(なりう)岬で生まれた。生家は西徳寺という禅宗の末寺である。成生という集落がいまも存在するのかどうかわからないが、当時は二十二戸の檀家があり、漁で生計をたてていた。数年おきに鰤の大漁があって集落は裕福ともいえたが、寺は貧しかった。

 養賢の父道源の家は成生の南に位置する青葉山山麓の安岡という部落の中農だったが、病弱のため部落の寺の徒弟となって得度、二十五歳で無住だった西徳寺に赴任した。翌年道源は妻を娶る。妻の志満子は京都の大江山麓の尾藤という村の生まれである。成生にくらべ広大な水田を持つ村で、志満子はそこのやはり中農といえる家の長女だった。勝気で学校の成績もよかったが、早くに母をなくし家事をみるため高等科を中退しなければならなかった。大江山麓から二十四歳で辺境の成生に嫁ぐのにどんな事情があったのかわからない。水上勉は土地の漁婦の言葉をかりて、志満子の嫁ぐ日の姿をこのように描いている。

 「お寺へ嫁さんがくるというんで、浜とまでみんな出て見てました。ほしたら、田井の港で舟を下りやんしたとみえて、村口の坂をトランク一つと、日傘をもった背のひくい志満子さんが、紫地に花柄の銘仙の袷に、黄色い帯しめて、小股歩きにとぼとぼおいでなさってのう。あの日は、たぶん、浜の弥太夫さんの家で化粧やら、着替えやらなさって、西徳寺入りなさったとおぼえとります。式というてものう、総代さんやら五、六人が本堂にあつまりなさって、盃事しなさっただけで夕方に終わったようにおぼえとります。そのまま志満子さんは寺に泊りなさりました」

 
 それから足かけ五年経って昭和四年三月十九日林養賢が生まれた。結核の夫に代わって田畑を耕し、山にも入って、暮れれば蔭地の寺に戻って食事の仕度をする日々を送り、二十八歳の春志満子はたった一人で養賢を生んだのである。道源も志満子も子の誕生を喜ばぬ理由があるわけはないが、水上勉は周囲の複雑な視線をこう記している。

 「風の吹きつける野ざらしの産小舎跡は部落から離れていたために、こんな所まできて子を産まなければならなかった部落の因習のふかさを思わせた。志満子がその小舎で養賢を出産していなかったにしても、限られた農地しかない貧寒部落で、うとまれての出産であることをつゆ知らず、冬空にひびいたろう、幾人かの子の産声をきく思いがした。眼の下の淵はふかくえぐれ、紺青の水は岩裾に密着して、波立ちのない淀んだ深い穴であった。」

 吃音は養賢が三歳のときから始まったが、彼は三島の小説の主人公溝口のようなひよわで醜い少年ではなかった。大柄で学力も体力もまさっていた。年下の子どもの面倒見もわるくはなかった。彼に経文と尺八を教えた父は昭和十七年冬に死んだ。死ぬ前に父は一面識もない金閣寺の慈海和尚に手紙を書いて、養賢の入山を願い出た。多くの徒弟を戦争で徴集されていたこともあって、入山は許された。

 十三歳で得度した養賢は入山したが、戦時下で食糧事情が逼迫していたために、いったんは安岡の叔父の元に帰る。その後一年ほどでまた京都に戻り、金閣寺から花園中学に通って卒業する。この間母の志満子と何らかの確執があったのではないかと水上勉は推測している。花園中学在学中に養賢は父と同じく結核を発症する。勤労動員の過酷な労働が原因であろう。大学入学を目前にして、病を得た養賢は再び郷里に戻らなければならなかった。昭和二十年五月のことであった。

 敗戦を成生で迎えた養賢は翌年四月まで西徳寺で母と寺を守った。だが、そこはもう母と子が安住できる場所ではなかった。養賢はなんとしても金閣に戻ることを望み、母の志満子には大江山の生家に帰るように告げたのである。養賢の心中になにがあったのかはわからない。水上勉は西徳寺の檀家で寺のすぐ前に住む酒巻広一からの聞き書きとして、養賢が降り積もる雪の中、「くぐつ」と呼ばれる罠にかかった小動物をあつめて進む姿を臨場感あふれる文章で記してる。養賢はくぐつを作るのも仕掛けるのも巧みだった。父ゆずりの毛糸の首巻きをして学生服の肩をぬれるにまかせ、養賢は獲物をひきずって進んだ。同行した酒巻広一はこのときの養賢のたたずまいを「勇ましくもおぞましい」と述懐しているが、水上勉は以下のように記している。

 「・・・・人はたてまえだけでは生きられぬ。仏弟子も腹がへれば、鳥も兎も食う。女犯の戒を守るのが金閣住職のたてまえだったが、先住敬宗師の奔放な肉食、女性道楽を耳にしていた養賢にこのくぐつあそびが、深く宗教上の反省を強いられながらの行為であったかどうか、そこのところはわからない。広一からこの話をきいて、吹雪の中をひたすら獲物に向い、つき進んでいた養賢の、着ぶくれした十六歳の冬に、私はのちの金閣放火の、小雨の降る一夜をかさねて息をつめる。」


 水上勉はこの後敗戦の翌年に金閣にもどった養賢がどのように変わっていったか、あるいは金閣がどのように変わっていったかを書いていくのだが、長くなるので、今日はここまでにしたい。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

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